16-01-08 ハッピーエンドの選び方

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

ハッピーエンドの選び方」・・・なんていうタイトルを聞くと、おしゃれな街でくりひろげられるラブコメディかと思っちゃいますが、N.Y. もでてこなければ、恋人たちも見あたりません。でてくるのは、おじいちゃん、おばあちゃんのみ。それもかなり高齢の。

舞台は老人ホームで、そこで描かれるのは、なんと安楽死。つまり、自分の人生の最後をどう選ぶのか・・・というお話なのです。

発明好きのおじいちゃん、ヨヘスケルは神様からかかってくる電話機とか、薬の飲み忘れ防止マシンなど、ホームのみんなのためにいろんな器具を手作りしているのですが、末期の病と延命治療に苦しむ友人からのたっての願いで安楽死マシンを作りあげるのです。それはみんなにお別れをしてから、自分でボタンを押して旅立っていくというもの。

罪悪感にさいなまれながらも、友人とその家族のために安楽死マシンを秘密裏に使用するのですが・・・どこからかそのウワサを漏れ聞いたお年寄りから、使用の依頼が次々と。なんと、ついには最愛の妻までもが使いたいと言いだし・・・。

苦しむものを逝かせるのか、それとも自分の安らぎのために引きとめるのか・・・そんな選択を迫られます。

ベビーなテーマのはずですが、どこかユーモラスで思いやりと愛がにじみ出ています。認知症が進行しはじめて服を着るのを忘れてダイニングにやってきてしまったのを痛く恥いるヨヘスケルの奥さんのために、友人たちみんなが全裸で彼女を迎える・・・なんていう笑っちゃう場面も。ホームの風紀を乱すなと怒られるのですが、そんなことよりもおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、傷ついた心の癒しのほうが最優先なのです。

医療が発達すればするほど、ほんとうだったらとっくに生きていないような場面でも生き続けられる時代。もちろん家族は「生きていてさえくれれば」という思いもあるけれど、本人にしてみたら迷惑きわまりなくて「自然に安らかに旅立たせてくれ」が本音かもしれません。

世界的に高齢化社会になってきているせいか、以前にくらべてお年寄りの生き方やら、旅立つまでの選択やら、そんなテーマが恋愛ものよりもずっと多くなってきているように感じられるこのごろ。自分の将来とかさねあわせながら、いろいろと考えさせられることも多いのです。

こちらはイスラエルの映画で、ヴェネチア国際映画祭でも受賞してる作品です。

 

お茶の間シネマトーク「ハッピーエンドの選び方」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

ハッピーエンドの選び方」・・・なんていうタイトルを聞くと、おしゃれな街でくりひろげられるラブコメディかと思っちゃいますが、N.Y. もでてこなければ、恋人たちも見あたりません。でてくるのは、おじいちゃん、おばあちゃんのみ。それもかなり高齢の。

舞台は老人ホームで、そこで描かれるのは、なんと安楽死。つまり、自分の人生の最後をどう選ぶのか・・・というお話なのです。

発明好きのおじいちゃん、ヨヘスケルは神様からかかってくる電話機とか、薬の飲み忘れ防止マシンなど、ホームのみんなのためにいろんな器具を手作りしているのですが、末期の病と延命治療に苦しむ友人からのたっての願いで安楽死マシンを作りあげるのです。それはみんなにお別れをしてから、自分でボタンを押して旅立っていくというもの。

罪悪感にさいなまれながらも、友人とその家族のために安楽死マシンを秘密裏に使用するのですが・・・どこからかそのウワサを漏れ聞いたお年寄りから、使用の依頼が次々と。なんと、ついには最愛の妻までもが使いたいと言いだし・・・。

苦しむものを逝かせるのか、それとも自分の安らぎのために引きとめるのか・・・そんな選択を迫られます。

ベビーなテーマのはずですが、どこかユーモラスで思いやりと愛がにじみ出ています。認知症が進行しはじめて服を着るのを忘れてダイニングにやってきてしまったのを痛く恥いるヨヘスケルの奥さんのために、友人たちみんなが全裸で彼女を迎える・・・なんていう笑っちゃう場面も。ホームの風紀を乱すなと怒られるのですが、そんなことよりもおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、傷ついた心の癒しのほうが最優先なのです。

医療が発達すればするほど、ほんとうだったらとっくに生きていないような場面でも生き続けられる時代。もちろん家族は「生きていてさえくれれば」という思いもあるけれど、本人にしてみたら迷惑きわまりなくて「自然に安らかに旅立たせてくれ」が本音かもしれません。

世界的に高齢化社会になってきているせいか、以前にくらべてお年寄りの生き方やら、旅立つまでの選択やら、そんなテーマが恋愛ものよりもずっと多くなってきているように感じられるこのごろ。自分の将来とかさねあわせながら、いろいろと考えさせられることも多いのです。

こちらはイスラエルの映画で、ヴェネチア国際映画祭でも受賞してる作品です。

 

謹賀新年 2016

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

本年がみなさまにとって、健やかで幸多き一年となりますようにお祈り申し上げます。

オフィス・るんは、一年をとおして、みなさまの「こころのすす払い」に尽力してまいります。

ふだんからセッションのあいまにはバナナと仲良しなのですが(とってもお腹がすくので!)、今年はバナナと仲良くすればするほどシッポがはえてくるかもしれませんね〜。年末までには、りっぱなおサルさんになれるでしょうか(笑)。

オフィス・るん 古川貴子

 

お猿さんの神社へひと足早い初詣

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

あっというまに今年も最終日、大晦日となりました。皆さま、どのようにお過ごしでしょうか?

わたしは、恒例のひとあし早い初詣(お礼参りでもありますが・・・)で、山王日枝神社にお詣りしてきました。(すっかり道を間違えて、総理官邸をめざしておりました・・・汗。)

ここは来年の干支のお猿さんが、狛犬さんのように控えております。

今年の感謝と来年のご挨拶をすると、荷をおろしたようにスッキリ新年が迎えられます。

もう、サクラが開いています!!

そして、Mちゃんとのお疲れさまランチは、「ひらまつ」さんにて。

おいしいフレンチをいただきながら、今年最後のおしゃべり&くつろぎタイム。

駅伝の応援、頼まれちゃいました。順天堂のハタ。

テレビのまえでこのハタを振りまわして、「青○頑張れ!」と叫んでしまいそうです。(汗)

さてさて、無事恒例行事もすんで、新年を迎える気まんまん☆ (^-^)ノ

この一年、大変お世話になりありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

Merry Christmas :)

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かなりの美声ですが、一回聴くだけでそうとうな満腹感(笑)。 

15-12-21 みんな、自分が嫌い?! その2

(その1より)

外の世界に見えるものが自分の心のなかにあるイメージの投影(映しだし)であるのなら、じゃあ、イヤな体験をしている自分って、結局自分が悪いのか ・・・そう思ってしまいます。

たしかに、すべては「自分発」で、そうでないものなどないのですが、その「自分発」のものがほんとうに真実なのか・・・というと、じつはそうではありません。「真実ではない」 ということなのです。つまり、自分でもほんとうの自分がわかっていません。

ほんとうの自分を外に投影している ・・・というよりは、じつは自分のなかで持ちきれなくなったゴミを外に見ているという方が正しいのです。自分でもちゃんとわかっているのですね。「こんなの、ほんとうの自分のイメージではない」ということが。だから、外にゴミ捨てして、無かったことにしたいのですが、結局はつねに目にすることになってしまっていますが。

私たちが自分だと思っているイメージは、両親からの扱いや評価、幼稚園や学校などでの自分の立ち位置など ・・・すべて外からの影響によって洗脳されていきます。

たとえば、自分の性質がとても活発だったとします。それを好む親であれば「よい子」と評価され、好まれないならば変えるように仕向けられるかもしれません。あるがままの自分を受けいれてもらえないと、その子は自分が「ダメな子なんだ」「劣っているから親が困っている。親を困らせる自分は価値がない」というように決めつけてしまいます。ほんとうは、親のお好みに合わなかった、ただそれだけで、他の家に生まれていたらまた事情は違っていたかもしれません。

そして、家で、幼稚園で、学校で、仲間内で、つねに外の反応を気にしているうちに、自分の価値も自尊心もゆらいできて、すっかり自分が誰だかわからなくなってしまいます。強いお姉ちゃんがいたら、うまく巻かれておいたほうが生きやすいと思うかもしれないし、親に過剰に期待されると、すっかり「よい子の仮面」と一体化してしまうかもしれません。人の目を気にしていると、なにを基準に自分のアイデンティティを確立してよいのか、さっぱりわからなくなります。

そして、ほんものじゃないズレてる自分を生きてるのはとってもエネルギーを消耗するし、フラストレーションを感じます。私たちがわけもなく憂鬱になったりイヤな気持ちになるのは、ほんとうの自分とはズレた自分を生きつづけ、それが自分に定着してしまった嫌悪感やウソっぽさから湧き上がってくるものです。

私たちの高い自己(ハイヤーセルフ)はそんなズレた状態のまま私たちをほっておくことはしないのです!(これは、ホッとしますよね。)

高い自己のアラーム、「あなた、ズレてますよ!ほんとうの自分にそろそろ戻るときですよ」というお知らせは、じつはイヤな出来事をとおしてやってきます。楽しいばかりだったら、人はなにひとつ改善する必要を感じられないからです。

「イヤな気持ち」「うまくいかない出来事」「くりかえす問題」は、ちょっと立ち止まりなさいというシグナル。

でも、人はそのシグナルに気づくとなにをするかというと、それを解決すべくしゃかりきになってさらに行動を起こそうとします。なにか手を打たねば!行動せねば!と。すると、さらに迷宮に入ってしまいます。

だって、立ち止まって欲しいために鳴っていたシグナルですから。(仕方ありませんよね。私たちはこういうことに関して、まったく学校で教育されていません。でも、英語を習うよりも先に、自分と自分の心について学ぶことの方が大切だと感じてしまいます。)

問題あれこれが起きてイヤ〜な気持ちになったとき、みんなそんな気持ちは感じたくないから、どうにか誤摩化そう、気晴らしをしようとします。けれど大切なことは、まずはしっかりと立ち止まって、ちゃんと自分の気持ちを感じることが大切なのです。

気持ちを感じたくないから逃げるのですが、この際、ドッジボールです!正面から、その感情のボールを受け止めましょう!

なぜなら、小さい頃に「対応不可能」と決めつけてガンガン呑みこんだたくさんのネガティブな感情こそが、ほんとうの自分につながることを邪魔しているからです。

ひとつひとつの言われた言葉やされた扱いを思い出すかもしれませんが、とにかく解放しなくちゃならないのは、そのとき呑みこんだ気持ちです。これが自分の晴れ晴れとした快晴の青空のような広がりのうえをスモッグのようにすっぽりとおおって、まったく光を通さなくなっているからです。

ほんとうの自分とのディスコネクト(分離)状態・・・。パワーがまったく供給されません。

だから不安になって、あらゆることに手を出します。買い物依存、恋愛依存、アルコール依存、ギャンブル依存、過食、薬物依存、回遊魚のような絶えまない活動・・・。そのうち、自分のダメなイメージともすっかりと仲良しになり、イヤな気持ちも慢性化してしまいます。

問題があるなしにかかわらず、つねに自分がなにを今感じているのかに気をつけているというのは、自分のなかをクリーニングする習慣をもつようなもの。

イヤな気持ちを見つけたら、しっかりと受けとめて、抱きしめて愛おしむような気持ちで感じてあげます。イヤな気持ちを泣いている小さな子どものようにイメージして、抱きしめてあげます。(イヤな気持ちだったはずなのに、愛おしくて泣けてきたりします。)すると、自分のなかにす〜っと溶けるように、消え去っていきます。(マシュマロがココアのなかに溶けてくみたい。)

そして、これがすんだら次なるステップへ。

自分に対する間違った考え(自己卑下や被害者意識など)は自分がしっかりと握りしめてきた考えなので、なかなか自分では訂正することができません。

なので、高い意識に委ねて、ほんとうのことを見せてもらいます。「わたしは、自分が(価値がない、嫌いである)と信じています。でももう、この考えは持ち続けたくありません。ほんとうのことを見せてください。感じさせてください」とお願いします。

自分が見たがっているほんとうの自分とはなんでしょう?・・・それは、唯一のもの、ワンネスの一部である完璧な自分。愛であり、安らぎであり、喜びであり、豊かさであり、輝きである自分。ひとつのもの(完璧さ)しか存在しないのであれば、それ以外を見てるわたしたちはどこかおかしいということになります。

おかしいということは、正す必要があるということ。でも、それを自分ではどうすることもできない ・・・となれば、ホンモノの自分自身の記憶ともいえる存在、正気の自分ともいえる存在である高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、それを見せてもらうことが必要なのです。

それを理解すると、問題が見えたときにはつねに自分を正す、ほんとうの自分に連れ戻してあげるチャンスとなります。間違いは目にしない限り、どこが間違ってしまっているのか気づきようがありません。目にしたときには、「ここを変えましょう。もうこれを手放しましょう」と教えてもらっているということです。

だから、被害者意識をもったり、あるいは自分を責めるとなく、「自分の心の間違っているところ教えてもらった」「これを手放せばいいんだ」と心を切り変えればいいわけです。

そして、手放すときも決して自分でやる必要がないところが、なんともお手軽で嬉しいところ。

ただ高い意識に「これは外になるのではなく、私の心の中の問題です。これをもう持ち続けたくありません。どうぞ手放せるように助けてください」と、人のせいにしないで自分の間違いを認めて、手放す意思を示すと高い自己は即座にそれを行ってくれます。

だから、こんな問題をつくってしまって!とか、こんなことを外に見る自分は酷すぎる!と、自分を責めることはなく、ただ静かに取り消しをしていきます。

わたしも以前はイヤな気持ちを感じると、過剰に活動的になったり、あるいはいろいろと気晴らしをしたり、刺激を求めたりしたものです。でも、どれも根本的な解決ではないと気づいたのも、だいぶいろいろとやってからです。(ほんとうに解決になっていないと心の底から気づかないと、なかなかやめないものですね。汗)

せっかく「ほんとうの自分に戻ってね!」というアラームが鳴っているのであれば、目をそらすことなく、どれどれ、この問題に関する気持ちをしっかりと真っ正面から受けとめて、そして高い自己に丸投げしちゃって、あとはうまくやってもらいましょう!(この渡す姿勢こそが重要なようです!)

まずは、イヤ〜な気持ちをちゃんと感じて受けとめる。そして、高い自己に委ねて依頼する!

あとは少しづつ気持ちも落ち着いてくるし、ムリに自分を好きにならなくても自然とありのままの自分でよいのだ!という信頼がもどってきます。そうすると、外の世界も安らぎが感じられるようになてくると思います。(^_^)v

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「みんな、自分が嫌い?! その2」

(その1より)

外の世界に見えるものが自分の心のなかにあるイメージの投影(映しだし)であるのなら、じゃあ、イヤな体験をしている自分って、結局自分が悪いのか ・・・そう思ってしまいます。

たしかに、すべては「自分発」で、そうでないものなどないのですが、その「自分発」のものがほんとうに真実なのか・・・というと、じつはそうではありません。「真実ではない」 ということなのです。つまり、自分でもほんとうの自分がわかっていません。

ほんとうの自分を外に投影している ・・・というよりは、じつは自分のなかで持ちきれなくなったゴミを外に見ているという方が正しいのです。自分でもちゃんとわかっているのですね。「こんなの、ほんとうの自分のイメージではない」ということが。だから、外にゴミ捨てして、無かったことにしたいのですが、結局はつねに目にすることになってしまっていますが。

私たちが自分だと思っているイメージは、両親からの扱いや評価、幼稚園や学校などでの自分の立ち位置など ・・・すべて外からの影響によって洗脳されていきます。

たとえば、自分の性質がとても活発だったとします。それを好む親であれば「よい子」と評価され、好まれないならば変えるように仕向けられるかもしれません。あるがままの自分を受けいれてもらえないと、その子は自分が「ダメな子なんだ」「劣っているから親が困っている。親を困らせる自分は価値がない」というように決めつけてしまいます。ほんとうは、親のお好みに合わなかった、ただそれだけで、他の家に生まれていたらまた事情は違っていたかもしれません。

そして、家で、幼稚園で、学校で、仲間内で、つねに外の反応を気にしているうちに、自分の価値も自尊心もゆらいできて、すっかり自分が誰だかわからなくなってしまいます。強いお姉ちゃんがいたら、うまく巻かれておいたほうが生きやすいと思うかもしれないし、親に過剰に期待されると、すっかり「よい子の仮面」と一体化してしまうかもしれません。人の目を気にしていると、なにを基準に自分のアイデンティティを確立してよいのか、さっぱりわからなくなります。

そして、ほんものじゃないズレてる自分を生きてるのはとってもエネルギーを消耗するし、フラストレーションを感じます。私たちがわけもなく憂鬱になったりイヤな気持ちになるのは、ほんとうの自分とはズレた自分を生きつづけ、それが自分に定着してしまった嫌悪感やウソっぽさから湧き上がってくるものです。

私たちの高い自己(ハイヤーセルフ)はそんなズレた状態のまま私たちをほっておくことはしないのです!(これは、ホッとしますよね。)

高い自己のアラーム、「あなた、ズレてますよ!ほんとうの自分にそろそろ戻るときですよ」というお知らせは、じつはイヤな出来事をとおしてやってきます。楽しいばかりだったら、人はなにひとつ改善する必要を感じられないからです。

「イヤな気持ち」「うまくいかない出来事」「くりかえす問題」は、ちょっと立ち止まりなさいというシグナル。

でも、人はそのシグナルに気づくとなにをするかというと、それを解決すべくしゃかりきになってさらに行動を起こそうとします。なにか手を打たねば!行動せねば!と。すると、さらに迷宮に入ってしまいます。

だって、立ち止まって欲しいために鳴っていたシグナルですから。(仕方ありませんよね。私たちはこういうことに関して、まったく学校で教育されていません。でも、英語を習うよりも先に、自分と自分の心について学ぶことの方が大切だと感じてしまいます。)

問題あれこれが起きてイヤ〜な気持ちになったとき、みんなそんな気持ちは感じたくないから、どうにか誤摩化そう、気晴らしをしようとします。けれど大切なことは、まずはしっかりと立ち止まって、ちゃんと自分の気持ちを感じることが大切なのです。

気持ちを感じたくないから逃げるのですが、この際、ドッジボールです!正面から、その感情のボールを受け止めましょう!

なぜなら、小さい頃に「対応不可能」と決めつけてガンガン呑みこんだたくさんのネガティブな感情こそが、ほんとうの自分につながることを邪魔しているからです。

ひとつひとつの言われた言葉やされた扱いを思い出すかもしれませんが、とにかく解放しなくちゃならないのは、そのとき呑みこんだ気持ちです。これが自分の晴れ晴れとした快晴の青空のような広がりのうえをスモッグのようにすっぽりとおおって、まったく光を通さなくなっているからです。

ほんとうの自分とのディスコネクト(分離)状態・・・。パワーがまったく供給されません。

だから不安になって、あらゆることに手を出します。買い物依存、恋愛依存、アルコール依存、ギャンブル依存、過食、薬物依存、回遊魚のような絶えまない活動・・・。そのうち、自分のダメなイメージともすっかりと仲良しになり、イヤな気持ちも慢性化してしまいます。

問題があるなしにかかわらず、つねに自分がなにを今感じているのかに気をつけているというのは、自分のなかをクリーニングする習慣をもつようなもの。

イヤな気持ちを見つけたら、しっかりと受けとめて、抱きしめて愛おしむような気持ちで感じてあげます。イヤな気持ちを泣いている小さな子どものようにイメージして、抱きしめてあげます。(イヤな気持ちだったはずなのに、愛おしくて泣けてきたりします。)すると、自分のなかにす〜っと溶けるように、消え去っていきます。(マシュマロがココアのなかに溶けてくみたい。)

そして、これがすんだら次なるステップへ。

自分に対する間違った考え(自己卑下や被害者意識など)は自分がしっかりと握りしめてきた考えなので、なかなか自分では訂正することができません。

なので、高い意識に委ねて、ほんとうのことを見せてもらいます。「わたしは、自分が(価値がない、嫌いである)と信じています。でももう、この考えは持ち続けたくありません。ほんとうのことを見せてください。感じさせてください」とお願いします。

自分が見たがっているほんとうの自分とはなんでしょう?・・・それは、唯一のもの、ワンネスの一部である完璧な自分。愛であり、安らぎであり、喜びであり、豊かさであり、輝きである自分。ひとつのもの(完璧さ)しか存在しないのであれば、それ以外を見てるわたしたちはどこかおかしいということになります。

おかしいということは、正す必要があるということ。でも、それを自分ではどうすることもできない ・・・となれば、ホンモノの自分自身の記憶ともいえる存在、正気の自分ともいえる存在である高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、それを見せてもらうことが必要なのです。

それを理解すると、問題が見えたときにはつねに自分を正す、ほんとうの自分に連れ戻してあげるチャンスとなります。間違いは目にしない限り、どこが間違ってしまっているのか気づきようがありません。目にしたときには、「ここを変えましょう。もうこれを手放しましょう」と教えてもらっているということです。

だから、被害者意識をもったり、あるいは自分を責めるとなく、「自分の心の間違っているところ教えてもらった」「これを手放せばいいんだ」と心を切り変えればいいわけです。

そして、手放すときも決して自分でやる必要がないところが、なんともお手軽で嬉しいところ。

ただ高い意識に「これは外になるのではなく、私の心の中の問題です。これをもう持ち続けたくありません。どうぞ手放せるように助けてください」と、人のせいにしないで自分の間違いを認めて、手放す意思を示すと高い自己は即座にそれを行ってくれます。

だから、こんな問題をつくってしまって!とか、こんなことを外に見る自分は酷すぎる!と、自分を責めることはなく、ただ静かに取り消しをしていきます。

わたしも以前はイヤな気持ちを感じると、過剰に活動的になったり、あるいはいろいろと気晴らしをしたり、刺激を求めたりしたものです。でも、どれも根本的な解決ではないと気づいたのも、だいぶいろいろとやってからです。(ほんとうに解決になっていないと心の底から気づかないと、なかなかやめないものですね。汗)

せっかく「ほんとうの自分に戻ってね!」というアラームが鳴っているのであれば、目をそらすことなく、どれどれ、この問題に関する気持ちをしっかりと真っ正面から受けとめて、そして高い自己に丸投げしちゃって、あとはうまくやってもらいましょう!(この渡す姿勢こそが重要なようです!)

まずは、イヤ〜な気持ちをちゃんと感じて受けとめる。そして、高い自己に委ねて依頼する!

あとは少しづつ気持ちも落ち着いてくるし、ムリに自分を好きにならなくても自然とありのままの自分でよいのだ!という信頼がもどってきます。そうすると、外の世界も安らぎが感じられるようになてくると思います。(^_^)v

 

 

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15-12-16 みんな、自分が嫌い?! その1

「職場で自分に対する嫌がらせが続いている。そしてそれが、だんだんエスカレートしてきている」とつらそうに語る友人のAちゃん。「そんな扱いを受けるんだから、じつは自分ってひどい人間に違いないんだ ・・・」と、すっかり自信をなくしてしまっている様子です。

私たちがしてしまう最大のミスは、外側の反応を見て、それで「自分の価値」や「自分の性質」を決めてしまうこと。こういう扱いを受けるんだから、そういう人に違いない ・・・と。でも、この考えだとメビウスの環にはまってしまいます。外にあるのは自分の心の投影(イメージの映しだし)なのに、みんなの反応こそ本当の自分を教えていると思ってしまうと、自分の間違った思い込みをさらに強化することになってしまうのです。そして、訂正の糸口がなくなってしまいます。

そこで、少しでも正しい考え方の助けになれば・・・と思い、一緒にランチをしたときに「嫌がらせが起ってしまう本当のメカニズム」について少し説明させてもらいました。

それはまず、「自分の体験することで、なに一つとして自分の思いとは別に外から勝手にやってくるものはない」ということ。つまり「わたしたちは常に自分の思いを外側に映しだして、それを体験している」。だから、「問題というのは、つねに外にあるのではなく自分の心のなかにこそあるのだ」、そして「あの人にあんなことをされた・・・と被害者になってしまうと、自分のなかにあるはずの問題をすり替えてしまい、まったく問題の解決に至れない」。結局は、「外に映しだされたものを見て、自分の心のなかにある思いに素直に気づいて、ただそれを変える必要がある」だけだということ。

すると、Aちゃんは「ああ、すべて自分なんだ」と理解できたところまではよかったのですが ・・・今度は、「この人たちにこんなひどいことをさせてる自分の思いって、いったい ・・・??そうとうヒドイに違いない。そんな自分こそゆるすことができない」になってしまったのです。

ありゃりゃ・・・さらに、Aちゃんは自分を責めるほうにいってしまいました。(いかん!逆効果!)わたしたちは、人に自分の痛みを被せて加害者に仕立てるか、あるいは自分こそが自分に対しての加害者になるか(自分を虐待するか)、つねにこのどちらかをギッタンバッコン、行ったり来たりしています。

でも、そのどちらも本当じゃないよ〜!!解説が足りてないようでした・・・(汗)。

セラピーをしていて思いますが、「自分をゆるせない」「こんな自分が嫌い」と感じている方は、ほんとうにほんとうに多いのです。そして、外がわで起っていることこそがまさに「自分をゆるすことができない」という自分の気持ちのあらわれです。つまり、誰も自分をひどく扱っているのではなく、結局は自分に対する自分の「虐待の気持ち」を変える、必要なのはこれだけです。

「問題は外にあるのではなくて、自分のなかにこそあることを認めなさい。つまり、あなたはそれだけひどいものを持っている、醜いのですよ」と言っているわけではないのです。

確かに、外にあるものは自分の心のなかのイメージです。これは心理学用語で投影といいます。自分の持っているとつらい思いを、外に投げ捨てて、まさに誰かのなかに見る。誰かのせいにして、「悪いのは私ではなくって、アイツだ!」というわけです。

でもここで、自分で持っていられずにばらまくことになってしまったものが「本当の自分」であると思ってしまうと、かなり絶望的なことになります。それを認めれば、自分の醜さを認めることになってしまうのですから。

でもね、わたしたちが持っている自分に対するイメージというのは、じつはまったく正しくなどありません。わたしたちは自分すら正しくみることができず、そのせいで人のことも正しく見ることができないのです。

私たちの自分に対するイメージは、まさに誤解の「かたまり」ともいえます。

さきほども書きましたが、はっきりと口にしなくても、あるいはちゃんと意識していなくても、みんな自分のことが本当は好きではないのです。ほんとうに正直になったとき、残念ながらみんな自分を憎んでしまっています。

「自分大好き!」と豪語して自分磨きにいそしんでいるお方でさえも、心の奥にひそむ自分を認めない感情が動機となって、さまざまなものを手に入れたり、さまざまな行動を起こしたり、さまざまなことを目指します。自分にモノやら体験やら、あらゆることをプラスせずには、そのままではとても認めることができず躍起になってしまっているのです。それが回遊魚のごとく忙しく自分を駆り立てる理由です。(もちろん、それを意識していることはまれです。)

でも、こんな必死の欠乏感も、不十分な自分という信念も・・・みんな勘違いから生じています。私たちはみんな、自分に対して勘違いなイメージばかりを握りしめて、その埋め合わせをするために日々を費やし、あたふたと動きまわっています。本当の自分のことはまったく理解していないのですね。

どうやって、本当の自分に出会うことができるのでしょうか?どうしたら、本当の自分を認められるようになれるのでしょうか?


(その2につづく)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「みんな、自分が嫌い?! その1」

「職場で自分に対する嫌がらせが続いている。そしてそれが、だんだんエスカレートしてきている」とつらそうに語る友人のAちゃん。「そんな扱いを受けるんだから、じつは自分ってひどい人間に違いないんだ ・・・」と、すっかり自信をなくしてしまっている様子です。

私たちがしてしまう最大のミスは、外側の反応を見て、それで「自分の価値」や「自分の性質」を決めてしまうこと。こういう扱いを受けるんだから、そういう人に違いない ・・・と。でも、この考えだとメビウスの環にはまってしまいます。外にあるのは自分の心の投影(イメージの映しだし)なのに、みんなの反応こそ本当の自分を教えていると思ってしまうと、自分の間違った思い込みをさらに強化することになってしまうのです。そして、訂正の糸口がなくなってしまいます。

そこで、少しでも正しい考え方の助けになれば・・・と思い、一緒にランチをしたときに「嫌がらせが起ってしまう本当のメカニズム」について少し説明させてもらいました。

それはまず、「自分の体験することで、なに一つとして自分の思いとは別に外から勝手にやってくるものはない」ということ。つまり「わたしたちは常に自分の思いを外側に映しだして、それを体験している」。だから、「問題というのは、つねに外にあるのではなく自分の心のなかにこそあるのだ」、そして「あの人にあんなことをされた・・・と被害者になってしまうと、自分のなかにあるはずの問題をすり替えてしまい、まったく問題の解決に至れない」。結局は、「外に映しだされたものを見て、自分の心のなかにある思いに素直に気づいて、ただそれを変える必要がある」だけだということ。

すると、Aちゃんは「ああ、すべて自分なんだ」と理解できたところまではよかったのですが ・・・今度は、「この人たちにこんなひどいことをさせてる自分の思いって、いったい ・・・??そうとうヒドイに違いない。そんな自分こそゆるすことができない」になってしまったのです。

ありゃりゃ・・・さらに、Aちゃんは自分を責めるほうにいってしまいました。(いかん!逆効果!)わたしたちは、人に自分の痛みを被せて加害者に仕立てるか、あるいは自分こそが自分に対しての加害者になるか(自分を虐待するか)、つねにこのどちらかをギッタンバッコン、行ったり来たりしています。

でも、そのどちらも本当じゃないよ〜!!解説が足りてないようでした・・・(汗)。

セラピーをしていて思いますが、「自分をゆるせない」「こんな自分が嫌い」と感じている方は、ほんとうにほんとうに多いのです。そして、外がわで起っていることこそがまさに「自分をゆるすことができない」という自分の気持ちのあらわれです。つまり、誰も自分をひどく扱っているのではなく、結局は自分に対する自分の「虐待の気持ち」を変える、必要なのはこれだけです。

「問題は外にあるのではなくて、自分のなかにこそあることを認めなさい。つまり、あなたはそれだけひどいものを持っている、醜いのですよ」と言っているわけではないのです。

確かに、外にあるものは自分の心のなかのイメージです。これは心理学用語で投影といいます。自分の持っているとつらい思いを、外に投げ捨てて、まさに誰かのなかに見る。誰かのせいにして、「悪いのは私ではなくって、アイツだ!」というわけです。

でもここで、自分で持っていられずにばらまくことになってしまったものが「本当の自分」であると思ってしまうと、かなり絶望的なことになります。それを認めれば、自分の醜さを認めることになってしまうのですから。

でもね、わたしたちが持っている自分に対するイメージというのは、じつはまったく正しくなどありません。わたしたちは自分すら正しくみることができず、そのせいで人のことも正しく見ることができないのです。

私たちの自分に対するイメージは、まさに誤解の「かたまり」ともいえます。

さきほども書きましたが、はっきりと口にしなくても、あるいはちゃんと意識していなくても、みんな自分のことが本当は好きではないのです。ほんとうに正直になったとき、残念ながらみんな自分を憎んでしまっています。

「自分大好き!」と豪語して自分磨きにいそしんでいるお方でさえも、心の奥にひそむ自分を認めない感情が動機となって、さまざまなものを手に入れたり、さまざまな行動を起こしたり、さまざまなことを目指します。自分にモノやら体験やら、あらゆることをプラスせずには、そのままではとても認めることができず躍起になってしまっているのです。それが回遊魚のごとく忙しく自分を駆り立てる理由です。(もちろん、それを意識していることはまれです。)

でも、こんな必死の欠乏感も、不十分な自分という信念も・・・みんな勘違いから生じています。私たちはみんな、自分に対して勘違いなイメージばかりを握りしめて、その埋め合わせをするために日々を費やし、あたふたと動きまわっています。本当の自分のことはまったく理解していないのですね。

どうやって、本当の自分に出会うことができるのでしょうか?どうしたら、本当の自分を認められるようになれるのでしょうか?

(その2につづく)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

恒例のくまちゃん詣出

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

クリスマスの恒例行事で、クマちゃんたちに会いに行ってきました。

いたいた!!

恵比寿のウェスティンが開業したころからこの子たちはいるから・・・もうずいぶんたちますね〜。クリスマスごとにだんだん顔なじみになってきて、「やあ!今年も会えたね♪」って。

ツリーが見えるところで、クリスマスアップルクランブルケーキをいただきました。

恵比寿ガーデンプレースのイルミネーションもきれい。☆