いちばんのりのチョコレート

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

いただきました、キュートなチョコ。Y子ちゃん、ありがとうございます。カワイイ♡

Y子ちゃんは以前、白血病を患っていたことがあり、無菌室へセッションにうかがったのはもう三年もまえのこと。大変な状態なのに、ケーキとコーヒーまで用意して待っていてくださり、いろんなお話しをしたのを思い出します。

絶体絶命のところでドナーがあらわれ、無事に移植も成功! 今では、何ごともなかったように元気にお仕事もされているのです。

「染色体も男性で、血液型も変わっちゃったのです」と話すY子ちゃん。いろいろな体験を通りぬけて、どこかひょうひょうとしている雰囲気でした。

回復されて元気にお過ごしなのは知っていたけれど、お顔を拝見できてよかった! (^-^*)

 

16-02-02 「凶」のおみくじ、さあどうする?

アメリカから遊びにきた家族を案内して、浅草寺を訪れたというA氏。

夕方、彼からなにやらあせった口調のメールが送られたきた。メモのようなコピーも添付されていて、そこには「凶」の文字がデカデカと。どうやらおみくじをひいたらしく、その結果に動揺されているご様子。「凶」は、たしかにハッピーにはしてくれませんが・・・。

「それ、ただの紙片だから」となだめても納得せず・・・。しまいには「日本の神社は人をおどしておいて、お祓いやお守りでお金儲けをする気か!」とご立腹。(はいはい、お気持ちはわかりますが、世界中どの宗教も似たりよったりです。「恐怖」を使っている点ではね。)

・・・というぐあいに、私たちは外からやってくるものに怯えて、攻撃されているように感じて被害者になります。それがごくふつうの反応の仕方のように思えますが ・・・じつはうまくハメられているのです。だれに?

・・・ 自分自身に。

このせいで不安だ、このために苦痛だ、あの人のせいで頭にくる・・・不安や苦痛や怒りの理由はさまざまですが、じつはどんな出来事がおきていようと、「その出来事はあとづけだ」ということなのです。

ほんとうは、自分の「感情」こそ先にありき! なのです。

何がおきていようが、自分の感情こそが、出来事の真犯人。そして、出来事はもともとあった感情にあわせて、ココロがうまくでっちあげています。

だから、このおみくじ騒動にしても、不安な感情が自分のなかに先にあって、その不安をかかえているのが不快なので、ココロはどうにかそれを処理しようとします。自分の中にあると気持ちがよくないものを、外のせいにすればすっきりするというわけです。そこで、ココロは「自分の感情(不安、苦痛、怒り)にあった出来事をうまくマッチングさせる」わけです。なにかをでっちあげて、この不安のつじつまをあわせようとします。(すると、たんなる紙片がキョーフになります。)

不安に理由(あとづけのできごと)をくっつけると、なんだかその感情をもっていても納得できるのです。(こういうおみくじが出たら、ひどい気持ちになってあたりまえ!と。)

ココロは、その不安の原因になりそうな「出来事」を上手にあとづけして、このおみくじのせいで自分はとっても不安だ。このせいなのだ。いや、もともと悪いのは神社だ。あこぎだ、金儲けしてる、気分が悪い!・・・と。(どんどん自分という本当の原因からは遠ざかっていき、外のものを責めます。)

結局、抑圧していた自分のイヤな感情がずっとそこにあったことを無視して、「このいやな感じはこのせいでした。私はなにも悪くありません」とホコ先を変えられるのです。外に悪者を見て、そこを責めることでイヤな感じが決着すると信じたいのです。

そして、あまりにも素早くでっちあげるから、自分でやっていることながらまったく気がつきません。

結局、自分の見ている世界は、自分の感じていること、信じていることにそったあとづけ、でっちあげ。自分のもてあましたイヤな感情が先にありきで、その感情のつじつまをあわせるために責めるべき人、ものをこしらえています。(ココロはイリュージョンをするマジシャンみたいです。)

自分が無価値だと思えば、無能で的はずれの人が目のまえにいてその人に腹をたてるし(ほんとは、自分に腹がたっている)、自分が無力だと思えば、自分が病気になってそこをなげくこともあります(モノとか人のかわりに、自分の身体もそのでっちあげの対象になるのです。)

おみくじのA氏には、自分がもともともっていた不安感のシンボルがそのおみくじであることを説明して、その不安を教えてくれていたのだから感謝すべきなのだよ〜説明しました。

だから、避けようとするのではなくちゃんと感じて、手放して(感情はちゃんと感じると終わりになります)、ひとつ潜在意識の中の付加が減ったことをお祝いするべきなのです。ココロのごみを片づけると、イヤな人、ものごとに出会うことがだんだん少なくなります。平和な世界になるのです。そして、おみくじは燃やすなどして、ココロのお掃除の完了の証にするとよいですよね。

よくないおみくじは癒すべきポイントを教えてくれていると思って感謝して受け取ることで、自分の幸せのための足がかりとしての道具になるのですね。そして、どんなことであれ感情が波立つときにはいつでも、自分の感情のお掃除をうながされているようです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「“凶”のおみくじ、さあどうする?」

アメリカから遊びにきた家族を案内して、浅草寺を訪れたというA氏。

夕方、彼からなにやらあせった口調のメールが送られたきた。メモのようなコピーも添付されていて、そこには「凶」の文字がデカデカと。どうやらおみくじをひいたらしく、その結果に動揺されているご様子。「凶」は、たしかにハッピーにはしてくれませんが・・・。

「それ、ただの紙片だから」となだめても納得せず・・・。しまいには「日本の神社は人をおどしておいて、お祓いやお守りでお金儲けをする気か!」とご立腹。(はいはい、お気持ちはわかりますが、世界中どの宗教も似たりよったりです。「恐怖」を使っている点ではね。)

・・・というぐあいに、私たちは外からやってくるものに怯えて、攻撃されているように感じて被害者になります。それがごくふつうの反応の仕方のように思えますが ・・・じつはうまくハメられているのです。だれに?

・・・ 自分自身に。

このせいで不安だ、このために苦痛だ、あの人のせいで頭にくる・・・不安や苦痛や怒りの理由はさまざまですが、じつはどんな出来事がおきていようと、「その出来事はあとづけだ」ということなのです。

ほんとうは、自分の「感情」こそ先にありき! なのです。

何がおきていようが、自分の感情こそが、出来事の真犯人。そして、出来事はもともとあった感情にあわせて、ココロがうまくでっちあげています。

だから、このおみくじ騒動にしても、不安な感情が自分のなかに先にあって、その不安をかかえているのが不快なので、ココロはどうにかそれを処理しようとします。自分の中にあると気持ちがよくないものを、外のせいにすればすっきりするというわけです。そこで、ココロは「自分の感情(不安、苦痛、怒り)にあった出来事をうまくマッチングさせる」わけです。なにかをでっちあげて、この不安のつじつまをあわせようとします。(すると、たんなる紙片がキョーフになります。)

不安に理由(あとづけのできごと)をくっつけると、なんだかその感情をもっていても納得できるのです。(こういうおみくじが出たら、ひどい気持ちになってあたりまえ!と。)

ココロは、その不安の原因になりそうな「出来事」を上手にあとづけして、このおみくじのせいで自分はとっても不安だ。このせいなのだ。いや、もともと悪いのは神社だ。あこぎだ、金儲けしてる、気分が悪い!・・・と。(どんどん自分という本当の原因からは遠ざかっていき、外のものを責めます。)

結局、抑圧していた自分のイヤな感情がずっとそこにあったことを無視して、「このいやな感じはこのせいでした。私はなにも悪くありません」とホコ先を変えられるのです。外に悪者を見て、そこを責めることでイヤな感じが決着すると信じたいのです。

そして、あまりにも素早くでっちあげるから、自分でやっていることながらまったく気がつきません。

結局、自分の見ている世界は、自分の感じていること、信じていることにそったあとづけ、でっちあげ。自分のもてあましたイヤな感情が先にありきで、その感情のつじつまをあわせるために責めるべき人、ものをこしらえています。(ココロはイリュージョンをするマジシャンみたいです。)

自分が無価値だと思えば、無能で的はずれの人が目のまえにいてその人に腹をたてるし(ほんとは、自分に腹がたっている)、自分が無力だと思えば、自分が病気になってそこをなげくこともあります(モノとか人のかわりに、自分の身体もそのでっちあげの対象になるのです。)

おみくじのA氏には、自分がもともともっていた不安感のシンボルがそのおみくじであることを説明して、その不安を教えてくれていたのだから感謝すべきなのだよ〜説明しました。

だから、避けようとするのではなくちゃんと感じて、手放して(感情はちゃんと感じると終わりになります)、ひとつ潜在意識の中の付加が減ったことをお祝いするべきなのです。ココロのごみを片づけると、イヤな人、ものごとに出会うことがだんだん少なくなります。平和な世界になるのです。そして、おみくじは燃やすなどして、ココロのお掃除の完了の証にするとよいですよね。

よくないおみくじは癒すべきポイントを教えてくれていると思って感謝して受け取ることで、自分の幸せのための足がかりとしての道具になるのですね。そして、どんなことであれ感情が波立つときにはいつでも、自分の感情のお掃除をうながされているようです。

 

 

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パン好きにオススメランチ

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お友だちがセッション & ランチに来てくれました。

わくわく、どこでランチしよう! (すでにこころはランチへ♪)

最近のお気に入りご近所さんランチは、「TAVERN 」という焼きたてパンとお肉がおいしいお店です。サラダやスープという女子に嬉しいメニューもあり。

この日のランチは、和牛とチリビーンズの煮込み。グッツグツ、アツアツです。お豆もたっぷりで、スパイシーすぎずビーフの香りがきいています。ポテトもどっ〜さり♪

そして、人気があるのがパンビュッフェ。いろんな種類があるので、半分こしながら7個も(いや、もっとか?)いただいてしまいました。お豆のディップがついていて、このおいしさもあいまってついつい手が出てしまいます。

真っ赤なのはランチについているニンジンジュース。飲むというより食べるといったほうがいいほどの濃さ。あとはプチなデザートもついています。この日は、アイスシューでした。

食後、ポンポンのお腹を抱えて、はじまったばかりのサロン・デュ・ショコラに行ってみることに。(世界19ヶ国のチョコレートが一堂に会しているチョコレートの祭典です。)

しかし・・・考えがそうとう甘かった。会場であるNSビルのエントランスはすでに長蛇の列で人、人、人。ナント2時間待ちは必至だとか・・・。(ディズニーランドなみですね〜。)わお、みなさま、そんなにチョコ好きだったのですね〜。(来月のVTのために彼氏用かな??)

おいしいチョコに少しは心惹かれたけど、即くじけて近所でお茶とおしゃべりを楽しんで帰ってきました〜。(^^;;

伊勢丹が主宰なので、きっと伊勢丹のチョコ売り場には同じようなラインナップがあるのかもしれませんね〜。

 

 

イタリアン ロースト好き

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そのむかし、イタリアを訪れて感動したことのひとつがコーヒーがおいしかったこと。

日本ではド○ールさんで出てくるようなコーヒーが主流で、エスプレッソベースのコーヒーといえばイタリア料理のお店でしか飲めなかったのです。でも、イタリアのコーヒーチェーン、セガフレードが出店してからは、気軽にエスプレッソやエスプレッソベースのコーヒーが飲めるお店もふえましたね。

その頃は、イタリアのコーヒーメーカーのお豆ばかりを探して飲んでいました。LAVAZZA とか illy とか。なかでも好きだったのが KIMBO。でも店頭ではめったにお目にかかれなくって。

今ではイタリアンローストのおいしいコーヒー豆はいっぱい出回っているけれど、KIMBO を見つけるとついなつかしくて買っちゃう♡  

昨日もスーパーの祭事コーナーで発見。うちにはネスプレッソのアマレッティ風味(アマレッティもイタリアの味!)がたくさんあったけど、もちろんゲット!

さっそくいれてみたら、うん! イタリアの味です♪

PS 同じく KIMBO 好きのMちゃ〜ん! ゲットしたからね〜。(^o^)

 

 

わあ、オシャレ!

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お花屋さんというと、バケツに放りこまれた花たちが店先にひしめいているというイメージですが・・・ こちらのお店は、フラワーショップと呼ぶにふさわしいディスプレイ。見とれてしまいました。

こんなお花屋さんさんは、どんなブーケを作ってくれるのかな? こんどお願いしてみましょう。

まだ大寒で雪も降りそうですが、この頃になるとどこのお花屋さんもいい匂いがします。サクラ草やパンジー、そしてストックやらスイートピーなど、やさしい色合いのお花がいっぱい。そんなお花につられて、まだまだ寒いけれどもこころが春へと向かいはじめます。

 

 

 

はあ〜・・・♡

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うるわしい女性たちのたたづまいに、おもわずため息。

Bunkamura で開催されている「英国の夢 ラファエル前派展」に足を運んできました。

わたしのこよなく愛する画家 フレデリック・レイトン卿の作品もいくつか展示されていました。

見てください。この美しさ。レイトンの描く女性はほんのりと体温が感じられるものの、女神のような神々しさがあります。

ほかにも、アルマ=タデマやエヴァレット・ミレイ、ウォーターハウス 、ロセッティ、バーン・ジョーンズ など、ヴィクトリア朝時代の作品がざくざく。日本ではお初の作品もたくさんあります。

この時代の絵画は、古代ローマ、ギリシャや神話を題材にしたものが多く、描かれている女性たちもミステリアスな美しさをたたえ、ドラマチック。

こちらはミレイの作品、「春 林檎の花咲く頃」。女の子たちののどかなピクニック風景に見えますが、じつはそれぞれの表情にその未来を暗示しているそうな。横たわる右側の女の子のすぐそばには釜が描かれていますが、彼女の未来はいかに・・・?

池をのぞきこむのは、自分に恋しちゃったナルキッソス。「エコーとナルキッソス」ウォーターハウス

けだるい感じの半裸の美女たちは、ジョセフ・ムーアの「夏の夜」。

Bunkamura ザ・ミュージアムにて3/6 までです。

 

 

今年は直感とともに、まったりと♪

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静かな年明けがすぎたら、あっというまに日常が押しよせてきました。・・・ 気がつけば、もう一月も半ばですね!

えっと、今年の目標はなんでしたっけ? いえ、目標がまったくないのが今年の目標。毎日仕事以外は、ほとんどノープランがモットー。そのとき瞬間にひらめいたこと、心を動かされたことに時間を使うようにしています。

思考であるエゴちゃんは心配症で「あれをやれ、これをやれ」とうるさいのですが、その多くの動機は「未来のため」という怖れにもとづいたもの。「怖れ」や「心配」が動機だと、頑張って行動しても結局はは残念な結果になってしまいます。

そのかわりに、高い意識にその時々に必要な直感だけをいただくことにすると、ずいぶんとムダな行動がはぶかれて、途中の流れも、結果もスムーズ。そのうえ、自然とゆったりタイムが生みだされることになります。心配もしなくなるので、省エネなのです。

さて、今年初の休日は・・・

お友だちのプレゼントの買いものへ。これも直感で。お顔をイメージすると、すぐにイメージが浮かんできました。だからショッピングも超早いっ! (^_^)v

あいた時間はまったりとお茶っ  ♬(今年初のお外珈琲タイム!)

あ、以前から気になっていた「星乃珈琲」が目のまえに。

これこれ!このスフレパンケーキ♪

P K 好きとしてはチャレンジしてみたかったのです!(中目方面って、星乃さん見あたらないのです)

表面はサクッ、なかはしっとりスフレでペロリといただきました。(二段でも楽勝だったかも・・)お店も落ちついていてイイ感じです。(銀座店でした)

P K 後のスイーツトレンド、シュー生地のなんとかとか(ポップオーバーでしたっけ? )、いまいち流行らなかったですね。やっぱりP K 人気は根強い!今年はノープラン&直感でまったりタイムをたくさんつくりだし、おいしいスウィーツティータイムをたくさん楽しみます! (^-^)ノ

 

16-01-09 こころのゴミ屋敷をお掃除しましょ!

昨晩、あるテレビ番組で「卑弥呼と天照大神は同一人物なのか?」と検証していたとき、あるパネラーさんが「人間は、都合の悪いことをぜんぶ神様のせいにしてきた。それが神話なんです」というような説明をされていました。

「なるほど〜・・・ たしかに」と思いましたよ。

だって、世界的ベストセラーの大河小説(?)のなかでも、神様に楽園をおわれたカップルの悲劇のストーリーがありましたっけ。それを執筆したのは神様ではなくって人間なのだ、ということを忘れてはいけません。それでも、「そんなことはしとらんぞ〜!」と激怒して雷をおとさない神様の器はやっぱり宇宙規模に大きいのです。

わたしたちは、無意識のうちにひどいことが起ると「なぜですか?神様!」と嘆き、「もう神など信じない」と背をむけます。みんな何がしかのことで、神様に恨みをもっているのです。

そんなふうに見える神様がなぜイジワルではないとわかるのか・・・というと、日々、セラピーするなかで、クライエントさんの問題をどんどんつきつめていくと、究極的には神様(あるいは、大いなる力)に対して、「ごめんなさい。私が悪うございました。すべてわたしでございます」という信念が出てくるからなのです。「勝手に家出をしたのはわたしです」と。

そして、この信念ゆえに「自分を小さく小さくして、見つからないように隠れていよう」とか、「この世の果てまでも逃げきるぞ」とか、「まったく違う自分になって、ぜったいバレないように目をくらまそう」なんていうことをやっているのです。すると、とっても孤独で、とっても怯えていて、とっても悲しい自分になってしまうのです。自分こそが裏切り者だと知っているから。

こんなことを聞くと「まさか!」と思うかもしれませんが、それぞれの暗いこころの下にはこんな思いがもれなく身をひそめているのです。そしてその隠し持っている思いに気づいてしまったら大変なので、自分を忙しくして何がなんだかわからなくしたり、いろいろな物・人・出来事とかかわって自分が満たされているフリをしたり ・・・どうにか裏切り者の孤独で苦しい気持ちを忘れようとします。

「るん」のセラピーのなかでは、クライエントさんがほんとうに信じていることを探求するために、どんどんこころを掘りすすめるようなことをしていくのですが、わたし自信も日常で「プチいやな気分」のときも、あるいは「メガ級落ちこみ」のときも、ひるまずに自分に対してこの「信じていることの探求」を行っています。

セラピーセッションでは、口頭のやりとりで行いますが自分でやるときにはどんどんノートに書きとめていくのです。

昨日、お茶をしていたときにもふと「そこはかとない不安」を感じました。別にほうっておいてもどうってことはないほどのかすかなものです。けれど、こんなちっちゃな不安こそ、深いところに隠れている何か大きなものから浮かびあがってきた泡のようにとらえます。下に何かがあるぞ!というように。

そこで、さっそく喜々として探求をはじめました。

「そこはかとなく不安を感じる 」→ なぜなら、いつ何が起るかわからない世の中だから(いっけん妥当な答えのように感じても騙されてはいけません)→ (するとこんなイメージがわいてきました)古代コロッセオのなかに迷いこんでライオンに食われそうな自分 → 神様は外から見てるけど何も関知していない、助けようともしない → なぜなら、わたしはちっちゃい存在だから → 今度は、鈴虫になった自分が大きなカブトムシに食べられそうになっているイメージ → わたしは虫ケラのように小さくて神様にとってどうでもいいんだ → この宇宙の無限さが示すように、それぐらわたしは源(神)からはるか彼方に逃げてきた → だから自分でサバイバルするしかない → ついに強大なうしろだてを失ってしまった。不安だ・・・。

強力なバックアップ(神様)から家出をしてきて、すべてを失って昆虫のようにか弱く生きているイメージが「そこはかとない不安」の原因だったのです。

そのときどきの問題やテーマで出てくるイメージはいろいろですが、結局のところは「家出してきた(逃亡してきた)」あるいは「見捨てられた(と思いたい)」という信念が深いところにあります。

自分で「家出してきた」ことは認めたくないから、神様に「見捨てられたかわいそうなわたし」という被害者の美談をでっちあげたいのですよね〜。神様が悪い、神様のせいだ!って。

でも、癒しを起こすにはつねに「はい、わたしでございました」「すべてわたしです」というところに戻らなくてななりません。

そうちゃんと認められたときにこそ、こんな思いはこれ以上もっていなくていいのだと知ることができます。

どれだけ自分の信念、思いによって、自分を虐待していることか。ひとつひとつの間違った思いを手放していくことこそ、こころの安らぎなのです。

幸せであることとは、まさに自分の思いで自分を虐待することなく、間違った思いのひとつひとつを手放してちゃんともとのクリーンなこころに戻してあげることなのです。そうすると、自然な状態こそが「安らぎ・喜び」といえるようになるのですよね。

ゴミ屋敷に住んでいるひとは、自分の家がゴミでいっぱいだという認識をもっていませんよね。こころもじつは同じ。ほんとは悲惨なゴミ屋敷だったりします。(^。^;  (まわりは知ってても、言わなかったりして・・・。)

クリーンで快適なおうちに住みたいですね〜。

今年もみなさまとともに、せっせとこころのゴミ捨てに励みたいと思います!!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「こころのゴミ屋敷をお掃除しましょ!」

昨晩、あるテレビ番組で「卑弥呼と天照大神は同一人物なのか?」と検証していたとき、あるパネラーさんが「人間は、都合の悪いことをぜんぶ神様のせいにしてきた。それが神話なんです」というような説明をされていました。

「なるほど〜・・・ たしかに」と思いましたよ。

だって、世界的ベストセラーの大河小説(?)のなかでも、神様に楽園をおわれたカップルの悲劇のストーリーがありましたっけ。それを執筆したのは神様ではなくって人間なのだ、ということを忘れてはいけません。それでも、「そんなことはしとらんぞ〜!」と激怒して雷をおとさない神様の器はやっぱり宇宙規模に大きいのです。

わたしたちは、無意識のうちにひどいことが起ると「なぜですか?神様!」と嘆き、「もう神など信じない」と背をむけます。みんな何がしかのことで、神様に恨みをもっているのです。

そんなふうに見える神様がなぜイジワルではないとわかるのか・・・というと、日々、セラピーするなかで、クライエントさんの問題をどんどんつきつめていくと、究極的には神様(あるいは、大いなる力)に対して、「ごめんなさい。私が悪うございました。すべてわたしでございます」という信念が出てくるからなのです。「勝手に家出をしたのはわたしです」と。

そして、この信念ゆえに「自分を小さく小さくして、見つからないように隠れていよう」とか、「この世の果てまでも逃げきるぞ」とか、「まったく違う自分になって、ぜったいバレないように目をくらまそう」なんていうことをやっているのです。すると、とっても孤独で、とっても怯えていて、とっても悲しい自分になってしまうのです。自分こそが裏切り者だと知っているから。

こんなことを聞くと「まさか!」と思うかもしれませんが、それぞれの暗いこころの下にはこんな思いがもれなく身をひそめているのです。そしてその隠し持っている思いに気づいてしまったら大変なので、自分を忙しくして何がなんだかわからなくしたり、いろいろな物・人・出来事とかかわって自分が満たされているフリをしたり ・・・どうにか裏切り者の孤独で苦しい気持ちを忘れようとします。

「るん」のセラピーのなかでは、クライエントさんがほんとうに信じていることを探求するために、どんどんこころを掘りすすめるようなことをしていくのですが、わたし自信も日常で「プチいやな気分」のときも、あるいは「メガ級落ちこみ」のときも、ひるまずに自分に対してこの「信じていることの探求」を行っています。

セラピーセッションでは、口頭のやりとりで行いますが自分でやるときにはどんどんノートに書きとめていくのです。

昨日、お茶をしていたときにもふと「そこはかとない不安」を感じました。別にほうっておいてもどうってことはないほどのかすかなものです。けれど、こんなちっちゃな不安こそ、深いところに隠れている何か大きなものから浮かびあがってきた泡のようにとらえます。下に何かがあるぞ!というように。

そこで、さっそく喜々として探求をはじめました。

「そこはかとなく不安を感じる 」→ なぜなら、いつ何が起るかわからない世の中だから(いっけん妥当な答えのように感じても騙されてはいけません)→ (するとこんなイメージがわいてきました)古代コロッセオのなかに迷いこんでライオンに食われそうな自分 → 神様は外から見てるけど何も関知していない、助けようともしない → なぜなら、わたしはちっちゃい存在だから → 今度は、鈴虫になった自分が大きなカブトムシに食べられそうになっているイメージ → わたしは虫ケラのように小さくて神様にとってどうでもいいんだ → この宇宙の無限さが示すように、それぐらわたしは源(神)からはるか彼方に逃げてきた → だから自分でサバイバルするしかない → ついに強大なうしろだてを失ってしまった。不安だ・・・。

強力なバックアップ(神様)から家出をしてきて、すべてを失って昆虫のようにか弱く生きているイメージが「そこはかとない不安」の原因だったのです。

そのときどきの問題やテーマで出てくるイメージはいろいろですが、結局のところは「家出してきた(逃亡してきた)」あるいは「見捨てられた(と思いたい)」という信念が深いところにあります。

自分で「家出してきた」ことは認めたくないから、神様に「見捨てられたかわいそうなわたし」という被害者の美談をでっちあげたいのですよね〜。神様が悪い、神様のせいだ!って。

でも、癒しを起こすにはつねに「はい、わたしでございました」「すべてわたしです」というところに戻らなくてななりません。

そうちゃんと認められたときにこそ、こんな思いはこれ以上もっていなくていいのだと知ることができます。

どれだけ自分の信念、思いによって、自分を虐待していることか。ひとつひとつの間違った思いを手放していくことこそ、こころの安らぎなのです。

幸せであることとは、まさに自分の思いで自分を虐待することなく、間違った思いのひとつひとつを手放してちゃんともとのクリーンなこころに戻してあげることなのです。そうすると、自然な状態こそが「安らぎ・喜び」といえるようになるのですよね。

ゴミ屋敷に住んでいるひとは、自分の家がゴミでいっぱいだという認識をもっていませんよね。こころもじつは同じ。ほんとは悲惨なゴミ屋敷だったりします。(^。^;  (まわりは知ってても、言わなかったりして・・・。)

クリーンで快適なおうちに住みたいですね〜。

今年もみなさまとともに、せっせとこころのゴミ捨てに励みたいと思います!!

 

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