「こどもの頃、エクソシストってえらくコワかったよね! 女の子の首がグルって回ったりして・・・」「コワかった〜!」
怪談やお化けものじゃないホラー映画のはしりです。女の子に悪魔がのりうつって、助けにやってきた神父と闘いをくりひろげます。
お友だちとそんな話しをした後に、こんな YouTube が送られてきました。
ありゃりゃ!(汗)めちゃコワかったクライマックスシーンが別ものに! コワいどころか、抱腹絶倒。同じ画像でも、こうも変わるものか!?
他のお友だちにもシェアしたみたところ、「結局、映像よりサウンドのほうが影響力があるのかもね」「無音で恐怖DVD観ると、あまり怖くないからなぁ」と。
そうなんですよね。そこについている「音」がくせものなのです。
私たちは見えている映像よりも、「音」を怖れているのです。
たとえば、自分が部屋でコーヒーを飲んでいる画像をイメージします。
ここに「ジョーズ」のBGMがついていたら、どんな感じ?・・・「未知との遭遇」だったら?・・・(スミマセン、両方とも古すぎてわからない?汗)
これらのBGMだと、ちょっと不穏な感じ、なんかよからぬことが起こりそうな、ザワザワ感をよびさますかもしれません。
じゃあ、Queenの「We will Rock You」 だったら?・・・アナ雪の 「Into the Unknown」 だったら?
なんか、ちょっと力が湧いてくる感じ、なにかが始まりそうな感じ。
ひとつの場面も、BGMが違うだけでまったく違ったストーリーの一部となります。
じつは、私たちが目にしている日常の世界という画像も、BGMがついています。
BGMを選んでいるのは自分で、それがまさに自分のテーマソングになっていて日常の色みを決めているのです。(いつも何かにおびえているビクビクさんは、無意識のうちにジョーズがなっているのかも。)
その自分専用BGMは、毎日、年がら年中かかっているので、もう自分では慣れっこになっていて(踏切の隣に住んでいる人が、カンカン鳴る警報をいちいち気にしないのと同じで)、自分ではまったく聞こえていないのです。ほぼ無意識になってしまっています。
でも、いつもアタマがガンガンする感じがしたり、何かにおびえているかもしれません。
そのBGMが、「あるがまま」という何でもない画像のうえにかぶさって、自分のストーリーの色あいを醸し出しているのです。
私たちが人生のなかで何かを怖がったり、脅威を感じているときには、目のまえで起きていること(画像)が問題というよりは、まさにこの無意識となったBGMに怯えさせられている、ということなのです。
いつだってコワい原因は、決して映像(起こっていること)にあるのではなく、音。そこに被せている無意識の自分の想いであり、価値判断であり、感情なのです。
でも、私たちは「このイヤな感じは、私が目にしているもの “そのもの” のせいだ」と勘違いして、外側の画像を変えようとやっきになりますが、結局変えられません。変わったように見えても、変形して別の形になるだけなので何も変わってはいません。
それは、「変えなくちゃダメだよ!」とあおって、無力感を感じさせるのがエゴのやり口です。「頑張ったのにやっぱりダメだ〜!」という挫折感をためこませたいのです。
唯一変えることができるのは、BGM(無意識のうちに自分のこころが、想ったり、判断したり、感じていること)。BGMさえキケンでなければ、画面を変える必要はありません。
イヤな感じたしたら、いったい自分はそれにどんな意味(音)を与えているのか意識してみる必要があります。自分がどんな音を与えていたのかに気づけば、それを「無音」にするために手放すこともできるからです。
「自分こそがつけていたBGM」に気づいて、「変更する」意志をもつことで、エクソシストのキョーフの場面に大笑いしたように、最悪と感じていた場面がじつは最大のチャンスの場面に変えることができるのかもしれません。
さらに、ハイヤーセルフにお願いしてBGMをつけてもらえば、それはきっと身もこころも踊るワクワク感にあふれた喜びの場面になるのかもしれません。(これぞパラレルワールド☆ですね!)
PS 今、お友だちから、笑点のテーマ曲がオススメとのメールがきました!(笑)イイですね!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )