セラピーでクライアントさんとお話していて感じるのは、「人生、順風満帆のはずだったのに、あるときから坂を転がり落ちるように人生が暗転してしまった」というご相談が多いこと。
いったん悪くなりはじめるとどうやってもその流れを止められず、気づいてみたらすべてが崩壊するほど悲惨になっていたというお悩み。何事もなくうまくいっていた人ほど、この足をすくわれるパターンにはまってしまうことがあります。
なんでこうなっちゃうんでしょうか。
今、まさにオリンピックたけなわですが、柔道金メダリストの松本薫選手。みなさんもお感じになったかもしれませんが、試合前からすでに「金メダルは彼女のものだな」という気迫を感じましたね。
だって彼女にはこれっぽっちも、「怖れ」とか「迷い」というものがないのですから。彼女の鋭いまなざしはちょっともずれることなく、「ピカピカのメダル」だけに照準が合わさっていたのです。他の思いが分け入るスキを与えない、100%の純粋さで。
じつは、不安とか怖れというものは、わたしたちの足をすくい、持てる「力」を確実に奪いとります。まったく別人と思えるほどにまで変えてしまうことも・・・。オリンピックでは、心のすきまに入りこむこの不安とか怖れが、勝負の行方をまったくわからないものにしていますよね。
わたしたちが確実にできることをできなくさせてしまい、また潜在的に持っているパワーさえもそぎ落としてしまうのが、まさに「怖れ」です。
それに、困ったことに「希望」や「前向きな気持ち」よりも、「怖れ」のパワーの方が格段にインパクトが強く、感じやすいようにできているのもわたしたち。
うまくいっているときには、その自信でさらに上向きな人生を創ってゆくことができるのですが、あるときに、ふと・・・・自分の人生にさしているちょとした暗い影を見つけてしまい、そこに注意を奪われ、「こんなんで大丈夫なんだろうか?」あるいは「怖い」「不安だ」という思いが頭をかすめるやいなや、あっというまに今までとは違った人生ルートにひきずりこまれてしまいます。そして、不安は不安を呼ぶので、いったんはまりこむとそこの環の中からなかなか抜け出せません。そちらへズルズル引きこまれてしまいます。
そう、わたしたちは自分の注意が向かったものを増殖させてしまうというココロの力があるのです。うまくいっているときにはどんどん上向きな人生を創りだせるのですが、いったん小さな不安や怖れにとりつかれると、あっというまにそこに注意が固定してそれを創りだすことになり、必ずや不安や怖れの証拠をもっと見つけるはめになってしまいます。
変化に対して不安や怖れを感じるのは、わたしたちが洞窟に住んでいた時代に自分よりも大きな動物に食べられずにサバイバルするための安全装置として身につけた本能であったわけですが、今でもその機能は「ちょっとした変化」を見つけてはスイッチが入り、不安な思いが暴走してしまい、その不安から目が離せないために自分の人生の流れを下向きに変えてしまいます。そしてその不安のほとんどは、正しい不安ではありません。かならず得体の知れない、大きな恐怖となって自分に襲いかかります。
今や、恐竜もクマもオオカミも襲ってこない環境にいるのですから、不安や怖れはあまり、というか全然役にたたない時代です。だから、自動的にその感情が出て来たら、気づいて意識化することによって、思いの方向を自分で向け変えてあげなくなくてはならないのですね。「この怖れは古代にサバイバルしていたときの名残だ。だから正しい怖れではないし、怖れる理由もないんだ。それに、これはそんなに怖れることでもない」と。
今朝のTVのインタビューで松本選手が語っていたのは、「闘争心をおさえるのが大変だ」ということと、(過去に、鼻が折れていても麻酔をしないで試合に望んだことに)「生きているんですから、(鼻が折れてても)別にいいんです!」と。
まさに松本選手が言っていたように「死んじゃうわけじゃないし、とりあえず生きている」というのは、かなり力になる開き直りであり、大きな励ましになりますよね。
自分の人生の流れの中でちょっと暗いかげがさして心配になるとき、そこにとらわれてドップリと引きずりこまれてしまうのではなく、冷静に「別に死んじゃうさけじゃないし」「とりあえず生きてるし」と松本選手流につぶやくというのも、不安や怖れをやりすごして、流れや方向をかえずに進んでゆくひとつのよい方法かもしれません。
松本選手のような鋭いまなざしで、自分の欲しいものをしっかりと捕らえたら、それをどんどん大きくして、それだけを見め続ける・・・「でも・・・」「だって・・・」「「だから・・・」という言葉が入りこむ余地がまったくないとき、わたしたちはしっかりと欲しいものをつかみ取ることができるのですね。