老年のトニーはひとり暮らし。
離婚した妻や娘とは良好な関係を保ってはいるものの、実際、人に対してあまり興味はなくこころを開かない。
ある日、トニーは弁護士からの手紙を受けとる。それは、学生時代の親友エイドリアンの日記が遺言によって自分に託されている、という内容だった。
しかし、エイドリアンは学生時代に自殺しており、その遺言の主はエイドリアン本人ではなく学生時代の恋人の母親だった。
なぜ今頃、旧友の日記が自分に遺されたのか? なぜ元恋人の母親からなのか? 疑問を抱きながらもその日記を請求すると、遺言執行人である元恋人のベロニカは「もう日記は焼いてしまった」と。
この出来事を機にトニーの記憶の扉が開き、学生時代のさまざまな場面がフラッシュバックのように甦る。
またベロニカとも40年ぶりに再会することとなり、忘れさっていたこころのうずきを感じはじめる。
なにも語ろうとしないベロニカとの間で、トニーの記憶はゆらぎはじめる・・・。(→予告を見る)
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嬉しかったり、傷ついたり、恥ずかしかったり・・・私たちのこころのなかにある様々な記憶。
そもそも記憶は私たちのこころによって取捨選択されうるし、また記憶のモトになっている自分自身の認知じたいが「ほんとうのことを見ることができない」ということに私たちは気づきません。
私たちが見ている世界は、まるでカギ穴から覗いているような限られた一部であって、それはあるがままの事実とは違うのです。
さらに、私たちにはあらかじめ自分で目にしたいと思っているストーリーがあり(たいていは被害者のストーリー)、そこにあわせて起こっていることをあてはめて自分なりの物語を紡いでゆきます。
つまり、あるがままではなく、起こっている一部をつなぎ合わせて、組み立てて、自分好みのストーリーにして納得しているのです。でもそれは、自分が「傷ついた」というストーリーであることが多いのです。
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このお話のなかのトニーも、自分が思い出した過去の記憶というものが、この「日記」の出来事から揺らぎはじめます。
自分がねつ造した「カギ穴」から見たストーリーではなく、ドアを開け放ち全体を知りはじめたとき、そこにはまったく違うものが見えはじめるのです。
トニーがそのことに気づきはじめたとき、彼はなんと自分が自分を被害者にしていたことか、そのために心をとざしてそこにある愛も拒否していたことに気づきはじめます。
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神さまのような目線ですべての出来事の全体を、そのうわべだけでなく内容もながめ渡すことができたとしたら、ほんとうは傷ついたり、被害者になったりすることはできないのかもしれません。
そして、自分のこころの癒しを求めるとき、こころで全体で見ようとする気持ちが欠かせないのだと感じます。
PS 再会したトニーのまえで、なにも語ろうとしない元恋人のベロニカ。シャーロット・ランプリングの存在感だけですべてを語っている感じがします。