何かを渡してもらおうとするとき、手はどのような状態になっているでしょうか?
手の平は開いています。
受け取るものが好ましいものであればあるほど、大きく開いた両手でしっかり受けとめようとするはずです。
もし手がグウになっているならば、まったく受け取ることができません。
固く握りしめているなら、それはまさしく受け取りたくないという拒絶の現れでもあります。拒絶は、なにひとつ受け入れないということです。
私たちが自分の望む現実や豊かさなど、受け取りたいと思うものがあるのに受け取れないと感じているとき、まず気づいてみるべきことは、自分がちゃんとパアになっているかどうかということです。ちゃんと受け取るべき体制になっているでしょうか。
グウの状態になっているならば・・・受け取りたいといいながらも、じつは拒絶しています。
受け取ることができるパアの状態は、オープンでなんでも受けいれるという状態です。
私たちにとって、受けいれている、開いている、とはどういうことなのでしょうか?
すべてのものごとはひとつの流れとしてやってきます。その流れは一つひとつのことがつながりあい大きな流れとなっているのです。そして、そのなかにはさまざまなものごとが含まれています。
しかし、私たちはその流れのなかから、自分にとって好ましいと思えるものだけを選び取ろうとし、それ以外は拒絶して切り捨ててしまいます。
流れはひとつのものであるので、ある部分を拒絶しようとすれば、それは全体が拒絶されたことになり、なにも受け取ることができません。
自分で選び取ろうとすることによって、流れが堰き止められ、そもそも何ひとつ入ってくることができなくなってしまうのです。
それは、流れ全体が拒絶されたことになるからです。
「自分にとっての贈りものを受け取る」ということは、ひとつの流れとしてやってくる体験全体を丸ごと全部受けとめようとすることです。
そのなかには、自分の目的とするものとは何の関係もないように見える人やものごとがあったり、むしろ受け入れたくないと思えるようなこともあるかもしれません。
でも、その流れはそれらを含んでこそ完全となっているので、それをバラバラにすることはできないのです。
それならば、大きなこころで自分の目のまえにやってくることをすべて受けいれてみることです。それは出来事であったり、そこにまつわる人々であったり、全部こみこみワンセットです。
自分で検閲をかけて選り分けようとするようなことはできないのです。
私たちは、自分が思い描いていたような物ごとや人がやってきたとき、それのみを切り取って受けいれ、他は拒絶したいと思っているのです。
でも、ものごとというのは小さく切り取ることができません。なんでもかんでも、「丸ごと」が基本です。
たとえば誰かを愛するとき、「この人のこの部分は大好きだけど、ここは嫌い」と言ってしまえば、それはもう愛とは言えなくなってしまうのと同じことです。
小さく切り取って受けいれようとするとき、私たちはそのすべてを失うことになります。
ここまで読んでこられたらおわかりかと思いますが、「豊かに受け取る」ということは、目のまえにやってくる全部を無条件に「受けいれる」ということで成立することです。
これがグウの手をパアにすることです。流れを全身で受けとめることです。
それは、価値判断を下すことなく、すべての物ごと、人々をあるがままにしておくことです。
宇宙が渡してくれるものを、自分の狭いものの味方で制限してしまうのではなく、ただ素直にすべてを受けいれます。
パッと見が素敵でなくとも、自分が好まないものが含まれているように見えたとしても、それでも賢明な宇宙が渡してくれるものだから「中味はきっと、自分にとって役に立つ素晴らしいものに違いない」と信頼することです。
パアの手とは、無条件に受けいれること。「宇宙から自分にやってくるものは、すべて贈りものに違いない」と信じて、安心して無条件に受けいれることです。
そして、受けいれてみてはじめて、自分では考えつかなかったような好ましい展開が姿をあらわしはじめます。
受け取るということは、信頼するということでもあります。
流れを信頼すること、人を自分を信頼すること。
宇宙とは優しいところで、自分は愛されていて、自分を傷つけるようなものが渡されるはずはないと信じること。信じられるからこそ、安心して両手を大きく開いて、やってくるものは余すことなく受け取ってみよう、とこころを開けるのです。
自分があれこれ受け取るものを選びたい気持ちをグッとおさえて、リラックスして安らかな気持ちで、やってくる流れを全身で受けとめてみましょう。
全身パアとなって、流れに身をさらしてみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )