気づきの日記「タコで生きる? それともクラゲ?」

やめたほうがいいのに、やめられないこと、っていろいろあります。

やめられない理由は、ひとえにそれに「執着している」から。

それが自分に害をおよぼしていようとも ・・・ 意識的に、あるいは無意識的に、結局それが「好き」なのです。

そもそも、私たちは役に立たないと信じていることを絶対やりません。

なので、誰が何と言おうとも、こころはそれがどうしても必要だ!と信じているようです。必要なこととは、自分が生きのびるためには重要だと感じていることです。

たとえば ・・・ タコ。

キケンを感じると、タコは墨を吐きますが、敵のみならず自分もろとも墨のなか。結局、何も見えません。

もっとひどいのは、ミツバチ。攻撃したはずなのに、刺したらすぐに自分が死んでしまいます。

タコにしろ、ミツバチにしろ、その攻撃は自分もろともなのですが、それを自分、あるいは種を守る方法として採用しているわけです。

じつは、私たちも自分では気づかないうちに「これは、自分を守るためのサイコーの方法だ!」と信じて、かたくなにやりつづけていることがあります。

それは「攻撃的な思い」をもつこと。

たとえば ・・・

「このままで私の人生、大丈夫?」「あの人はなんでいつもあんなふる舞いをするのだろう?」「こんなことをするなんて、この人、おかしいのかも?」「昨日買ったブラウス、いまいちだったわ」「英会話教室に行きたいけど、私ついていけるかしら?」「今朝のコメンテーター、よくあんなこと言えるわね?」「デートの約束したけど、またドタキャンされる?」「この子、期末テスト大丈夫かしら?」「この店員、新人?何も知らないのね!」・・・などなど、

こころのなかで思ったり、あるいは面とむかってはっきり本人に告げる場合もあるでしょう。

これらは全部、攻撃の思いです。ときには自分に対して、ときには親しい人に対して、ときにはまったく知らない人に対して、愛にあふれていない考えをします。それが愛にあふれていないなら、もう攻撃です。

タコやミツバチと同様に、必要性を感じるからこそ何気で攻撃的な思いをもつのですが、それはなぜか?

攻撃するということの意味は、私ではなくて「相手こそが悪かった」、だから「私は正しい人」なのよ、と確認することです。

しかし ・・・ 正しい人だと感じる必要があったということは、そもそも自分が自分を間違っていると感じてたに違いないのですが ・・・(汗)。

タコと同様に、私たちの思いにも色がついていたら・・・いちばんビックリするのは自分かもしれません。

「え〜〜〜〜っ!!こんなにずっとわたしはスミを吐きつづけていたのね!」「スミは私を直撃してる!」「自分のスミで何もかも、真っ黒じゃない?!」と。自分の視界を闇にしていたのは自分であったと。

自分のスミにすっかり呑みこまれて、そのなかで何かが襲いかかってくる恐怖を感じ、やたらもがいていたかもしれません。

「や〜だ! 世の中、真っ暗闇だと信じていたけど ・・・ 私だったのね。私がスミを吐きつづけるから何も見えなくなって、コワイからやみくもに攻撃したくなっていたんだわ」と気づくかもしれません。

実際、怖がっていなかったら、まったく攻撃の必要はないのですね。

癒しをするときにしなければならないのは、新しい自分をもってきてくっつけることでも、新たに何かをこしらえることでもありません。

ただひたすら、自分にとって必要のないこと、役に立っていないことを「やめる」ということだけなのです。「やめる」こと以外には、何も必要がありません。

いかに、自分の思いで自分が苦しくなっていたのか(なぜなら、自分の思いを聞きつづけているのは自分ひとりしかいません)に気づいたら、自分の攻撃性にガクゼンとするかもしれません。

でも、大丈夫ですっ! みんなそんなものです。

それよりも、自分の吐いたスミで自分の視界を真っ黒にしていて、まったく何も正しく見えていなかったのだ! ということを正直に認めることこそが癒しのために大切な最初の一歩です。

あとは、自分の思いをなるべく意識するべくモニタリングして、いつハチのひと刺しをしているのか、スミを吐いているのか ・・・気づくこと。

例えば、チラリと毒づく、相手を申し訳ない気持ちにさせる、こころのなかで悪ものにする、批判してコテンパンにする、自分の世界から追いだしておはらい箱にする・・・ などなど、それをしているときにちゃんと意識することができるようになることです。

このひと刺しするような攻撃の思いは、じつは自分に対して毎回ひと刺ししています。

自分の思いに対して、真剣に聞き耳をたてて、つねに聞きつづけている存在は自分しかいません。

そして、それによって着実に自分が弱ってゆきます。つまり、罪悪感をためてゆきます。罪悪感をためると、自分で自分におしおきをするようになってしまいます。

じゃんじゃんスミを吐くことで闇の世界の住人になっていたのだ、と気づけたのなら、ただスミを吐くのをやめればいいだけです。

そうすれば、クリアな世界が見えます。クリアな世界を手にするために、タコは新しい自分をつくらなくっていいのです。スミを断念しましょう。

スミ吐きと縁を切った私たちは、「あれ?わたしってじつはキラキラ発光しているクラゲちゃんだったの? 海がキラキラして美いのは、じつは私の輝きだったのね〜」と気づくかもしれません。

私たちのこころは宇宙をふっとばすほどのフルパワーがあります。そして、24時間ノンストップで稼働中。

それほどのパワーがあるのなら、スミを吐いて(攻撃的な思いをもって)自分をコテンパンにするのか、それともただそれをやめて本来の自分の美しさに気づくのか、ふたつにひとつです。

まず、はじめの一歩は、「今」私はどんな思いをもっていたかしら?とチェックすることです。

かりに、愛以外のものに気づいてしまったとしても、「なんてことなの?邪悪な私」と責めてはいけません。

これも自分に対するさらなる攻撃の思いです。攻撃は外に向いても、内に向いても、自分に対して破壊的であることに変わりはありません。

ただ、この思いは光を放つ私自身には似つかわしくない = 似つかわしくないものは、そもそも私のものではない = 私のものではないのなら、それは手放すためのもの = そして、手放すための手っとりばやい方法は、高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、もって行ってもらうことです。

ハイヤーセルフは必ずこう言ってくれます。

「それはまさに、あなたのものではありませんでしたね。気づいてくれてよかったです」と。ハイヤーセルフは、私たちがいつガラクタを大切にしなくなるか、ずっと待っていてくれたのです。

でも、こどもが真っ黒ですり切れたクマのぬいぐるみでもそれを大切にしているときに取りあげないように、ハイヤーセルフも「もう、これは私に必要ないものです」と自己申告するまで、じっと待っていてくれるのです。

そして、「もういりません。もって行ってください」と、私たちが GOサインを出せば、いつでもよろこんでお掃除してくれるのです。

ひとつひとついらないものをもって行ってもらって、みんなでキラキラな発光クラゲになりましょう  ˘⌣˘♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング