クライエントAさんのご相談は、「私はネガティブで、目にするもの何でもけなしてしまうんです」ということ。「こんな自分をやめたい。幸せを感じられるようになりたい」といらっしゃいました。
たしかに ・・・ 幸せを感じたいAさんにとって、「けなす」ことは決して幸せには近づけてくれません。
つねに「けなしてしまう」行為は、たとえ口に出さなくても、ケンカを売っているようなもの。「けなす」ことは攻撃であり、攻撃をしたからには心安らかでいられるはずがありません。平和はやってきません。
じゃあ、Aさんにとってなぜ攻撃が必要なのか? 自分は苦しくなるにもかかわらず、なぜ攻撃を選ぶのか・・・?
私たちは、「こんな自分はいやだ!」「やめたいんだ!」と思っても、なぜかやり続ける自分がいます。それは、「やめる」よりもやり続けるほうがじつはずっとメリットがあるから。トクをしているから。そのトクは、「こんな自分はいやだ!」と自分を嫌いになる気持ちをゆうにうわまわるほど魅力的なのです。
さて、Aさんが「自分を嫌いながらも、なおもけなすことをやめられない」、そのメリットとはどんなものなのでしょう?
Aさんの潜在意識(ふだんは感じることのない意識)のなかを調べてみると、幼いころのお母さまとの関係のなかで不協和音が存在していました。
お母さまの自分に対する態度から、「私は邪魔だから、見向きもされない」と信じ込み → 「そのままだと、まるで透明人間だ」と感じ → 「何か、自分に付加価値をつけなければならない」と思いたち → 「はっきりとした考えをもっている人は、存在感があるし、賢くみえる」と気づき → 「何を見ても、なるべく辛辣な意見を言おう」と決心し → 「瞬時にものごとを裁かなくてはならない」という結論にいたりました。そうすれば、透明人間である(と思っている)自分に必要な付加価値を与えられ、賢い価値ある人になれるだろうし、母にも認められるかもしれないと決めたのです。
こんな幼少のころの自分に対する無価値感から、けなすこと、価値判断すること、辛辣な意見を持つことは、価値ある人間になるため、一目おかれ愛される自分になるためには必要なことになってしまったのです。
こうして文章にしてみると、まったく筋がとおっていないことは明らかですが、なんせ三歳とか四歳のこどもが決めていることですから ・・・ 。冷静に、客観的にみてみると「これヘンでしょ!」ということが、あんがい私たちをつき動かし、操っていいる信念なのです(まったく役に立たない信念です)。
だからこそ、その役に立たない信念のシッポをしっかりとつかんで、明るい場所に引っぱり出して、「これ、おかしいでしょ〜」と笑ってあげることが必要なのです。
Aさんは、まったく無価値でも、ダメな人でも邪魔な人でもありません。
私たちが親だと信じていた人も、一人の人間であり、その人なりの心の痛みやものの見方、トラウマがあったりします。まったく自分と同じなのです。
親も同様に、こどもの頃からの痛みを今だに抱えていて、そのの気持ちにとどまっていて、そのこどものままで子育てをしていることになります。
そうなんです。私たちが親だと思っている人はしばしば、まだこどものままで、包容力があって、愛してくれて、守ってくれる人という「親のイメージ」にあてはまらない人もたくさんいるということなのです。
ヒプノセラピーのセッションのなかで幼児期退行をしながら、幼い自分につらくあたる親に涙するクライエントさんに対して、「ごめんね〜、○○ちゃんがお母さんだと思っていた人は、まだ五歳のこどもだったんだよ。五歳の女の子に、ちゃんと子育てはできないよね〜。だから○○ちゃんが悪いからこんなことになったんじゃないんだよ。自分を責めちゃだめだよ」と教えてあげます。
こどもは、相手が自分につらくあたると、自分が悪いからだ、欠陥があるからだと決めて、自分を責めるようになります。そうじゃないのです。しばしば、クライエントさんよりも、その親のほうが、もっとセラピーが必要なことが多々あるのです。いえ、多々あるというよりは、親もまったく同じなのです。
親との関係のなかでの間違った自分に対するイメージに気づいて、それを手放してあげると、だんだんそのままの自分でリラックスすることができるようになります。
クライエントのAさんも、ふと見せる笑顔がとってもチャーミングな方で、その笑顔がのぞくたびに「ああ、こんなに純粋で、素直の方だからこそ、傷つかないように必死で自分を守る必要があったのだな〜。自分を守る方法こそが、攻撃という形をたったのだな〜」と感じます。
けなしてしまうクセが出てくるたびに、「私は価値のない人ではない」「透明人間ではない」「付加価値はもはや必要ない」と、自分の思いを訂正していくことで、だんだんリラックスして心を開けるようになり、本来のAさんの純粋さ、素直さ、優しさ、楽しさが輝き出してくることでしょう。
もし攻撃をしかけてくるように見える人がいても(つらくあたる、厳しいことを言う、明らかに攻撃してくる、無視する・・・など)、攻撃を受けている自分を責めたり、卑屈になったりするのではなく、「ああ、この人は攻撃することで、自分の価値を必死に高めようとしている。それだけ、この人は自信がないし、おびえているんだ。ほんとうは愛してほしいのに、どのようにふるまっていいのかわからないのだ」 ・・・ こんなふうに思ってみてください。
相手の攻撃に巻きこまれて、自分も同じようになってしまうのを避けることができます。そんな人こそ愛にふれると、かたまっていた心が一気に解凍されて、本来の愛や優しさがあふれ出しきます。
みんな「愛」がほしいのです。そのために頑張っています。
しかし、それを手にするために、しばしば間違った表現になってしまうのですね。それを理解できるようになると、自分にもやさしくなり、心も穏やかになるし、人のこともより理解できるようになると思います。