15-02-28 「怖れ」のデトックス

わたしたちにとって「ニュース」というと、悲惨や怖れ、戦いしか対象にならないのでしょうか? ・・・

暗いニュースのオンパレードにそんなふうに感じてしまうこの頃です。世のなかでは、すばらしいことだってたくさん起きているはずなのに・・・。

ひっきりなしにテレビで流されていた IS (イスラム国)による戦慄の映像がおさまってきたと思ったら、こんどはこどもが河川敷で殺害されるという悲惨な事件。ふたたびあの IS の処刑イメージと重なって、胸が苦しくなりました。

もちろん真実を報道することは大切だし、それを知ることも必要です。でも、まるでヒプノティックに暗示をかけるがごとく四六時中同じニュースが流されると、ひとつの事件が何倍にも増幅していくように感じてしまうのです。たった一回だったことが、まるで何回も起きたように心は錯覚し傷つきます。(あの 9.11 や 東北の津波のときもそうでした・・・。まさにこれこそ擦り込み。)

じつは、わたしたちのエゴは怖いことが大好き。怖いことを糧にエゴは生きのびる、とさえいえます。

だからこそ、テレビ番組はこぞって「怖れ」をテーマにしているともいえます。「主治医が見つかる・・・」とか「本当は怖い家庭の・・・」とか、「直下地震で生きのびるには」とか、「富士山の噴火」がどうとか。わたしたちのなかのエゴには、おおいにうけるテーマですからね!

人の怖れをあおり、罪悪感を刺激すれば、確実にモノは売れるし、視聴率もあがるわけです・・・。

わたしたちは自分の「思い」というのがどのぐらいのパワーがあるのか、ということを忘れすぎている気がします。

わたしたちの「思い」こそがここまで文明を発達させ、いろいろなものを創りだしてきました。「思い」はさまざまなものを創造し、影響を与えます。それはひとりひとりの人生にもいえることです。

しかし、「怖れ」の思いからは怖ろしい現実しか生まれえないし、一方、「愛」や「喜び」「平和」な思いからは、そのような世界が必ず生まれます。わたしたちは、それぞれを意図したとおりの現実しか体験することができません。完全に「怖れ」に動機づけられてしまったからこそ、このような悲惨な事件が続発したともいえるのです。

「怖れ」や「悪」といわれるものを分析することに時間を費やすのではなく、それよりもわたしたちは「何を望むのか、何を見たいののか、何を体験したいのか」にもっと敏感になるべきだし、時間を費やすべきなのでしょうね。

わたしたちの思いは、「愛」か「怖れ」のふたつにひとつしかありえません。

ちょっとだけ「怖れ」で、あとは「愛」というのはなく、選べるのはどちらかきっぱりとひとつのみです。そして自分が選んだとおりに体験することになるのです。「怖れ」を選んでおいて、「愛」や「平和」を体験することはできません。

たくさんの恐ろしい映像や怖いニュースにあふれていようとも、ちょっとテレビからはなれて・・・ 自然のなかで太陽をあびてゆっくり過ごすとか、のんびり音楽を聴くとか、家族や友人と暗い話ではなく楽しいことについて語り合うとか、こころあたたまる本を読む、映画をみるとか、自分にやさしくしてすごすとか、誰かにやさしくするとか・・・温泉やマッサージもいいかも。

さまざまな自分のための怖れのデトックスがありますよね。それぞれが自分のこころを平和に保つだけでも大きな力があります。その平和は必ずまわりにも影響を与えるし、連鎖していくものです。バタフライエフェクトのように・・・。

一週間に一回は、心から「怖れ」の気持ちや重苦しい気持ちを追い出して自分にやさしく過ごす ・・・ 「怖れ」がはびこる日常ではそんなデトックスタイムがぜひ必要ですね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー