17-09-19 「死ねば?」が一転、「死にたい」 ・・・死は解決策?

「死ねば? おまえなんか、生きてる価値ないだろ?」 ・・・ 耳タコなぐらい聞きましたよね。あの議員さんの録音された暴言。そして一転、今度は「こんなことになって、(私は)死んでしまいたい」と。

そうね・・・ 無意識のうちに自分自身を憎んでいて、「自らを殺してしまいたい」と思っている人のみが、実際、人に対して「死ねば?(死んでしまえ)」と言ってしまうものです。たとえそれが人に向けられたとしても、言葉はいつも自分に対して発せられるものだから。

「殺してしまいたい」ほど価値がない自分だからこそ、死ぬほど頑張って、努力して、なんとか外から評価をえて、価値を見出そうとしたところ ・・・ みごとその計画が頓挫してしまったわけです。そうなれば、もちろん「死んでしまいたく」なるわけです。

そう ・・・不自然な努力というのは、きまって自分に対する価値の低さが動機となっています。そのむかし、妙に頑張り屋さんだった自分がいるので、わかるなあという感じ・・・(^^;; 。だから、なんとしても自己価値を取り戻すためには、あの方にとっては再出馬は必然なのでしょう。

おっと ・・・ 本日はそのようなことを書くつもりではありませんでした。 ・・・「死にたい」という言葉そのもののほうでした。

ひどく追いつめられているとき、あるいは苦しくって八方ふさがりなとき、私たちはふと「死にたい」という言葉を口にすることがあります。実行したいかには関係なく。

その場合、「死ぬ」 = 「楽になる」「リセットされる」「逃げられる」というイメージ。だから、「死にたい」 = もうラクにしてくれ〜!! ということ。

宗教的な教えや臨死体験の話しなどから、「死んだら」光のトンネルをとおってすばらしいところへ行き、すべてから解放されるとか、お花畑や懐かしい人々との再会、癒し、喜び、至福、などなど。

つまり、「死ぬ」 = 天国、極楽浄土、涅槃、解放、光、自由、癒し、という限りなくハッピーな図式になっているわけです。

でも夢をこわすようですが、残念ながらそんなことはありません。あ、もちろんそのような素晴らしい体験を「そのとき」はするかもしれませんが、「そのとき」限定でそれだけではない、ということです。それに、死後の体験はこの世と同様、その人の信じていることをまるまる反映しているので、三途の川も、天使のお迎えも、お好みのままに♪ という感じです。

このような「死ぬこと」の美化ということこそ、エゴのたくらみではないかと感じてしまいます。

苦しみというものの正体を見きわめることなく、美化された「死」というものに逃げるこむことで、心はせっかくもたらされた癒しの機会を逸っしてしまうのです。

そして、終わることのない永遠に苦しいこの世というものへ、輪廻をくりかえすことになります(そんなに苦しくはありませんが ・・・ という方は、さまざまなモルヒネ剤 〜お酒、ギャンブル、娯楽、恋愛、忙しさ、仕事、問題、抑圧 ・・・ 〜 というもので上手にごまかしているだけです。本当に正直になったときには、この世はやってられないぐらいじつはヘンんなところなのです)。

しっかりと心に向きあう習慣がないと、心が病んでいることにさえ気づくことができません。そして、心は癒されないまま放置され、ある種逃避をくりかえし(ムダな輪廻をくりかえし)、痛みや、怖れ、罪悪感という負債はどんどんつみ重なるばかりとなります。

これこそ、「絶対に苦しみから卒業させないぞ!」というのがエゴのたくらみそのものです。だからこそ、エゴは「死」というものを美化して、「死んじゃえば、すべてチャラになるよ」「気がついたら、すごくステキなところにいて、解放されているのさ」と言うのです。

そして、それは断じて「NO! 」なのです。

死んじゃうことで、リセットされることはありません。

ちょっと場面が転換しただけです。本当はここ(この世)にいることも、あちら(あの世)にいることも、本質的には同じなのです。なぜなら、どちらも心のなかで起きていることだからです。

隣の部屋に移動して、「ああ、あのゴミ(問題)だらけの景色は見えなくなった。これで安心だ」と思うかもしれません。だけど、ゴミをためこむのは自分の心の性癖であり、またゴミは本当は外側にあるのではなく自分の心のなかにあるので、部屋を変えようが、隣の家に行こうが、ゴミは自分についてまわります。

本当のところ、目のまえに問題があらわれるのは、それにおびえて逃げるためではなくって(もちろん、エゴはそれを目的としていますが)、本当はそれを取り消してきれいにするためです。

すでに、ここまでのおびただしい輪廻のくりかえしによって、そうとうな怖れや罪悪感を自らの無意識の心にためこんでしまっています。

私たちの高い意識が望むのは、痛みとも怖れとも罪悪感ともまったく無縁で、源(神)とまったく同じ制限のない力をもつ本来の私たちの姿に戻したいということです。

そのためには、本来の「自分ではないもの」をことごとく手放してゆく必要があります。無意識のこころにためこんだものをきれいにする必要があるのです。

その手放す作業としては、何が本来の自分ではないかを見極める必要があり、そのためにはいちいち体験していることを認識して、取捨選択の決断をしなければなりません。そのためにこそ、今までずっと自分を無為におどかして無力にしてきた痛み、怖れ、罪悪感のすべてが浮かび上がってくるのです。

そう、「もう、こんなものいらん!」と決断するため、手放すために、です。見て、選択してもらいたいのです。

だから、エゴにそそのかされて、それから目をそむけて、とっとと逃げてはいけないのです。

逃げる ・・・ 死んじゃった場合、隣の部屋に移動することで、しばしゴミは見えないかもしれません。でも、そうでした!ゴミは心のなかにあるので、逃げた先でもやっぱりゴミに煩わされます。で、また部屋を移動しよう!とする ・・・ それが、そこから抜け出してここに再び生まれる、輪廻するという決断です。

で、輪廻しました。あらら〜、また同じレッスンがっ(汗)!! それに、さらにハードル高くなってません? ってことになります(なんせ、ぜんぜんお片づけしていないからね)。

本当の平安、安らぎ、幸せ、解放、というものは、部屋(この世、あの世、中間世)の移動、場面の転換とはなんら関係がないのです。それは、ただひたすら心の問題なのです。

本当の終わりは、部屋、場面が連なる、苦しみのドラマから完全に脱すること。

そのためには、感じている痛み、怖れ、罪悪感にあざむかれることなく、しっかりと見極めて、自分の高い意識にゆだねて、もっていってもらうことが必要なのですね。

そうなると、真の苦しみからの脱出のために、問題ウェルカム! 痛み、怖れ、罪悪感、どんどんいらっしゃいということになります。だって、見極めれば見極めるほど、同じところをグルグルすることなく、真の「あがり」に近づくからです。

それこそが、間違ったこころからの脱出、本当の天国、涅槃、解脱です。

だから、問題と闘うのはやめましょう! 逃げるのもやめましょう!それがいったいなんなのか、見てやりましょう!

思いのほか、ちっぽけなものかも?! (*⁰▿⁰*)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )

 

気づきの日記「“死ねば?”が一転、“死にたい” ・・・死は解決策?」

「死ねば? おまえなんか、生きてる価値ないだろ?」 ・・・ 耳タコなぐらい聞きましたよね。あの議員さんの録音された暴言。そして一転、今度は「こんなことになって、(私は)死んでしまいたい」と。

そうね・・・ 無意識のうちに自分自身を憎んでいて、「自らを殺してしまいたい」と思っている人のみが、実際、人に対して「死ねば?(死んでしまえ)」と言ってしまうものです。たとえそれが人に向けられたとしても、言葉はいつも自分に対して発せられるものだから。

「殺してしまいたい」ほど価値がない自分だからこそ、死ぬほど頑張って、努力して、なんとか外から評価をえて、価値を見出そうとしたところ ・・・ みごとその計画が頓挫してしまったわけです。そうなれば、もちろん「死んでしまいたく」なるわけです。

そう ・・・不自然な努力というのは、きまって自分に対する価値の低さが動機となっています。そのむかし、妙に頑張り屋さんだった自分がいるので、わかるなあという感じ・・・(^^;; 。だから、なんとしても自己価値を取り戻すためには、あの方にとっては再出馬は必然なのでしょう。

おっと ・・・ 本日はそのようなことを書くつもりではありませんでした。 ・・・「死にたい」という言葉そのもののほうでした。

ひどく追いつめられているとき、あるいは苦しくって八方ふさがりなとき、私たちはふと「死にたい」という言葉を口にすることがあります。実行したいかには関係なく。

その場合、「死ぬ」 = 「楽になる」「リセットされる」「逃げられる」というイメージ。だから、「死にたい」 = もうラクにしてくれ〜!! ということ。

宗教的な教えや臨死体験の話しなどから、「死んだら」光のトンネルをとおってすばらしいところへ行き、すべてから解放されるとか、お花畑や懐かしい人々との再会、癒し、喜び、至福、などなど。

つまり、「死ぬ」 = 天国、極楽浄土、涅槃、解放、光、自由、癒し、という限りなくハッピーな図式になっているわけです。

でも夢をこわすようですが、残念ながらそんなことはありません。あ、もちろんそのような素晴らしい体験を「そのとき」はするかもしれませんが、「そのとき」限定でそれだけではない、ということです。それに、死後の体験はこの世と同様、その人の信じていることをまるまる反映しているので、三途の川も、天使のお迎えも、お好みのままに♪ という感じです。

このような「死ぬこと」の美化ということこそ、エゴのたくらみではないかと感じてしまいます。

苦しみというものの正体を見きわめることなく、美化された「死」というものに逃げるこむことで、心はせっかくもたらされた癒しの機会を逸っしてしまうのです。

そして、終わることのない永遠に苦しいこの世というものへ、輪廻をくりかえすことになります(そんなに苦しくはありませんが ・・・ という方は、さまざまなモルヒネ剤 〜お酒、ギャンブル、娯楽、恋愛、忙しさ、仕事、問題、抑圧 ・・・ 〜 というもので上手にごまかしているだけです。本当に正直になったときには、この世はやってられないぐらいじつはヘンんなところなのです)。

しっかりと心に向きあう習慣がないと、心が病んでいることにさえ気づくことができません。そして、心は癒されないまま放置され、ある種逃避をくりかえし(ムダな輪廻をくりかえし)、痛みや、怖れ、罪悪感という負債はどんどんつみ重なるばかりとなります。

これこそ、「絶対に苦しみから卒業させないぞ!」というのがエゴのたくらみそのものです。だからこそ、エゴは「死」というものを美化して、「死んじゃえば、すべてチャラになるよ」「気がついたら、すごくステキなところにいて、解放されているのさ」と言うのです。

そして、それは断じて「NO! 」なのです。

死んじゃうことで、リセットされることはありません。

ちょっと場面が転換しただけです。本当はここ(この世)にいることも、あちら(あの世)にいることも、本質的には同じなのです。なぜなら、どちらも心のなかで起きていることだからです。

隣の部屋に移動して、「ああ、あのゴミ(問題)だらけの景色は見えなくなった。これで安心だ」と思うかもしれません。だけど、ゴミをためこむのは自分の心の性癖であり、またゴミは本当は外側にあるのではなく自分の心のなかにあるので、部屋を変えようが、隣の家に行こうが、ゴミは自分についてまわります。

本当のところ、目のまえに問題があらわれるのは、それにおびえて逃げるためではなくって(もちろん、エゴはそれを目的としていますが)、本当はそれを取り消してきれいにするためです。

すでに、ここまでのおびただしい輪廻のくりかえしによって、そうとうな怖れや罪悪感を自らの無意識の心にためこんでしまっています。

私たちの高い意識が望むのは、痛みとも怖れとも罪悪感ともまったく無縁で、源(神)とまったく同じ制限のない力をもつ本来の私たちの姿に戻したいということです。

そのためには、本来の「自分ではないもの」をことごとく手放してゆく必要があります。無意識のこころにためこんだものをきれいにする必要があるのです。

その手放す作業としては、何が本来の自分ではないかを見極める必要があり、そのためにはいちいち体験していることを認識して、取捨選択の決断をしなければなりません。そのためにこそ、今までずっと自分を無為におどかして無力にしてきた痛み、怖れ、罪悪感のすべてが浮かび上がってくるのです。

そう、「もう、こんなものいらん!」と決断するため、手放すために、です。見て、選択してもらいたいのです。

だから、エゴにそそのかされて、それから目をそむけて、とっとと逃げてはいけないのです。

逃げる ・・・ 死んじゃった場合、隣の部屋に移動することで、しばしゴミは見えないかもしれません。でも、そうでした!ゴミは心のなかにあるので、逃げた先でもやっぱりゴミに煩わされます。で、また部屋を移動しよう!とする ・・・ それが、そこから抜け出してここに再び生まれる、輪廻するという決断です。

で、輪廻しました。あらら〜、また同じレッスンがっ(汗)!! それに、さらにハードル高くなってません? ってことになります(なんせ、ぜんぜんお片づけしていないからね)。

本当の平安、安らぎ、幸せ、解放、というものは、部屋(この世、あの世、中間世)の移動、場面の転換とはなんら関係がないのです。それは、ただひたすら心の問題なのです。

本当の終わりは、部屋、場面が連なる、苦しみのドラマから完全に脱すること。

そのためには、感じている痛み、怖れ、罪悪感にあざむかれることなく、しっかりと見極めて、自分の高い意識にゆだねて、もっていってもらうことが必要なのですね。

そうなると、真の苦しみからの脱出のために、問題ウェルカム! 痛み、怖れ、罪悪感、どんどんいらっしゃいということになります。だって、見極めれば見極めるほど、同じところをグルグルすることなく、真の「あがり」に近づくからです。

それこそが、間違ったこころからの脱出、本当の天国、涅槃、解脱です。

だから、問題と闘うのはやめましょう! 逃げるのもやめましょう!それがいったいなんなのか、見てやりましょう!

思いのほか、ちっぽけなものかも?! (*⁰▿⁰*)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )

 

10月の「ヒプノセラピー体験セミナー」by 日本ヒプノセラピー協会 のご案内

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

9月の「ヒプノセラピー体験セミナー」が終了いたしました。

毎月感じるのですが、ご参加のみなさまによって、体験セミナーの内容もまったく違ったものとなります。お越しくださった方々の「知りたいこと」「興味のあること」「役に立つこと」、そして「そのとき、なぜかお伝えしたいと思うこと」を感じながら、そのときどきにあったお話しをさせていただくからです。

今回もリラックスしたおしゃべりモードで、あっというまの楽しいお時間でした。ありがとうございました。

10月の開催は以下のとおりです。

「ヒプノってなに?」「リッラクスしてみたいな」「もっと知りたい」という方、是非お気軽にご参加になってみてください。心地よいヒプノ体験とともに、少しこころが軽くなり、ヒプノセラピーの効果を実感していただけることと思います。

【 ヒプノセラピー体験プチセミナー 10月 のご案内】

「ヒプノセラピーってなに?」「どんな効果があるの?」「誰にでもできるの?」「ほかのセラピーとどう違うの?」「セラピストになるには?」・・・

リラックスした雰囲気のなかで、ヒプノセラピーについてのあれこれを学びながら、実際に体験することができるプチセミナーです。日々の疲れがとれたり、あるいは、心について、自分自身について、新たな気づきがあるかもしれません。どなたでも、気軽にご参加ください♪

*内容
・ヒプノセラピーってなに? どんな効果があるの?
・ヒプノセラピーと他のセラピーの違いは?
・ヒプノにかからない人がいる? 誰にでもできるの?
・ヒプノセラピーはなぜそんなに効果的なの?
・リラックスできるヒプノセラピー、プチ体験
・ヒプノセラピストになりたいけど・・・養成コースについてもっと知りたい
・お茶を飲みながら、ヒプノセラピーなんでも Q&A

*日時 : 10月16日(月) 19:00~20:15

*場所 : 表参道(渋谷区)

*講師 : 古川貴子、酒井統子
(ヒプノセラピスト、日本ヒプノセラピー協会講師)

*参加料 : 2,000円(お茶とお菓子つき)
【お試し期間終了のため料金が変更となりました】

*お申し込み方法 → こちらのフォームからどうぞ

(「体験コース」参加希望とご記入のうえ、希望の日にちをご明記ください。)
追って詳細をお知らせさせていただきます。

ヒプノセラピーってなに? → こちらから
ヒプノセラピーを受けてみたい → こちらから
ヒプノセラピーを学んでみたい → こちらから(日本ヒプノセラピー協会サイト)

 

17-09-15 誰もがしている・・・自分への呪い

ほんとうに私たちのこころというのは、自由で、柔軟で、パワフル・・・。

ある意味じゃ、躾られていないお子ちゃまのようでもあります。野放しにしていると、知らないうちに自分のこころのパワーで自分の首をグイグイしめあげることになってしまうことも ・・・ご用心!

といっても ・・・ ほとんどの方がすでに手遅れで(汗)、気づかぬうちに何らかのこころの呪縛につながれてしまっています(もし、完全に呪縛がとけていたら、とっくにここになぞいないことでしょう)。

呪縛にかかっていることにさえ気づいていないのだから、本当は不自由なのにそれを問題だとさえ感じていないかもしれません。だから、みんな誰もが自分のこころのパワーのギセイ者だ、といえるのです。

どんなふうに ・・・ ?

たとえば、小学校にあがる頃、なかなか自分の名前が書けるようにならなかったとします。

何度も教えながら、ついに業を煮やしたお母さんはイライラがきわまって言うのです。「こんなことも覚えられないなんて、ほんっとあなたってバカだわ」。

すると、「お母さんがそう言うんだから(こどもにとって親は神さまのような存在なので)、そうに違いない」と、自らに『ぼくはどうしようもないバカです。そのうえ愛されていません』というレッテルをはって、以降、10歳になっても、30歳になっても、80歳になっても、そのレッテルどおりに生きようとします。

そのレッテルが間違いであること(つまり、発達には個人差があり、それは自分の価値とは関係ない、つまりバカではないこと)に気づいて、意識的に正されない限りは、ずっと『ぼくはどうしようもないバカ』を自らやり続け、自分自身をそのように扱い、人にもそのように扱わせます。つまり、「バカなひと」のポジションに自らおさまり続けるのです。

他にもさまざまなバーションがあって、それらはそんなに大ごととは思えないことですが、それがこっそり呪縛となってしまっています。

例えば外で遊んで、汗だく真っ黒で帰宅したときのお母さんのひとこと。「あなた、ホントくさいわよ」と言われて、自分という存在は「くさいのだ」と決めてしまい、以後人のそばに行くことを避け、ずっと自分を孤独にしていた人もいました。

でも、その原因である「自分はくさい」は忘れさられ、なぜ自分は人に近づけないのか自分でもわからないのです。

あるいは、お手伝いをしなかったことから、「まったく気のきかない子だね」と言われてしまったことで、逆に過敏なまでにまわりに気をつかいまくる子になっちゃったり。

幼稚園から帰ってきて、いろんなことを報告したくておしゃべりしていたら、お母さんのムシのいどころが悪くって、「まったく、つまんないことばっかりしゃべってるんじゃないわよ」と言われて、それからは妙にコメディアンチックに脚色したおもしろい話しを必死でするようになったり(この場合、必要以上に場を盛りあげる人になったりします)。

また、女の子によく見られるのは、生まれたときのお父さんのひとことによるもの。「また女か ・・・(チッ)」(男の子がほしかったのですね)。

赤ちゃんだからわからないと思っていても、この言葉は意外にもちゃんと理解されていて(というよりも、態度でわかっちゃうんですよね)、人生最初の拒絶としてこころに刻印されます。するとその子は、女の子であることに無価値感を感じて、男の子のようにふるまったり、自己卑下したりし続けます。

このようなひとことは、親も人間なので、そんなに悪気もなくふと出てしまったか、あるいはムシのいどころが悪かったか、あるいはこころが傷ついていたというだけなのですが、それを受けとったこどもはその愛のないひとことで、自分の価値に傷をつけ、一生自分に呪縛をかけてしまうのです。

呪縛はそのうちとけるのでしょうか・・・?

残念ながら、そうはいきません。

こころにはそれだけのパワーがあり、その呪いはちょっとやそっとじゃとけないのです。とけないように、ちゃんとこころの深いところにしまわれて、忘れさられます。

だから、そもそも自分がなぜ「自分をバカだと信じているのか」「自分は汚いと決めているのか」「自分の気持ちをギセイにして気づかうのか」「必要以上に明るくふるまおうとするのか」「自分を嫌悪するのか」 ・・・ その理由がまったくわからなくなります。ただ、そういうものだと思ってしまいます。

それが本当の自分ではないのだ、ということにすら気づけません。でも、どこか苦しさを感じていることでしょう。

言えることは、バカだと思っている人は絶対バカではないし、汚いと決めている人は汚くもないし、気づかいをしすぎる人はリラックスして動けるはずだし、ヘンに明るいひとももっと自然体でいられるはずだし、自分を嫌悪する人は自分に対して好きも嫌いもなくそのままでいられるはずなのです。

こんなふうに、「自分で自分に呪いをかける」ということをとてもわかりやすく描写していたアニメがありました。

「心が叫びたがっているんだ。」 ・・・ 最近は実写も話題になっているようですが、私はアニメで見ました。

この話のなかには、お母さんの自分に対する態度と言葉から、自分に呪いをかけてしまった女の子が出てきます。口がきけなくなってしまうのです。

しかし、呪いをかけてしまったことにはまったく気づかず、この呪縛がかかった状態が自分なのだと思って日々をおくります。つまり、本当の自分を閉じ込めた状態。

これを見たとき、ああ、大なり小なり、私たちみんな、もれなくやっているよね〜 ・・・、人ごとではないと感じました。

この女の子は「自分で自分に呪いをかけていた」と「気づく」ことによって、はじめてその呪いをとくことができるのです。本来の自分へと戻ることができるのです。

これは私たちも同じ。すべての呪縛は、それがどのようなことなのか、「自分に対して何をしたのか」を認識して、はじめてそれを手放すことができるのです。

だから、どんな痛みや苦しみ、不具合、問題にしても、それを無視しつづけて、顔をそむけたままでは、決してそれを解決することができません。

けれど、ああ、こんなことをこころに決めてしまっていた、それを信じてしまっていたからそうなっていたんだ。そして、その決めていたことはもう必要ないと、ちゃんと認識してあげることによって、はじめてそれを解除して、呪いから自由になることができるのです。

すべての問題は、自分以外のところ、自分の外側で起こっていることはひとつとしてありません。

いったい「自分で自分に何をしてしまったのか?」 ・・・ それをしっかりと認めるまでは、やめることができないのです。たとえ、それが母や父や、他の誰かが原因のように見えたとしても、結局は自分のこころがあることを決断して、その状況で自分を生きやすくするために自分に呪いをかけるのです。

すべての問題は、しっかりとひも解いて、「ああ、こういうことが起こっていたんだ」と認識することが欠かせません。うやむやにしてもそのうち解決は望めません。だから、ちゃんとそれを手のひらにのせて、しっかりと見てあげること。

ちゃんと認識してあげる、直視したときに、その呪縛をはじめてとくことができます。本当の自分へと、選びなおすことができるのです。

だから、何か人生で不具合が起きているときには、ちょっと落ち着いて、何が起こっているのか、しっかりと向かい合って見てあげること。

呪縛を解いてくれる王子さまを待ち続けるのではなく、自分が自分の王子さまになるべく、自分の呪いを解いてあげましょう!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「誰もがしている・・・自分への呪い」

ほんとうに私たちのこころというのは、自由で、柔軟で、パワフル・・・。

ある意味じゃ、躾られていないお子ちゃまのようでもあります。野放しにしていると、知らないうちに自分のこころのパワーで自分の首をグイグイしめあげることになってしまうことも ・・・ご用心!

といっても ・・・ ほとんどの方がすでに手遅れで(汗)、気づかぬうちに何らかのこころの呪縛につながれてしまっています(もし、完全に呪縛がとけていたら、とっくにここになぞいないことでしょう)。

呪縛にかかっていることにさえ気づいていないのだから、本当は不自由なのにそれを問題だとさえ感じていないかもしれません。だから、みんな誰もが自分のこころのパワーのギセイ者だ、といえるのです。

どんなふうに ・・・ ?

たとえば、小学校にあがる頃、なかなか自分の名前が書けるようにならなかったとします。

何度も教えながら、ついに業を煮やしたお母さんはイライラがきわまって言うのです。「こんなことも覚えられないなんて、ほんっとあなたってバカだわ」。

すると、「お母さんがそう言うんだから(こどもにとって親は神さまのような存在なので)、そうに違いない」と、自らに『ぼくはどうしようもないバカです。そのうえ愛されていません』というレッテルをはって、以降、10歳になっても、30歳になっても、80歳になっても、そのレッテルどおりに生きようとします。

そのレッテルが間違いであること(つまり、発達には個人差があり、それは自分の価値とは関係ない、つまりバカではないこと)に気づいて、意識的に正されない限りは、ずっと『ぼくはどうしようもないバカ』を自らやり続け、自分自身をそのように扱い、人にもそのように扱わせます。つまり、「バカなひと」のポジションに自らおさまり続けるのです。

他にもさまざまなバーションがあって、それらはそんなに大ごととは思えないことですが、それがこっそり呪縛となってしまっています。

例えば外で遊んで、汗だく真っ黒で帰宅したときのお母さんのひとこと。「あなた、ホントくさいわよ」と言われて、自分という存在は「くさいのだ」と決めてしまい、以後人のそばに行くことを避け、ずっと自分を孤独にしていた人もいました。

でも、その原因である「自分はくさい」は忘れさられ、なぜ自分は人に近づけないのか自分でもわからないのです。

あるいは、お手伝いをしなかったことから、「まったく気のきかない子だね」と言われてしまったことで、逆に過敏なまでにまわりに気をつかいまくる子になっちゃったり。

幼稚園から帰ってきて、いろんなことを報告したくておしゃべりしていたら、お母さんのムシのいどころが悪くって、「まったく、つまんないことばっかりしゃべってるんじゃないわよ」と言われて、それからは妙にコメディアンチックに脚色したおもしろい話しを必死でするようになったり(この場合、必要以上に場を盛りあげる人になったりします)。

また、女の子によく見られるのは、生まれたときのお父さんのひとことによるもの。「また女か ・・・(チッ)」(男の子がほしかったのですね)。

赤ちゃんだからわからないと思っていても、この言葉は意外にもちゃんと理解されていて(というよりも、態度でわかっちゃうんですよね)、人生最初の拒絶としてこころに刻印されます。するとその子は、女の子であることに無価値感を感じて、男の子のようにふるまったり、自己卑下したりし続けます。

このようなひとことは、親も人間なので、そんなに悪気もなくふと出てしまったか、あるいはムシのいどころが悪かったか、あるいはこころが傷ついていたというだけなのですが、それを受けとったこどもはその愛のないひとことで、自分の価値に傷をつけ、一生自分に呪縛をかけてしまうのです。

呪縛はそのうちとけるのでしょうか・・・?

残念ながら、そうはいきません。

こころにはそれだけのパワーがあり、その呪いはちょっとやそっとじゃとけないのです。とけないように、ちゃんとこころの深いところにしまわれて、忘れさられます。

だから、そもそも自分がなぜ「自分をバカだと信じているのか」「自分は汚いと決めているのか」「自分の気持ちをギセイにして気づかうのか」「必要以上に明るくふるまおうとするのか」「自分を嫌悪するのか」 ・・・ その理由がまったくわからなくなります。ただ、そういうものだと思ってしまいます。

それが本当の自分ではないのだ、ということにすら気づけません。でも、どこか苦しさを感じていることでしょう。

言えることは、バカだと思っている人は絶対バカではないし、汚いと決めている人は汚くもないし、気づかいをしすぎる人はリラックスして動けるはずだし、ヘンに明るいひとももっと自然体でいられるはずだし、自分を嫌悪する人は自分に対して好きも嫌いもなくそのままでいられるはずなのです。

こんなふうに、「自分で自分に呪いをかける」ということをとてもわかりやすく描写していたアニメがありました。

「心が叫びたがっているんだ。」 ・・・ 最近は実写も話題になっているようですが、私はアニメで見ました。

この話のなかには、お母さんの自分に対する態度と言葉から、自分に呪いをかけてしまった女の子が出てきます。口がきけなくなってしまうのです。

しかし、呪いをかけてしまったことにはまったく気づかず、この呪縛がかかった状態が自分なのだと思って日々をおくります。つまり、本当の自分を閉じ込めた状態。

これを見たとき、ああ、大なり小なり、私たちみんな、もれなくやっているよね〜 ・・・、人ごとではないと感じました。

この女の子は「自分で自分に呪いをかけていた」と「気づく」ことによって、はじめてその呪いをとくことができるのです。本来の自分へと戻ることができるのです。

これは私たちも同じ。すべての呪縛は、それがどのようなことなのか、「自分に対して何をしたのか」を認識して、はじめてそれを手放すことができるのです。

だから、どんな痛みや苦しみ、不具合、問題にしても、それを無視しつづけて、顔をそむけたままでは、決してそれを解決することができません。

けれど、ああ、こんなことをこころに決めてしまっていた、それを信じてしまっていたからそうなっていたんだ。そして、その決めていたことはもう必要ないと、ちゃんと認識してあげることによって、はじめてそれを解除して、呪いから自由になることができるのです。

すべての問題は、自分以外のところ、自分の外側で起こっていることはひとつとしてありません。

いったい「自分で自分に何をしてしまったのか?」 ・・・ それをしっかりと認めるまでは、やめることができないのです。たとえ、それが母や父や、他の誰かが原因のように見えたとしても、結局は自分のこころがあることを決断して、その状況で自分を生きやすくするために自分に呪いをかけるのです。

すべての問題は、しっかりとひも解いて、「ああ、こういうことが起こっていたんだ」と認識することが欠かせません。うやむやにしてもそのうち解決は望めません。だから、ちゃんとそれを手のひらにのせて、しっかりと見てあげること。

ちゃんと認識してあげる、直視したときに、その呪縛をはじめてとくことができます。本当の自分へと、選びなおすことができるのです。

だから、何か人生で不具合が起きているときには、ちょっと落ち着いて、何が起こっているのか、しっかりと向かい合って見てあげること。

呪縛を解いてくれる王子さまを待ち続けるのではなく、自分が自分の王子さまになるべく、自分の呪いを解いてあげましょう!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

お花グッズにご縁があるこのごろ

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

最近、お花グッズがつぎつぎやってきてくれます。

〜その1〜

Kちゃんは、たびたびスマホケースをプレゼントしてくださるのですが ・・・ それはときとして、3センチぐらいのビジューがごろごろ着いているキランキランなケースだったりして、「それ、スゴっっ(驚)」ってみなさまの注目の的となっておりました(笑)。なかなか自分じゃチョイスできないタイプのものだったので楽しかったのです。

今回は秋らしいワイン色の花柄。イヤホンジャックの大きなポンポンとタッセルがチャームポイントです♡

これも、「そのポンポン、スゴイね〜!」とやはりリアクションされます。(≧∀≦)

素敵なの選んでくれてありがと〜♪

〜その2〜

Eちゃんにいただいたお花シール。

これは、リアル押し花なのです。色がカラフルで鮮やか。Eちゃんには以前、本物のお花のクッキーをいただいたことがありましたっけ。このシールに似ています。

しばらく、しおりがわりに使おうかな〜。

マスキングテープもお花模様で、ウォッシュドな色合いがおしゃれです。

Eちゃんは、ちょっとめずらしい可愛いものをいっぱい知っていて、シェアしてくれます。いつもありがとう♡

〜その3〜

Mちゃんの長野土産、ローズやマローブルーというお花のハーブティー。

これは是非、ガラスのポットで色を楽しまなくちゃね。

今の私にぴったりな調合をお店の方と選んでくれたそう。お気づかいありがと〜♡

日常のちょっとしたお花、癒されます。(^-^)

 

 

ふと、呼びとめられたようで

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

夕方のセッションが終わって、

夕焼けにそまった空を見上げながらぶらぶらお散歩をしていたとき、

ふと、だれかに呼びとめられたように感じて

ふりむいてみると ・・・

わあ♡♡♡

虹! ♫•*¨*•.¸¸♪

夕焼け空の虹って、はじめて。

嬉しくなって、すぐにお友だちにプレゼントいたしました♡

 

 

17-09-06 優雅な野獣 ポルーニン

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

バレエダンサーのしなやかな跳躍。

とくに、男性ダンサーのジャンプのダイナミックさといったら! 空宙でも軸がぶれることなく型がぴたっときまっていて、まるでスローモーションのように見えるときもあります。そして、ふわりと着地。笑顔。

今、公演チケット詐欺ですっかり話題になっているダンサー、ポルーニン。彼のドキュメンタリーフィルム「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」、とってもよかったです。

ほんとに、彼のジャンプは優雅です。まるで重力とは別の世界にいるように見えるけれど ・・・内情といえば、超過酷。ほんとはボロボロなのですね。

「舞台は戦いだ」「情熱がなくなったら踊れない」とポルーニン。開演のベルがなるやサプリとスタミナドリンクを流しこみ、「これで痛みを忘れるし、だんだんハイになる」と ・・・ (いったい、なに飲んでるのだ?!)。

彼の踊りは、鬼気迫るものを感じます。

でも、一幕が終わった楽屋では、衣装の着替えすらままならないほど、体をなげだす疲れきった姿があります。


セルゲイ・ポルーニンは、ウクライナのバレエ学校にいるときから、すでに突出していて、最年少の19歳で英国ロイヤル・バレエに入団、あっというまにプリンシパル(・・・ その後、22歳であっさり退団)。

それは、人の何倍も練習する影の努力があってこそ。自分の学費を稼ぐために出稼ぎでバラバラになってしまった家族を、成功することで救いたい、もう一度ひとつにしたいという気持ちがあったから。でも、「情熱がなくなったら踊れない」という彼は、両親の離婚で踊るための決定的なモチベーションを失います。そこから、どんどんコワレていくのです。

体じゅう数十カ所の入れ墨、ドラッグ、すっぽかし、奇行 ・・・ それでも、踊り続けないと、すぐに踊れなくなるというジレンマ。牢獄にとじこめられたようで、「才能豊かな問題児」は葛藤します。

「もう自由になりたい!引退する!」 と、最後のフィルムを自分らしい作品にしようと情熱を傾けます。感情をぶつけるように床をころがりまわり、宙を舞う、コンテンポラリーなダンス。

そして、そのフィルムを撮り終わったら ・・・ 引退 ・・・ のはずが、ナント、ふっきれた! また「踊りたい」と。

天才と言われるような一流ダンサーの舞台裏、ほんとうに過酷ですね。

そして、磨き抜かれた筋肉そのものであるしなやかな肉体美、それを維持するためのたゆまぬ努力。 ・・・ 引退する日までそれをストイックに守りぬくのだな〜(ため息)。

バレエを観ていると、華やかなエトワールにばかり目がいってしまうけれど、男性プリンシパルの優雅でダイナミックな踊りにもご注目あれ。その演技に息をのみます。

↑ このみごとなジャンプ! ミロノフ先生みたい〜♡(これがわかった方は、かなりふるい!笑)
きれいな「上」の字、これはもじもじくんにスカウトされるかも。全身タイツでも似合うだろうから(笑)、問題なしですね!

 

 

お茶の間シネマトーク「優雅な野獣 ポルーニン」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

バレエダンサーのしなやかな跳躍。

とくに、男性ダンサーのジャンプのダイナミックさといったら! 空宙でも軸がぶれることなく型がぴたっときまっていて、まるでスローモーションのように見えるときもあります。そして、ふわりと着地。笑顔。

今、公演チケット詐欺ですっかり話題になっているダンサー、ポルーニン。彼のドキュメンタリーフィルム「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」、とってもよかったです。

ほんとに、彼のジャンプは優雅です。まるで重力とは別の世界にいるように見えるけれど ・・・内情といえば、超過酷。ほんとはボロボロなのですね。

「舞台は戦いだ」「情熱がなくなったら踊れない」とポルーニン。開演のベルがなるやサプリとスタミナドリンクを流しこみ、「これで痛みを忘れるし、だんだんハイになる」と ・・・ (いったい、なに飲んでるのだ?!)。

彼の踊りは、鬼気迫るものを感じます。

でも、一幕が終わった楽屋では、衣装の着替えすらままならないほど、体をなげだす疲れきった姿があります。


セルゲイ・ポルーニンは、ウクライナのバレエ学校にいるときから、すでに突出していて、最年少の19歳で英国ロイヤル・バレエに入団、あっというまにプリンシパル(・・・ その後、22歳であっさり退団)。

それは、人の何倍も練習する影の努力があってこそ。自分の学費を稼ぐために出稼ぎでバラバラになってしまった家族を、成功することで救いたい、もう一度ひとつにしたいという気持ちがあったから。でも、「情熱がなくなったら踊れない」という彼は、両親の離婚で踊るための決定的なモチベーションを失います。そこから、どんどんコワレていくのです。

体じゅう数十カ所の入れ墨、ドラッグ、すっぽかし、奇行 ・・・ それでも、踊り続けないと、すぐに踊れなくなるというジレンマ。牢獄にとじこめられたようで、「才能豊かな問題児」は葛藤します。

「もう自由になりたい!引退する!」 と、最後のフィルムを自分らしい作品にしようと情熱を傾けます。感情をぶつけるように床をころがりまわり、宙を舞う、コンテンポラリーなダンス。

そして、そのフィルムを撮り終わったら ・・・ 引退 ・・・ のはずが、ナント、ふっきれた! また「踊りたい」と。

天才と言われるような一流ダンサーの舞台裏、ほんとうに過酷ですね。

そして、磨き抜かれた筋肉そのものであるしなやかな肉体美、それを維持するためのたゆまぬ努力。 ・・・ 引退する日までそれをストイックに守りぬくのだな〜(ため息)。

バレエを観ていると、華やかなエトワールにばかり目がいってしまうけれど、男性プリンシパルの優雅でダイナミックな踊りにもご注目あれ。その演技に息をのみます。

↑ このみごとなジャンプ! ミロノフ先生みたい〜♡(これがわかった方は、かなりふるい!笑)
きれいな「上」の字、これはもじもじくんにスカウトされるかも。全身タイツでも似合うだろうから(笑)、問題なしですね!

 

 

17-09-03 計画すると ・・・うまくいかないの?(汗)

カフェの隣のテーブルで、男性が女性に熱っぽく語っています。

「○○さん、あなたの10年後、20年後の計画をうかがいましょか? それが描けなくて、いったい何ができるんでしょ?」「え、わからない? それじゃ、何も手にできないのも同然でっせ?」 ・・・ どうやら、コーチングの熱血コーチとクライエントさんのようです。

また別の日、FMを聞きながら仕事をしていたときのナビゲーターとゲストさんの会話。

「キャリアプランなんてしますか?」とナビゲーターさん。様々なことを形にしているゲストのアーティストさんは、「10年後、20年後のプランなんてまったく意味ないです。計画してもそうならないし。大切なのは今やっていることです」

あなたはどちらに賛成しますか? 緻密に計画する派? それとも行きあばりばったりで今に集中する派?

じつは私も、以前は緻密な計画こそ大切だと思っていたときがあったので、このコーチの言葉にむかしの自分を懐かしんだり。また、キャリアコンサルの勉強をしていたときにも、キャリアを築くために10年後、20年後のプランニングをして、そこから今の行動計画を導き出すということを習いました。

でも実際のところ ・・・ プランニングは意味がありません。

状況は、生きもののように一瞬一瞬変化し、気持ちもどんどん変わります。人生は、つねに形を変えながら流れてゆくのです。

プランニングをすると、過去の自分という型に今の新しい自分をおしこむことになります。「今」という流れに乗れなくなってしまうのです。

また、プランニングしてそれに執着すればするほど、そうならない挫折感と歯痒さを感じることになります。

ならば、どうするのがよいのでしょ?!

「たった今」、この瞬間に目のまえにあるものにしっかりとかかわる。それだけで十分。しっかりかかわっていると、その今というもののなかに、次への方向指示器があらわれるのです。つまり、進むべき道が自然とあらわれるのです。楽しさや喜びやつながりや、安らぎとともに。

けれど、どうしてもこっちの方向に行きたい、自分で自分の道を開拓して舗装するんだ! といいはると ・・・ 私有地につきあたったり、大きな岩に出くわしたり、開拓中に災難にみまわれたり ・・・困難が多くなったり、進めなくなることに。

その一方、今、ただ目のまえにあることに夢中で取り組むと、また目のまえに道があらわれて、それをそのまま進むと、また次の道があらわれて ・・・あら? 気がついたらこんなことに ・・・ というなりゆきになるのです。つまり、自力でななく自然の流れにのるということ。

「そうはいっても、今までプランニングすることで、それがちゃんと叶ってきたんです」という場合もあります。それには、二つのパターンが考えられるのです。

「プランニング」が本来の自分である源の思いとチューニングしていたから。つまり。自然と本来すすむべき道を歩んでいたというわけ。

もうひとつのパターンは、エゴちゃんのワナにはまってホンロウされている場合。エゴは、持ち上げては思いっきり突きおとすのが大好き。

つまり、エゴはたっぷりとエサをあたえておいて(どんどん自分が計画したことが叶うと思わせて)、ノリノリで進んでいかせて、その先に大っきな穴を掘って待ちかまえているのです。つまり、ニンジンをぶらさげて一気に走らせて、ニンジンに食らいついた! と思った瞬間、ガケから真っさかさま。

この「持ちあげては、一気に落とす」という繰りかえしのワンパターンにいつ気づけるか、あるいは一生やってもまだ懲りない場合もあります。「次こそきっとうまくいくはず」「あそこがダメだったからその次にはきっと 」・・・・。その思いで、私たちは何度もこの世に戻ってこられるのです。

自分で「大きな夢を思い描いて、叶える人生」というのは、とてもアグレッシブで、エゴの自尊心をわくわくさせるし、成功している人生のお手本のようにも見えます。けれど、以上のような理由でおススメいたしません(笑)。

目のまえに「与えてくださるものを受けとります」という、ちょっとヨワヨワにみえる態度こそ、じつはいちばんうまくいくし、安らかな幸せへの道。なぜなら、エゴちゃんと結託しているのではなく、「すでに自分の権利として与えられている本来の幸せを受けとります」といっているからなのです。

今に取り組むことで、そこで扉がひとつひとつ開きます。そして、扉がひとつ開くごとに、自分では予想もできないような方向へ導かれてゆきます(エゴちゃんと仲良くしているときには、いつも予想通りのことしか起こりません。予想外は不幸の前兆だけ!)。

ただ、目のまえのことを受けとってゆくと、自分にとってはダメージだと思えていたことが、「これがあってこそ!」というターニングポイントに変化したりします。けれど、絶対このやり方でこっちの道に進みたい!と固執していると、突如それは行き止まりになってしまったりします。

小さいときから誰もが言われてきた「自分で考えなさい」「頭つかいなさい」という教えから、ついつい本当は頼りにならない自分に必死で頼ろうとして、あれこれ緻密に計画したり、「ああならないように、こうしよう」と防御をはりめぐらします。

しかし、それこそがワンパターンにはまりこむワナ。

「自分で計画しないなんてコワイ!」と思っても、とりあえず「今やっていること、今できること、今目のまえにあることに集中してみる」、手放してみる。アタマで考えずに、今の自分のハート(楽しさ、喜び、安らぎ)に導いてもらいましょう。これが、今までのパターンから抜け出すには大切なことなのですね♡

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )