気づきの日記「パターン化した問題を克服するには」

Q: いつも同じ問題をくり返している気がします。どうしたらいいのでしょうか? だんだんうつ手がないように感じています。

A: そうそう! よく観察してみると、いっつも同じことのくり返しじゃない!?(汗) ということ、よくあります。

うつ手がなくて「無力感」を感じている? それは、それは、オメデトウございます! (*´︶`*)

ヨイ知らせです、それは。なぜなら、「無力感」を感じない限り、私たちは「自分のやり方」というものが古くて役に立たない、ということに気づくことができないからです。気づかなければ、手放すこともできません。

行き詰まったと感じたときこそ、やっと正しい方向転換へと腹をくくることができるのです。

私たちが永らく本当だと信じてきたことの多くは、役に立たないどころか、少しづつ自分の首を真綿で締めあげるように自分自身を破滅へと向かわせるものだったのです。

でも、そのことは本当に苦しくなるまでは、なかなか気づくことができません。

くり返し起こる問題 ・・・ パートナーシップや職場での人々との葛藤、自分のこころのクセから起こる苦しさ、経済的な困難やらキャリアにかかわるあれこれ。乗り越えた!と思ったら、ありゃ!? また同じことが起こってる? いち難さって、またいち難。そんなくり返しです。(あきらかに、何かがうまくいっていないわけです。)

そんな問題に直面すると、私たちは自分の知識を総動員して、あるいは人の知識もかりながら、選択し、決断し、努力をし、頑張ってゴールを目指します。

でも、私たちが「行動」というものを起こすとき(どんな行動であろうとも)、それは何かを手にするためであり、何かを手にしたいと思うときは必ず欠乏感があります。そして、その欠乏感の根底にあるのは怖れです。つき詰めれば、欠乏のはてに「死んじゃうよ〜!」という怖れ。

そこで思い出さなければならないのは、「動機」と「結果」はイコールである、ということ。

私たちが「行動」を起こそうとするときは決まって、「怖れ」ています。すると、このルールどおり、どのような行動をとろうとも、努力をしようとも 、それは「怖れ」から発するものであり・・・ 何をしようとも、スタート地点と同じ「怖れ」に戻ってきてしまうということなのです。

頑張ったのに、着いたところは同じところ ・・・。

怖れを感じているのはいつも「個人(エゴ)」であり、「個人」として考えているときには、それはまるで針の穴から世界全体をのぞいているようなもので、ほんのピンポイントでしか見えていないために、何も正しい決断ができない状態です。

小さな個人が使う思考というもの自体が、個人の限られた経験と狭い視野をベースにしたものなので、これを今起きている状況にあてはめようとすると過去と同じパターンになるのです。

目のまえにある現実というものは、たった今、この瞬間にあるものなので、じつは過去とも未来とも関係をもたない(時間軸にない)ものです。

その現実を真新しい絵にたとえると、過去の思考を使うということは、そこに古いびたカピカピの絵の具を塗りたくり、過去とまったく同じ古びたものに変えてしまう、ということなのです。案の定、以前と同じに見えます。

「怖れ」からスタートした問題解決が「怖れ」に帰着することと同様に、「思考」で解決しようとすることもうまくいかない原因のひとつです。せっかくのまっさらな新しいものに、いつも過去という古く重たい絵の具をべったりとぬりつけることで、それを新鮮みのない同じパターンのものに変えていたということなのです。

だから、「怖れ」に基づいた意図や行動や努力も、また「考えること」で解決しようとすることも、自分の足をひっぱり過去につなぎとめる結果となり、同じことがくり返されているように感じるのです。

では、どうすればいいのか? というと、「なにもしないこと」なのです。

状況に対して、降参します。明け渡します。

「なにもしない」なんて、私たちの常識ではいちばん無力で、いちばんふがいなく、いちばんおバカで無意味に感じられることかもしれません。(そういった意味で、価値観を180度変えて方向転換する必要があるのです。)

どのような問題にしろ、問題の解決の鍵は「受容」、「受けいれること」に尽きます。(コントロール、抵抗、努力、意図のない状態です。)

「受けいれる」とは、個人(エゴ)がないこと。つまり、思考のストップ。沈黙。明け渡し。開放性。あるがままとして赦すこと。自分が見ている画面とひとつであること。自分が世界になること。

目のまえの状況に対して、口を開かず、手もふれません。つまり何ひとつ文句を言わず、コントロールしようとしない状態で、完全に受けいれて、流れに身をまかせること。

受容しているときには、「私」という小さな個人がいなくなり、全体のなかからすべてが生まれてきます。そして、それは過去のパターンに縛られない真新しいものであり、正しい反応なのです。(しかし、個人が口を出したとたんに、過去のパターンに塗り替えられます。 ご注意を!)

インドの賢者も「受容が起こると、カルマを超越し、カルマは無効にされる」と言われていました。

「受けいれる」ことで、すべては生まれてきた源(気づき)のなかへと消え去ります。それが本当の問題の終わりです。

「自分が誰であるかわかるまで、問題はなくならない」といいます。

それは、自分というものが自分が見ている画面のなかの小さな個人だと思っているうちは、世界との軋轢はなくならないということです。

自分の見ている意識のなかに世界のすべてが納まったとき、全体が調和する解決策が浮かぶようになるようです。それが正しい視点であり、正しい解決策。

だから、個人であるエゴが自分だと信じているうちは、問題が見えてあたりまえであり、自分が意識であるということに気づきはじめると、その考え方にあった世界が知覚されるようになります。

つまり、個人が退くことによって、本当に自分がイキイキと姿を現すようになり、そこから正しい流れが生まれるようになるのです。

だから、同じような問題がくり返されていると感じるときには、あせっていつものパターンで解決策を考えることなく、まずはじっくりと「受けいれる」ということに徹してみましょう。

そして、「受けいれる」ということをはじめると、とてつもない感情の大波に出くわしたりします。

あまりにも大きな感情で、手におえないように感じるかもしれません。

じつは「問題」とは、その大きな感情を避けて隠し通しておきたいがために、カモフラージュとして気をそらすために使っていたものです。「問題」にかかづらっていさえすれば、この感情に気づかなくてすむ、向きあわなくてすむ、とばかりに。

だから、直面して受けいれて感じなければならないのは、その「感情」そのものなのです。その「感情」を処理しない限りは、問題を作り出すことをやめられません。

さて、この避けつづけてきた感情をどう「受けいれ」ましょうか?

大丈夫、個人としてでなく、気づきのスペースのなかで「名札・言葉・セリフ(怖い・つらい・・・)」をつけずに、ニュートラルな「感じ」としてただ感じてみてください。

そう ・・・ ただバリバリッと感電するような感じです。強い衝撃を感じるかもしれませんが、感電と同じです。名札をつけなければ、ただの「感じ」となります。ただそれが通りぬけて行くだけです。

そしてそれは、その意識のスペースのなかに溶けて消えてゆきます。ついに消滅します。終わりとなります。

そしてようやく、真の問題の原因となっていたイヤな感情を片づけることに成功します。

そして感情を片づければ片づけるほど、意識(気づき)としての自分の解放感や安らぎを感じることができるようになります。ものごとが正常な流れとなるのです。

パターン化している問題を見つけたら是非、勇気をもって「受けいれて」、こころのお掃除をしましょう! 脱パターン化をはかりましょう!

そのうち、今までの縮こまって怯えている小さな自己ではなくて、ゆったりどっしり自由な自分が姿をあらわし、そのなかで人生が違った見え方がするようになるかもしれません。

「受けいれる」ことを練習して、春とともに新しい現実を迎えいれてみましょう♪

PS 同じ問題がくり返されるとき、正しく対処していても、依然として同じ問題がくり返されることもあります。

それは、処理が順調に進んでいる場合です。ハイヤーセルフが「順調にいっていますね。じゃあ、いらないこころのなかのジャンクをどんどん片づけてしまいましょう」ということで、同じようなイメージでそれが見えるためにくり返しているように感じる場合もあるのです。

その場合には、じゃんじゃん受けいれて、こころをさっぱりして、真の自分を取り戻しましょう!

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング