私たちは、日常、目にするものにつぎつぎ注意をとめて、
「いい」とか「悪い」、あるいは「好き」とか「嫌い」というように・・・ たえまなくラベルをはって検閲しつづけています。無意識のうちにランクづけをしているのです。
じつは、この価値判断というものが「苦しみ」生みだします。
自分自身や自分の体験、目にすることをひとつづつ切りとって(切りとった段階で、ひとつであったものごとに対立が生まれます)コメントすることで、「これはよい」と言えば、それよりも劣ったものが生まれ、イライラすることになるし。「これはダメだ」と言えば、それを変えてよりよい状態を目指さなければならなくなります。
コメントしたとたんに、葛藤が生まれているのです。
つねにこころは動きつづけ、ターゲットを見つけては価値判断をすることで、気分がよくなったり悪くなったりしつづけるというアップダウンのくりかえし。
だから、自分がやすらかでいるためのいちばんの方法は、
こころのなかで「なにもコメントしない」こと。つまり、価値判断、検閲をしないことなのです。
これをオススメすると、たびたび「なにもコメントしないなんてつまらない! 生きてる感じがしない!」と言われます。
それぐらい私たちは、あれこれ言うのが大好き! 生きがいです!
つまり、生きること = ものごとにいちゃもんをつけること、ケンカを売ること、になってしまっています。
価値判断とは、自分がボスとなって上から目線であれこれ裁くことであり、何が正しくて何が間違っているかを決める権利は私にある!と言っています。それはある意味、すべてを自分の支配下におくことであり、すべてに対して宣戦布告をしているようなものなのです。
ケンカを売るとかならずそのシッペがえしを受けることとなり、目にする世界は自分と敵対するように感じます。なにを目にしても自分に対してよそよそしく、つながりを感じられないので、世界は冷たく、自分だけ孤立しているように感じるのです
でもそれは、世界がそうしているのではなく、自分が目にするものに優劣をつけて裁いてしまったから。自分にとってすべてがつながりを失い、敵対するもののように目に映るのです。
自分が幸せになる、つまりやすらぎを感じるためには、存在するすべてを「そのまま」に、「あるがまま」にしておくということが必須です。
そうして、そこにある「あるがまま」という流れに一切ちゃちゃをいれないことで、じつは人生のパズルはおさまるところに完璧におさまって、自分のみならずかかわるすべての人にとっていちばんの贈りものを授けてくれるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )