17-03-18 【終了】「こころのデトックス セミナー」@(株)アルファブライトさん

(株)アルファ ブライト さんにてセミナーをさせていただきました。

こちらは就労支援をしている事業所さんで、セミナーのご参加者は就労について何らかの問題をかかえていらっしゃる方々。なので、今回は少しでも前むきに、目標に向かって行けるようになるために、「こころのデトックス(お掃除)」についてのセミナーをいたしました。

日々の生活からはじまって、仕事や目標の達成がうまくいかないとき、わたしたちはあれこれ「考えすぎてしまう」あまりエネルギーを浪費してしまい、必要な活動をするのためのパワーが残っていないという状態になってしまいます。

スムーズに動けるようになるためには、「こころのお掃除」、つまりゴミ出しがかかせません。そのためには、「考える」よりは「感じる」習慣をつける必要があるのです。感じることによって、感情はやってきてはさって行くというようにスムーズに消えさっていきます。

でも、そもそも「感じる」よりも「考える」ことをはじめてしまう原因とは、「自分の感情は自分を傷つけるものだ」と信じこんでしまったためです。感情は自分にとってキケンなものなので、触れたくない。だから、隠そうとするわけです。

しかし、本当に自分を傷つけているのは、それを「感じてしまう」ことではなく、感じるのをさけて「考えでごまかしてしまう」ときです。

そうなんです。感じるのに抵抗がある場合(感じることは危ないという信念が無意識のうちにある場合)、何かが起こって感情が発生しそうになると、即座に「考え」に置きかえて感情を煙にまいてしまいます。その結果、見ないようにしておかなければならない感情がどんどんふえて、それを押さえこんでおくために多大なエネルギーを費やすこととなるのです。

たとえば、誰かからひどいひとことを言われた場合。

言われた瞬間というのは、鉛のボールを身体に当てられたように、こころはボコンとへこみ、痛みを感じます。打撃を受けたわけです。それはきっと、「悲しい」「痛い」という感情です。でもここで、あっというまにその感情は煙幕にまかれたように隠しさられます。そして、わたしたちがすぐにフォーカスするのは、その「悲しみ」「痛み」を隠すための道具である「怒りや不満」なのです。

傷ついたことなんかぜったいに認めたくない。だから、すぐに反撃に出ねば! という感じです。

これがあまりにも素早いので、わたしたちは本当に感じるということができなくなってしまいます。感じるよりも、守りの感情である怒り、不満ばかりが顔をだします。

そして、感じることができないと、「幸せ」である感じもしてきません。幸せはアタマで考えるものではなく、全面的に感じるものだからです。感じるレンジが広いほど、たっぷりと感じられるほど、幸せも感じられるようになります。

そして、傷つかないように守ることが最優先になると、剣と盾で両手がふさがった状態になり、他の活動にエネルギーが使えなくなります。「感じること」を避けた感情は、そっくりそのまま見えない意識に貯蔵されていて、それがまるで自分の重しのようになります。すると、とにかく重たい! 解放してあげるまでは両手がふさがっているような状態で、自分を守ること以外は何もできないのです。

今回のセミナーでお話したのは、「ザル」のように自由に感情を感じられるようになるためのいろいろな感情デトックスの方法。

感情に自由に語らせてみたり、エネルギーとしてあるがままに感じてみたり、感情の強度を弱めてみたり、一気に消す練習をしてみたり ・・・。

本当に「感じる」ってどういうことなのか ・・・ それはまったく言葉を使わず、判断もなくい、身体にそのエネルギーのバイブレーションを受けとめさせてあげること。

そして、やってきては去って行く感情を、ほんとうに「ザル」のごとく受け流してあげること。

こころの風とおしがよくなることは生活のすべてにおいて、見える景色が違ってくることです。

「こころによって見える世界が違うんですね」「外がわのことと、体験はイコールではないのですね」「イヤな感情を感じたとき、誰かに話しをしたり、身体を動かして汗を流したりしていましたが、それでは本当の解決ではなかったのですね。感じることが解決なんですね」「軽くなりました。すっきりしました」と、それぞれ気づきをえていただけたようです。

「感じる」ということをしっかりと行っていくと、本当の自分とのギャップもだんだん少なくなってきます。

それは、何かが起こったとき、今までは「考える」というヘンな迂回路をつくって、ほんとうの自分には誰も近づけないようにバリケードを築いていたのです。でも、どんどん感じられるようになると、本来の自分とのすきまがなくなります。自分自身との葛藤もへっていきます。

本当の自分で生きられるようになってくると、今まで問題だと見なしていたこともただの状況にすぎないということがわかってきます。ものごとがシンプルになります。少しづつまわりの状況が、流れるように変わりはじめるのです。

人生の流れをよくするということと、「感情を感じる」ということは、とても深くつながりあっているのですね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-03-19 こころのデトックス

(株)アルファ ブライト さんにてセミナーをさせていただきました。

こちらは就労支援をしている事業所さんで、セミナーのご参加者は就労について何らかの問題をかかえていらっしゃる方々。なので、今回は少しでも前むきに、目標に向かって行けるようになるために、「こころのデトックス(お掃除)」についてのセミナーをいたしました。

日々の生活からはじまって、仕事や目標の達成がうまくいかないとき、わたしたちはあれこれ「考えすぎてしまう」あまりエネルギーを浪費してしまい、必要な活動をするのためのパワーが残っていないという状態になってしまいます。

スムーズに動けるようになるためには、「こころのお掃除」、つまりゴミ出しがかかせません。そのためには、「考える」よりは「感じる」習慣をつける必要があるのです。感じることによって、感情はやってきてはさって行くというようにスムーズに消えさっていきます。

でも、そもそも「感じる」よりも「考える」ことをはじめてしまう原因とは、「自分の感情は自分を傷つけるものだ」と信じこんでしまったためです。感情は自分にとってキケンなものなので、触れたくない。だから、隠そうとするわけです。

しかし、本当に自分を傷つけているのは、それを「感じてしまう」ことではなく、感じるのをさけて「考えでごまかしてしまう」ときです。

そうなんです。感じるのに抵抗がある場合(感じることは危ないという信念が無意識のうちにある場合)、何かが起こって感情が発生しそうになると、即座に「考え」に置きかえて感情を煙にまいてしまいます。その結果、見ないようにしておかなければならない感情がどんどんふえて、それを押さえこんでおくために多大なエネルギーを費やすこととなるのです。

たとえば、誰かからひどいひとことを言われた場合。

言われた瞬間というのは、鉛のボールを身体に当てられたように、こころはボコンとへこみ、痛みを感じます。打撃を受けたわけです。それはきっと、「悲しい」「痛い」という感情です。でもここで、あっというまにその感情は煙幕にまかれたように隠しさられます。そして、わたしたちがすぐにフォーカスするのは、その「悲しみ」「痛み」を隠すための道具である「怒りや不満」なのです。

傷ついたことなんかぜったいに認めたくない。だから、すぐに反撃に出ねば! という感じです。

これがあまりにも素早いので、わたしたちは本当に感じるということができなくなってしまいます。感じるよりも、守りの感情である怒り、不満ばかりが顔をだします。

そして、感じることができないと、「幸せ」である感じもしてきません。幸せはアタマで考えるものではなく、全面的に感じるものだからです。感じるレンジが広いほど、たっぷりと感じられるほど、幸せも感じられるようになります。

そして、傷つかないように守ることが最優先になると、剣と盾で両手がふさがった状態になり、他の活動にエネルギーが使えなくなります。「感じること」を避けた感情は、そっくりそのまま見えない意識に貯蔵されていて、それがまるで自分の重しのようになります。すると、とにかく重たい! 解放してあげるまでは両手がふさがっているような状態で、自分を守ること以外は何もできないのです。

今回のセミナーでお話したのは、「ザル」のように自由に感情を感じられるようになるためのいろいろな感情デトックスの方法。

感情に自由に語らせてみたり、エネルギーとしてあるがままに感じてみたり、感情の強度を弱めてみたり、一気に消す練習をしてみたり ・・・。

本当に「感じる」ってどういうことなのか ・・・ それはまったく言葉を使わず、判断もなくい、身体にそのエネルギーのバイブレーションを受けとめさせてあげること。

そして、やってきては去って行く感情を、ほんとうに「ザル」のごとく受け流してあげること。

こころの風とおしがよくなることは生活のすべてにおいて、見える景色が違ってくることです。

「こころによって見える世界が違うんですね」「外がわのことと、体験はイコールではないのですね」「イヤな感情を感じたとき、誰かに話しをしたり、身体を動かして汗を流したりしていましたが、それでは本当の解決ではなかったのですね。感じることが解決なんですね」「軽くなりました。すっきりしました」と、それぞれ気づきをえていただけたようです。

「感じる」ということをしっかりと行っていくと、本当の自分とのギャップもだんだん少なくなってきます。

それは、何かが起こったとき、今までは「考える」というヘンな迂回路をつくって、ほんとうの自分には誰も近づけないようにバリケードを築いていたのです。でも、どんどん感じられるようになると、本来の自分とのすきまがなくなります。自分自身との葛藤もへっていきます。

本当の自分で生きられるようになってくると、今まで問題だと見なしていたこともただの状況にすぎないということがわかってきます。ものごとがシンプルになります。少しづつまわりの状況が、流れるように変わりはじめるのです。

人生の流れをよくするということと、「感情を感じる」ということは、とても深くつながりあっているのですね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「こころのデトックス」

(株)アルファ ブライト さんにてセミナーをさせていただきました。

こちらは就労支援をしている事業所さんで、セミナーのご参加者は就労について何らかの問題をかかえていらっしゃる方々。なので、今回は少しでも前むきに、目標に向かって行けるようになるために、「こころのデトックス(お掃除)」についてのセミナーをいたしました。

日々の生活からはじまって、仕事や目標の達成がうまくいかないとき、わたしたちはあれこれ「考えすぎてしまう」あまりエネルギーを浪費してしまい、必要な活動をするのためのパワーが残っていないという状態になってしまいます。

スムーズに動けるようになるためには、「こころのお掃除」、つまりゴミ出しがかかせません。そのためには、「考える」よりは「感じる」習慣をつける必要があるのです。感じることによって、感情はやってきてはさって行くというようにスムーズに消えさっていきます。

でも、そもそも「感じる」よりも「考える」ことをはじめてしまう原因とは、「自分の感情は自分を傷つけるものだ」と信じこんでしまったためです。感情は自分にとってキケンなものなので、触れたくない。だから、隠そうとするわけです。

しかし、本当に自分を傷つけているのは、それを「感じてしまう」ことではなく、感じるのをさけて「考えでごまかしてしまう」ときです。

そうなんです。感じるのに抵抗がある場合(感じることは危ないという信念が無意識のうちにある場合)、何かが起こって感情が発生しそうになると、即座に「考え」に置きかえて感情を煙にまいてしまいます。その結果、見ないようにしておかなければならない感情がどんどんふえて、それを押さえこんでおくために多大なエネルギーを費やすこととなるのです。

たとえば、誰かからひどいひとことを言われた場合。

言われた瞬間というのは、鉛のボールを身体に当てられたように、こころはボコンとへこみ、痛みを感じます。打撃を受けたわけです。それはきっと、「悲しい」「痛い」という感情です。でもここで、あっというまにその感情は煙幕にまかれたように隠しさられます。そして、わたしたちがすぐにフォーカスするのは、その「悲しみ」「痛み」を隠すための道具である「怒りや不満」なのです。

傷ついたことなんかぜったいに認めたくない。だから、すぐに反撃に出ねば! という感じです。

これがあまりにも素早いので、わたしたちは本当に感じるということができなくなってしまいます。感じるよりも、守りの感情である怒り、不満ばかりが顔をだします。

そして、感じることができないと、「幸せ」である感じもしてきません。幸せはアタマで考えるものではなく、全面的に感じるものだからです。感じるレンジが広いほど、たっぷりと感じられるほど、幸せも感じられるようになります。

そして、傷つかないように守ることが最優先になると、剣と盾で両手がふさがった状態になり、他の活動にエネルギーが使えなくなります。「感じること」を避けた感情は、そっくりそのまま見えない意識に貯蔵されていて、それがまるで自分の重しのようになります。すると、とにかく重たい! 解放してあげるまでは両手がふさがっているような状態で、自分を守ること以外は何もできないのです。

今回のセミナーでお話したのは、「ザル」のように自由に感情を感じられるようになるためのいろいろな感情デトックスの方法。

感情に自由に語らせてみたり、エネルギーとしてあるがままに感じてみたり、感情の強度を弱めてみたり、一気に消す練習をしてみたり ・・・。

本当に「感じる」ってどういうことなのか ・・・ それはまったく言葉を使わず、判断もなくい、身体にそのエネルギーのバイブレーションを受けとめさせてあげること。

そして、やってきては去って行く感情を、ほんとうに「ザル」のごとく受け流してあげること。

こころの風とおしがよくなることは生活のすべてにおいて、見える景色が違ってくることです。

「こころによって見える世界が違うんですね」「外がわのことと、体験はイコールではないのですね」「イヤな感情を感じたとき、誰かに話しをしたり、身体を動かして汗を流したりしていましたが、それでは本当の解決ではなかったのですね。感じることが解決なんですね」「軽くなりました。すっきりしました」と、それぞれ気づきをえていただけたようです。

「感じる」ということをしっかりと行っていくと、本当の自分とのギャップもだんだん少なくなってきます。

それは、何かが起こったとき、今までは「考える」というヘンな迂回路をつくって、ほんとうの自分には誰も近づけないようにバリケードを築いていたのです。でも、どんどん感じられるようになると、本来の自分とのすきまがなくなります。自分自身との葛藤もへっていきます。

本当の自分で生きられるようになってくると、今まで問題だと見なしていたこともただの状況にすぎないということがわかってきます。ものごとがシンプルになります。少しづつまわりの状況が、流れるように変わりはじめるのです。

人生の流れをよくするということと、「感情を感じる」ということは、とても深くつながりあっているのですね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-03-14 特別になることより、つながること

「ああ ・・・私がずっと孤独を感じていたわけが、今わかりました ・・・」とA子さん。

A子さんは40代で、外資系企業でCEOとして働く女性です。仕事もバリバリできて、オシャレで知的で、すべてを手にしているような、人もうらやむ人生に見えます。

でも彼女はずっと、暗闇のなかをたった一人で歩いているような深い孤独にさいなまれていたようです。でも、それはあまりにも慢性的になっていたために、ご本人もそんな孤独感があることに気づかず、それがそんなにも彼女の人生を暗くしていることに気づいていなかったそうな。

じつは、セッションにいらしたのはそのことではなくって、他の問題。「仕事のストレス」をどうにかしたかったから。

ところが、そのストレスについてのセッションをとおしてA子さんが気づいたのは、彼女のなかでもっとも慢性的になっていて、苦しみの原因になっていた孤独感についてであり、その原因と答えでした。

「とにかくストレスを感じるんです。いつも疲れてるんです」とAさん。

休日には、へたりこんでしまうほど頑張っている日々。それは、ずっと昔から続いていたそうです。

仕事を頑張る、勉強に精を出す、スポーツジムで鍛える、さまざまな知識をふやす、立ち居振る舞いを磨く、ダイエットにうちこむ、もっと、もっと ・・・ 。じつは、やればやっただけ、何か手応えがあったからこそ。それはまるで、筋肉を鍛える男性がマッチョまっしぐらになってゆくのと似ています。成果を手にできるからこそ、やめられない。

結果 ・・・優越感を感じる、褒められる、うらやましがられる、尊敬される、デキる人だと思われる、一目おかれる ・・・どんどん特別な人になる、スペシャルな私。

そうなれば、この人生で人の上を行ける、支配する側になれる、人生をコントロールできる、きっとこわくなくなる ・・・はず。

自分を磨きまくって、これで万々歳なはずなのですが・・・ ところが ・・・。

優越感を感じる ってことは、劣等感を感じている人がいるかもしれず。褒められる ってことは、認めてもらってないと感じている人がいるかもしれず。うらやましがられる ってことは、嫉妬を感じている人がいるかもしれず。

彼女が必死になって目指した先であるお山のてっぺんは、残念ながら定員はお一人さま。一人しかのれるスペースがないのです。

それって、「私はお山のてっぺんに君臨するから、あなたたちは全員下であきらめてくださいね。そうじゃないと、わたしが一番になれないので。みなさんは、私よりも下で、私よりも足りなくて、私よりも劣っていて、私よりも価値がない人で、そうでいてくれないと私は優れた人でなくなるから困るのです」というわけです。

もちろん、A子さんはこんなこと言葉になど出していませんし、はっきりと意識もしてもいません。でも、A子さんが頑張る気持ちの裏にあるのは「私は特別で、しもじものみなさまとは違うのです」ということだったわけです。

これで、こころが暖かくなったり、つながりを感じて安心するはずがありません。この状態では、自分をまわりとは完全に異質にして、たったひとりぼっちにしてしまい、みんなに近づけないものにしていたのです。

私たちは「価値判断」をしてしまった段階で、もうまわりとは切りはなされてしまいます。

「あの人って、わかっちゃいない」「あの人ってダメだわ」・・・無意識のうちにこころのなかで相手をジャッジしていますが、この裁きのセリフで相手と仲良く手をとることができなくなってしまいます。

ところが私たちは、どんな親しい人(パートナーであろうと、親友であろうと)でも裁いてしまうことによって、もうこころのなかでは味方ではなくなってしまい、人知れず孤立しているのです。

だから、いくら表面上で仲良くしても、こころの深い部分は知っているのです。相手に対してケンカを売ったことを。断罪したことを。そして自ら、誰ともつながれない孤独を感じているのを。結局、自分で自分を孤独に追いやってしまっていたのです。

A子さんの場合、さらに深い意識をみてみると、自分への無価値さがあり、その穴をうめるために様々な活動をつめこもうとしていたことがわかりました。そして、ほめられたり、特別に感じたりすることでエゴが喜ぶのをいいことに、一気に無価値観とはまったく反対側の間違った特別性に邁進してしまったわけです。

だから、何をするにも「何のためにするのか」ということは、とても大切になります。

せっかく一生懸命何かをするのだったら、一人ぼっちになる特別性のためではなくって、人とつながって、分かち合う、という目的のためだったら、同じことをするにしても、気持ちも、流れも、見える景色も違うものになってくるのだと感じます。

さて、あなたは何のためにそれをしているのでしょう? それをすることで、人と距離ができますか? それとも、人ともっともっと近くなって、ともに喜びあうことができますか?

それから、たったひとりだけ、自分だけの利益があるというときには、ものごとはなかなか進まないように感じるときがあります。

まったく同じ目標でも、それが同時に誰か他の人のためにもなっているとき、たとえば自分のダイエットをするときでも、その秘訣などをわかちあうとか、

そんなときには、ものごとがふだんよりうまく運んだり、どこからともなくよい方法などの助けがやってくるように感じます。

それがよりたくさんの人が喜ぶことであればあるほど、その力もふえていくように感じます。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「特別になることより、つながること」

「ああ ・・・私がずっと孤独を感じていたわけが、今わかりました ・・・」とA子さん。

A子さんは40代で、外資系企業でCEOとして働く女性です。仕事もバリバリできて、オシャレで知的で、すべてを手にしているような、人もうらやむ人生に見えます。

でも彼女はずっと、暗闇のなかをたった一人で歩いているような深い孤独にさいなまれていたようです。でも、それはあまりにも慢性的になっていたために、ご本人もそんな孤独感があることに気づかず、それがそんなにも彼女の人生を暗くしていることに気づいていなかったそうな。

じつは、セッションにいらしたのはそのことではなくって、他の問題。「仕事のストレス」をどうにかしたかったから。

ところが、そのストレスについてのセッションをとおしてA子さんが気づいたのは、彼女のなかでもっとも慢性的になっていて、苦しみの原因になっていた孤独感についてであり、その原因と答えでした。

「とにかくストレスを感じるんです。いつも疲れてるんです」とAさん。

休日には、へたりこんでしまうほど頑張っている日々。それは、ずっと昔から続いていたそうです。

仕事を頑張る、勉強に精を出す、スポーツジムで鍛える、さまざまな知識をふやす、立ち居振る舞いを磨く、ダイエットにうちこむ、もっと、もっと ・・・ 。じつは、やればやっただけ、何か手応えがあったからこそ。それはまるで、筋肉を鍛える男性がマッチョまっしぐらになってゆくのと似ています。成果を手にできるからこそ、やめられない。

結果 ・・・優越感を感じる、褒められる、うらやましがられる、尊敬される、デキる人だと思われる、一目おかれる ・・・どんどん特別な人になる、スペシャルな私。

そうなれば、この人生で人の上を行ける、支配する側になれる、人生をコントロールできる、きっとこわくなくなる ・・・はず。

自分を磨きまくって、これで万々歳なはずなのですが・・・ ところが ・・・。

優越感を感じる ってことは、劣等感を感じている人がいるかもしれず。褒められる ってことは、認めてもらってないと感じている人がいるかもしれず。うらやましがられる ってことは、嫉妬を感じている人がいるかもしれず。

彼女が必死になって目指した先であるお山のてっぺんは、残念ながら定員はお一人さま。一人しかのれるスペースがないのです。

それって、「私はお山のてっぺんに君臨するから、あなたたちは全員下であきらめてくださいね。そうじゃないと、わたしが一番になれないので。みなさんは、私よりも下で、私よりも足りなくて、私よりも劣っていて、私よりも価値がない人で、そうでいてくれないと私は優れた人でなくなるから困るのです」というわけです。

もちろん、A子さんはこんなこと言葉になど出していませんし、はっきりと意識もしてもいません。でも、A子さんが頑張る気持ちの裏にあるのは「私は特別で、しもじものみなさまとは違うのです」ということだったわけです。

これで、こころが暖かくなったり、つながりを感じて安心するはずがありません。この状態では、自分をまわりとは完全に異質にして、たったひとりぼっちにしてしまい、みんなに近づけないものにしていたのです。

私たちは「価値判断」をしてしまった段階で、もうまわりとは切りはなされてしまいます。

「あの人って、わかっちゃいない」「あの人ってダメだわ」・・・無意識のうちにこころのなかで相手をジャッジしていますが、この裁きのセリフで相手と仲良く手をとることができなくなってしまいます。

ところが私たちは、どんな親しい人(パートナーであろうと、親友であろうと)でも裁いてしまうことによって、もうこころのなかでは味方ではなくなってしまい、人知れず孤立しているのです。

だから、いくら表面上で仲良くしても、こころの深い部分は知っているのです。相手に対してケンカを売ったことを。断罪したことを。そして自ら、誰ともつながれない孤独を感じているのを。結局、自分で自分を孤独に追いやってしまっていたのです。

A子さんの場合、さらに深い意識をみてみると、自分への無価値さがあり、その穴をうめるために様々な活動をつめこもうとしていたことがわかりました。そして、ほめられたり、特別に感じたりすることでエゴが喜ぶのをいいことに、一気に無価値観とはまったく反対側の間違った特別性に邁進してしまったわけです。

だから、何をするにも「何のためにするのか」ということは、とても大切になります。

せっかく一生懸命何かをするのだったら、一人ぼっちになる特別性のためではなくって、人とつながって、分かち合う、という目的のためだったら、同じことをするにしても、気持ちも、流れも、見える景色も違うものになってくるのだと感じます。

さて、あなたは何のためにそれをしているのでしょう? それをすることで、人と距離ができますか? それとも、人ともっともっと近くなって、ともに喜びあうことができますか?

それから、たったひとりだけ、自分だけの利益があるというときには、ものごとはなかなか進まないように感じるときがあります。

まったく同じ目標でも、それが同時に誰か他の人のためにもなっているとき、たとえば自分のダイエットをするときでも、その秘訣などをわかちあうとか、

そんなときには、ものごとがふだんよりうまく運んだり、どこからともなくよい方法などの助けがやってくるように感じます。

それがよりたくさんの人が喜ぶことであればあるほど、その力もふえていくように感じます。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-03-10 La La Land

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

公開を楽しみにしていた一本。

あの「なんちゃってオスカー」に輝いた「La La Land」を観てきました。(オスカー受賞したはずがミスだったという・・・汗)。

あの超ガッカリな場面で、主演のエマ・ストーンは笑顔で「受賞したのがムーンライトで嬉しい!」と言えちゃうところがすごいです。

冒頭のシーンから、もうパワー全開!

予告でもおなじみの、あのハイウェイでのミュージカルシーンです。

ピアノの弾けるようなメロディーにのせて、これってエンディングでしょ!? っていうぐらいの盛りあがりで一気にひきこまれます。

セリフ全部がメロディーになっているようなミュージカルは、ちょっと疲れてしまうのですが、これはミュージカルであることを忘れてしまうようなほどよい感じ。お馴染みとなる旋律が何度もくり返さるシンプルさもいいな。

売れないピアニストと女優を目指すウェイトレス。二人の出会いは決してロマンティックとはいえず、お互い「タイプじゃない」と憎まれ口をききあうところから始まります。でもそんな口をきけるからこそ、親密になる度合いも深く早いのかもしれません。

恋する気持ちをパワーにかえて、二人手に手をとってそれぞれの夢に邁進します。でも、夢を叶える途上で起こるさまざまなことが、ふたりの関係にも暗い影をおとはじめ・・・。

最後は ・・・ ああ、よかったね!と思いつつも、ほろ苦い。なんかちょっとひっかかる感じのエンディング。だからこそ惹かれるのかもしれません。

赤や黄、青というヴィヴィッドなドレスの色、星空などを使ったファンタジックな場面、ジャズピアノの印象的な旋律、ロスの暮れなずむ空の色 ・・・ とても色が美しくって、こころにしみこむようです。

楽しかった♪ 好きなタイプのミュージカルです。もういちど観たいな〜。

 

 

お茶の間シネマトーク「La La Land」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

公開を楽しみにしていた一本。

あの「なんちゃってオスカー」に輝いた「La La Land」を観てきました。(オスカー受賞したはずがミスだったという・・・汗)。

あの超ガッカリな場面で、主演のエマ・ストーンは笑顔で「受賞したのがムーンライトで嬉しい!」と言えちゃうところがすごいです。

冒頭のシーンから、もうパワー全開!

予告でもおなじみの、あのハイウェイでのミュージカルシーンです。

ピアノの弾けるようなメロディーにのせて、これってエンディングでしょ!? っていうぐらいの盛りあがりで一気にひきこまれます。

セリフ全部がメロディーになっているようなミュージカルは、ちょっと疲れてしまうのですが、これはミュージカルであることを忘れてしまうようなほどよい感じ。お馴染みとなる旋律が何度もくり返さるシンプルさもいいな。

売れないピアニストと女優を目指すウェイトレス。二人の出会いは決してロマンティックとはいえず、お互い「タイプじゃない」と憎まれ口をききあうところから始まります。でもそんな口をきけるからこそ、親密になる度合いも深く早いのかもしれません。

恋する気持ちをパワーにかえて、二人手に手をとってそれぞれの夢に邁進します。でも、夢を叶える途上で起こるさまざまなことが、ふたりの関係にも暗い影をおとはじめ・・・。

最後は ・・・ ああ、よかったね!と思いつつも、ほろ苦い。なんかちょっとひっかかる感じのエンディング。だからこそ惹かれるのかもしれません。

赤や黄、青というヴィヴィッドなドレスの色、星空などを使ったファンタジックな場面、ジャズピアノの印象的な旋律、ロスの暮れなずむ空の色 ・・・ とても色が美しくって、こころにしみこむようです。

楽しかった♪ 好きなタイプのミュージカルです。もういちど観たいな〜。

 

 

17-03-07 問題なんて、ないっ!

「あのことに取りかかりたいけど、それどころじゃないんです!まずこの問題を片づけないと」
「やりたいことはあるけど、いろいろ問題がありすぎて今はムリ」

日々、こんなセリフをよく耳にします。

問題さえなかったら ・・・ 好きなことができるのに。好きなように生きられるのに。でも、「人生には問題がつきものだよね。しょうがないね・・・」とあきらめてしまいます。

つまり、問題 = 幸せになれない理由、でも問題は不思議と次から次へとわいてくる・・・、だから私は一生問題から自由になることははい。好きなことをして、幸せになることはできないんだ。 ・・・ ガッカリ。

でも、もし ・・・ ほんとうは「問題なんて存在しない!」としたら??

「問題があるんだ」と思っているから、リクエストに答えてつぎつぎ問題があらわれるんだとしたら・・・?

私たちは、「目にうつる世界は、自分の外側にある」と教えられ、信じてきたけれど、どうやらほんとうのところは違うようです。

この両目で見ている楕円形のスクリーンは、じつはこころのなかに存在していて、私たちは日々、自分のこころのなかのストーリーを覗きこんで過ごしているようなもの。

だから、世界は完全に自分の内側の出来事!というわけです。

そして、そのストーリーの選択肢はたった二つだけ。 ・・・ ハッピーエンド か ドツボか。ハーフハーフのストーリー展開というのは存在せず、竹をわったようにハッピーかドツボかにわかれちゃうのです。そして、私たちはみずからそのドツボストーリーを選択するのが好きなようです(笑)。

自分のこころのなかの世界では、自分が信じているストーリーしか展開されません。自分がチョイスして借りてきたDVDのごとく、それは自分のお好みのストーリーなのです。

私たちは「自分が何を信じているのか」なんて、ふだんの生活でまったく気にかけていません。この何を信じているのかが、二つに一つのストーリー展開のカギとなります。

私たちは日々、「外側にある」と教えられてきた世界にたち現れるものたちと対峙しなければなりません。とにかく、目のまえのものごとをどうにかすることに忙しい。

ところが、外側というものがないのならば、目のまえの問題をあれこれするのは、まさにこころの中のイメージをいじくりまわすようなもの。つかみどころのないイメージはどうにかできるものではなく、実は何をどうしたとしても何の結果もないのです(なんせ、こころの中ですから)。変えられると思っていてもそれは錯覚です。

問題が消えたかのように見えるとき、それはすぐさま他の問題に姿を変えちゃったというわけです。それはないかもしれないけれど、他のものとしてやってきます。七変化をくりかえしながら、追っ手から逃げる怪物のよう。

問題が外にあると思っている私たちは、それを解決できるとかたくなに信じていて、どうにかすることに必死です。生きるという時間のほとんどを「こころのなかのイメージをどうにかすること」に費やします。根本的な原因がないところで、せっせと時間を使います。

これこそが、問題というもののワナなのです。エゴちゃんがしかけたトリック。存在しないものとたわむれててくださいね! そのまにワルサをしますからって。

目のまえのものごとに忙殺させておくことが、エゴちゃんがサバイバルする手なのです。いくら頑張ってもダメじゃないという無力感、罪悪感、怖れによって、エゴちゃんはますます増殖し、生き延びます。

目のまえのものにキョーフをおぼえさせて、さらにリアルにして、必死で取り組ませて、こころのなかで何を信じているのかなんて忘れててほしいのです。「内側の世界(こころ)に問題なんて存在できない」ということに決して気がついてほしくないのです。

だから、私たちが取り組むべき問題の根っこは、外の世界になど存在しないのです。

イメージのなかで何を見るか!というのは、「何を信じているのか」ということであり、その何を信じているのかは「自分をどんな存在だと思っているのか」ということをそのまま映しだしています。

自分がすべてから切り離された孤独な存在だと信じていれば、孤独なうちに、自力で頑張りながら、助けがやってこない世界のなかで奮闘するイメージで見ることでしょう。

そうです!すべての問題(病気、不和、金銭、仕事)は、この孤独な、切り離された思いのいろいろなバージョンにすぎません。

でも、自分がほんとうは今も源の愛につながっていて、愛されていて、面倒を見られて、ちゃんと守られていて、満たされていることを信じることができれば、ちゃんとその証拠をみることになります。それが自分にとっての現実となります。

たとえ、勘違いをしていっとき問題を見ていたとしても、「自分は守られていて完全に安全なんだ」ということをちゃんと思い出せれば、見えるものがこころにあわせて変わってくるのです。知覚というのは、つねに自分のこころについてくるものであって、こころが知覚に従うものではないのです。

だから、自分が自分に対して何を信じているのか、どんな存在であると思っているのか、という「自分への信頼」がとても大切。

自分といっても、制限の中で自力で生きようとしているエゴの自分ではなくって、無限の源にもともとつながっていてそこに安らいでいる自分のこと、ほんとうの自分のことです。

でも、その自分とつねにチューニングするには、外のものにとらわれてあたふたする自分を静めて、自分のこころの中にある静かな部分、ほんとうはどういう存在かを知っている部分に耳を傾けてつながることが大切です。

ありもしない外にホンロウされてあたふたしているうちは、自分の正気の部分とのつながりが切れてしまっているというわけです。だから、外のことに誤摩化されないことが大切なのですね。

どんな問題があらわれても、目のまえのものをスルーする、ってむずかしいことではあります。だって、私たちは目にするものにソク反応するように教育されているから(目にしたことこそ真実ですよ!そこにあるんですよ!って)。

でも、新しい自分を救ってくれる規則が必要なのです。「目のまえのことは、こころのイメージだ。まず、こころだ!」って。

問題に遭遇するたびに、「ほんとうは問題なんて存在していないんだ。だから、もうこれ以上ごまかされないぞ!」という強い気持ちで、自分のこころにある正気の部分(高い意識)に「こんなもの(問題)は存在していない。本当のことを見せてください」とお願いすることが大切なのです。

でも、これって180度の視点の転換、ホコ先を真逆にすること。時間をかけてこころを教育しなおす必要があります。一朝一夕ではいかないのですね。

身体の不調、人とのトラブル、お金の問題などに直面して ・・・ これがないはずないでしょ! とおもわず叫びたくなりますが、「ほ〜・・・これが全部、じつは存在しないなんてすごいな〜。自分のこころのパワーはなんてすごいんだ。それを見てる自分って、いったい何を信じているのやら・・・?」というふうに探求心がもてたらしめたものです。

自分の信じていることを見てみましょう ・・・ すごく滑稽で、自分でも笑っちゃうことを信じていたりします。それを見つけられると、探求するのが楽しくなり、探求してちゃんと光をあててあげるとその信念はもう終わりをむかえます。(メデタシ、メデタシ!)

問題を解決するって、モノや人やもろもろをどうにかすることとは関係なくって、じつはこころを変えること。それをしたあとに、きっと見ている世界で何をしたらいいのか、インスピレーションがやってくるかもしれません。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「問題なんて、ないっ!」

「あのことに取りかかりたいけど、それどころじゃないんです!まずこの問題を片づけないと」
「やりたいことはあるけど、いろいろ問題がありすぎて今はムリ」

日々、こんなセリフをよく耳にします。

問題さえなかったら ・・・ 好きなことができるのに。好きなように生きられるのに。でも、「人生には問題がつきものだよね。しょうがないね・・・」とあきらめてしまいます。

つまり、問題 = 幸せになれない理由、でも問題は不思議と次から次へとわいてくる・・・、だから私は一生問題から自由になることははい。好きなことをして、幸せになることはできないんだ。 ・・・ ガッカリ。

でも、もし ・・・ ほんとうは「問題なんて存在しない!」としたら??

「問題があるんだ」と思っているから、リクエストに答えてつぎつぎ問題があらわれるんだとしたら・・・?

私たちは、「目にうつる世界は、自分の外側にある」と教えられ、信じてきたけれど、どうやらほんとうのところは違うようです。

この両目で見ている楕円形のスクリーンは、じつはこころのなかに存在していて、私たちは日々、自分のこころのなかのストーリーを覗きこんで過ごしているようなもの。

だから、世界は完全に自分の内側の出来事!というわけです。

そして、そのストーリーの選択肢はたった二つだけ。 ・・・ ハッピーエンド か ドツボか。ハーフハーフのストーリー展開というのは存在せず、竹をわったようにハッピーかドツボかにわかれちゃうのです。そして、私たちはみずからそのドツボストーリーを選択するのが好きなようです(笑)。

自分のこころのなかの世界では、自分が信じているストーリーしか展開されません。自分がチョイスして借りてきたDVDのごとく、それは自分のお好みのストーリーなのです。

私たちは「自分が何を信じているのか」なんて、ふだんの生活でまったく気にかけていません。この何を信じているのかが、二つに一つのストーリー展開のカギとなります。

私たちは日々、「外側にある」と教えられてきた世界にたち現れるものたちと対峙しなければなりません。とにかく、目のまえのものごとをどうにかすることに忙しい。

ところが、外側というものがないのならば、目のまえの問題をあれこれするのは、まさにこころの中のイメージをいじくりまわすようなもの。つかみどころのないイメージはどうにかできるものではなく、実は何をどうしたとしても何の結果もないのです(なんせ、こころの中ですから)。変えられると思っていてもそれは錯覚です。

問題が消えたかのように見えるとき、それはすぐさま他の問題に姿を変えちゃったというわけです。それはないかもしれないけれど、他のものとしてやってきます。七変化をくりかえしながら、追っ手から逃げる怪物のよう。

問題が外にあると思っている私たちは、それを解決できるとかたくなに信じていて、どうにかすることに必死です。生きるという時間のほとんどを「こころのなかのイメージをどうにかすること」に費やします。根本的な原因がないところで、せっせと時間を使います。

これこそが、問題というもののワナなのです。エゴちゃんがしかけたトリック。存在しないものとたわむれててくださいね! そのまにワルサをしますからって。

目のまえのものごとに忙殺させておくことが、エゴちゃんがサバイバルする手なのです。いくら頑張ってもダメじゃないという無力感、罪悪感、怖れによって、エゴちゃんはますます増殖し、生き延びます。

目のまえのものにキョーフをおぼえさせて、さらにリアルにして、必死で取り組ませて、こころのなかで何を信じているのかなんて忘れててほしいのです。「内側の世界(こころ)に問題なんて存在できない」ということに決して気がついてほしくないのです。

だから、私たちが取り組むべき問題の根っこは、外の世界になど存在しないのです。

イメージのなかで何を見るか!というのは、「何を信じているのか」ということであり、その何を信じているのかは「自分をどんな存在だと思っているのか」ということをそのまま映しだしています。

自分がすべてから切り離された孤独な存在だと信じていれば、孤独なうちに、自力で頑張りながら、助けがやってこない世界のなかで奮闘するイメージで見ることでしょう。

そうです!すべての問題(病気、不和、金銭、仕事)は、この孤独な、切り離された思いのいろいろなバージョンにすぎません。

でも、自分がほんとうは今も源の愛につながっていて、愛されていて、面倒を見られて、ちゃんと守られていて、満たされていることを信じることができれば、ちゃんとその証拠をみることになります。それが自分にとっての現実となります。

たとえ、勘違いをしていっとき問題を見ていたとしても、「自分は守られていて完全に安全なんだ」ということをちゃんと思い出せれば、見えるものがこころにあわせて変わってくるのです。知覚というのは、つねに自分のこころについてくるものであって、こころが知覚に従うものではないのです。

だから、自分が自分に対して何を信じているのか、どんな存在であると思っているのか、という「自分への信頼」がとても大切。

自分といっても、制限の中で自力で生きようとしているエゴの自分ではなくって、無限の源にもともとつながっていてそこに安らいでいる自分のこと、ほんとうの自分のことです。

でも、その自分とつねにチューニングするには、外のものにとらわれてあたふたする自分を静めて、自分のこころの中にある静かな部分、ほんとうはどういう存在かを知っている部分に耳を傾けてつながることが大切です。

ありもしない外にホンロウされてあたふたしているうちは、自分の正気の部分とのつながりが切れてしまっているというわけです。だから、外のことに誤摩化されないことが大切なのですね。

どんな問題があらわれても、目のまえのものをスルーする、ってむずかしいことではあります。だって、私たちは目にするものにソク反応するように教育されているから(目にしたことこそ真実ですよ!そこにあるんですよ!って)。

でも、新しい自分を救ってくれる規則が必要なのです。「目のまえのことは、こころのイメージだ。まず、こころだ!」って。

問題に遭遇するたびに、「ほんとうは問題なんて存在していないんだ。だから、もうこれ以上ごまかされないぞ!」という強い気持ちで、自分のこころにある正気の部分(高い意識)に「こんなもの(問題)は存在していない。本当のことを見せてください」とお願いすることが大切なのです。

でも、これって180度の視点の転換、ホコ先を真逆にすること。時間をかけてこころを教育しなおす必要があります。一朝一夕ではいかないのですね。

身体の不調、人とのトラブル、お金の問題などに直面して ・・・ これがないはずないでしょ! とおもわず叫びたくなりますが、「ほ〜・・・これが全部、じつは存在しないなんてすごいな〜。自分のこころのパワーはなんてすごいんだ。それを見てる自分って、いったい何を信じているのやら・・・?」というふうに探求心がもてたらしめたものです。

自分の信じていることを見てみましょう ・・・ すごく滑稽で、自分でも笑っちゃうことを信じていたりします。それを見つけられると、探求するのが楽しくなり、探求してちゃんと光をあててあげるとその信念はもう終わりをむかえます。(メデタシ、メデタシ!)

問題を解決するって、モノや人やもろもろをどうにかすることとは関係なくって、じつはこころを変えること。それをしたあとに、きっと見ている世界で何をしたらいいのか、インスピレーションがやってくるかもしれません。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

17-03-05 たかが世界の終わり

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

「えっ?! 終わった?」という、ひさびさに不完全燃焼型、尻切れトンボ的エンディング。

カンヌのパルムドールをとってるぐらいだから、なんかもっとあるはずでしょ?・・・ ってことは、途中まんまと寝落ちした??

い〜え、そんなことはありません。つまり全編、とりとめのない家族の会話、あるいは感情的な言い争いだけ ・・・ それ以外とくにストーリー展開はありません。

35歳のルイは成功している劇作家。12年ぶりに家族のもとへ帰りします。それはなぜか? 自分の余命がいくばくもないことを知ったから・・・。

家族に再会し、食事のデザートのときにそれを切りだそうとしていたのですが ・・・ あら ・・・デザートまえに終わった ・・・?

登場人物は ・・・ 久々に息子と会うために着飾って、直前まで大騒ぎでマニュキアすることに忙しい母親。それから妹が一人いて、幼い頃から会っていないのでルイのことなど覚えていません。そしてナイーブな兄は、ひょっこりあらわれたルイに対して怒りをぶつけまくります。 ・・・ そして、あくまでも自分の都合でやってきたルイ。

映画が終わってあっけにとられたけど、そっか ・・・ これがタイトルの「たかが世界の終わり」なのだわ。

ルイの「世界の終わり」の話しはまだきりだされていないけど、母親は久しぶりに会う息子のまえでキレイでいることで頭がいっぱいだし、気にかけているのはお料理のでき ・・・ 。

母親だけでなく、みんなそれぞれ自分のことに手いっぱい。とても誰かの世界の終わりの話しを聴く耳などもっていないのです。ルイもルイで疎遠にしていたにもかかわらず、自分の重大問題を投げこみにやってきたわけだし。

みんな、誰かの世界の終わりどころじゃない。そんなことより、それぞれ決定的に足りないと感じているものがある。それを満たしたくって必死な感じ。それは、「愛」。

この作品、カメラワークが独特です。マニュキアの指先やら、お料理のボールのなか、汗ばんだ首筋 ・・・ というように画面がピンポイントなのです。

まるで、縮こまった心がみつめている視線の先のよう。とても狭くなっているそれぞれの心の状態をよくあらわしています。

そして、突然ポッポと飛出してくる鳩どけいとか、部屋に飛び込んできた鳥が壁にボコボコあたる様子とか、それぞれの抑圧したやりきれない気持ちも音となっています。

ストーリー展開があっていいはず、という考えがなければおもしろい視点の作品かもしれません。さすがフランス映画!



あら、予告のほうがずっとドラマチックで、なにか起こっていそうに見えるではありませんか!?(笑)

最初からそういう作品だと知っていたら、もっとおもしろかったかもしれません。