私たちはお出かけまえに鏡で身なりをチェックします。いずまいを正すのに、鏡はかかせません。鏡なしには、お化粧もままならないのです。
じつは、身なりのチェックのみならず、こころのいずまいを正すのにも、また人生の流れを修正するのにも、同様に鏡が必要なのです。
でもそれは、おうちにあるような姿見や手鏡では用をなしません。こころを映すには、世界という鏡が必要なのです。
「経済的に豊かになりたくて、資格をとったり、転職したり、毎日遅くまで仕事を頑張ったり ・・・ と、ありとあらゆることをしてきました。でも、努力にみあった結果が出たことがありません。最近、これはこころに関係しているのでは?と、うすうす気づきはじめてはいるのですが・・・。何かできることはありますか?」というご質問をA子さんからいただきました。
不足を見るというのは、まさに外側という鏡に映った自分のこころの状態、思いの結果を見ているといえます。
経済的なことだけではなく、あらゆる問題、出来事にあてはまります。すべては、自分のこころの状態が外側という鏡に映しだされて、それを見ているだけなのです。
身なりのチェックでも言えますが、何かしらの変更が必要なときには鏡をいじりまわすことはしません。鏡はほっておきます。映しだされているモトをいじらなければなりません。
となると ・・・ 不足がある大モトとは、これを映しだしているこころのなかにある、いうことになります。こころの変化が必要なのです。
だから、A子さんのように、外側の世界であれやこれやをいじりまわしても、うわべの変化は一時的に起こるかもしれません。しかし、それをキープすることはできないのです。結局、本来のこころのあり方を映しだすことになります。
問題の原因は、こころのなかに存在する「足りなさ」の思いであるということがわかりました。
「足りなさ」の思いとは、具体的にはどういうことでしょうか?
それは、目にするあらゆるところに「足りなさ」を無意識のうちに知覚することがクセになっているせいかもしれません。「足りなさ」の知覚とは、つねに価値判断をしている、ということになります。
私たちが価値判断をするとき、「こちらはよい」けれど「こちらはダメだよね」と、必ずダメだしをともないます。あるものがイイと知覚されるときには、他は足りないものと見なされるのです。
それは決して、あるがままをよしとはしていません。あるがままはそっちのけで、私のルールで裁いているのです。
そして、ダメだしはいつも、自分自身に対する呪縛、制限となります。
こころで思ったことは形として外に見ることにはなりますが、存在しているのは自分のこころのなかなので、つねに呪文のごとく自分に対して効力を発揮します。
そうすると、何を見ても、足りなく見えるのです。そしてそれをまた裁き、それが足りなさをつくる ・・・ という悪循環におちいります。
価値判断の思いをもつことによって、自分で自分から奪ってしまっている、ということになります。
鏡映るものにいちゃもんをつけるのは、じつは自分にいちゃもんをつけること。鏡にいどんで危害を加えようとしてはいけないのです。それは、自分を傷つけることいなります。
私たちはすべてのものをすでに与えられています ・・・ 自分でそれを切り捨てるまでは。
いったん、こころのなかで裁きが起こると、完全性が損なわれて、すべてばバラバラになり、不完全さ(欠乏)が存在することになります。(一枚の絵のここがいいよね!と言って、そこだけジョキジョキ切りとったら、切りとった部分もその絵全体も台無しになる。あるがままが破壊される ・・・ というような感じです。)
完全生を取り戻すためには、人に、世界に、自分に、完全さを見ようと務めることが大切なことなのです。鏡に完全性が見えるなら、映っているものも完全はなずだからです。
完全性を与えるということが先にきて、そうして鏡から意図したものを受けとります。私の意図を反射しかえしてくれるのです。
エゴの目線はいつだって、不完全さにしか注目しません。誰かが不完全でなければ、自分は優位に立つことができないと信じているからです。だから、いつだってダメだしの嵐なのです。
でもそのことが、ひたすら自分を負けさせているということに気づけずにいます。
すべてに優劣をつけたがるエゴの言葉はやんわりと拒否して、ハイヤーセルフに「わたしはこの人(出来事)のなかに完全さを見たいと思います」とお願いし見せてもらいましょう。鏡に映るすべてを称えられるようにしてみましょう。
鏡に映るものが称えられるのなら、きっとそこにいるあなたは完全ななずなのです。
その完全さのなかから、あなたの贈りものである豊かさが輝き出すのです♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )