12-05-19 ココロがボッキリ折れたなら・・・ その3

その2より

わたしたちは自分を保護し導いてくれる「高い存在としての自己」をお供にこの世を旅することになっているのですが、親や先生から「何でも自分でできるようになりなさい」「誰かに頼るような依存的な人になってはいけません」と教えられたがために、すっかり自分のガイドを見失い路頭に迷うような存在になってしまいました。

頼れるガイドを失ったという怖れから、がむしゃらに「自分で頑張る」という方向に進みます。とりあえず、「俺サマボート」という単独の自己を信じようとします。が、ほんとうは信じてなんかいないのです。信じられないから、その不信感を覆い隠そうとがむしゃらな行動に出てしまうのですね。

すると、自分の愛する人々の様子や変化に気がつくことができないほど自分を忙しくしてしまいます。それでいったい何をなしとげようとしているのでしょうか?何を証明しようとしているのでしょうか?そんなにまでして埋めなければならない、どんな穴を感じているのでしょうか?

今まで自分を生かしてくれた「すべての叡智とつながる高い自己」の存在を認められるようになると、おのずと風向きが変わります。その存在は自分よりも膨大な智恵と情報、自分のための先見の明があります。そんな存在が常に自分のためだけに心を砕き、働いてくれているとしたらどうでしょう?

そうなんです。わたしたちはその存在にこそ「頼っていいんです(頼らなくちゃいけないんです)」「自分でやらなくっていいんです(自分でやっちゃいけないんです)」「何も知らないことを認めて、教えてくださいと言っていいんです」。「助けてくれ〜。わたしには、どうにもできない」「どうしていいのかわからない」、そう言ったときはじめて、「はいはい、その言葉を待ってました!まかせてくださいね。ここにはあなたのために、どんな難問、要望にも答えられる用意がありますよ〜」とはじめて無限からあらゆる助けの手がやってくるのです。

しかし、自分をそこまで愛して導いてくれる存在はいったいいずこに?とまわりを見回してもなかなか気づくことはできません。

ポイントは、自分の今までのやり方を喜んで手放すこと。宇宙の無限なるバックアップにくらべたら、この自分には限界があるのです。そして、「自分では何もできません。このちっちゃい脳ミソではお手上げです」とさっさと白旗をかかげ、自分の小ささ、弱さを認めること。そして、「どうしたらいいでしょう?教えてください」と尋ね、「この件について助けてください」と助けを求めること。

ここがミドリムシの脳ミソを信じるのか、それとも宇宙の無限のバックアップとしての叡智を受け入れるのかの分かれ道なのです。たとえ宇宙の叡智を受け入れてたとしても、それはあなたの敗北にはなりません。ただ、自分でも気づいていなかったほんとうの自分の可能性の扉を開いただけなのです。

そう、とにかく自分のいつものパターンでやろうとする前に、「聞いてみる」ことなのです。お尋ねしたら、あとは答えを待ちます。尋ねなければ、答えを聞くことはありません。

答えは「必ず」来ます。でもそれは、天啓のようにやってくるわけではなく、たいていはすごくふつ〜です。「そんな気分になる」「家族、友人とのお喋りの中で答えのようなものが与えられる」「借りていた本の中にメッセージがある」というように、答えはいつもの生活の中にまぎれこんでいます。だから、いったんお尋ねしたり助けを求めたらいろいろなことに聞き耳をたてていなければなりません。

わたしにもこんなことがありました。あることで悩んでいて、その解決を自分の高い自己にお伺いをたてていたときのことです。「もう数日になるのに、全然返事がこないじゃない。なんか見捨てられてる気分だな〜」とそんなふうに感じながらスーパーで買い物をしていたときです。ふと、かかっていたBGMの一節が耳に入ってきました。特に聞こうとしたわけではなく、その一節だけが耳に残った感じだったのですが、それは

"From a distance, there is harmony....it's the hope of hopes.... God is watching us" * (遠くからみれば、そこにはハーモニーがある。それは希望そのもの。神さははいつだってわたしたちを見守っている。)という歌詞だったのです。

「!!」と思いましたよ。「ちゃんと見てるよ。そこにはハーモニーがあるのがわかる?」って。きっと、たくさんメッセージは来ていたのかもしれませんが、おそらく自分が閉じていたので気がつかなかったのでしょう。これを聞いて、スーパーの中でひとりほほえんでいるあやしい人になってしまいました。

俺サマボートの「自分を信じて」行動していると、まるでハムスターの回し車をこいでいるように、やたら怖れを原動力に走り続けることになります。自分をめちゃくちゃ信じられる瞬間もあるかもしれないし、まったく信じられない、と感じる瞬間もあるかもしれません。アップダウンが激しく、上に行ったり下に行ったりとその自信はとても不安定。だから、とにかく回し車を力いっぱいこぎ続け、止まるわけにはいかないのです。

そして、すべてを自分でやろうとすると、まわりと比べたり、戦ったり、うまくいくための策略が必要になります。常に自分の人生をコントロールしようとしているうちに、人をも自分の都合のいいようにコントロールできると勘違いしてしまい、気がついたら孤独な「お山の大将」になりかねません。

一方、「大きな力に支えられた自分」は、まず「大きな力」にお伺いをたてて、そこからインスピレーションがくるまでは動かないのです。やってくるインスピレーションは決して空回りさせるものではなく、少ないエネルギーで必要な達成が得られるものです。考え込んだり、むだな動きをしないし、不安も少ないので、エネルギーの消費量も少ない。そしてそこから動けば、さらにエネルギーを得られるというオマケつき。

「大きな力に支えられている自分」は、あくせくすることがなくなります。なぜなら、根底には「わたしの心臓は自分で動かしているわけじゃないけれど、勝手に動いてきょうまで無事に生かされてきた。ここまで生きてきたってことは、まあ、どうなろうとも、どちみちわたしは支えられているから大丈夫なのだ」というお気楽思考が生まれるからです。大きな力がいちばんよい方向に導いてくれるという信頼、結局は自分にとってベストになるという安心感があります。

そして、決定的な違いは、「自分を頼りにしている」場合は、どこかで不安や無気力、ひどくするとウツにつきあたりますが、これは大もとのほんとうの自分とのつながりが切れているがゆえの不安定感。家なき子な気分なのです。「大きな力を支えにしている」場合は、ハデでなないけれど静かな安定感、そしてそれに従えばもっとエネルギーがチャージされるような、とっても省エネな感覚です。これは宇宙に根をはって、つながっている安定感なのでしょう。

だから、大海原で波に翻弄されるボートのような自己を信じるのではなくって、「大きな力に支えられる自己」、これは大海原の上空を大きな力に導かれながゆうゆうと渡ってゆく渡り鳥のような感覚です。

自分のすべてを包み込み、いつも自分を思いやって幸せを願ってくれている力に支えられ、そこから自信をもらっていると感じるとき、自分のコンディションにかかわらず静かに自分を「信じ続ける」ことが可能になります。

そして、その大きな力に心を開いて自分をあけ渡せばあけ渡すほど、その力は自分の人生にどんどん関与してきてくれるのだと感じます。

問題が起きて、行き詰まっているときには、いつでも「もっといいやり方」へのご招待状、「もっと幸せな自分」へのお誘いがきているときです。そして、忘れかけていた「高い自己による本当の自信」を思い出さなければならないときかもしれません。そんなときには、「俺サマボート」をなげすてて、すぐに白旗をかかげてお尋ねしてしまいましょう。お気楽な「すべておまかせコース」信頼してのってしまいましょう♪

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

* From a distance