気づきの日記「天国は・・・そこじゃない」

 

映画「天国は、ほんとうにある!」のなかで ・・・ 生死をさまよう体験をした幼い男の子が見た、この世ではない別の世界の話が語られています。

その男の子はまず、手術を受けている自分を真上からながめ、別の部屋にいた父親の取り乱す姿を目撃し、そのあととても美しい世界に行き、キリストに導いてもらいながら会ったことがないおじいちゃんに会ったり、この世に生まれてくることのなかったお姉ちゃんに会ったり・・・。

これは、男の子が実際に体験したことを記した同名の本を映像化したものですが、まさによく耳にする臨死体験の典型です。(→予告を見る

「喜びから人生を生きる!」という本でも、臨死体験をした女性がその体験をとおして自身の病が癒される様子をつづっていますし、他にもそのような臨死体験を記した書籍はたくさんあります。みな同じことを報告しているのがおもしろいところです。

でっちあげであったなら他の展開があってもよさそうですが、だいたい同じようなことが起こっています。さらに、この男の子も自分が知りえないことをその臨死体験のなかで知ることになります。

いまいち不思議に感じたのが、牧師をしている男の子の父親が、男の子の話す「あの世」の話にひどく動揺するということ(牧師さんは、いつも天国を指し示しているはずでは?!)。そして母親も、もうその話はしないようにと男の子をたしなめます。

死のように見えるのはまさに脱皮のようなトランスフォーメーション(形がかわること)で、そのあとに恐れのない世界があるのだとしたら、まさに願ったり叶ったりです!

さらに、「死」という名で引き裂かれたように見えた人たちと再会できるのなら、なにを怖がる必要があるのでしょう?

むしろ、楽しみにすることなのかもしれません。(けれど、苦しみから自らの命を断った場合は、また違った体験になるようですが。)

この作品では男の子が「天国を見てきた」としていますが ・・・ ほんとうはそうではありません。

この人生と次の人生のあいだの休憩所を見学してきたにすぎないのです。天国はそこではありません。

そこは「中間生」と呼ばれている場所で、ここでしばらく楽しみながら直前の人生の疲れを癒したら、再びこちら側に引き戻されます。

「未来」へと、あるいは「過去」という時間へ、はたまたさっきまでやっていた自分とまったく同じ人、同じ人生で「さあ!もう一回やってみようか?!」と再演を促されるかもしれません。

なんのために「もう一回やってみようか?」なのでしょうか、なにをやり遂げなければならないのでしょうか?

私たちは、俗にいう「いい人」になることが自分のしなければならないことで、もしこの循環を断ち切って天国に行けるとしたら、「いい人」であることが条件だと思っているふしがあります。

「いい人」って、なんだろう? よいと思ってやったことも、別の視点から見たら誰かを傷つけているかもしれません。

また、「いい人」になろうとして、ギセイすることで(ガマンすることで)、自分のなかに不満、怒りをためこみ、自分を見失ってしまうかもしれません。

私たちが「もう一回」やらなくてはならないのは、「すべてをあるがままとして受けいれる」ことです。

それは、自分のこころが紡ぎだした世界に対して、もう維持するためのエネルギーを送りつづけることをやめて、自分の手から静かに手放してあげることなのです。

手放しさえしたら、それは消えてゆきます。天国があらわれるスペースを与えます。

でも、反応しつづけているときには、握りしめているのです。

だから、たとえまったく同じ人生に戻ったとしても ・・・ ( 本人は記憶がないので気づきませんが、もう数十回やってることだってありえるわけです。あ、そんな映画ありましたね!「恋はデジャブ」でした)、

こんどこそは、不平不満を言ったり、誰かを責めたり、被害者になったり、自暴自棄や自分勝手になることなく、起こることに反応しつづけるのをやめて、自分のつくりだしたイメージとして静かに受けいれ、ゆるさなければならないのです。

それができてこそ、ようやくの天国なわけです。

天国には「人」はいません。天国は、肉ダンゴのままでは入れないのです。自分の本性である光(スピリット)を自覚してこそ、ようやく天国に近づくことができます。

すべてを裁かずに受け入れることによってこそ、肉ダンゴという肉じゅばんの呪縛から自由になることができるのです。

ダンゴでなくなったとき、天国への階段に見えるのでしょうね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング