私たちが何かしらの行動をとるとき、かならず自分のある考えにもとづいています。
ある感情を感じるときにも、何かしらの考えにもとづいています。
そのもととなる考えは、たいていは気づかれていないのです。
そこで、自分が無意識のうちに信じている考えを調べてみると、私たちは自分自身を決して幸せにしない考えにかなり固執していることがわかります(自分の首にヒモをかけて、少しづつしめているような感じです)。
たとえば・・・
Aさんは、大好きな習い事があって一生懸命つづけられてきました。
Aさんがその習い事のことを話されるとき、いつもお顔がぱっと明るくなることから、「ああ〜、ほんとうに好きでやっていらっしゃるのだな〜」と感じたものです。好きだからこそ、努力も苦にならないのですね。
コツコツ学ばれて、ついに指導者レベルというところまできたとき、「やりたい気持ちもあるけれど、ふみ出せない・・・」と。
よくよくうかがってみると、先生に「つぎはレベルが高くなるから大変よ」とクギをさされたそうで、「ああ、私は一回で覚えられないからついて行けないにちがいない・・・」と意気消沈して、これを学ぶのが好き!というキラキラ感が消えてしまったのでした。
「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」とAさんは信じていて、どうやらそれに自分自身がかなっていないと決めてしまったようなのです。
けれど・・・「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」いうのは、じっさいホントのことなのでしょうか?
私の場合だと、なにごとも自分の感覚に落としこまないと理解できないタイプなので、スラスラとはいかず人よりもじっくりペースです。ウサギではなく、かめタイプ。
ピアノを習っていたときも、一曲まともに弾けるようになるのにもかなりの時間がかかりました。
九九だって、毎晩パジャマに着替えながら地道に練習させられたものです(七の段が苦手で、そこばかり何度もやっていたし)。
大人になって、海外のセミナーやワークショップに行くと、ダンスを何曲も覚えるハメになるのですが(これは一日の終わりに、リラックスのためにみんなで踊るのです)、このフリが見ただけじゃぜんぜん覚えられなくって、ホテルの部屋でお仲間にレッスンしてもらったり・・・(笑)。
というように、どれもこれも一回でなんてとっても覚えられていません。
でも、もしも「ものごとは、一回で覚えられなかったら習う資格がない」と信じてしまっていたとしたら、自信喪失と大きな挫折感を味わっていたと思います(さいわい、かめさんペースの自分にひらきなおれたのがよかった! 汗)。
「ものごとは、一回で覚えるべき」と信じていたとしたら、その考えは自分を傷つける刃になってしまいます。そこから、恥じの感覚や、劣等感、罪悪感が生まれます。
でも、その考えがなかったとしたら ・・・ まったくそんな考えがアタマに浮かばなかったら、自分を劣ったものとも、価値がないものとも感じることはなく、ただたんたんと学ぶのだと思います。そして、早く覚えるためにはどうしたらよいのかを考えることができます(誰かの助けをかりるとか、ひとりで復習するとか、教材を探すとか、上手な人にアドバイスをもらうとか・・・)。
Aさんの信じていた「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」というは、残念ながらほんとうのことではなかったのでした。
そもそもAさんにそれができていないのですがら、その考えがほんとうであるはずがありません。私も一回でできなかった経験が数多くあるし。子育てをしている方だったら、こどもが一回教えてちゃんとできるようになるなんて不可能に近いことがわかります。
誰も、一回で学べないことがふつうなのです。
Aさんはこどもの頃に、なにかの拍子にこれがほんとうだと信じてしまっただけでした。たいていは、母親のひとことが原因だったりします。こどもにとって、母親は真実を語るように感じられるのです。でも、このお母さん自身も彼女の母親にそう言われていたのかもしれません(このように、ひとつの考えは代々、無意識のうちにうけつがれていきます)。
このように、知らず知らずのうちに受けついだほんとうでなない考えを「自分の常識」として握りしめていることが、自分の苦しみや生きづらさ、制限を生む原因となっています。
なにかモヤモヤしたり、意気消沈したり、不安になってしまっているとき、
その目のまえにある状況に対して、いったい自分がどんな決めごとをしているのかをチェックしてみる必要があります。
そして、それがほんとうのことなのか? 自分だけでなくて、他の人にも同様にあてはめることができるのか? (私たちは、自分にはツラくあたるので、同じ考えを友人とか他の人にあてはめようとすると「それは違うよね!」とすぐにまちがいに気がつくことができます)
自分の考えのまちがいに気がついたら、その考えを正しい考えに訂正してノートに書きとめておきましょう。Aさんの場合だったら、「ものごとは一回で覚えられなくってあたりまえ」と。
そしてさらに、訂正した考えから導きだされる新しいものの見方も書き出してみます。「できないからこそ、私は今学んでいるんだ」「学ぶスピードは人それぞれで、それは自分の価値とはなんら関係がない」「遅いといわれても、それはその人の考えだ」「私は自分のぺースで、学ぶことじたいを楽しもう」 ・・・
というように、「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」という考えを手放すことで、まったく違う見方ができるようになるのです。「ダメな私」から、「楽しむ私」に変えることができます。
他にも、「何においても一番にならないと価値がない」とか、「ちゃんとやらないとダメ」とか(そもそも “ちゃんと” ってなんなんでしょう??)、「みんなに受けいれられないとダメ」とか、「認められないとダメ」とか、いろいろなルールがあります。
この自分独自のルールは、自分自身が怖れを感じがちな状況を調べてみると、見つけられるかもしれません。
結局、自分が強く信じていることにしか自分は従わず、それを生きているのだとしたら、
自分がちょっとシンドく感じているときには、すかさず自分の考えを点検して、「それが自分に優しいか」「自分を楽しくさせてくれるのか」「自分のなかに元気がわいてくるものなのか」をみきわめなければなりません。
「自分に優しくない」考えは、持っていても自分の首をしめて生きづらくするだけです。それをしっかりとチェックしてみるときっとほんとうのことではなないのに気がつくと思います。
自分がこだわっている考えしか自分にさし出すことができないのであれば、是非とも自分に対して優しく、いたわりのあるこだわりをもちたいものです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )