お茶の間シネマトーク「ギフテッド」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

天才数学者が志なかばで突然この世を去り ・・・ あとに残された幼い娘のメアリーもまた、たぐいまれなる数学の才能に恵まれているこどもだったのです。

その子を託されたのは天才数学者の弟、つまりおじさんにあたる存在のフランク。彼はメアリーをなんら特別扱いすることなく、ふつうの学校に通わせます。が、なんせアタマがよすぎるせいで、さまざまな問題が勃発・・・。

一年生の算数なんてちゃんちゃらおかしくってやってられない ・・・ となると、まわりに対するメアリーの態度もだんだん横柄になり・・・。先生すらこの子にたいして、まるで腫れものにさわるような態度。

さて、この子はいったいどう育てたらいいのでしょうか?

そこにあらわれたのが、おばあちゃん。亡くなった娘がなしえなかった夢をかなえるべく、メアリーの養育権を主張しはじめます。

しかし、そのおばあちゃんは娘を天才数学者へと育てあげはしたものの、結局は自殺においこんでしまった人物。けれど、当の本人はなぜ娘がこの世を去ったのか、なぜ孫娘が弟(息子)の手に託されたのか、その理由が自分にあろうとは自覚していないのです。

こどもにとって、何がいちばんいいのか・・・、幸せなのか・・・。

それはときとして、親が自分の物差しで自分に足りていなかったと感じていることや、自分が夢みていたこと、挫折してしまったことなどに、「こどものための愛」というラベルをはって達成させようとしてしまいがちです。

こどもはこどもで、それが自分が欲しいものとは一致しないため、押しつけられていると感じて怒りを覚えます。

ほんとうのところは、それがどんな表現になっていても「自分が思っているいちばんいいものをあげたい」という愛以外のなにものでもないのですが。相手のニーズを考えていないというところが問題なのです。

ただ愛の思いだったものが、親の不足感やら、怖れやら、羨望やら、欲望やら、さまざまな癒されていない過去の思いとごちゃまぜにされてさし出されると、与えてもらった人にとっては愛を感じるというよりは、攻撃されていると感じてしまうのです。

親「ホラ、あなたのことを思って、いちばんいいものを与えているのだから、なぜ喜んで受けとれないの?」 子「いえ、そんなものはいりません(望んだこともないし〜)」  親「せっかく、あなたの幸せを思ってそうしているんだから ・・・ 素直に従ってちょうだい」 子「怒・・・(それって私のじゃなくって、自分の幸せなんじゃない?)」・・・ ってなことに。

フランクのちょっとワイルドでぶきっちょな、真っ正面から向き合う子育ては、あたまでっかちになりそうだったメアリーを感性豊かな、楽しむことをしっている子どもに育ててゆきます。

メアリーが、「私なんていなくてもよかったんだ!」と落ちこんだとき、フランクがメアリーをあるところにつれて行く場面があります。これは涙腺崩壊。きっと観ているひとそれぞれが、自分のことに想いをはせて重ねあわせることと思います。「そうか、私もこんなふうに喜ばれて生まれてきたんだ」って。

子役の女の子がほんとにキュートで観てて癒されます。おじさん役のクリス・エヴァンスもワイルドでかっこよく、思った以上に泣ける映画でした。「(500)日のサマー」の監督さんです(「(500)日のサマー」も好きです♡)。

「ギフテッド」涙壷度:★★★★☆