16-10-26 怖れとサヨナラする

「怖れ? 自分にとって不都合なことや脅かすことが起こったときには、感じるかもしれないけれど・・・ あまりピンときません」と言われるかもしれません。

私たちは本当の感情を誤摩化すのがとても上手なので、怖れはおろか、ちょっとでもイヤな感じ(空虚感、孤独感、無価値感など)を感じると、すぐさま「何か他のもの」でそれをメイクアップして、注意のホコ先を変え、イヤな感じを感じないようにしてしまいます。

友だちと楽しくおしゃべりしたらもう大丈夫!、お酒を飲んだら、買い物をしたら、恋愛をしたら、ギャンブルをしたら、趣味に没頭したら、仕事や家事で忙しくしたら、ホラもう大丈夫!

つまり、「本当の感情なんて、それを直視しなければぜんぜん問題ない!」というわけです。

だから、誤摩化しのために使っているものがなくなると不安になり、すがりついたり、代替を探すかすることになります。失ったときの乗り換えがうまくいかないとき、怖れに直面し不安になるのです。

そして、また探します。本当の気持ちにフタをできる何かを。怖れをカバーしてくれるものを。

私たちは、「怖れている」「不安になっている」「怯えている」自分を、どこか間違っていると感じて、弱くてはずかしい、もっと強くならなくちゃ、と思います。だから、なんとかそれを誤摩化したり、隠したり、強がったり、なくしたりしようとします。

私もむかしは、「学びを続けていけば、あるいはセラピーを続けていけば、いつかは怖れがなくなるに違いない」と思っていたときがあったけれど、いつまでたっても怖れはなくなりません。

シンプルに言ってしまえば、「生きること = 怖れをもつこと」かもしれません。だって、個体という身体を維持するために、つねに危機にさらされ、その孤立感から宇宙遊泳なみの怖れと向き合っているわけだから ・・・ 人間でいる、この世に生きているっていうこと(生存本能があること)じたいが、怖れに満ちた体験なわけです。

生存本能からくる怖れだけでなく、心理的な分離感、孤独感、見捨てられ感というもの、潜在的に抱えています(母体からの分離や、もっと深いワンネスからの分離という)。

でも、「本当の自分」や「本当のこと」への認識が深まると、たしかに怖れの強度は格段に弱まります。でも、分離した個体である・・・という根本的な怖れからは逃れることができません。

だから、「怖れとサヨナラする」のはムリはなはし ・・・ なのです。

そんなとき、「怖れながら、怖れとともに生きなさい」というメッセージを受けとりました。

「怖れがあってあたりまえなのだ」と。「無くそうとすると、敗北感を味わいますよ」と。

怖れを忌み嫌って、なんとか自分の人生から消え失せてもらおうとするのではなくって、「怖れがあってかまわない」と思って生きること。

たった今、車の走る音がして、向かいのカレー屋さんからは下ごしらえの野菜を煮る匂いがただよい、きょうはかなりお寝坊したので頭がぼ〜っとしていて、さらに少し空腹でもあります。これが今わたしの意識に登場しているものたち。

毎瞬、毎瞬、こんな調子でいろんな感覚、感情が登場しては去っていきます。私が握りしめない限り。

でも「怖れ」に関してはなぜか、登場するやいなや「ちょっと、ちょっと、待ってください。なんでこんなところをウロウロしているんですか?あなたは立ち入り禁止ですよ。早く出て行ってください」とばかりにつっかかるわけです。

「つっかかる」=「注意が注がれ」、それが意識に固定され、よりフォーカスされる、より色濃くなるわけです。

これが車の音やカレーの匂いだったら、「ん?匂いがしてる」・・・そして3秒後にはどうでもよくなっています。(ああ、たしかに、どうでもよくないときもあります。「また、カレーの匂い?毎日、強制的にこの匂いにさらされて・・・」みたいな不平不満をエゴが申し立てて、それでも5分もその思考はもちません。

つまり、「怖れ」もこれらの登場人物と同等で、やってきては、さって行くもの。私が頓着さえしなければ。まったく他の思考や感覚、記憶のレベルと同じなのです。

でも、「怖れ」はすぐさまそこから独自のストーリーが展開されたりするので(怖い、こうなっちゃうかも、ああなっちゃうかも、そうしたらこんな最悪なことも!そして、さらにああなって・・・)、飽きのこないおもちゃのように、いつまでもかかわっていられるのですね。かかわればかかわるほど、それがだんだんリアルに思えてくるし・・・。

今朝教えられたのは、「学ぶにつれて、癒すにつれて、簡単に怖れに騙されなくなるのは事実ですが、完全に怖れと縁がきれると信じていると、また自分を責めることになりますよ。それよりも、怖れと仲良くなりなさい。毎朝してくるカレーの匂いと同じです。それがあってもあたまりまえだし、自分にはまったく害をもたらさないものだと思いなさい。実際、怖れには何のパワーもありません。通行人と同じです。あなたが、そこからありもしないストーリーをでっちあげて、それに執着しないかぎりは。怖れはやってきては、ただ通り過ぎ、去っていくだけのものなのです。ただ、ただ、あなたのなかを通り抜けさせてあげなさい」と。

たしかに・・・。怖れがなくならないといけないと思っていると、ずっと敗北感、不完全さを感じることになります。

だから、ただ「スルーすること」を学ぶということ。

最近、わたしが好きなのは、「あなたはザルです」という言葉。

酒豪ということではありません(笑・私はぜんぜんアルコールだめです)。

「なにがやってきても、ただあるがままを体験して、自分のなかを通過させてください」ということ。まったくの抵抗、コントロール、価値判断、避けたい気持ち、なしで!

人生を、自分自身を、ザルにする。

これをはじめてから、なんかとってもち力が抜けました。( ̄。 ̄)ボ~ッ  とくに、このザルをイメージするたびに。

「そうです。私は、ザル人間です!何でも通り抜けちゃう」(笑)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング