19-08-12 まず、ゴミ屋敷に気づくこと

よくテレビで「ゴミ屋敷」がとりあげられています。

ゴミ屋敷とは、家の中も外もゴミで溢れかえっている家。それらは家財道具のゴミというよりは、どこかから拾い集められ、どんどんためこまれたもの。

びっくりしてしまうのは、「誰が見てもゴミの山でしょ!」という惨状であっても、ゴミ屋敷の主は「ゴミ? ゴミなんてないよ。ぜんぶ大切なものなんだ」と言うのです ・・・ (汗)。

もはや、何が自分にとって必要なものかわかっておらず、ゴミで自分の住む場所さえも奪われ、不潔になっていることに気づけません。

「あ〜あ!よくもまあ、あんな状態にしちゃたよね〜」とあきれて顔でコメントしてしまう私たちですが ・・・ みなさ〜〜んっ! 私たちもたいして変わりませんよ〜!(笑)

「えっっ?うちは、そんなゴミなどためこんでいませんよっ!(ὸ⍸ό)✧ 」って怒られそうですが ・・・ 家のことではなく、こころのなかのことです!

私たちはこころのなかに、どれほど自分のものではない思いや感情をためこんで、それを放さないでいることか?!

それは、自分で自分を傷つける思いや感情かもしれないし、あるいは過去に人から言われたことやされたことなのに、今でもそれにしがみついて大切に保存している自分に気づいていません。

それが意識の表面にあがってきて、気づこうものなら、

あわてて他のことに注意をそらせたり(何か刺激のあることをする ・・・ 飲酒、買い物、ゲーム、ワーカホリック、恋愛、ギャンブル、過食、人に干渉するなど)、あるいは再びこころのなかに押しこめて無視し、大丈夫な自分を演じたり・・・。

そのいやな思いや感情に直面してしまったら、怯え、取り乱し、怒りまくることになり ・・・ 自分でもどうしてよいのかわからなくなると信じているので、とにかく注意をそらすか、再びこころの奥に抑圧します。

しかし、感じていることは、すでに感じてしまっているので、いくら誤摩化そうとしても事実なわけです。

このいやな思考や感情を認めてしまったら、弱い人、価値がない人、怯えてる人、ダメな人であることがバれてしまうと思い、受け止められずにいます。だから、一生懸命拒絶し、隠します。

・・・ で、こころはゴミ屋敷化します。

いいのです! 受けとめて。 ・・・・ だって、しょせん、それは捨てるべきゴミだから。

でも、ゴミと自分が一体化していると捨てることができなくなります。なんせ、自分の一部なのですから、捨てることなどできません。

もし、これが自分じゃないなら ・・・ じゃあ、ホンモノの「自分」とは何でしょうか?

それは、「安らかな」状態。「幸せ」な状態のこと。

「幸せ」とは、何かをもつことでも、達成することでも、なることでもありません。それは、条件などなく、自分のあたりまえの状態のこと。自分であるからこそ、「安らかさ」「幸せ」は自分の当然の権利なのです。

今、こころが安らいでいて、解放されていて、静かで、満たされている ・・・それが、ゴミがない本来の自分のナチュラルな状態、ということなのです。

つまり、ゴミとサヨナラすると、これが自然と出てくるのであって、あえて作るだすものではないのです。達成するものでもないのです。手に入れるものでもないのです。

この「安らぎ」「幸せ」の状態にないとしたら、こころがゴミ屋敷化している、ということです。

こころのゴミ屋敷を掃除するには、「自分」とはそもそも何なのか、をはっきりと認識する必要があります。唯一達成することがあるとしたら、それはこころのゴミ捨てです!

自分ではないものに対して正直になり、自分がそれらを握りしめていたことに気づき、「これはいらない」ときっぱりと自分の意志で選別できるようになることです。

そのためには、自分であるものをちゃんと知っていなければならない、ということなのです。

自分ではないものに正直になることができたなら、あとは自分ではないものになっているときに、すぐさま「お掃除」態勢になり、お掃除を重ねてゆくだけです。

自分のこころの奥に埋めこまれたものは自分ではまったく気づくことができませんが、じつは人のなかにおいてよ〜〜〜く見えるようになります(無意識の投影)。

それもそのはず、世界は自分のこころの投影(反映)なので、いかに自分がこころのゴミの存在を認めていなくとも、それをそのまま外の世界へと映し出してくれるのです。

ゴミを放置していると、こころのゴミは増える一方なのに気づけず、とにかくやたらと人のなかの非は見える、という不都合が起こります。

そうなると、人に腹が立ち、疎ましくなり、結果として孤独になります。ゴミがたまってゆく症状とは、この孤独感なのです。つながれなくなります。

だから、自分のこころのゴミが映し出されるとき、「まったく、この人ったら?!(怒)」と裁いてしまうのか、 あるいは「外に見えているけれども、これは私です!だから、裁くのではなく、私自身を正します」と言えるのか、ここが運命の別れ道。

怒って裁いてしまうと、さらにゴミがふえます。自分を正しますと言えたなら、ゴミは一気に減り、また外に映しだされる画像も本来の自分を映し出すよういなり、平和を目にするようになる、という一石二鳥♪

エゴは「裁いたら、スッキリするよ。相手が悪い人になって、自分こそがいい人になれるよ」とそそのかします。

裁けば、そのときは気持ちがよいかもしれませんが、自分のゴミを清算する機会を逸したうえに、罪悪感というゴミをふやし、裁いたあとは必ずモヤモヤします。

すべてのことは、「受容」することで消えさってゆきます。終わりにすることができます。

そうであれば、こころをゴミ屋敷にしてまで自分ではないものをためこむことはやめて、ひとつひとつ「受容」という力で消し去って、サヨナラすることです。

そうすれば、ただほんとうの自分自身である安らぎ・平和・満たされた感覚が自然と出てこられるようになります。

受容とは、ただ感じていることに抵抗せずに、そのまま感じてあげること。ジャッジせずに受けとめてあげること。

しっかりと感じたら、キケン物処理班であるハイヤーセルフにそれを渡して、永久に廃棄をしてもらいます(取り除いてもらいます)。

そのためには、自分がどれだけズレているのか、ほんとうは安らぎがないのに大丈夫なふりをしていたのか、ということにひとつつづ気づくことです。

はじめは、「え〜〜〜☆ 私ってズレまくりじゃない!? やだ〜〜!(汗)」とショックを受けるかもしれません。

おめでとうございます! それでよいのです。そこがスタート地点です。

自分でないものに気づけてこそ、自分に戻ることができます。

どれだけ自分が安らかでなかったのか、安らかなふりをすることに必死になっていたのか、またそんな気持ちをさまざまなことで気をまぎらわそうとしていたのか、それが全然役に立っていなくて、それに対しても腹を立てていたのか ・・・・ そのことに気づけたら、ようやく本当の自分へと進むことができます。

どんなものに気づこうとも、結局、そんなものは本当の自分ではないからどうでもよいのです。

部屋のゴミを捨てるときも、どれがゴミかわからないとゴミ屋敷化してしまうように、まずは持ちたいものと持ちたくないものの区別を意識的につけられるようになる、ということが大切です。

今の私は、じつは私でないのかもしれない ・・・ならば、いったい私はどんな存在だっけ? 何が余計なのだろう? と正直になってみましょう。

それが、ほんとうに自分を解放してあげる第一歩となります。

余計なものに気づけたら、必要なものはもうそこに埋まっているからです。どけるだけでOKです。

自分のこころが完全なるゴミ屋敷であると堪忍してこそ、そこから完全な脱出がはかれるのですね。 (^^;; & (*⁰▿⁰*)

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング