気づきの日記「静けさが答えてくれる」

 

私たちが怖れを感じているとき、

何かが自分に対してふりかかってくるように感じています。つまり、ある状況が自分の外側から自分に対してやってくるように感じられるのです。

苦難にしろ、病にしろ、困窮にしろ ・・・ 自分はいつもその状況に見舞われる被害者なのです。

しかし、ほんとうはそうではありません。

怖れを感じているときはいつでも、アタマのなかで紡いでいる自作のストーリーこそに脅されているのです。コワいのはそのストーリーのベースとなっている自分の考えです。

私たちはその自作のストーリーを信奉しすぎるあまり、それは自分が勝手に紡いだものであり、なんの根拠もなく、まったく真実ではない、ということがわからなくなっています。

私たちは自分の考え(でっちあげ)については、疑う姿勢をもちません。ハタから見てどんなにマトはずれであろうとも、自分のものだからこそ大切にしてしまうのです。

そして、それがドラマチックでかつ悲惨的であればあるほど、こころのすべてのエネルギーを傾け、片ときも忘れまいとこころに保ちます。

こんなに愛しちゃったのだからこそ、自分にとってはまぎれもなく真実となっているのですが・・・。

自分のアタマはこの自作のストーリーでいつもぱつぱつなので、何が目に映ろうともこの自作のストーリー展開に加担させてしまうのです。

すべて自分のストーリーに巻きこんで、うまくつじつまをあわせてしまいます。

そうなると、どんなにヨイことが起きていようとも、明るい方法に向かっていようとも、すべてを自分色の悲惨にぬりかえてしまうのです。こころはいつも、自分が信じたことには恐るべきパワーを発揮するからです。

そして、自分が紡ぐ悲劇のストーリーはどんどん成長し完璧になってゆきます。

けれど、しょせんストーリーはストーリー。真実とストーリーは違うのです。

ストーリーはほんとうのことのように感じますが、ただのでっちあげの妄想。絵空事にすぎません(架空の妄想にちぢみあがる私たちっていったい・・・?!汗)。

自分のアタマのなかで妄想ストーリーを紡ぐことをしなければ、そこにはただまっさらなあるがままの平和があります。

それはそのまま流れてゆき、おのずと完全な形をなしてゆきます。

せき止めたり、コントロールしようとしたり、ねじ曲げたりしなければ、自動的にいちばん省エネでラクなルートをスルスルと通りぬけ、行くべきところ(幸せ)へと行きつくのです。

それこそが、すべてのなかに存在する叡智のなせるわざ。

エゴ的な思いでものごとにふれることをしなければ、それは手だしせずともすべてをなしてくれるのです。

でも、その完全さが見えない?わからない? ・・・ それはすでに、自分で結末やプロセスうんぬんを決めてしまっているので、起きていることがそこにあてはまらないように感じているだけです。たんにエゴの戦略にあっていないだけなのです。

ただ手ばなすとことをすると、いつもびっくりさせられます。

こころはまだ疑って怖れを感じていても、とにかくゆだねよう!とすべてから手をひいていると、あるとき「えっっっ?!そうくる?」とビックリするすることになります。それは、自分の予測、計画、思いつきのすべてを超えるストーリー展開だったりするのです。

そして、もちろんそれを気に入らないはずがありません。

コワくても手ばなす練習をつづけていくうちに、この「えっっっ?!」という予想外の完全さをくりかえし体験するようになり、今起っているプロセスへの信頼が深まっていきます。

「私の策略はなんの役にもたたない」「私の考えは怖れをベースに紡がれているから、たんに完全さの邪魔をしているだけなんだ」「すべては手をはなしたとたんに転がりだす」「そして結末は、私はもちろん、かかわる全員にとって恩恵のあるものになる」

「私にできるのは、ただこの流れに指一本ふれずに静かに退いていること」

そして、この信頼からくる平和なこころこそが、本来の自分のなかにあるひかりを広げ、そのひかりのなかで目にするすべてを輝かせてくれます。

だからいつだって、平和な世界は自分のこころ・思いこそがすべてなのです。

アタマはいつも瞬時に判断を下そうとしますが、裁きを手ばなしただ静かに見ている存在になることで、自分の世界に存在していた戦いが静まります。

裁きの思い、判断こそが、自分の目にするものにケンカを売って、その敵意がはねかえってくることで自分のこころを傷つけていたのでした。

戦いの気持ちがなくなれば、はねかえりもなく、自分にとっての世界は平和に静まります。

ついついしてしまいたくなる間違い探しや比較、裁きを手ばなして、すべてをただそのままにしておきましょう。ただ流れゆくものとして流してあげましょう。

ストーリー(セリフ)はすべて手ばなして、アタマをからっぽに鎮めて、起こることをそのままにしてあげましょう。

裁きもなくカラッポにされた空間には、自分本来の安らぎであるひかりが広がります。そして、そのひかりこそがすべてを浄化し美しくしてくれるのです。

静かにすれば、ひかりの中でおのずと答えが展開してゆきます。自分のなかの叡智が静かにリーダーシップをとります。

それには間違い、というものはありません。ただあるがままで大丈夫なことこそが、私たちがいつも守られ大きなちちからに慈しまれている証なのです。

もしその途中で怖れを感じることがあるのなら、それは自分のものではない怖れが浮上してきただけです。ただ受けとめて、感じて、終わりにしましょう。自分でストーリーを紡げなくなったエゴが縮みあがって叫んでいるのですから。

エゴはいつも、結局は苦しみを生みだすことしか提案してこなかったのです。すみやかに去ってもらいましょう。

私たちの思い(考え=エゴ)は決して正しくない、ということです。

こころに抑圧されていた罪悪感や怖れのせいで、なんとか自分が罰(苦しみ)を受けずにすむように、必死で策略してあがいていたのが「あれこれの思考」だったのです。

けれど私たちの高い自己であるハイヤーセルフは、そんな私たちの怯えたこころも見越して、

「ただすべてから手を引いていてください。あなたの一歩一歩を安全に導きましょう。そして、あなたの自分に対する間違ったイメージ(罪悪感や怖れ)もまとめて手ばなせるように面倒をみましょう」と言ってくれています。

だから、今することはひとつだけ! ただ信頼して、後ろに退いて、手だしをすることなく、ゆったりくつろいで、「これっていったい、どうなるのかな〜?楽しみ♪」という気持ちですべてを見守っていましょう。

おまかせしておけば大丈夫! からなず、自分(エゴ)が思っていたよりもはるか上に連れていってもらえます(自分でするよりも、もっといいところに!)。

ハイヤーセルフにすべてをゆだねる気持ちをもつことで、傷をおうことなく、ひとつひとつにおいて守られ導かれていることをこころの底から知ることができるようになるでしょう☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング