先日、お友だちの家を訪問したとき、幼稚園児の息子さんが得意げに見せてくれたもの、それは「飛びだす絵本」。いろんな場面がぴょんぴょんポップアップしてくる立体絵本です。
いや〜! 近頃のはたいそうよくできています(わたしの頃とは大違い!)。いろんなカラクリがあったりして、思わずその不思議な美しい世界に入りこみそうになりました。一冊わたしも欲しいな〜と思うほど。
といいつつも、わたしたちは日々「飛びだす絵本」に夢中! 「飛びだす絵本」を生きています。
どういうことか ・・・ というと、
わたしたちの本棚には、いろんなストーリーの「飛びだす絵本」がぎっしりと並んでいて、その背表紙にはたとえばこんなタイトルがあります ・・・「2016年6月20日 古川貴子の一日」。
つまり、朝目覚めると、その日の「飛びだす絵本」がパラリと開き、それを読みはじめます。その臨場感や不思議さ、連ドラ顔まけのハラハラドキドキに、もう夢中! すべてを忘れてのめりこんでいきます。
そしてついつい、自分が「読み手」であることを忘れて、すっかり絵本のなかの主人公になりきっちゃう。
そして夜になり一日が終わる頃になると、その絵本はパタンと閉じられ、そのストーリーは店じまい。本は棚にもどされ、眠りにつくわけです。
もしその晩に夢を見ることを選ぶなら、「2016年6月20日 古川貴子の夜の夢」という絵本がまたパラリと開かれます。「夜の夢」」シリーズは若干辻褄があわなかったり、話がとんだりして、手抜きっぽく感じるかもしれません。
あるいは夢を見ないことを選ぶなら、どの絵本も開かれることがないままとなり、安らかに休息します。
こんな「飛びだす絵本」をくる日もくる晩も、ワクワクク喜々として開く日々がつづきます。
そしてお姉さん、お兄さんになるにしたがって、「2016年6月20日 古川貴子の一日」という一冊でも、ダークバージョンとライトバージョン、ミディアムバージョンなどいろいろな筋立てが存在することに気がついて、自分で選択できるようになってきたりします。
でも、いつしかこどもは成長します。そしてついに、絵本に興味を示さなくなる日がやってくるのです。昼の絵本にしても夜の絵本にしても、まあ、どれも似たりよったりだな〜と。
ワンパターンのアップ&ダウンのストーリーで盛りあげ、「めでたし、めでたし」で終わりそうになるところを話しを続かせるために、「じつは、その話しにはまだ続きがあった」という急転直下のどんでん返しが繰りだされ、そして地の底をはいまわったあとの栄光という陳腐なパターン ・・・。
そんなストーリー展開も、手あかがついたこども騙しのように感じてまったく心が動かされなくなるときがやってくるのです。心底あきあきするのです。「もう、いいよ!」って投げ捨てちゃう。
そう、もう絵本はいらない。 ・・・ 絵本はおはらい箱にされてしまいます。永久に ・・・。
絵本が閉じられドラマが終焉したとき、なんという静寂・・・。静けさ ・・・ 。平和 ・・・。それは永遠に。
絵本の主人公は、自分がすべてのストーリー運営に責任があると信じて、日々がむしゃらに、力いっぱい奔走し続けます。
けれど、本当のところは、その一冊のストーリーはすでに書かれているもの。主人公が話しの詳細や結末を決めるのではありません。でも、その筋書きどおりに動かされていることにまったく気がついていません。だから必死!(汗)
さしあたって「飛びだす絵本」を生きる毎日のあいだは、登場人物である主人公のわたしとしては楽しいわくわくするストーリーのなかで活躍したいな〜♪ お気楽なのがいいな〜♪
毎日、毎晩、絵本を選んでくる人(読み手)に、ライトバージョンの絵本を選ぶようにお願いしておきましょう!
え? ・・・ 絵本を選んでくるその人が「本当のわたし」ですって? じゃあ、登場人物のわたしって誰よ、いったい?! (笑)
(ꐦ ´͈ ᗨ `͈ ) '`,