「街でお買い物をしていたとき、知らない人に理不尽な言葉をなげかけられイヤな気分になっていましたが、昨日のブログ『イヤな気分はものごとのせいじゃない』が役に立ちました」とAさんから気づきのシェアをいただきました。
よかった!グッドタイミングですね ( ・◡・ )
イヤな気分になる出来事に遭遇したときのために、もう少々つけ足しておきましょう。
じつは・・・そのイヤな出来事というのは、お初の体験ではありません。自分のこころのなかで、すでに何度も上映されてきたおなじみの場面なのです。
ビデオで同じ場面を何度も見ているように、今回がはじめてなのではないのです(それをこころが覚えている場合は、デジャヴ感がよみがえります)。
その場面は、こころが正しく認識するまで永遠に繰りかえされる映像なのです。(いいかげん飽きそうですが、うんざりしてホントにもうイヤになるときがきたら、案外あっさりとやめられるかもしれません・汗。)
正しく処理されたあかつきには、きれいに消去され終わりになります。
つまり、そのことに遭遇したのは偶然ではなく必然の出来事です。
また、そのときに感じる動揺もそのストーリーの一部であり、自動的に起こっているので自分を責める必要はありません(勝手にそうなっています)。
大切なのはそのあとです。そのあとにどう対処するか? それが、再び繰りかえすか、もう終わりにするか、のわかれめです。
イヤな気持ちを抑圧したり無視したりすると、それはこころに保存されてしまうのでまたやってくることになります。それに対する怒りも、そこに罪が存在すると信じていることになるので、やはりふたたび罪を見ることになります。
昨日のブログでも書きましたが、正しい対処の仕方は、「なぜ、イヤな気分になったのか?」。その「イヤな気分の原因となった考え」を探求して、それをハイヤーセルフに手放すこと、でした。
たとえばこんなふうにやります。・・・「 理不尽な言葉をなげかけられてイヤな気持ちになってしまった」 ・・・ なぜなら、
→ 私は攻撃されたと感じた → 私は簡単にやられてしまう存在だ → 私は小さく脆い → 大きな力に守られてはいない → 私はひとりぼっちだ → 誰とも何ともつながっていない → つながれない私は何かが間違っているに違いない → 間違ってしまった私 → 罪悪感
(注:これはAさんの信じていることではありません。ひとつのモデルです。)
正さなければならないのは、この攻撃や間違いや罪を信じているこころそのものです。
これらを信じているからこそ、同じストーリーを繰りかえし見つづけ、脱却できずにいます。
何度も見てきたこの場面で、今度こそ「ここに罪(間違い)が存在することを信じている自分」、「それを見ている自分」をゆるす、つまり「ぜんぶ、私こそが間違っていました」ということを自ら認めなければならないのです。
このように自分のこころにおいて被害者意識を手放すことが、自分の体験を変えるためのポイントとなる場所であり、考えです。
被害者をやめ、間違い・罪を信じていた自分を自分自身がゆるす、ということです。
ゆるす、ということは、こころのゴミを手放すことであり、そのゴミの下には自分の正しいこころがあります。それは、間違いを知らない、愛そのものです。
私たちが目にするイヤなこととは、自分が無視してきた無意識のなかにある思いそのものであり、それがイメージとしてあらわれたものです。
それを出来事として見たり感じられたときにはじめて、自分で「気づく」ことができ、手放す意図をもつことができます。
だから今度こそ、そこに見ていた(そこにおしつけていた)自分の無意識下の不幸をよぶ考えを手放す機会を役立てなくてはなりません。
このような取り消しを行ってゆくと、同じような傷つく場面は削除されてゆき、自分が目にするストーリーがしだしに穏やかになってゆきます。
なぜなら、そこにある愛という光が輝きだす余地が生まれて、その光のなかで世界が見えるからです。
自分を傷づけることができるのは自分だけ。そして、いつでもそれをやめるために気づくことができるのです♡ (´▽`)v
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )