20-08-19 恐れに囚われがちです・・・

 

なにかを「怖がる、怯える、恐れる」とき ・・・ それは出来事かもしれないし、人かもしれないし、未来やなにかの予感かもしれませんが ・・・ それを怖がっているとき、私たちはそれを崇拝し敬ってしまっています。

崇拝? 敬う? ・・・ ピンとこないかもしれません。

それが自分よりもずっと力があり、上位に位置し、それに支配されているように感じるので、コワい対象はつねに自分の支配者であり、神となってしまいます。

だから、盲従し、崇拝しているのです。そして、エネルギーも、魂も、意志も、明け渡してしまいます。

となれば当然、自分の正体について忘れてしまうので、自分が誰であるのかわからなくなってしまいます。そして、なにものでもない無力な存在だと決めてしまうのです。それが恐ろしさに拍車をかけます。

そうして恐れる対象にこころを奪われるうちに、自分のなかにあった「すべてを解決するための力」を自ら放棄してしまいます。

つまり、「恐れる」ということは、自分を記憶喪失に陥れ、自分の正体も、自分の血統も、自分の生まれも、自分の宝も、すべて忘れ去ってしまうこと。恐れに身をささげ、自分の尊さも、自分の力も捨て去ることなのです。

これが「恐れる」ということの弊害です。

「恐れている」とき、じつは「恐れを感じている対象」がコワいのではありません。

自分の感情こそがコワいのです。自分が誰であるのかを忘れてしまったゆえ、キョーフがつのります。

たとえば、残酷なホラー映画を観ているとき、ほんとうは誰も傷ついてはいないし、死んでもいません。たんに画像が流れています。

画像だけで実際なにも起こっていなくても、十分にコワいのです。それは、画像がコワいというよりは、それに触発されて引き出されてきた自分の感情がコワいからです。

ためこまれていた自分の感情がそれに反応して、こころの表面に浮上してきてコワさを感じさせているのです。

私たちが日常に感じる怖れもこれとまったく同じです。出来事に対してコワがっているのではありません。飛びだしてきた感情がコワいのです。

出来事というものは、冷静になって、いま目のまえに提示されていることにひとつひとつ向きあっていけば、「対処すべき事柄」として自然に解決に導かれてゆきます。そこにいちいち、恐れや動揺をくっつける必要はないのです。

過去の遺物である抑圧されていた恐れがこころの表面に飛びだしてきたとき、まるでこころのなかで警報機がじゃんじゃん鳴り響いているように感じます。

そうすると、意識は「目にしている対象はキケンだ!回避せよ!」と解釈します。そして、私たちはまたたくまにフリーズして、アタマが真っ白なり、目のまえにあるものはキケンだと判断し、闘おうとしてしまうのです。

でも・・・ゴーストはそこにはいません。

是非、「恐れ」と「出来事」はベツモノだと覚えておきましょう。

感じている恐れは恐れとして、感じて受け入れることで処理をすることができます。受けとめてもらえた感情は、ただ消え去ってゆくことができるのです。

そして、クリアなこころで出来事でむきあえば、恐れが占拠していた空間がお留守になるので、そこに自分の叡智がよみがえります。

その正しいこころから湧きでてくるインスピレーションに導いてもらうことができるのです☆

PS そもそも、ほんとうところ、恐れを感じているのは「自分」などではありません。

「私は怖い」と叫んでいるその恐れを客観的に観察できるのなら、自分と恐れて叫んでいるものの間にはなんらかの距離があるということです。恐れは自分から離れて存在しているようです。

つまり、恐れているモノ VS 自分。自分は恐れているものと向きあっている存在です。

ならいったい、誰が恐れているのでしょうか? ・・・ ただ「そんな感じ」がそこにあるだけなのかもしれません。

 

 

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