18-12-26 不足、欠乏という錯覚 ~しまわれていた贈りもの~

ちょっとオシャレをしてお出かけしたいとき、ふだん開けることのないアクセサリーの引き出しをゴソゴソします。

 

すると、「こんなの持っていたのね!あんなのも!」と、お蔵入りしてすっかり忘れ去られていたアクセサリーの数々に出会います。

 

「こういうの、買おうと思っていた♪」「これも使えるし、あれも使える♡」」と、引き出しを開けるまでは「無かった」はずのものに驚かされ、豊かさを感じることができます。

 

しまっておくと目につかなくなり、目につかなければ無きものとなります。それらを「もっていない人」になってしまうのです。

 

しまっておいて使わないことは、それらを失うことと同じなのです。

 

これは、私たちのこころのなかにある「贈りもの」の引き出しについても言えることです。

 

私たちはこころのなかに、すでに十分な「贈りもの」が与えられています。贈りものはそこに存在しているのです。

 

しかし、取り出して使うことがなければ、それは「まったく存在しないもの」になってしまうのです。

 

実際、私たちの人生における宝探し、それは豊かさであったり、才能であったり、幸せであったり、愛であったりさまざまですが、つねに外の世界へと取りに向かいます。

 

引き出しのなかにあるものを忘れて「足りない、足りない!」とお店へ走るのと同じように、私たちはつねに「不足」の思いを抱えて外へと調達に走るのです。

 

しかし、「足りない」と大騒ぎをするまえに、まずはいちばん身近なところ、それは自分自身のこころそのものなのですが、そこをオープンにすることが最善策である、ということを忘れています。忘れているというよりは、知らないのです。

 

自分のこころの深いところにある引き出しは、自分が望むすべてで満たされ、輝き出すのを待っています。

 

それらは宇宙とひとつなので無尽蔵です。

自分が望むあれこれについて、つい外へ外へと走り出す衝動をおさえてみましょう。そして、それがすでに自分の内側に存在していることを信頼してみましょう。

 

そこにはあらゆる「贈りもの」が眠っていて、それらは引っ張り出せば出すほど無限に供給されるのです。

 

しかし、自分で気づかなければ、それを「無きもの」にすることもできます。

 

その引き出しの存在に気づき、中身をひっぱり出すこと、つまり「表現する」ことによって、自分でもはじめて「私にはある!」という体験、「私はすでに大丈夫だ!」という気づきをえることができます。

 

それらを表現することは、すでに持っていることを知る作業なのです。

 

「私にはない」と決めてしまえば、自分のその決断によって「ない」私になることもできます。あるいは、「ある」という確信とともにそれを表現すれば、「ほんとうにあった!」と実感することもできるのです。

「いつか、こんな私になりたい!」とこころに決めるとき、それはポジティブな決意のように聞こえますが、足りないという自分から出発するため、どこまでいっても足りない自分から脱することができません。

 

また、未来に期待しているので、すべてを解決することができる「今」のちからをないがしろにしています。

 

「今はないけれど、頑張っていつかは手にする」という考えは、たった今、自分のこころのなかに存在している宝ものをなきものにしてしまう考えなのです。自分が「ない」と決めたものは、どこまでいっても「ない」からです。

 

それならば、「それらはすでにある!」と信じて(実際そうなのですから)、そうなった自分を表現し、そうなった自分から周りに与えてみましょう。

 

愛がほしいなら、自分が愛になってみる。優しさがほしいなら、自分が優しさになってみる。豊かさがほしいなら、自分が豊かさの源であるように表現してみる。

 

そうしているときに、即座に自分がそうであることを実感することができます。

 

私たちは引き出しにしまいこんだものはやすやすと忘れ去り、欲しいものを求めて外へとまっしぐらに走りだします。それが欲しいものを得るためのたった一つの方法だと信じているからです。

 

そして、自分の引き出しのことは一生思い出さないのです。

 

ただまっすぐに内側へ向かい、「すべてがしまいこまれている引き出しから、表現してみる」・・・ほんとうは、それだけでよいのです。

 

表現することそのものが呼水となり、自分のなかにある豊かさの記憶がよみがえりはじめます。

 

そして、自分の気持ちや、目に映る世界が、自分が望んだ色合いに変わっていくことに気づくことでしょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング