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気づきの日記「ただゆったりと眺めてみる」

 

私たちは自分の目にしている世界に対して、全力でかかわるように教えられてきました。

少しでも傍観者になろうものなら、「ボーっとしてる」「無関心」「やる気がない」と負のレッテルを貼られ、学校の通知表にまで書きこまれたかもしれません。

どうやらこの世界では、ものごとにアタマからつっこんでゆくことこそが、まっとうでポジティブな生き方とされているようです。

だから、すべてのことに対して意見をもっていなくてはなりません。

あなたはどう思いますか?と問われたら、すぐさま意見が言えないと「何も考えていないひと」「鈍いひと」「自分がないひと」というレッテルをはられかねません。

「別に・・・」「どうでもいいです」なんて言おうものなら、ウツ状態を疑われ精神科に連れて行かれることも・・・。

その結果、こころは逐一あれやこれやを観察し、考えつづけ、意見をのべ、アタマがいいように見せかけることに余念がありません。

けれど・・・ 考えが静かにならなければ、自分自身が失われたままになってしまいます。

なぜなら、自分とはあれこれ繰り出される考えなどではないからです。

まだ小さかった頃、もしかするとベビーカーにのせられていた頃、すべてを静かに眺めている自分がいたのを覚えているかもしれません。

「自分」とすら思っていなかった「気づき」だけの存在が、静かに世界を見ていたことを。

見えているものと、自分との違いにさえ気づいていない存在でした。

その頃はまだ、世界というものに巻きこまれていなかったのです。だから、静かでした。平和でした。意見などなく、ただ存在して、見ていました。

いまいちど、自分の見ている世界からズズっと後ろに下がったような感覚で、起こっていることからうしろへと退いてみましょう。

その手を、世界から放してみましょう。

それは、世界に対して自分からアタマをつっこみに行かないこと。

なぜなら、起こることは勝手に起こるし、そこで必要なことは全部なされるし、そしてそれは終わりを迎えます。自分のエゴや策略が、そこに参加しようとしなくとも。

そこにわざわざ、「あ〜だ、こ〜だ」のジャッジメントや、心配、不安、動揺を加えてあげる必要はないのです。

そんな調味料などなくっても、それはちゃんと整っているのです。

「あ〜だ、こ〜だ」や動揺は吸着力があり、世界の渦のなかへと自分を引きこみます。

アタマをつっこむことで、まるで脱水機のなかに自分が飛びこんだみたいになってしまいます(つまり、ホンロウされて、なにがなんだかわからない状態になり、疲弊します)。

そして、そこにある問題と完全に自分を一体化させてしまうことによって、その問題を解決できるはずだったひとがいなくなってしまうのです。

川の流れにホンロウされている小石をイメージしてみましょう。

流れのなかでぐるんぐるんもみくちゃにされて、その状態では自分が完全に失われてしまうのです。

私たちも、世のなかという流れに巻きこまれるのではなく、静かに後ろにさがってただ眺めてみることができます。

眺めつづけているうちに、もしかするともうすでに見たことのある昔のフィルムでも観ているような気分になるかもしれません。

観たことのある話はそうそう興味をひかないので、そのままほっておくうちに勝手に終わります。

ところが、「つまらない!」だの、「もっとどうにかしろ!」だの、あれこれ言ってしまうと、あっというまにウズに巻きこまれます。

自分がそこにホンロウされているちっぽけな存在に感じられるに違いありません。

それよりも、その流れの外へと出てしまいましょう。

川の外から流れを眺める、どっしりとした石になりましょう。

その石は川の流れのことなんか気にとめていないかもしれません。川は目のまえを勝手に流れていて、自分には何の影響も与えないから。

そして、石はそこには手を触れない存在だからこそ、すべてはそのままでいいことを、完全に流れてゆくことを知っているのかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

面がわれてます!(汗)

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「貴ちゃんに似た人がテレビに映ってたけど、本人?」と尋ねられ、「あらそう?! 知らないあいだに、私のクローンがなにかしていたかしら?」と笑っておりましたが、

外出した先でNHKに突如インタビューされ、どうやらそのひとこまが放送されていたようで(私は見ていないのですが)・・・見つけてしまった何人かの方々からメッセージがとどきました。

お友だちからは、「貴ちゃんに似た人が出ていたけど、そう?」と。

クライエントさんからは、「貴子先生、出てましたね!」と。

マスクで顔半分が隠れているにもかかわらず、やっぱり面はわれているのね〜〜〜(汗)。

おもしろいな〜と思ったのは、

お友だちはいつも私の顔を見ているのに「似てる人」と表現していたこと。

一方、クライエントさんは数回しかお会いしていないのに、「貴子先生を見ました!」とスッパリと断定的で疑問のかけらもないこと。

短い画像とはいえ、お友だちこそ私を認識してもよさそうなものなのに、確信がなさげなのはいったいどうしたことか?!

おそらく・・・

クライエントさんはヒプノセラピーなどのセッションで、目を閉じたまま私の声にずっと意識を向けた状態でいるので、顔かたち云々にまどわされず私の声のみにスッと反応したようなのです。

どう見えるかとか、マスクをしているかなど、まったく関係ないのでした。

お友だちの場合は、顔半分だったり、髪型がちょっと違っていたり、こんなところで登場するだろうか?とかいろいろな考えが入るのでしょうね(笑)。

このお友だちからの「問いかけ」の反応と、クライエントさんからの「断定的反応」があまりにもぱっくりと二分されていたので、とても興味深く感じたのでした。

思っている以上に、「声」というものはわたしを語っているようです。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ムッソリーニとお茶を」

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予備知識なく、行きあたりばったりに観たのですが、

ジュディ・デンチやら、マギー・スミス、シェールという、私の好きな女優さんたちの宝庫で、ちょっぴりコメディタッチなこころが優しくなるいい作品でした。

舞台は、花の都 フィレンツェ、今よりもずっと、街じゅうに芸術があふれ、それを楽しむ人たちが集っている時代です。

そこに暮らすイギリス上流階級のおばあちゃまがたと孤独な少年との絆に涙がうるうるします。やがて、イタリアとイギリスとのあいだに戦争がはじまり、おばあちゃまがたの身に危険がせまります・・・

あとで調べてみたら、監督さんは誰もが観たことのある「ロミオとジュリエット(オリビアさんバージョン)」、「ブラザー・サン  シスター・ムーン」、「エンドレス ラブ」、「チャンプ」、「トラヴィアータ」などの名作を世に送り出したフランコ・ゼフィレッリ。

じつはこれは彼の自伝的な物語で、さまざまな彼の作品のバックグラウンドとなった生い立ちを知ることができます。

街じたいが美術館といわれるフィレンツェの美しさにいだかれながら、毎日お茶や芸術をたしなむちょっと辛辣でおちゃめな英国のおばあちゃまがたの愛に包まれ、ゼフィレッリ監督の感性は豊かに育まれていったのでしょう。

母を亡くし、父に育児放棄された少年ルカ(監督自身です)。彼がフィレンツェで暮らす英国上流マダムたちによるあたたかな庇護のもと、大人になってゆく様子が描かれています。

この英国のマダムたちは、ムッソリーニ政権が樹立されるや、イタリアにおいては敵性外国人とみなされ勾留されてしまいます。しかし、優雅に暮らす権利を奪われつつも、英国上流マダムとしてのプライドは決して手放すことはないのです。

勾留先でのこと。夜になって見張りのイタリア人が点呼にやってくると、下着姿だったマダムたちは「きゃあ!」といっせいに叫び声をあげます。彼らの態度を無礼だと感じたマダムは、「ちゃんとノックして カム イン と言われたら入りなさい! 」とか、「下がるときには、グッナイ レディース と挨拶しなさい!」と教育までしちゃうのです(完全に召使い扱い)。彼らがマダムにちゃんと従っているのに笑ってしまいました。おばあちゃま、強し!

そんな不自由な状況におかれつつも、フィレンツェを愛し、優雅なティータイムやおしゃれをあきらめず、どんな状況下でも英国マダムのプライドを失うことなく、力強く、ときには向こうみずで、なんともチャーミングなおばあちゃまがたなのでした。

それぞれが寛容な気持ちと思いやりをもって、つながりあい、助け合い、どんな境遇でも冷静に、悲観的にならず、みんなで乗り切ってゆく様子は、まさに女性ならではだな〜と感じます。柔軟さや楽しんじゃう様子がとてもステキでした♡

こころがあたたかくなり、じんわり涙のでる作品でした。
(→予告を見る)

 

 

 

お誕生日会のステキな話題

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お友だちのバースデーお食事会。安心してゆっくりおしゃべりできるように個室のあるお店にしました。

入店するとき、おきまりの検温と手の除菌。お部屋は私たち二人だけだけど、テーブルの上には大きなアクリル板がどど〜んと。

安心できるありがたい対策です。が、なんせ慣れない私たち。

アクリル板ごしに向かい合って坐ると・・・ちょっとばかり銀行の窓口ちっくで、「は〜い!こちらのフォームに記入して捺印してくださいね〜」・・・なんて冗談をとばしつつ、

「さて・・・どうやって乾杯する? 上から? 横から? いや、真ん中?」「むかしあった恋愛バラエティのように、いっせいのせ!で同じになるかどうか、やってみる?」なんて(なんじゃ?!それは!)。

ついたての一枚でけっこう盛りあがれる私たち(笑)。

さらに ・・・ 私たちのお食事中の話題ときたら、

「中世の貴族の女性って、あんなに裾の長〜いドレスをズルズルひきづって、外でも、雨のなかでもおかまいなし。あれっていったいどうするの? 一回着たらドロドロボロボロじゃない?」「いいのよ!自分できれいにしないんだから!」(数日まえに観た映画で、伯爵夫人が雨のなか長〜いドレスで石畳を走りまわる姿に、美しいドレスの裾ばかりを憂いていた私なのでした・苦笑)。

そこから、「あの時代って、あんなに着飾ってステキなドレスを着ているのに、お手洗いさえなかったんだから、大変だったよね〜」的な話になり・・・、私たちが目撃した海外お手洗い事情など・・・。

あとで、「私たちのバースデー祝いの話題ときたら・・・」と苦笑いしてしまったのでした(個室だから、どんな話題でもおかまいなし!)。

でも、こんなたわいものないことでゲラゲラ笑えることこそ幸せなのかもしれませんね〜。

Mちゃん、お誕生日おめでとう♡
ますます笑顔があふれる一年となりますように!

PS 素敵な話題とともに味わったお食事は和食でした〜♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気づきの日記「信頼できないと感じるとき・・・」

 

Q: 裏切られるようなことがくりかえされて、パートナーを信頼できなくなっています。

A: 「信頼」とは、いったいどこからやってくるのでしょう?

私たちは、自分の与えた信頼に値するものを目にしたときに、信頼できたと感じます。

しかし、自分の目にすることだけをベースにして「信頼に値するか、しないか」を決めようとすると、堂々めぐりのワナにはまってしまいます。

なぜなら、目にするものは自分の「こころ」から生まれているからです。

自分でさえも気づくことができない隠された自分のこころの状態をそこに見たにもかかわらず、それに対して「好きだ!」「嫌いだ!」と自分自身で反応してしまっています。

私たちはつねに、「自分が見たいと思うもの」を確実に外側に見つづけているのです。

そしてそれを目にして、さらに確信を深めるのです。「ほうら!やっぱり!思ったとおりだわ」と・・・。でも、「やっぱり!」なのは、自分がそう決めたとおりだっただけです。ビンゴ!で当然なのです。

これを繰り返していると、自分のこころのうちに隠されている不信感はさらに強化されるだけになります。つねに、「やっぱり!」「思ったとおり!」を目にすることになるからです。

「信頼できるものを目にしたい」と思うときには、相手に変わってほしいと望むのではなく、まずその源である自分の「こころ」に着手する必要があります。

なぜなら、こころのなかにある「対象についての意図」が間違っており、それをそのまま見たからです。

「見たいものを見る」のなら ・・・ まず「こころ」において、「信頼できるものしか私の目には映らない」「私が見るのは信頼だけだ」と決めている必要があったのです。

違うものが見えてしまったのなら、そう決めてはいなかったのだ、ということに気づかなくてはなりません。

私たちのこころといういうものは、野放しにしておけば「罪を見つけたい」という無意識の願望のままに見ることになります。そして、必ずそれを見つけます。

なぜなら、「罪を見つけること」で自分のちっぽけさ、足りなさを帳消しにすることができると信じているからです。

私よりももっとダメな人がいたじゃない!・・・ってことは、私はぜんぜん大丈夫なのだわ!と。

誰かが大きく間違っていれば、自分はかなり正しく感じられる、というわけです。

けれども、「罪を見る」ことを容認してしまうと、「自分は正しくない存在だ」「自分は何かがおかしい」という自分に対する疑いを本当のこととして受け入れてしまう、という大きな間違いをおかすことになります。

だから、人のなかに罪を見つけることは、結局は自分を小さく、価値のない存在におとしめて傷つけてしまうことになるのです。

誰かのなかに見える不十分さや間違いに対しても、「これは自分が見たいものを見ているのだ」「けれども、これを信じることで、私は自分を小さき者と認めてしまい、本当の自分が失われる」「だから、私はこの人の完全さだけを見たい!」と、きっぱりとスルーする必要があります。

断固として「私は罪のように見えるものには目をむけることなく、信頼だけを目にするのだ」と決めるとき、自分に対してついに正しい考えをもてたことになるのです。

人を貶めることで、自分の足りなさを埋めることをしなくてもよい完全な存在としての自分をついに認めたことになるからです。

すべてのもののなかに完全さだけを目にしたい、と決めることは、じつは自分自身に対して「正しい自分を受け入れます!」と宣言したことになります。

そして、「完全さだけを見たい」と決めるとき、ちゃんとそういう世界がそこにあることに気づきはじめます。

すると、「あら?この人、変わった?」と相手を感じるかもしれません。が、じつは自分のこころこそが変わったのですね。

だから ・・・ 裏切られた、信じることができないという状況に直面したら ・・・ 自分でも気づくことができなかった自分の無意識の思いが外側にあらわれたことに気づきましょう。

そして、今まで決して手放すことができなかったこころの間違いを手放すための癒しの機会を与えられたのだと認め、目にしたものにただ反応するのではなく、こころのなかの不具合を正す機会にすることができます。

信じることができずにいたのは、自分が罪や間違いを見たいをいう願望を密かに抱いていたからであって、それはもうつづけたくないと決めることで、自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にその不信感や罪を信じる気持ちを渡してしまいましょう。

そして、高い自己に自分の完全性のなかで相手を見られるように助けてもらいましょう。

誰もがみんな、こころの不具合を抱えています。

相手や自分の間違いさがしに集中して責めるのではなく、ただ自分のこころを修正することだけを受け入れましょう。

そして、自分ひとりでは癒すことができずにいたこころの不具合を、この機会にこそすっかり癒してしまいましょう。

 

 

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気づきの日記「こころの怖れをごまかさない」

 

外側の世界に脅威を感じて「自分は無力だ」と自覚するとき、私たちの体はときとして脂肪をたくさん蓄えることでそれをヨロイにして自分を守ろうとします。「分厚い肉じゅばんがかよわい私を守ってくれる」というように。

こころも同じように、「何か」を使って自分を恐れから守ろうとします。

こころは恐れていたり、傷つくと感じるときには、罪悪感を使おうとします。

エゴのこころは、罪悪感こそがこころをマヒさせることができると感じているので、鎮痛剤にはもってこいだと信じているのです。

つまり、怖れという脅威を感じたら、なんらかの罪悪感でこころをまぎらわせて、その怖れから逃れられたと感じようとするのです。(でもじつは、怖れと罪悪感のダブルの嫌悪感になっていることに気づきません)。

さらに、その効果が十分でないと感じれば、罪悪感をどんどん増量してこころを完全に自失状態にします。

これは、体に痛みがあるときに他の場所をつねるとその痛みが消えるように感じるのと同じことです。本当は痛みが増えているのに、それに気づけなくなります。

脂肪をつけて自分を守るのも、罪悪感を増幅させて怖れをマヒさせるのも、まったく解決法ではありませんが、エゴはそれで救われたと勘違いします。

正しい解決策は、ちゃんと直面することです。

対処療法(症状だけに対処すること)でしのぐのではなく、ちゃんと原因にアプローチすることが必要です。

「自分は、外の世界に対して脅威を感じている」=「自分は小さいと思っている」
「自分は、ものごとに傷つけられるのではないか、攻撃されるのではないかと怖がっている」=「自分は力不足だと感じている」

「小さい」「力不足だ」と自分を弱きものと自覚していることこそがコワさを生み出している、ということを認めて、

「私は弱い」という想いを高い自己であるハイヤーセルフに渡してしまいましょう。

ハイヤーセルフにさし出すというのは、パソコンでいらないファイルをゴミ箱にいれて、消去のボタンを押して、ゴミ箱をカラにするのと同じことです。

完全さしか知らないハイヤーセルフは、「自分は弱い」「不足している」という思考がさし出されると、すぐさま消去してくれます。

こころのなかの怖れに対して何重にも絆創膏を貼ったとしても、それを癒すことはできません。恐れの原因が何なのかに直面して、それを取り除くために、ゴミ箱に入れて消去しましょう。

ただ消去されさえすれば、あとはなにも必要ありません。

正常に機能するために必要なソフトウェアはすでに搭載ずみです。ゴミがたまっていなければ、ただ正常に機能してくれるのです。

「十分さ」であり「安らかさ」であり「愛」そのものであるソフトウェアが機能できるように、ゴミをみきわめて消去してしまいましょう。

 

 

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すんでのところで・・・

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連日の35℃ごえに、アタマがもうろう・・・。

もうこれ以上はホントにムリだわ〜〜!!・・・ と白旗をあげるすんでのところで、

ようやく雨がふってくれて、なんとか息をふきかえすことができました(東京は7月に30日間も雨つづきだったのに、8月はからっからでしたものね)。

2℃気温が下がるだけでも、ずいぶんと体はラクです。ホントはまだじゅうぶんに暑いのですが、アメとムチ効果でもうマヒしています。

きょうは、出先のスタバで思わずクーリング タイム。

ピーチフラペチーノにシトラスの果肉をカスタマイズして、甘くて、すっぱ〜い!

あ〜、フラペチーノがこんなにおいしく感じた夏はありません。極楽〜〜♡

東京から西側は、まだまだ35℃ごえですね。

でも、確実に朝夕の空気は夏の終わりから秋へと変わりつつあるように感じます。

体に気をつけて、もうしばらく頑張りましょうね〜!

 

 

 

気づきの日記「恐れに囚われがちです・・・」

 

なにかを「怖がる、怯える、恐れる」とき ・・・ それは出来事かもしれないし、人かもしれないし、未来やなにかの予感かもしれませんが ・・・ それを怖がっているとき、私たちはそれを崇拝し敬ってしまっています。

崇拝? 敬う? ・・・ ピンとこないかもしれません。

それが自分よりもずっと力があり、上位に位置し、それに支配されているように感じるので、コワい対象はつねに自分の支配者であり、神となってしまいます。

だから、盲従し、崇拝しているのです。そして、エネルギーも、魂も、意志も、明け渡してしまいます。

となれば当然、自分の正体について忘れてしまうので、自分が誰であるのかわからなくなってしまいます。そして、なにものでもない無力な存在だと決めてしまうのです。それが恐ろしさに拍車をかけます。

そうして恐れる対象にこころを奪われるうちに、自分のなかにあった「すべてを解決するための力」を自ら放棄してしまいます。

つまり、「恐れる」ということは、自分を記憶喪失に陥れ、自分の正体も、自分の血統も、自分の生まれも、自分の宝も、すべて忘れ去ってしまうこと。恐れに身をささげ、自分の尊さも、自分の力も捨て去ることなのです。

これが「恐れる」ということの弊害です。

「恐れている」とき、じつは「恐れを感じている対象」がコワいのではありません。

自分の感情こそがコワいのです。自分が誰であるのかを忘れてしまったゆえ、キョーフがつのります。

たとえば、残酷なホラー映画を観ているとき、ほんとうは誰も傷ついてはいないし、死んでもいません。たんに画像が流れています。

画像だけで実際なにも起こっていなくても、十分にコワいのです。それは、画像がコワいというよりは、それに触発されて引き出されてきた自分の感情がコワいからです。

ためこまれていた自分の感情がそれに反応して、こころの表面に浮上してきてコワさを感じさせているのです。

私たちが日常に感じる怖れもこれとまったく同じです。出来事に対してコワがっているのではありません。飛びだしてきた感情がコワいのです。

出来事というものは、冷静になって、いま目のまえに提示されていることにひとつひとつ向きあっていけば、「対処すべき事柄」として自然に解決に導かれてゆきます。そこにいちいち、恐れや動揺をくっつける必要はないのです。

過去の遺物である抑圧されていた恐れがこころの表面に飛びだしてきたとき、まるでこころのなかで警報機がじゃんじゃん鳴り響いているように感じます。

そうすると、意識は「目にしている対象はキケンだ!回避せよ!」と解釈します。そして、私たちはまたたくまにフリーズして、アタマが真っ白なり、目のまえにあるものはキケンだと判断し、闘おうとしてしまうのです。

でも・・・ゴーストはそこにはいません。

是非、「恐れ」と「出来事」はベツモノだと覚えておきましょう。

感じている恐れは恐れとして、感じて受け入れることで処理をすることができます。受けとめてもらえた感情は、ただ消え去ってゆくことができるのです。

そして、クリアなこころで出来事でむきあえば、恐れが占拠していた空間がお留守になるので、そこに自分の叡智がよみがえります。

その正しいこころから湧きでてくるインスピレーションに導いてもらうことができるのです☆

PS そもそも、ほんとうところ、恐れを感じているのは「自分」などではありません。

「私は怖い」と叫んでいるその恐れを客観的に観察できるのなら、自分と恐れて叫んでいるものの間にはなんらかの距離があるということです。恐れは自分から離れて存在しているようです。

つまり、恐れているモノ VS 自分。自分は恐れているものと向きあっている存在です。

ならいったい、誰が恐れているのでしょうか? ・・・ ただ「そんな感じ」がそこにあるだけなのかもしれません。

 

 

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気づきの日記「いつだって人間関係は癒しのため」

 

先日観た「ワン・モア・タイム」というコメディ映画は、ロバート・ダウニーJr. 扮する青年が女友達の家を初めて訪れたとき、奇妙な記憶にみまわれはじめます。

「あれ?この家はなじみがあるぞ!」「彼女のお母さんに目が釘づけ!」、さらにさまざま場面が目のまえにちらつきはじめ・・・ 本人も動揺しまくり。

じつは、その青年は前世で若くして亡くなっており、女友達のお母さんがそのときの奥さんだったのです(つまり、女友達は自分の娘で、その家は自分の住んでいた家)。

その人生であまりに奥さんとラヴラヴだったためにこころ残りが大きく、高速で生まれかわってきて、そしてその記憶が甦ってしまった、というわけです。

これを観ていて、あまりにも前世の記憶がはっきりしすぎているのも人生ややこしくなるな〜と感じたのでした。

なんせ、女友達とそのお母さんの両方とぬきさしならぬ関係なのですから、どっちをどうしたらいいものか?! それに、こんなふうに見知らぬ青年が突如あらわれて「ぼくだよ!会いたかった!」と迫られても、「サギですかっ!?」としか思えません。

ほどよく忘れてから再びやってくるのが正解なのだと感じます(リンポチェになる子どもだって、まるごと前世を覚えているわけではなく愛用品選びからはじまりますものね)。

「ほとよく忘れて」というのは、関係性やストーリーのあれこれは忘れてしまっても、「感情」だけはしっかり忘れていないということです。

たとえば、初対面なのになにかザワザワ不快に感じるとか、逆にまったく知らないはずなのに全部知っているような親しみを感じるとか ・・・ よくあることです。

たしかに私たちは、うまくいかない人に出会うと「前世でなにかあったんじゃないの?」とか、ひと目で夢中になってしまった人には「私のこころが覚えているのよ」なんて、ごくふつ〜に言ったりします。

アタマが忘れていても、感情がすべてを教えてくれる、というわけです。

それは、無意識のなかにあるなんらかの記憶がざわめいて感情の信号のみを送ってくるから。その下にはたしかに、なんらかのストーリーがあるようです。

そして、その感情の記憶が、今回の癒しのレッスンの道しるべになってくれるのです。

もし全部のストーリーを覚えていたら、「きみが前世であんなことをしたから!」「いいえ!あなたこそ!」なんて、ストーリーにこだわるあまり過去の蒸しかえしになってしまいますものね。

ニュートラルではない「感情」の波だち(嫌悪、怒り、執着、しがみつき・・・)は、自分には乗りこえるべきハードルがあることを教えてくれます。その感情を癒して、ただ愛になれるようにと。

理由はわからないけれど「嫌悪感」を感じる場合 → 攻撃したい、拒絶したい
なぜだかこころを奪われて「執着」を感じる場合 → 依存したい、しがみつきたい

そこには、自分に対する「弱さ」や「足りなさ」という誤解が潜んでいるようです。

いずれにしても、「人間関係」というものはいつもレッスンです。

それは、過去の「やった」「やられた」のくりかえしや、「弱い」「足りない」の誤解を乗りこえて、相手の存在をとおして真の自分を思い出すためのもの。

過去の多くの人生のなかでは、嫌悪する人、執着する人に対して、注意を注ぎすぎるあまりに自分のことががお留守になり、自分自身を見失ってきたかもしれません。

けれど、こんどこそ、その人たちをとおして自分を思い出すために出会います。

どうしたら思い出せる??

人という存在は誰であっても自分を映しだす鏡の役割をしてくれるものです。私たちのこころは外を見て、自分という存在の価値を決めているからです。

自分の完全さを知りたい、自分の愛を知りたい、自分の安らぎを知りたい、自分の真の姿を知りたいと思ったら、

彼らという鏡のなかに、そのすべてを見たい、見ようと決めて、見ること。

鏡であるその人のなかに見えてしまったのだったら、それは自分のなかにかならずあるのだ!とこころは受け入れるからです。映っているのだから、まぎれもなく私は真の自分を見た!と。

そうして、そのように見てもらえた人たちも、「え?私のことが完全に見えたの?愛に見えたの?・・・」「だとしたら、それが私なのね!」とそれを受けとることができるようになるのです。

そして、まったく同じ性質をもつもの同士(あわせ鏡)として上下やランクがなくなり、違いがなければ「嫌悪」や「執着」という見方も癒されてゆきます。

全部が同じになったら、全部がひとつに見えてしまうのでしょう。

出会ったのであったら、こんどこそ手をとりあって真の私たちの完全さに目覚められますように! 愛すべきあわせ鏡に愛をおくりましょう♡

 

 

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