気づきの日記「決めること、選択することが苦手です」

Q: 「引っ越しを考えていますが、なかなか決められません。じつは、何についても決められない性格です。決めたとしても、自信がありません。正しく選択できているのか、いつも心配でストレスを感じてしまいます」

A: ものごとをあれこれ考えることほど、エネルギーを消耗することはありません。

私たちは活動や生活そのものに疲れるというよりも、じつは自分のあれこれの考えに打ちのめされ消耗してしまうのですね。

そして、「正しい選択・行動をしなくては・・・」という思いは、いつも自分にプレッシャーを与え、不安な気持ちにします。

つまり、自分の考えこそが自分を疲弊させ、自分を怖れさせ不幸にし、自分を追いつめるのですね。

「ひとつ」以上のもの、つまりたくさんのものが存在するように見えるこの世界では、つねに対比が生まれるため、それが不安と混乱の感覚を生みだつづけます。

たとえば ・・・

きょうはお休み!さて、何をする? まず洗濯? いや、掃除が先かな? 買い物もしとかなきゃ! ・・・ とか。
○○ちゃん、具合が悪いみたい。お見舞いに行く? 電話のほうがいいかな? それともメール? ・・・ とか。
新しいセーターを買いたいな。そろそろ冬物のセールかしら? すぐ買いに行ったほうがいい? それとも、もう少し待つ?

今するか、あとでするか、あれを食べるか、これを食べるか? というささいなことまで、日常は、大小さまざまな選択の連続です。

私たちにとっては「たくさんのなかから選ぶ」ことがあたりまえの行為なので気づかないかもしれませんが、この「つねに選択する必要がある」という感覚は、とてもストレスフルだし、うまくできるだろうか? という怖れと緊張を生みだします。

もしも、何から何まで全自動的で、ほっといてよくて、何ひとつ選択する必要がなかったら ・・・ どんなにスコーーーーン☆ とはればれしいか?! 自由か?! リラックスできるか?!

でも、ほのとうのところは ・・・ 何も選んでなどいないのです。何ひとつとして! ほっておいても(ほっておかなくても)、人生は一瞬、一瞬、勝手に展開してゆきます。

まさか、「選んでいる」ようにごまかされているとは気がつきもしません。

つねに「力」と「コントロール」の感覚を感じていたいエゴは、やってくるものごとに対して選択肢をなげかけてきて、まるで自分が選んでそうしたように感じさせて、人生を制御できているパワーと安心感をえようとします。

あたかも自分がなにかを決めて、なにかをして、自分が結果を出したり失敗したりできるのだ!と信じていたいのです。

でも、一瞬一瞬はパカパカと勝手に開いてゆく飛び出す絵本のようなもの。エゴが口をはさもうが、黙っていようが、いずれにせよ何をどうする力もありません。結果は同じなのです。

もし、エゴの選択が何かに影響をおよぼせるとしたら、それは不安やあせりや、感情のアップダウンを生みだすことぐらいです。エゴの言うことに耳を傾けて、ジェットコースター気分を味わうことができるというだけです。でもそれは、次に起こることとはなんら関係がありません。

なにもできない幼児が、大人がしたことに対していちいち「ボクがやったんだよ〜」「すごいだろ〜〜!」「見てみて!」「ほめて〜!」と叫んで注意をひいているようなものです。

エゴとかかわるエキサイティングなアップダウンよりも、穏やかさ、安らぎ、リラックス感をお好みの場合には、ただ黙って、人生という飛び出す絵本が展開するままにまかせておきましょう(別名、それは「受け入れる」ともいいます)。勝手にページは開いて進んでゆきます。

大騒ぎしようが、黙ってくつろいでいようが、どちみち起こることは同じです。

そして、黙ってそのまま見ていると、さっさとただ過ぎさってゆきます(自分は影響を受けないまま、それはもう行ってしまいました)。

でも、「わたしがやっているの!」と言いはることは、そのページをずっと開いたまま、「見て!見て!」と誇示しているようなもので、先へはなかなか進めません。

もともと選ぶことなどできないにもかかわらず、もしもどうしても習慣で常に選ぼうとしていたら(Ex. これをするべき、それともあっち? というように)、そのときは「わたしはわかりません。ハイヤーセルフ、わたしにかわって選んでください」と委ねて、選択を放棄しましょう。

ちゃんと、自分にとっていちばんよいことが起こると信頼して。

でも、その「よいこと」はエゴの欲や虚栄心を満たしてくれるエゴのための「よいこと」とは違うのです。けれども、ほんとうの意味で幸せになるためには必ず必要なことです。

だから、安心してやってくるものに自分を開き、受けとりましょう。

「ただ受け入れる」「ただ起こることをそのままにしておく」ことによって、リラックス感、安らぎが生まれ、今ここに自分が開きます。

私も選択にとらわれそうになるときには、こんなふうに言っています。

「さて、この人(たかこさんともいう)がこれをどうするのか見ていてみよう!」「どうなるのかな〜♪ 何が起こるのかな〜♪(ワクワク)」・・・という具合に、完全に傍観者になって、自分がそれをどのように対処してゆくのかをおもしろがって観察しています。

起こる行動は正しく、すべて必要なことです。だから、ただリラックスして見ていましょう。

「あら?お腹がいっぱいのはずなのに、まだスウィーツを食べつづける気だわ!」と意に反する行動にびっくりすることもたびたび(笑)。でもそれでいいらしいのです。私はわかりませんが・・・。

たいてい、これでうまくいきます!(笑)たかこさんという人物を乗せたまま、飛び出す絵本は勝手にパカパカ展開してゆきます。

ただ見ているというのは興味深いものです。あれこれ考えるよりも、ずっとストレスが少なくて、「へ〜、そうきましたか?」と自分のとる行動に自分でびっくりしていたりします。

ほっておくと、いちばん正しい道が目のまえに現れて、それをしている自分を見ます。ただ「受け入れて」それに従うだけです。

エゴのあれやこれやの思いは、まったくいらないのですね。静かです。

自分がほんとうに安らかになりたいのであれば、「自分で」選ぼうとする、決めようとすることをやめることなのです。それによって、責任やら緊張やら、葛藤やら、失敗感から解放されます。

人生が見せてくれるものに対して警戒して怖れを感じるのではなく、自分にやってくるものをすべて「善きもの」として受け入れる、という信頼が大切です。

「私は、安心して手放していて大丈夫! なぜなら、私は宇宙(源・神)に大切にされているから、当然いいものしかやってこないから」という信頼。

そしてそのいいものとは、自分個人だけにとっていいものではなくて、じつは全体に影響を及ぼす、全体にとっていいものなので、自分だけでなくすべての人、存在が手をとりあって恩恵を受けることができるのです。

なぜなら、すべてはつながっているから。だからこそ、「個人」が自分ひとりで一生懸命自分のためにする選択などいらないし、意味がないです。

そもそも選択などしてないし、それはできないし、だからこそすべてはOKでまったく安心なのです。

さてさて、「この人(あなたでーす!)」がこれからどんなふうに行動するのか、ただおもしろがって見ていてください。何が起きても、自分は間違うことができないことに気づきます。いつもちゃんと正しいのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング