「以前、家族の一人とのあいだでいさかいがあり、暴力がからむ恐ろしい体験をしました(いさかいというより、一方的に理不尽な暴力をふるわれました)。以後、その家族とは疎遠になり安心したものの、わずかでも影がちらつくとおびえてしまう自分がいます。また同じような悪いことが起こるのではないかと、自分が怖れにのっとられ怯えているのを感じます。そして、未来に不安を感じるのです」と、クライエントのAさん。
ふつうのカウンセリングだと、その相手への対処法を検討したり、自分のなかで怖れを感じないようにするために話しあうかもしれません。また、セラピーだったら、その家族とのあいだに起こったことを再現して、大丈夫だと感じられるまでその場面を何度も再体験するかもしません。
問題の解決方法として、じつはどちらの場合も大きな間違いがあります。そうなると、これはいくら話しあったとしても、セッションをかさねたとしても、解決をみることはなくなってしまいます。そもそも間違っているから ・・・。
その家族との間で起こっている問題を解決しようとしておかしてしまう、カウンセリングやセラピーにおけるミスとは何でしょうか?
それは、問題を外にいる誰か(この場合は、家族のひとり)が原因であるとみなしてしまうことです。相手はひどいことをする加害者であることが前提となっていて、自分はある意味では可哀想な被害者というポジションにおさまることです。
相手が悪くて、私は困らされている ・・・と。
しかし、問題を解決するうえで唯一はずせないポイントとは、「どんなことでも自分の外にあることとして見ない」ということなのです。
どんなことが起こっていようが、どのような問題がそこにあろうが、たとえそれがどんなに外からやってきているように見えたとしても、「常に問題は外にはない」ということです。ゆえに、私たちは決して問題の被害者になることはないのです。だから、被害者になってはいけないのです。そうなってしまうと、そこで問題を解決することが決定的に困難になります。
夜寝ているときに見ている夢が自分のこころのなかで起きているように、そして白昼夢や空想も自分のこころのなかで起きているように、またここで見ている世界(反芻している過去、さっき起こった出来事)もまったく同じように自分のこころのなかで起きています。
夜の夢のなかで、どんなに家族からひどいことをされたとしても、そのために実際の相手から自分を防御したり、相手から逃れる方法を真剣に考えたり、いろいろな手だてを講じてもなんの意味もありません。
そして、今ここでも、自分の見ている世界(じつはこれは、自分のこころをのぞきこんでいるといってもいいのですが)でどんな不都合が起きたとしても、それはつねに今の瞬間のことではなく、過去のイメージを見ているにすぎません。たった今は、今、この瞬間だけです。そして、今、この瞬間だけが真実です。
その過去のイメージは、夢のイメージとまったく同じなのです。こころのなかで起きているだけです。だから、そのイメージに必死で抵抗する必要などない、ということなのです。 ・・・ こころが紡ぐただのイメージなのですから。
自分が思っている「過去に自分がされたこと」は、どこを探しても今には存在していません。自分のこころのなか、たった今の自分のこころのなか以外には。
そう、すべては自分のこころのなかなのです。
自分のこころのなかにそのイメージを保持し続ける、ずっと忘れないでそのイメージを反芻する、たったこの瞬間もそれを手放したくない(たとえ、ただのイメージだとしても)、今それを味わうことをしている ・・・ ということには、じつは自分自身に対するあるトリックがはたらいています。
ほんとうは、そのイメージなんかどうでもよくって、そこにくっついている、そこで湧き上がってくる「感情」こそが問題なのです。
この場合だと、「怖れ」です。 ・・・・ 攻撃されるかもしれない、傷つけられるかもしれない怖れ、とんでもないことが起こる「怖れ」。
そして、私たち誰もが、「怖れ」を抱いています。それは、何かにやっつけられちゃう怖れ。それは、自分のなかにあるこんな思いのあらわれです。
「私は悪いやつなのだ(自分で信じている)。だから、攻撃されてボコボコにされてあたりまえ。私が必死に逃げまわっている大いなる力(神・源)は、いつか私を見つけだして私を成敗するだろう(なんたって、私は悪いやつだから)。そうなるまえに、どうにかしなくては・・・。そうだ、悲惨な被害者になっているのを見れば、もう成敗をあきらめてくれるかもしれない。よし、だったら、やられるまえにやられちゃてる自分になっちゃえばいいのだ。手っ取り早く誰か加害者を仕立て上げなくては。誰でもいい、手頃な人を探そう。そこでのストーリーは、なるべく悲惨にしなくては。悲惨なふりをすれば赦されるだろう」
私たちはこの「攻撃される怖れ」を使って、妥当な被害者ストーリーをでっちあげ、自ら体験します。そうすることで、『本当の怖れの原因』(じつは、自分を悪いやつだと思っていたこと)を忘れ去ってしまいます。
そして、いつもたくみに目のまえにいる人を加害者に仕立てて、「あなたのせいで、私はこんなにひどい気持ちになっているし、あなたのせいで、私の人生はめちゃくちゃなの」と、ちゃっかりとかわいそうな被害者におさまります。
もっとも厄介なことは、そのように被害者ストーリーを自分が仕組んだはずなのに、いつのまにか自分ではもはや、何がどうなってそうなったのか、さっぱりわからなくなってしまっている・・・ ということです。
加害者に意識を集中して、被害者を全力でやっているうちに、それが本当のことだと自分でも信じてしまったというわけです。
こうなると、もはや、本当の問題の原因がわからなくなってしまいました。すると、まったく見当違いの方向で問題の見立てをして、見当違いのところで問題の解決策を探すことになります。
結局のところ、癒さなければならないのは「私は悪いやつです。だから苦しんであたりまえなのです」という「罪悪感」と「怖れ」そのものです。
この怖れによって、私たちは病気を怖れたり、自分の将来を怖れたり、失敗を怖れたり、別離を怖れたり、あらゆるバージョンの怖れへと姿を変えます。・・・が、このどれもが、先ほども書いたように自分が思っているような理由の怖れではない、ということなのです。
だから、自分のこころのなかに抑圧して見えないようにしている「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにして、解放することが重要なのです。
「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにするとは、日々の「問題」というかたちで現れているものをしっかりと見ることです。問題とは、見えなくなっていた「罪悪感」と「怖れ」が認識できるレベルで表現されていることに他なりません。
だから、まんまと被害者になってしまうことなく、長らく抑圧されていたすべての問題の原因となっている「罪悪感」と「怖れ」が目に見えるかたちになって姿をあらわしていることを歓迎して、自分で責任をとって、しっかりとお片づけの態勢に入ることが大切です。
そして、お片づけこそ、その「罪悪感」と「怖れ」に欺かれることなく、本来の自分とはまったく関係のないものとして、高い意識にもっていってもらうことなのです。
たとえば、この問題の場合だったら ・・・
「家族とのあいだで感じている怖れは、相手のせいで感じているものではありません。これは、たった今、私が握りしめてきた怖れを再び感じているにすぎません。しかし、これは私のものではありません、手放したいです。私のこころから、この間違った怖れを取り去って、もっていってください」
こんなふうに高い意識にお願いしてみてください。
自分でやらなくても大丈夫!ただ助けを求めてみましょう。小さなエゴでどうにかしようとする習慣こそが、災いをもたらしてきました。より問題を複雑にしてきました。
しなければならないことはシンプルです。感じている感情は抵抗なく受け入れて、あとは自分の本性である大いなる力にすべてを委ねてみましょう。まるごともって行ってもらいましょう!
こうして「怖れ」や「罪悪感」が片付けられてなくなってくると、ムダに自分を傷つけることが少なくなるし、逆に自分を楽しませ、もてなしてくれる世界が見えるようになってきます。世界が自分に対して優しくなるのです♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )