先日、テレビで新作アニメ映画「ペット2」の紹介をしていました。
主人公はマックスくんというワンちゃんで、そのマックスくんの吹き替えをしたバナナマンの設楽さんいわく、「アフレコをしていると、だんだんマックスが自分になっちゃうのね」と。
はいはい、たしかに。映画を夢中で観ているときも、登場人物になりきってしまいます。だから楽しいのですが。
設楽さんも画面のなかのマックスのセリフに同調し、感情移入するうちに、ワンちゃんとして画面のなかを走りまわり、さまざまな冒険をしたのです。
コレ、じつは私たち誰もが日常でふつ〜にやっていることとまったく変わりがありません。
たとえば私。
日々、「たかこさん」という登場人物をガン見しているうちに、完全に「たかこさん」が自分であるかのような気になってしまっています。
だから、「たかこさん」のストーリーにいちいち気をもんでしまうのです。
しかし、ほんとうはこの「たかこさん」をただ「見ている」だけです。ストーリーのなかのマックスくんと、ストーリーの外の設楽さんの関係と同じなのです。
すでに制作が終了し完成している「ペット2」のように、すでにこのストーリーは書かれて出来あがっており、セリフも選べません。お話全体はできあがちゃっているのですから。
で、「私」はそれを見ている立場だったはずなのですが、
ストーリーに興味をもち、登場人物に感情移入し、ガン見しているうちに ・・・ メリメリとそのストーリーのなかに入りこみ、登場人物のことを「これが自分だ!」と勘ちがいし ・・・ しまいには、ストーリーにホンロウされ、気をもんだり、アセったり、必死に努力するわけです(完成しているストーリーに努力は無用なのですが・・・)。
「見ていた」はずが、もう登場人物そのものです。
いくら自分がそこで何かをしているように見えても、じつは何ひとつできません。設楽さんがアニメの中のマックスをどうにもできないように、ただそれをそのまま受けいれるしかありません。
しかし、ほんとうはそこまでメリメリと画面の登場人物に入りこむ必要はなく、五歩ぐらいうしろにさがって、ただ見ているだけでよいのです。
私もついメリメリと「たかこさん」に入りこみすぎて、その結果、アセったり、動揺して、ストーリーをどうにかしよう!と頑張ってしまうことがあります。
そんなときには、「五歩うしろ!五歩うしろにさがって!それは自分じゃないよ!」と声をかけることになります(笑)
すると、画面から離れて客観的に見ることができます。
じゃあ、私は誰なの?って。
「ただ見ている存在」です。
登場人物もストーリーも、ただ「見られる」ためにあります。
見ていて、もしそのストーリーが気にいらなくて、葛藤や苦しみを感じるのであれば ・・・ それを却下し、破棄して、新たなストーリーに差しかえてもらう自由があるのです(ヤッタ〜〜〜!☆)
つまり、映画監督が「う〜ん!この部分はあまりよくないねぇ。主人公はもっと幸せでイキイキしてもらわなくっちゃ!」と感じれば、他のストーリと差しかえることができるのです。
ということは、そのお話のなかにいる登場人物であるアクターは自分ではなく、それを見ていて、指示をだすことができる映画監督こそが自分です。
こうして、すでに出来あがっている映画を見ながら、より幸せなストーリーに編集し直すことが、映画監督である私たちのお仕事であり、真の姿です。
監督が、メリメリとお話のなかに入りこんでしまったら客観性を失ってしまいます。変えられたはずなのに、変えるタイミングを失ってしまいます。
万が一、入りこんでしまったと感じたら、ただメリメリしてしまったことに気づいて、すみやかに自分のポジションに戻らねばなりません。「五歩うしろ!」です。「ただ見る!」ことです。
幸せなストーリーにするためには、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、「幸せなストーリー」にそぐわないところを指摘できなくてはならないのです。
そのためには、痛いめにあって傷ついてるのに、「いや、これこそ価値あることだ!」と執着していたら変えることができなくなってしまいます。
修正するためには、ちゃんと見て、自分に正直でいること。そして、幸せなストーリーにするんだ!という意図をしっかりともつこと。
気に入らないポイントを見つけたら、映像(ストーリー)の編集担当であるハイヤーセルフに、削除をお願いします。
「ここは主人公が悲惨に見えるので、ハッピーな流れに変えてください。苦しみ、悲しみ、痛みは、この主人公にはふさわしくありません。それらを取り除いてください」とお願いすることができます。
すると、それを取り消して、別のハッピーなストーリーに差しかえてくれるのです。登場人物は幸せそうに変化します。
それは、おおらかで、喜びとともにほんとうの自分を表現し、もっとつながりあって、尊重しあって、大切にしあい、愛と平和と安らぎが感じられるストーリーに取り替えてくれるのです。
あるいは、登場人物や舞台装置、主人公自身のイメージも、すべてガラリと変わってしまうこともあるかもしれません。
そんなふうに映画監督のポジションから、ストーリーを五歩さがってながめ、編集人であるハイヤーセルフにも一緒に見てもらうようにします。
すると、だんだんそのお話のなかの登場人物とムダにシンクロすることで葛藤することがなくなってきます。心理的な距離が生まれてくるのです。
「たかこさん」からうしろにさがって、まるで他の人を見るように、慈しみと赦しの目で見られるようになってくるのです。
もちろん、そのストーリーのなかではいろいろな出来事が次々と起こります。けれども、「ん〜〜 ・・・ このストーリーはまったく見たいものじゃないな〜」と感じたら、ディレクターとして、即、却下することを申し出ることがでます。
そしてそれは、いつも必ず受けいれられます。なんせ、私たちはディレクターなのですから!エヘン!! ディレクターの指示は絶対です。
ただそれを「見ている人」になってゆく過程では、ちょっと不思議な感じがするかもしれません。(だって、自分だと思っていたモノから離れてゆくわけですから。)
自分がいままで自分だと思っていたものに、じつはどれだけ力いっぱい握りしめ、執着していたことか。そして、それはただ手をゆるめてあげるだけで、自分から遠のいてゆくのです。
着ぐるみスッポリ状態で、着ぐるみを着ていたことさえ忘れていたのですが、突然「あれ?脱げるの?!」「これ、私じゃなかったのね?!」みたいな。
それは、急に覆いがとれて丸裸になってしまったような、裸でポイっと外に放り出されたような ・・・ まったく隠れるところ、つかまるところがないような ・・・ アセリ、こころもとなさ、宇宙にひとりでぽっかりと浮かんでいるような、どこにも何にも頼れない感じ ・・・ 。
でも、絶対的に抱かれて安全なのです。
最初は「どうしよう!つかまるところがない!コワイ、コワイ!」「たいへんなことになった!」とあわててしまうかもしれません。
あるいは、「私って、自分だと思ってたあの人じゃなかったの?」という困惑と、どこにも属さない寂しさ ・・・。だって、もうあの人じゃないから誰でもないのです。名無しさんです。
けれども、解放感と真に自由な感覚と安堵感と、深い安らぎの感覚。何も自分にふれることができないゆるぎない感覚。なぜなら、画面と私は別になっちゃったから。
楽しくもあり ・・・ 少しも自分が懐かしくもあり・・・。
でも、あのときの自分が感じることができなかった安堵と解放が広がっています。まったくなにもつかまず、なににも縛られない、何ものでもない感覚が。そして、巻きこまれていない自由が ・・・。
何かアセることがあったなら、アタマにくることがあったなら ・・・
ドラマの登場人物からスルスルとうしろにさがって、ドラマの外にいるアフレコ役に、さらにただ「見ている人」であるディレクターへと、どんどん離れてみます。
そして、「幸せなストーリー」だけが見るべきものであるのなら、編集担当さん(ハイヤーセルフ)にどんどん指示を出しましょう。
「これは私の見たいものではありません。私は、完璧な幸せだけを望みます!それを見せてください」と。
編集担当さんは、いつもその指示を待っています! (*⁰▿⁰*)
PS すでにできあがっている映画を、登場人物の立場から変えようとするには多大な努力とエネルギーがいります。一見変わったように見えても、結局は不毛な努力に終わります。それは、その立場からは変えることができないから。
それよりも、ディレクターとして、それを外側から編集いたしましょう!with ハイヤーセルフ♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )