15-10-05 まさか!「犠牲者こそが生きる道」だったとは?

わたしたちは、幼い頃の人間関係や体験から『人生とはこういうものだ!』という自分なりの見解をうちたてます。そして、まさにその考えに沿って人生を生きていくようになります。幼い頃に信じたことこそが、人生の青写真。

とくにそのなかで大きな力を持っているのは、兄弟との関係。そこで培われる信念です。兄弟関係をとおして、「親しい人間関係とはどういうものか」「人生とはどうやったら安全にサバイバルできるのか」という生きるための自分なりの智恵をつけていくのです。

しかし残念なことに、こどもの智恵 = サル智恵に近く(汗)、その当時は少しは役にたつのですが、のちのち自分の首をしめることになってしまいます。

兄弟関係には、兄弟葛藤といわれるさまざまな問題が存在します。つまり、上の子には上の子なりの痛みがあり、下の子には下の子なりの傷があります。

じゃあ、ひとりっ子は問題ないのか ・・・ というとそんなことはなく、ひとりっ子にはひとりっ子の問題があります。そして兄弟葛藤はトラウマというよりは、もっと無意識で静かなもの。しかし、何度もその兄弟葛藤に直面し、なんとかサバイバルしようとしているうちに、そこで使った方法が自分が幸せになるための手段に違いないと勘違いしてしまうのです。

たとえば、わたしの場合 ・・・ 兄がいてわたしは下、妹です。

さて、兄弟葛藤からどんな信念をつくりあげ、その信念がその後の人生にどう影響したのでしょうか? (あくまでもわたし目線ですが。)

兄はわたしが生まれてくるまでは、はじめてのこどもで、まるで王子さま、スターでした。しかし、わずか一年で王子さまの座が危うくなります。まるまる太った、ものおじしない、たくましくうるさいやつ(わたし)が突然登場するのです。それは乳飲み子なので、すごく手がかかる。昼だって夜中だって、お母さんのおっぱいとおひざを一人じめ。

兄からみればひとつ違いは心理的にも脅威になります。なによりも、今まで100%注がれていた愛情を奪われたように感じて不安になります。(親からしたら、少しも愛情は減っていないよ!というでしょう。)

そのころ父がとりためていた8ミリ(ビデオ)を見ると、わたしが寝ているベビーベッドのなかに兄が乱暴にオモチャを投げ入れていったり、庭で砂遊びをするわたしの背後に兄が静かにしのびより頭から砂をかけるといった姿が写っていました。これは兄が特別いじわるだったわけではなく、下が生まれたときの上の子の反応はたいていこんなものです。だから、この8ミリを見たとき、家族もわたしも笑っていたものです。

けっして仲が悪かったわけではなく、むしろよかったと思うのです。ふつ〜に仲のよい兄弟でした。しかし、そこにはつねにこどもにとって神、あるいは生きるための源ともいえる両親からの愛情をめぐって、兄弟葛藤というある種の攻防が繰り広げられていたのです。その攻防のなかでわたしたちは、人生とは、人間関係とは、「どうすればサバイバルできるか」「幸せでいられるのか」という、自分なりのある考えをつくりだしていきます。そして、これこそがその後の自分の人生の「方針」ともいえるものになるのです。

たいていは仲よく遊んでいるのですが、でもケンカがはじまると(こどもにケンカはつきもの)、兄の手が出る、足も出る。男の子のケンカはちからづく。たまったものではありません。そこで「たちうちできない」と感じたわたしは、サバイバル方法として何をするようになったのか? はい!それは、最強の手段 ・・・ 大声で泣くこと。そうすれば、すぐにわれらの神(母)がかけつけてきて、救いだしてくれるのです!

さきほど、「こどもの頃の信念にそって、その後の人生を生きる」と書きましたが・・・じゃあ、これがどのようにわたしの後々の行動に影響したのか?

兄とのケンカの体験からわたしが信じたのは、「仲のいい相手(兄)でさえ、ときには容赦なく攻撃してくるから、それに対してわたしができるのは泣くことによって助けがやってくるのを待つこと。そうすれば窮地を脱する」ということ。

つまり、「自分の愛する人は自分を攻撃してくるものだ。それは避けられない。それに対してわたしが唯一できることは、かわいそうな犠牲者になりすまし、助けをえることである」。

冷静に考えたらあまりよいアイデアとは思えないのですが、当時のサル智恵ではベストなサバイバル方法だったわけです。

この信念によって、人生において安全に幸せになるには  ・・・ 助けてもらうことが必須である → それをえるためには犠牲者になる必要がある → 犠牲者には攻撃が必要である ・・・ というわけで、幸せになりたいわたしは大切な人間関係のなかで無意識に攻撃されるためのいさかいをわざとつくりだして、かわいそうな自分という役をになっていたのです。

「ゲゲ〜!こんな幸せのなり方なんてイヤだ!」と思いますが、じつはみんなもれなく、そんな不毛な役にたたないパターンで幸せをめざしています。やり方はさまざまですが、意識化されていないだけです。

こんなことを自分が信じていたことに気がついたとき、自分の愛する人とのあいだで繰りかえしているパターン化している争いやら、なかなか解決しない問題の理由がわかったのです。幸せのために、攻撃こそ大切!と思っていたのですから。

わたしが自分はかわいそうな犠牲者であるいう役まわりを手放さず、助けをえるために犠牲者でいたがっていたという。まさに、自分に痛みを与えることこそ、自分が幸せになる道だと思っていたのですね・・・(大汗)。

誰のこころにも、探求してみるともれなくこんな不毛な、幸せとは逆方向に向かう信念を握りしめていて、それこそが自分に幸せをもたらすと信じています。努力しながら逆方向に向かっているのです。

信念というのは、意識化されることでようやく手放すことができます。自分の手のひらのうえにのせて「え〜!わたしはこんな悲惨なことを信じていたのね。まさか、首をしめながら幸せになろうとしていたなんて」と気がついて笑いとばすことができたとき、それを終わりにすることができます。わたしも、もちろん手放しました。

そうしたら、あきらかにムダな戦いがなくなりました(戦いがなくなってみて、はじめて戦っていたことに気づくことも・・・)。そして、幸せになるためにわざわざつらいめにあって犠牲者になろうとする気持ちがなくなり、生活がシンプルに自然に、安らかで平和になってきたと感じます。

なぜかいまひとつ人生がすっきりしないとき、もっと幸せ感を感じたいとき、是非、兄弟関係のなかで、あるいは兄弟がいないことで、幼い頃にどうしたら自分が傷つかずに安全にサバイバルできると考えてきたか? そのために何をしてきたか? を探求してみてください。そこからきっと、今の人生のパターンや、繰りかえし起こる問題などとの間のつながりを発見することができると思います。

それがどんなパターンか?  ・・・気づいちゃったら、もうそれは終わりです!パチパチ♪

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング