Q: パートナーの言動に、いちいち苛立ってしまうこの頃です。このことから、どのような気づきをえることができるでしょうか?
A: 自分のイヤな感情に出くわしたとき、それは大きな癒しのチャンスです。
それは自分のなかにあったからこそ、いま浮上してきてイヤな気持ちなったというわけです。それはけっして、外側の誰かからやって来たものではないのです。(その人はちょっとした引き金となっただけで、原因ではありません。)
そして、その関係のなかでそれを手放す機会が与えられているということです。
そうとわかれば、その方は自分に癒しをうながしてくれている、とてもありがたい存在というわけです。
外側にいる人々というのは、「自分で見ることができない自分」を映しだしてくれる鏡のような存在です。
その鏡は、「私はこういう人である」と信じている自分をそのまま映し出してくれます。
つまり、そのパートナーに見えているイヤなところは、自分が信じている自分の姿を見せてくれているだけなのです。
私たちのこころのなかには、自分で嫌ってしまった自分自身が深く埋めこまれています。拒絶して埋めこんだがゆえに、自分でもその中身をすっかり忘れてしまっているのです。
自分が忘れてしまってもそれはまだしっかりとそこにあり、ほんとうの自分をおおい隠してしまっています。そして、これこそが他人という鏡に映し出されているイヤなイメージなのです。
その深く埋めこまれた自分自身がついに腐敗臭(?)を発して、それが漏れでてくることで、自分の気分を悪くしています。
しかし、私たちはその気分の悪さを「何か別なこと」が原因だと信じようとします。そして、そのターゲットを見つけます!
それこそが、そのしゃくにさわる、イライラする人だというわけです。自分のこころの腐敗臭の気分の悪さを、その人のせいにしたのです。
私たちが誰かにイライラしているとき、その人の行動がどうこうというよりも、自分が隠しているゴミの臭いによって気分が悪いのを相手のせいにしようとしている、ということなのです。
そうして私たちは安心するのです。「気分が悪いのは、この人のせいだったんだ!」と。
そもそも、自分が拒否して自分のなかに埋蔵したものは本来の自分ではなかったので、ただ手放して永久にサヨナラすればよかっただけなのですが、
それが、自分の一部であると勘違いしてしまったために、恥ずかしさから自分のなかに隠すという手を使ってしまいました。外側にいるイライラさせるように見える人は、自分の腐敗臭をおしつけられた可哀想な被害者だったわけです。
ほんとうは、イヤな人をみつけたならば、自分の内側にある腐ったゴミを捨てさるチャンスだ、というわけです。
人は「鏡」であるといいうのは、自分の内側にゴミがあるということを教えてくれる存在だということです。鏡がないとそれに気づけません。
そして、この鏡である人にあたりちらすことなく(攻撃せず)、私のゴミが映っているのだと認めてしまえば、それを取りのぞく癒しの機会となるわけです。
非難することなく、自分こそが映っていたのだと認めることができたら、その人を「自分がなりたいような人」として見ることをしてみます。
すると、今度はその人が自分の完全さクリーンさを映し出している鏡と認識することができ、自分のこころが正気を取り戻すことができるようになるのです。
つまり、自動的にゴミが取りのぞかれて、本来の自分の完全さがあらわれます。
「与えることは、受けとること」・・・先に相手をきれいにしてあげることで、自分もきれいを受けとることができます。
そしてまた、それを「与える」という決意は、「自分が何を目にしたいのか」を改めて決めなおすということです。私たちは、みずから「見よう」とするものしか目にすることができません。
相手という鏡のなかに、「自分がこうだったらよいな〜、こんなふうになりたいな〜」というイメージを見ることを選ぶことで、自分にもそれを見ることができるようになるのです。
目のまえの相手が自分を苛立たせると感じたら、意識を相手から自分のこころへと戻しましょう。
このこころから、イライラ、不快感は発っせられていて、こころを正すことで自分の世界を変えることができる、と気づきます。
そして、鏡になってくれたその人を、新たな「こんな自分だったらいいな〜」という人として見て、自分のこころが訂正されるのを受け入れましょう。
外という世界も、じつは自分のこころの内側にあります。相手を攻撃すると、より自分のを傷つけてしまうので、自分のこころと知覚を変えることによって、自分が、相手が、そして自分のいる世界全体がどのように変わるのかを見てみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )