気づきの日記「やめられないんです♪被害者は!」その3

その2より

どうやら、わたしたちには「被害者」をやめられないという哀しいサガがあるようです。(ハイ!かく言うわたくしも「被害者」楽しすぎて(?)当分やめる予定はありません。苦笑・・・トホホ。)

でも「被害者」になることとは、「可哀想なわたしでいることを自ら許す」ということなので、結局は自分が欲しかったものを遠ざけてしまうという悲しい結末に行きつきます。

前回も書いたように自分の人生に問題が勃発するのは、自分の深い意識(潜在意識)にためこんできたネガティブなエネルギーがパンパンの飽和状態になっいる時です。自分のことを怖れに満ちた価値のない愛されないやつだと信じていて、そんな気持ちを抱えているのには耐えきれず、とりあえず外へ廃棄するのが目的なのです。そのうえ、その目の前の問題は、たんに「汚物処理」のためのダミーの問題だときているし・・・。

そのときに、できるだけ他人にも自分にも“自分が汚物をまき散らした本人”だとバレないようにしなければなりません。だから被害者という煙幕をはって、「あなたのせいよ〜」と自分のモノを相手になすりつけちゃいます。それでも、深い部分では自分を嫌っているので、結局は自分を傷つけ罰する顛末へと行きつきます。

そして被害者になれば、ふがいないと思っている自分に対して自分の手を汚さずにおしおきができる・・・という、うまくいっているのかいってないのか、まったく摩訶不思議なシステムですね。

そして、こんなに複雑なことをしているので、自分さえもそのカラクリに騙されちゃう。

だから、被害者意識が出てきたときにはご用心。これにひっかかっちゃうと、自分のためこんでいた痛みのために現在の関係やら仕事やらを破壊しかねません。

しかし、こんな問題が起きているときだからこそ、わたしたちは自分の「心のパワー」に気がつかなければなりません。わたしたちのココロには、常に新しいものを「創り出す」という強力なパワーがあります。

しかし、それも諸刃の剣。自分が怖れにはまっていれば、恐ろしい未来を自分の眼前に繰り出してしまうということになりません。自分がそのとき選びとっているものしか創り出せないのですね。

だから、ここはハタ・・・と立ち止まって、ちょっと頭を切り替える必要があります。恐ろしいクリエイションをストップさせるために、モードの切り替えが必要なのです。

問題が起るとどうしても、過去の経験やら、今までの流れやら、すでに起ったことやら、「過去」のことをもとにして「未来」を予測しようとしてしまいがちです。しかし、アインシュタインの言葉によると「問題というのは、問題を作ったときと同じ考えのレベルでは解決はできない」のです。

ということは、今までの流れから出てくる結果は、今までの流れの延長にすぎません。「ああなって、こうなって」とだいたい予測がつくA子さんがもっとも怖れている流れです。

しかし、忘れてはならないのは、いつだって「未来は自分で選べる」し「ココロが未来を創る」という大切な事実。

まず、牛さんがくちゃくちゃと食べたものを反芻するように「つらかった出来事をグルグル反芻しつつ、こうなったら次の未来はこうだよね」と予測するのをやめなければなりません。このままだと、だいたい次に起ることは予想がつきます。被害者には被害者なりの人生が待っています。自分が怖れていることがもれなく起ってくるでしょう。

グルグル反芻すれば、それだけたくさんのエネルギーがそこに集中して、その怖れをどんどん現実のものにしてしまいます。

問題が起って「被害者」になりそうになったら、あるいはネガティブなことをグルグル反芻しそうになったら、

1、【立ち止まる】 まずは立ち止まって「あ、被害者やってた」「また、同じ怖れをグルグルしてたな」と気がつきます。

2、【キャンセルする】 そして新しい流れを選ぶためには、今までの流れがどうであれ、「ハイッ!ここでいったんキャンセル! 」と今までの流れを放棄します。つまり、怖れの自動意味づけシステムが勝手に起動し、作動しはじめるのを阻止します。

3、【何を体験したいのかを明確にする】 いったん止まったら、そこから自分がなにを未来に望むのかを明確にします。「ああ、嫉妬や怖れや怒りではなくって、愛と平和がほしい、信頼がほしい」というように未来の体験に目を向けます。

4、【新しい意味づけをする】 そうしたら、「今、ここから」その新しい目線でものごとを眺めるようにします。自動意味づけ装置のソフトを怖れから愛・平和の目線に変えてあげるのです。つまり、起ることに対して戦々恐々とした意味づけをしてたのを、寛大で余裕な「いつでも愛し愛されているわたし」「幸せであたりまえのわたし」からの意味づけに変更します。

すると、「彼の帰りが遅い=デートだ」という怖れの意味づけが、「彼の帰りが遅い=仕事大変だね、疲れて帰ってくるね、ねぎらおう」とやさしい目線になります。だんなさまが夜遅く帰ってきたときに、疑心暗鬼な怒りの目線で見られるのと、疲れが増すし、うんざりするでしょう。

でも、ほんとうにデートだったらどうなんですか?というご意見がありそうですね。

もちろんそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、「今ここから」「自分で」未来を選びます。そして創り出します。わたしたちは自分が意味づけをしたとおりに未来を創りあげ、体験してゆくのです。

だから、今、何が起っていようとも、つねに『ここから』スタートすることが大切です。早く言ってしまえば、「過去はどうでもいい」んです。それよりも、いつも今、ここから何を体験したいかを選びとってゆけるのは、常に自分自身なのですね。

怖れを持っていたら、怖れの証拠ばかりが目のまえに目白押しになります。誰かに怒りをもつと、その日一日、怒りたいことばかりが押し寄せます。でも、イイコトがあってハッピーな日には、なぜだか誰もが優しくしてくれるように感じます。

だったら、だったら、ためしに「やさしい目線」を持ってみる、「思いやりのあるまなざし」で解釈してみる・・・・すると、きっと自分の未来の中にやさしくさや思いやりの証拠がいっぱい見つかることと思います。

ホントに世界は、自分のココロのあわせ鏡・・・。さし出したものしか見られない、もらえない・・・。

わたしたちのココロはほっておくと、必ずや「被害者ごっこ」をはじめてしまいます。そのときは可哀想なわたしに酔っていられるかもしれませんが、あとでかならず「孤独」や「自己嫌悪」「罪悪感」のツケがまわってきます。「ごっご」遊びで傷つくのははやめて、ちょっと違う新しいやり方、「今、ここから、未来を選びなおす」という習慣を作ってみてくださいね。

どんな過去のストーリーがあってもOK!それでも、いつだって「今、ここ」に選択のチャンスがあるのです。

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

ふくふく

雨つづきですね。

すっかり淡い緑におおわれたサクラ並木も、あいにくのお天気にけむって見えます。

そんなサクラ並木のはずれがほのかなピンク色に・・・。

八重桜のファミリーでした。ふくふくと可愛い花をたくさんつけていましたよ。

12-04-22 やめられないんです♪被害者は! その2

しばし時間があいてしまい、何を書いているのか忘れちゃいました・・・汗。(^^; 
気を取りなおして・・・!

(その1より)

だんなさんの浮気が心配で彼の携帯を見てしまったA子さん。彼女の二つめの NG とは何でしょうか?

それは、起っていることを「あるがまま」に見ていない、ということです。

「ものごとをあるがままに知覚しない」というのは日頃誰もがやっている過ちで、じつは苦しみをつくる最大の原因となってしまいます。

この場合、A子さんに実際に起きている事実というのは・・・「彼が知らない女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」。しかし、わたしたちには「過去の経験の蓄積」というものがあり、それをもとにして現在起こっているコトに自動的に意味づけをし、今何が起きているのかを判断しようとします。

ここで確実に起きていることとは、先ほども書いたように「女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」以上です。そして、これらにはポジティブな意味もネガティブな意味もありません。自分以外の人とゴハンを食べることはあるだろうし、結婚をしていてもチョコをもらう男性はたくさんいます。異性のメル友がいる方も多い昨今です。

しかし、このことでA子さんの怖れが暴走してしまう理由は・・・

もともとわたしたちのココロは「ものごとをあるがまま」に知覚せずに自分で意味づけをするのが大好きだと書きましたが、何かを見れば、「おお、それってこういうことね!」、何かを言われれば「そうそう、それってこういう意味に違いない」とすかさず自分なりの解釈をくっつけて一件落着します。しかし、残念ながらそれは普遍的な解釈ではなくって、あくまでも「自分個人」の考えと見聞きした情報からくる意味づけです。(世の雑誌、TV番組では、さきほどあげた兆候があるのであれば、それは浮気です!と断定するかもしれません。しかし、それが普遍的な真実でもないのですよね。)

このよく働く自動意味づけシステムを稼働させているココロは、自分のココロの中に被害者願望があると、ちゃんとそれにのっとった意味づけをしてくれちゃいます。つまり、メールしてる?ゴハン食べた?チョコもらってる?+A子さん被害者意識、怖れ = ひどい、TVでも言っていたように浮気に違いない、もうダメだわ、別れようっていつきりだされるのかしら?わたしといるのにウンザリしてるんでしょ?・・・と。

これは被害者として怖れから意味づけしちゃったために、怖れの悪循環にはまり、その怖れの妄想はどこまでも延々と続くわけです。

わたしたちは、この怖れというものはこの事態が起きているからこそ感じている感情だ、と思っていますが・・・おもしろいことにそれは違うのですね。

じつは、この怖れの感情は「今現在」のものではありません!

ですから、この場合も「メール」etc は、本当の不安の原因ではありません。本当の不安の原因は、もっとココロの深いところからやってきます。それはわたしたちが潜在意識の奥底に永〜いあいだ蓄積し隠しもってきたネガティブな感情、誰の心の中にも潜んでいるココロの闇にある怖れからやってくるのです。もちろんココロの闇ですから、それを自覚していることはありません。

しかし、それをいよいよもって持て余しそうになると、それをガス抜きするために「他の口実」を自分でこしらえて不安を感じたり被害者になって、「ほれっ、これこれ!これが原因でわたしは怖いのよ!あなたのせいよ!どうしてくれるの?」と、行き場のなかった心の底の闇を「かわいそうなわたし」を演じつつようやっと発散させることができるというわけです。

だから、今現在起っていることは、じつはダミーの問題。心の底に潜む、怖れや劣等感のガス抜きの道具なのです。

抱えきれなくなった感情の廃棄物を処理するために、手っ取り早く不安を感じそうな出来事を自らのココロが創作して、廃棄物処理を企てていたわけです。そして、自分を被害者にしたてあげておけば、自分が創ったとは思わずにすみます。

そんなダミーの怖れや怒りにひっかかって、現実のパートナーシップがめちゃくちゃになってしまってはたまりません。だって、怖れを解放するためには、ほんとうは他のどんな出来事でもよかったわけですから。

そしてA子さんがしてしまっているように、彼を無言(しかし態度)で責めて彼に罪悪感を抱かせようとしたり、自分がこてこての被害者「かわいそうなわたし」になって彼に謝らせようとしたり、ついにはこのことによってA子さんらしさも失ってゆきます。そして、おそらく彼も失いかねません。

さあ、大変!どうやって切り抜けたらよいのでしょう?

(やたら長くなっちゃったので、その3へ続きます!

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気づきの日記「やめられないんです♪被害者は!」その2

しばし時間があいてしまい、何を書いているのか忘れちゃいました・・・汗。(^^;  
気を取りなおして・・・!

(その1より)

だんなさんの浮気が心配で彼の携帯を見てしまったA子さん。彼女の二つめの NG とは何でしょうか?

それは、起っていることを「あるがまま」に見ていない、ということです。

「ものごとをあるがままに知覚しない」というのは日頃誰もがやっている過ちで、じつは苦しみをつくる最大の原因となってしまいます。

この場合、A子さんに実際に起きている事実というのは・・・「彼が知らない女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」。しかし、わたしたちには「過去の経験の蓄積」というものがあり、それをもとにして現在起こっているコトに自動的に意味づけをし、今何が起きているのかを判断しようとします。

ここで確実に起きていることとは、先ほども書いたように「女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」以上です。そして、これらにはポジティブな意味もネガティブな意味もありません。自分以外の人とゴハンを食べることはあるだろうし、結婚をしていてもチョコをもらう男性はたくさんいます。異性のメル友がいる方も多い昨今です。

しかし、このことでA子さんの怖れが暴走してしまう理由は・・・

もともとわたしたちのココロは「ものごとをあるがまま」に知覚せずに自分で意味づけをするのが大好きだと書きましたが、何かを見れば、「おお、それってこういうことね!」、何かを言われれば「そうそう、それってこういう意味に違いない」とすかさず自分なりの解釈をくっつけて一件落着します。しかし、残念ながらそれは普遍的な解釈ではなくって、あくまでも「自分個人」の考えと見聞きした情報からくる意味づけです。(世の雑誌、TV番組では、さきほどあげた兆候があるのであれば、それは浮気です!と断定するかもしれません。しかし、それが普遍的な真実でもないのですよね。)

このよく働く自動意味づけシステムを稼働させているココロは、自分のココロの中に被害者願望があると、ちゃんとそれにのっとった意味づけをしてくれちゃいます。つまり、メールしてる?ゴハン食べた?チョコもらってる?+A子さん被害者意識、怖れ = ひどい、TVでも言っていたように浮気に違いない、もうダメだわ、別れようっていつきりだされるのかしら?わたしといるのにウンザリしてるんでしょ?・・・と。

これは被害者として怖れから意味づけしちゃったために、怖れの悪循環にはまり、その怖れの妄想はどこまでも延々と続くわけです。

わたしたちは、この怖れというものはこの事態が起きているからこそ感じている感情だ、と思っていますが・・・おもしろいことにそれは違うのですね。

じつは、この怖れの感情は「今現在」のものではありません!

ですから、この場合も「メール」etc は、本当の不安の原因ではありません。本当の不安の原因は、もっとココロの深いところからやってきます。それはわたしたちが潜在意識の奥底に永〜いあいだ蓄積し隠しもってきたネガティブな感情、誰の心の中にも潜んでいるココロの闇にある怖れからやってくるのです。もちろんココロの闇ですから、それを自覚していることはありません。

しかし、それをいよいよもって持て余しそうになると、それをガス抜きするために「他の口実」を自分でこしらえて不安を感じたり被害者になって、「ほれっ、これこれ!これが原因でわたしは怖いのよ!あなたのせいよ!どうしてくれるの?」と、行き場のなかった心の底の闇を「かわいそうなわたし」を演じつつようやっと発散させることができるというわけです。

だから、今現在起っていることは、じつはダミーの問題。心の底に潜む、怖れや劣等感のガス抜きの道具なのです。

抱えきれなくなった感情の廃棄物を処理するために、手っ取り早く不安を感じそうな出来事を自らのココロが創作して、廃棄物処理を企てていたわけです。そして、自分を被害者にしたてあげておけば、自分が創ったとは思わずにすみます。

そんなダミーの怖れや怒りにひっかかって、現実のパートナーシップがめちゃくちゃになってしまってはたまりません。だって、怖れを解放するためには、ほんとうは他のどんな出来事でもよかったわけですから。

そしてA子さんがしてしまっているように、彼を無言(しかし態度)で責めて彼に罪悪感を抱かせようとしたり、自分がこてこての被害者「かわいそうなわたし」になって彼に謝らせようとしたり、ついにはこのことによってA子さんらしさも失ってゆきます。そして、おそらく彼も失いかねません。

さあ、大変!どうやって切り抜けたらよいのでしょう?

(やたら長くなっちゃったので、その3へ続きます!

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はしごというよりは・・・

雲の切れ間からいく筋かの光が地上にさしこむ様子を「天使のはしご」とよんだりします。

この一本の光は、

「はしご」というよりは、さしずめ「天使のエスカレーター」という感じでしょうか?

天使さんでも、やっぱり昨今は「はしご」ははやらない?!(笑)

(新幹線車窓より那須塩原あたり)

12-04-16 やめられないんです♪被害者は! その1

この地球に住むわたしたちは、ホント「被害者」になるのがだ〜い好きな生き物のようです。

世界中どこでも、「被害者」であるかわいそうな自分を守るために争い、戦い、略奪し、なにか不都合があれば即座に誰かのせいだと思おうとします。国が悪い、環境が悪い、政治家が悪い、親が悪い、やつらが悪い・・・と。もはや「被害者」ということに対して中毒症状。やめたくってもやめられません。しかも、そうなっていることにすら気がつかないのです。

わたしもこんな経験がありました。ある海外のセミナーで「潜在意識を浄化する」ワークに日々を費やし、自分の中のかわいそうなわたしや被害者意識をクリアにすることに専念していました。その帰路の飛行機でうとうととまどろんでいると、突如「ぜったい、ぜったい、ぜ〜ったい、何が何でもぜったいに被害者でいてやる〜〜〜!!」という声が自分の心の中におどろおどろしく響き渡ったかと思うと、その直後から飛行機が尋常ではない恐ろしい揺れ方をしはじめたのです。もともと心には山をも動かすパワーがあります。この場合、悪くしたらわたしは自分のエゴ(被害者意識)にそれを抹殺しようとしたことによって殺されかねない状況だったのです(幸い、飛行機は落ちずにすみました)。これはエゴのパワーのすごさを感じた瞬間でもありました。(と、いうわけで、わたしのエゴはいまだご健在でありますが・・・。)

でもね、被害者でいることはエゴにとっては利益があってやめられない楽しい習慣かもしれません(病弱なわたしに母はやさしくしてくれる、失業したわたしに彼は同情してくれる・・・など、自分を弱く感じれば感じるほど、被害者意識が強くなります)。しかし、被害者意識は百害あって一利なし。自分の首をしめることになり、また自分の欲しいものを破壊してしまうことにもなりかねません。

さて、きょうはそんな誰もが大好きな被害者をどうしてもやっちゃうA子さんのお話。

A子さんは夫婦問題でセラピーにいらしています。

以前からだんなさまとの間に問題がなかったわけではないのですが、彼の携帯をのぞき見してしまったところから、A子さんの心のバランスが大きく崩れることとなりました。

「なんかあやしいぞ!」と思って携帯をのぞいてしまったら、案の定、思ったとおりの結果が・・・。

「昨日は、ごちそうさま。○○さんはお話し上手でホント楽しかったです。また連れて行ってくださいね〜」というデートをしたらしいメール。あるいは、「心ばかりですが、バレンタインのチョコレートで〜す」というプレゼントをもらったようなメールまで。

彼には携帯を見てしまったことは話していませんが、それ以降、彼の態度がそわそわしていると「彼女からのメールを待っているの?」、あるいは「メールをしたいの?」と憶測したり、彼の帰りが遅いと「ああ、きょうは彼女とデートしてきたのね」と落ち込んだり。また、だんなさまの機嫌がよければよいで、「ふうん・・・うまくいってるんだ・・・」と落胆し、機嫌が悪ければ「どうせ、わたしといたくないのでしょ」と悲観的になります。

そして不安ばかりがふくらみ、何も手につかず、ゴハンも喉をとおらず。そしてだんなさまに対しては、ついつい皮肉っぽかったり意地悪な言葉をなげかけるか、機嫌をとって媚びるような態度をとってしまうそうです。

そこで、A子さんに聞いてみました。「もし、ほんとうに浮気していたらどうしますか?別れますか?」彼女の答えは「その過程はどうでもいいんです。それよりも、また仲良く平和に信頼しあって暮らしたい」。

さてさて、彼女の生活にはほんとうに平和や信頼がないのでしょうか?彼女が言うように、平和や信頼を台無しにしたのはほんとうに彼なのでしょうか?

まず、メールを見ちゃったことは、一つめの NG です。

人にはそれぞれの境界線というものがあります。私の世界と彼の世界は同じではありません。結婚という形態をとっていようとも、自分が生きなければならないのは自分の現実、自分の境界線の中であって、人の境界線に踏み込んだり、その中のことをあれやこれやコントロールしようとすると、必ず無力感を感じるし、ストレスで苦しむことになります。

人の境界線をむやみにおかしているときは、実は自分の境界線も大切にしていません。自分と人が曖昧になっているごちゃまぜ状態です。彼がこう感じているから、わたしもこう感じなくては。彼がこう反応しているから、わたしも同じように反応しよう。どんどん自分がなくなって、依存的になってゆきます。自分が誰だかわからなくなります

相手の境界線に入っているときには、「あなたは、わたしが思うようにふるまうべきである」という「べき」ルールがあります。しかし、いくら心の中で「あなたはわたしの思うとおりにふるまうべきである」と叫んでも、結局は人はふるまいたいようにしかふるまいません。人は変えられないのです。「べきだ」は現実に起っていることとはあわないので、もれなく葛藤を感じるハメになってしまいます。

そもそも、メールを見ていなければ、A子さんの心には何も起っていません。平和です。境界線をおかしてしまったことで、A子さんは自ら自分の心の平和を台無しにしてしまったと言えます。

「え?でも彼が浮気してても許すの?」というご質問がきそうですね。

これは二人の間にメールということが介入して問題をおこしているように見えますが、そもそもこれはそれ以前の問題なのです。これはA子さんとだんなさまとの基本的な信頼関係の状態がたまたまメールという形で表面化してきました。A子さんが自分がほしい「信頼関係」を彼に対して持つ努力をしていたら、メールをのぞくことはなかったでしょう。メールはその信頼関係が十分でないところを露呈したのです。彼を信頼できないと思っているA子さんは、じつは自分が信頼できない人なのですね(はい、いつだって相手に見えるものは、自分のもの!)。なので、メール事件が起ろうが、起るまいが、じつは遅かれ早かれ同じような彼との「信頼関係」に関する問題が勃発したことは確かなのです。

そしてA子さんの二つめの NG は・・・

(その2に続く)

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気づきの日記「やめられないんです♪被害者は!」その1

この地球に住むわたしたちは、ホント「被害者」になるのがだ〜い好きな生き物のようです。

世界中どこでも、「被害者」であるかわいそうな自分を守るために争い、戦い、略奪し、なにか不都合があれば即座に誰かのせいだと思おうとします。国が悪い、環境が悪い、政治家が悪い、親が悪い、やつらが悪い・・・と。もはや「被害者」ということに対して中毒症状。やめたくってもやめられません。しかも、そうなっていることにすら気がつかないのです。

わたしもこんな経験がありました。ある海外のセミナーで「潜在意識を浄化する」ワークに日々を費やし、自分の中のかわいそうなわたしや被害者意識をクリアにすることに専念していました。その帰路の飛行機でうとうととまどろんでいると、突如「ぜったい、ぜったい、ぜ〜ったい、何が何でもぜったいに被害者でいてやる〜〜〜!!」という声が自分の心の中におどろおどろしく響き渡ったかと思うと、その直後から飛行機が尋常ではない恐ろしい揺れ方をしはじめたのです。もともと心には山をも動かすパワーがあります。この場合、悪くしたらわたしは自分のエゴ(被害者意識)にそれを抹殺しようとしたことによって殺されかねない状況だったのです(幸い、飛行機は落ちずにすみました)。これはエゴのパワーのすごさを感じた瞬間でもありました。(と、いうわけで、わたしのエゴはいまだご健在でありますが・・・。)

でもね、被害者でいることはエゴにとっては利益があってやめられない楽しい習慣かもしれません(病弱なわたしに母はやさしくしてくれる、失業したわたしに彼は同情してくれる・・・など、自分を弱く感じれば感じるほど、被害者意識が強くなります)。しかし、被害者意識は百害あって一利なし。自分の首をしめることになり、また自分の欲しいものを破壊してしまうことにもなりかねません。

さて、きょうはそんな誰もが大好きな被害者をどうしてもやっちゃうA子さんのお話。

A子さんは夫婦問題でセラピーにいらしています。

以前からだんなさまとの間に問題がなかったわけではないのですが、彼の携帯をのぞき見してしまったところから、A子さんの心のバランスが大きく崩れることとなりました。

「なんかあやしいぞ!」と思って携帯をのぞいてしまったら、案の定、思ったとおりの結果が・・・。

「昨日は、ごちそうさま。○○さんはお話し上手でホント楽しかったです。また連れて行ってくださいね〜」というデートをしたらしいメール。あるいは、「心ばかりですが、バレンタインのチョコレートで〜す」というプレゼントをもらったようなメールまで。

彼には携帯を見てしまったことは話していませんが、それ以降、彼の態度がそわそわしていると「彼女からのメールを待っているの?」、あるいは「メールをしたいの?」と憶測したり、彼の帰りが遅いと「ああ、きょうは彼女とデートしてきたのね」と落ち込んだり。また、だんなさまの機嫌がよければよいで、「ふうん・・・うまくいってるんだ・・・」と落胆し、機嫌が悪ければ「どうせ、わたしといたくないのでしょ」と悲観的になります。

そして不安ばかりがふくらみ、何も手につかず、ゴハンも喉をとおらず。そしてだんなさまに対しては、ついつい皮肉っぽかったり意地悪な言葉をなげかけるか、機嫌をとって媚びるような態度をとってしまうそうです。

そこで、A子さんに聞いてみました。「もし、ほんとうに浮気していたらどうしますか?別れますか?」彼女の答えは「その過程はどうでもいいんです。それよりも、また仲良く平和に信頼しあって暮らしたい」。

さてさて、彼女の生活にはほんとうに平和や信頼がないのでしょうか?彼女が言うように、平和や信頼を台無しにしたのはほんとうに彼なのでしょうか?

まず、メールを見ちゃったことは、一つめの NG です。

人にはそれぞれの境界線というものがあります。私の世界と彼の世界は同じではありません。結婚という形態をとっていようとも、自分が生きなければならないのは自分の現実、自分の境界線の中であって、人の境界線に踏み込んだり、その中のことをあれやこれやコントロールしようとすると、必ず無力感を感じるし、ストレスで苦しむことになります。

人の境界線をむやみにおかしているときは、実は自分の境界線も大切にしていません。自分と人が曖昧になっているごちゃまぜ状態です。彼がこう感じているから、わたしもこう感じなくては。彼がこう反応しているから、わたしも同じように反応しよう。どんどん自分がなくなって、依存的になってゆきます。自分が誰だかわからなくなります

相手の境界線に入っているときには、「あなたは、わたしが思うようにふるまうべきである」という「べき」ルールがあります。しかし、いくら心の中で「あなたはわたしの思うとおりにふるまうべきである」と叫んでも、結局は人はふるまいたいようにしかふるまいません。人は変えられないのです。「べきだ」は現実に起っていることとはあわないので、もれなく葛藤を感じるハメになってしまいます。

そもそも、メールを見ていなければ、A子さんの心には何も起っていません。平和です。境界線をおかしてしまったことで、A子さんは自ら自分の心の平和を台無しにしてしまったと言えます。

「え?でも彼が浮気してても許すの?」というご質問がきそうですね。

これは二人の間にメールということが介入して問題をおこしているように見えますが、そもそもこれはそれ以前の問題なのです。これはA子さんとだんなさまとの基本的な信頼関係の状態がたまたまメールという形で表面化してきました。A子さんが自分がほしい「信頼関係」を彼に対して持つ努力をしていたら、メールをのぞくことはなかったでしょう。メールはその信頼関係が十分でないところを露呈したのです。彼を信頼できないと思っているA子さんは、じつは自分が信頼できない人なのですね(はい、いつだって相手に見えるものは、自分のもの!)。なので、メール事件が起ろうが、起るまいが、じつは遅かれ早かれ同じような彼との「信頼関係」に関する問題が勃発したことは確かなのです。

そしてA子さんの二つめの NG は・・・

(その2に続く)

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サクラって不思議

冬のあいだ、まるで枯れてしまったようにシーン・・・と静まりかえっていたサクラの木。ある日、とっても地味なツボミがひょいと顔をあらわしたかと思うと...突然、「わっ!」と一斉に咲きはじめるのですよね。まるで、花咲か爺さんマジック。

あくまでも花が主役で、葉っぱはしっかり後に控えています。

そして葉ザクラになると、申しあわせたように他の木々も新芽を吹きはじめます。これからどんどんにぎやかですね〜。

サクラの季節のしめくくりは、サクラのお菓子。今年のサクラさん、じゅうぶん楽しませてくれて、ありがと〜。また来年!(^-^)ノ

朝のお散歩も!

今年もお腹いっぱいお花見をしたな〜と思っていたところ、お散歩のお誘い。

このあたりは日中、人波で歩けなくなるほど賑やかなので、静かな朝のうちにお花見散歩を楽しんできました。

ホロホロと花びらが舞うなか、五月陽気と澄んだ青空。気持がいいこと。

「ねえ、ねえ、わたしたちも撮って〜!」と、
太〜い幹に、まるでお飾りのように咲いているちっちゃなサクラたち。かわいい!

ダブルお誕生会?!

Happy Easter!

きょうはキリスト教の復活祭です。

小さい頃、教会のバザー用に色つきタマゴにクレヨンでせっせと絵を描きまくりましたっけ。うちでも、イースターの朝は茹でたてのタマゴとサインペンがおいてあって、起きぬけからお絵描きタイムでした。

そして、きょう4月8日は花祭りでもあるのですね。お釈迦さまのお誕生日。

♪甘茶にタマゴで、かっぽれ、かっぽれ♪ というかんじでしょうか?(笑)