先日、友人とお出かけしたとき、お人形の専門店があったのでちょっと立ち寄ってみました。
アンティークドールから世界中の珍しいお人形まで、ところ狭しとひしめきあう店内をながめていると、「ねえ、もう行こ、行こ!(汗)」と居心地の悪そうな友人。
「どうしたの?」と聞いてみると、こどものときから災いや呪いを引き起こす人形が出てくる本やホラー映画を見ていて、「人形 = 呪い」のイメージになっているご様子。
人形を可愛いと感じる人もいれば、キモチワルイと感じる人もあり ・・・ (でも、人形はただそこにいるだけです)。
このように、なにかに怖れを感じるとき、私たちは「それ」こそがコワイ原因なのだ!と考えますが ・・・ 「それ」がコワイのではありません。
「それ」に対する「解釈(意味)」こそがコワイのです。
私たちは、目にしている「それ」がコワイと信じて、「それ」を自分の視界からなくしてしまえば問題は解決すると信じます。 ・・・ しかし、「解釈」がコワイのであれば、その解釈は自分と一身同体です。
またふたたび他のモノゴトを使ってコワイ解釈が顔を出し、それを怖れることになるのは間違いありません。
対象である「それ」をどうにかしても、ほんとうはなにも解決してはいないのです。
実際、怖がりさんを見ていると、「想像力、ハンバないな〜」と感じます。
たったひとつの「あるがまま」を見たときに、平気で十個ぐらいのコワイでっちあげを紡ぎだすことができます(はたから見ているとよくわかります、天才的なほどです!)。
完全に自分オリジナルの解釈で、自分で自分を震えあがらせることに成功しているのです。
それはときに戦慄ともいえるような感情をも引き起こし、それに耐えられなくなると自分で自分を死にまで追いやってしまうことにも ・・・。
しかしどのような場合においても、自分を怖がらせることができるのは、自分以外にはありえません(自分の考えがなければ、じつは怖さは生まれてこないのです)。
自分の意味づけが限りなくホラーであるなら、存在するはずのないどのようなオカルトストーリーでも目にすることができます(すばらしいっ!)。
なぜなら「最初に意味ありき」で、それにぴったりとそった現実を目にすることになっているからです。
そして、自分の意味づけから生まれた世界を見て、さらにそれに意味づけをするので、自分のこころの誤想像でつくりだしたホラーストーリーから抜だせなくなります。
意味づけがコワイときというのは、妄想がふくらみすぎた結果であり、「たった今」の安全な現実をキョーフの「過去データ」やキョーフの「未来の予測」で塗りたくって安全が見えなくなってしまっています。
「たった今、この瞬間」のあるがままはまったく安全なのに(はい!いつでも、この瞬間のあるがままは誰にとってもまったく安全なのです)、自分の妄想のせいで怯えたり、あせったり、落ちこんだり、怒ったり、パニックになったりしています。
それはまぎれもなく、現実ではなく「自分のでっちあげ」がコワいのです。
こどもが風の音や壁のシミをお化けだと信じてコワがったように、間違って信じているものに囚われている証拠です。
大人になってからはいささか風やシミを怖がりはしませんが、今度はもうちょっと大人らしいことに想像力を逞しくしているだけなのです。
そういう方々は、「今」をあまり見ていません、自分のコワイ思いのみに集中しているのです。そこから目が離せなくなっています。
たったいま目にしてひとつの出来事(ありのまま)から、自分の妄想によって即座に物語がたちあがり、あっというまにドラマチックなストーリーが紡がれ、それを真実として信じているのです。まさに、偉大なストーリーテラーです。
しかし、そこにあるのはただ「それ」だけで、なんの意味もついていないただ「それ」だけです。
ストーリーをでっちあげるのには、ものすごい労力を使います。存在しないものを自分にも、人にも信じさせようとするのですから。とっても疲弊します。
冷静にものごとを観察してみると、自分を怯えさせることができるのはたったひとつの存在だけであるということです。
それは、自分自身。自分以外に自分を震えあがらせることができる存在はいません。つまり、自分の考え(解釈)こそが、災いの元凶。
私たちは、自分の考え(解釈)いかんによって、自分の住む世界を自分を愛してくれる仲間があふれる天国にもできれば、あるいは果てしない戦いがつづく地獄にもすることができます。
そのように、どちらも選ぶことができるはずなのに苦しい地獄行きチケットしか買わない私たちって ・・・ きっとマゾなの ・・・ ね!(汗)
目のまえにある「それ」がコワイと信じていたのにそうではなかったのであれば、なぜそれをコワイと判断したのかを探求する必要があります。つまり、原因の糾明です。
原因がわかれば、それが「ホントのことなのか?」冷静にみきわめることができます。まちがっているのであれば、ただ手放すことができます。
「それは、たった今の事実としてほんとうのことなのか?」 ・・・ 正直に検証してみます。
じつは、まだなにも起こっていないのに、過去のデータを被せて短絡的に結果を決めつけてしまっているのかもしれません。
妄想、でっちあげ、怖れ、過去のデータからの予測という解釈はとりはらって、きっちりきっぱりと「今、完全に事実であること」以外は取り去ります。(この段階で、けっこうなにも起きていなかったと気づくかもしれません。)
さらに、「自分はじつはわからないのだ」とわかるかもしれません。
「自分はじつはわからない」 ・・・ と気づいたら、オメデトウゴザイマス! ついに、高い意識(ハイヤーセルフ)に教えてもらうことができるポジションまでコマを進めることができました。
「私が意味を決めたいの!」といいはっているうちは、ハイヤーセルフは「どうぞ、そうしてくださいな」とやらせてくれます(それは、自分で自分の首をしめているのだ!と自分で気づく日まで・・・)。
せっせと意味づけをしようとする(価値判断しようとする)のは、ここがアブナイところだと信じていて、なんとか先制攻撃で勝ちを狙うためにしていることです。
でも、ここがまったく安全だとしたら、それをする必要がありません。
むしろ、コワイ意味づけをすることで、そういう世界をみざるとえなかったのかもしれません(これはまさに、麻薬中毒患者が妄想を見て、それを怖がることでもっとパニックになって暴れる ・・・ というのとよく似ています)。
妄想によるでっちあげの解釈こそがキケンであり、じつはなんの意味づけもしないあるがままの今は安全なのです。
あるがままの今を受けいれるというのは、なにも解釈を加えないこと(口をひらかないこと、コメントしないこと)。ただほっておくこと。
そして、もしあるがままの完全さが見えてこないのであれば、たったひとつするべきことは、ハイヤーセルフに一緒に見てもらうことです。
かならず、「あなたにとっても、まわりの人たちにとっても、贈りものがやってきているのですよ。よかったですね」と教えてくれるはずです。 ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )