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お茶の間シネマトーク「ボヘミアン・ラプソディ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

公開を楽しみにしていたクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的な映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。

正直、ちょっと心配だったのです。ドキュメンタリーフィルムならまだしも、あの異色のエンターティナー、フレディのカリスマ性を演じきれる俳優さんなどいるのかしら ・・・と。たんなるモノマネっぽくなっていたらゲンメツだな〜と。

あの希有な個性こそがフレディーだから・・・。

それが ・・・ すごくフレディでしたっ!

実物のフレディ以上にフレディの内面を感じさせる俳優さんで、ステージのマイクパフォーマンスやあの独特の身のこなしも、立ち姿もフレディそのもの。そして、ステージ上では見せることのない彼の内面の繊細さや葛藤も表現されていて、ひとりの若者としてのフレディを描きだしています。

ラストの10万人規模のライブエイドの場面は圧巻で、まさにライブ会場に足を運んでフレディの歌声を聴いているよう。(ご覧になるときには、ぜひスクリーンが大きくて音響のよい映画館でどうぞ! 私は I MAX シアター で観たのですが、音の臨場感がすごかったです。)

中学生の頃、私の親しい友人たちは熱狂的なクイーンのファンだったので、新しいレコードが出るたびに貸してくれたし、来日公演の様子もいろいろと聞かされてきました。でも、彼女たちはフレディではなく、ロジャーとブライアンのファンでしたっけ。(フレディは、なんかハードル高い感じ! 笑 )

徐々に過激になってゆくフレディのステージ衣装、ぴたぴたのタイツ姿にきゃ〜きゃ〜騒いでいたものです・・・ (まあ、女子校はそんなことでしか盛りあがるネタがありません・汗)。

そんなこんなで、とっても懐かし楽曲の数々・・・。それらが、「ああ、こんなふうにして作られていたのか〜」と今になって知ることができました。

あらためて、フレディというボーカルの凄さを実感しました! つややかで魅力的な声質は、いちど耳にすると忘れられない歌声です。またロックでありながら、ゴスペルのようでもあり、クラッシックの雰囲気もあり、でもノリがいい・・・クイーンのサウンドの独特さをあらためて楽しむことができました。



ああ、もういちど観たい♪

涙壷度:★★☆☆☆(ラストのライブ場面、感動でした!)

 

 

気づきの日記「なんでっ?!のナゾ」

A美さんは、小さいお子さんがいらっしゃるお母さま。

ご相談内容は、「わが子に対して感情をおさえられず怒りまくってしまい、その後に罪悪感にさいなまれて苦しい」ということ。

可愛くなくて虐待してしまうということではなく、「ただただ、とっさに怒りがとめられなくなる」ということ。そして「子どもに申し訳なく感じて、自分を責める」「そんな子どもを救わなくちゃ!とあせる」というくりかえし。

「怒り」というのは、その場面で感じた「ほんとうの感情」を隠すためのいわゆる武器のような感情です。自分が弱いと感じていればいるほど、とっさに怒りという感情で武装して猛々しい強い自分のフリをすることで、それ以上攻めこまれるのを防いでいるわけです。

つまり、ヒリヒリするこころの傷を隠すためにバンドエイドはる。しかし、そのバンドエイドは両面トゲトゲ ・・・ みたいな感じ。この怒りというバンドエイドを使うと、相手も自分も傷つけることになります。

スポーツ界でもやたら怒鳴りつけたり、暴力をふるったりという、怒りダダ漏れの指導者さんたちがおられましたが、こういう方はいざとなる、急にかりてきたネコのようにチンマリしてしまうことも ・・・。

怒りダダ漏れの方は、自分のおもいどおりにならないことに対して無意識のうちに恐怖を感じているので、その動揺をなんとかしようと、怒りを使ってゴリ押しでものごとを自分が安心できる状態にコントロールしようとします。

ほんとうに強い人は強く見せるための武器(怒りや暴力)は必要としません。コワがっている人だけが、怒りまくって威嚇してしまいます。

だから、怒りまくっているということはコワがっている証拠なので、そういう怒りまくっている人をコワがる必要はないのですね。

そこで、A美さんの怒りの下に隠されている、ビビってる自分(ニセモノの自分です)を明らかにしようとしたのですが ・・・ 小さい頃からツライ感情をもてあまし、こころの底に抑圧してきたので、武器としてなじんできた怒り以外の感情は隠されていてあまり意識することができません。

ふつうは、怒りの感情からその下に隠された真の感情へと掘り下げてゆくことで、怒りの原因を探ることができます。

たとえば ・・・ 私は怒りたい → なぜなら、思うようにならなくて動揺しているので、強がりたい → 私はコワい →  どうにもならない無力感がある → コントロールしないと生きていけない → 怒りこそコントロールするための最強の武器!・・・というように、怒りの底辺にある本当の感情をあばいてゆくことができるのですが、A美さんは完全にブロックされています。

そして、A美さんいわく、怒っているときにはきまって、「なんでっ!?」という言葉だけがあるそうです。

「なんでっ?!」というナゾのセリフのみ・・・。そこには感情もなんの手がかりもありません。

「なんでっ?!」がなにをあらわしているのかをうかがっても、ただただ怒りの感情とともに「なんでっ!?」というセリフだけが出てくる、というのです。

「なんでっ?!」がなにを意味しているのか?

そんなこまったときには、ヒプノだのみ!

感情を抑圧している自我(エゴ)にちょっとおいとましていただいて、そのすきに本当の気持ちへと攻めいる、というのがヒプノセラピーのやり方です。リラックスして自我が無防備になるトランス状態になると、本当の気持ちにアクセスすることができます。

そこで、A美さんをヒプノ状態へと誘導してみると ・・・

いままでは突発的にあらわれる怒りの原因を調べようとすると、その下の感情はブロックされてなにひとつ感じることができなかったA美さんですが、いきなり涙を流しはじめたのです。それも、まるで幼いこどもが泣きじゃくるように。

私が「A美ちゃん、どうしたの?」と声をかけると、「お母さんがぜんぜん話しを聞いてくれない」「相手にしてくれない」「見捨てられているようで寂しかった。悲しかった」と幼い女の子として答えてくれました。

どうやら、まだちいさくて、いちばんお母さんになんでも聞いてもらって甘えたいときに、それがぜんぜん満たされていなかったようなのです。幼い子どもにとっては、こころのよりどころがない感じです。

ヒプノをするまえは、まるで感情を感じることができなかったA美さんですが、とつぜん幼いA美ちゃんが飛び出してきて、泣きながら悲しみをうったえているようでした。

そして、そこでわかったことは、A美さんのお母さんもA美さん同様、まったく話しをきいてもらうことなく寂しく育っていたということ。そして、いざ母になってA美さんの面倒をみようとしても、してもらったことがないことはできないし、まだこころは傷ついた幼児のままだったということです。傷ついた幼児には、子育てはなどできるはずがありません。

そしてA美さんも母になったわけですが、お母さんとまったく同じで、こころはまだ傷ついたおさないA美ちゃんが痛みをかかえたまま存在していて、「私は母にちゃんと話しをきいてもらっていない」「面倒をみてもらっていない」「愛されていない」と主張していたのでした。

つまり、A美さんのこどもに対する怒りとともに出てくるあのセリフ、「なんでっ?!」というのは ・・・

じつは、「なんでっ?! 私はちゃんと面倒をみてもらっていないのに、この子の面倒などみなくちゃいけないの?!」「なんでっ?!私がこの子のワガママ聞いてあげなくちゃいけないの? 私は聞いてもらったことないのに!」という「なんでっ?!」だったのです。

私たちは自分が持っているものしか人に与えることができないので、「まだまだぜんぜん足りていないのよ!」と叫んでいるA美さん(A美ちゃん)にとっては、たとえ自分のこどもといえども与える余裕などなく、ひたすら理不尽に感じていて、こころが悲鳴をあげていたのでした。

そんなときには、ただただ、「ああ、そうかそんなふうに感じていたんだね」と自分がこころのなかでしっかりと受けとめて、育てなおしをしてあげることができます。ただその不満に気づいて、受けとめて、「足りない!」と主張しているところを安心させてあげれば、その気持ちはおさまるのです(本当は、外から調達しなくちゃならないようなものはないので、足りないということはないのです)。

その不安だった子どもが安心感をえることさえできれば、「足りていない」という勘違いを正すことができます。そして、本来自分のなかにすでにある安心感につながりやすくなります。

イライラしたり怒り爆発してしまうとき、ついつい自分を責めてしまいますが、責めてしまうとさらに罪悪感の悪循環におちいります。ただ、「なにかが間違っている!」と主張している自分のこころにやさしく耳を傾けて、いったい何をうったえているのか聴いてあげることが大切です。

この無条件に「受けとめる」という態度こそが、私たち誰もがいちばん望んでいることであり、癒しのポイントなのです。

それにしっかりと答えてあげることこそが、理不尽な感情も、荒れ狂う思考も、静めてあげることができることがわかります。

自分のなかに泣いていて、まだ満たされていない子どもがいることに気がついたら、批判したり、無視したり、変えようとすることなく、ただ「そうだったんだね〜」と言って、やさしく抱きしめて安心させてあげましょう。気づいて、受けとめてもらうことで、その子は癒されるのです。

 

 

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男フェスへ

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男フェスにお邪魔してきました ・・・ といっても、いかがわしいところに出入りしてきたわけではありません(笑)。

男フェスとは・・・

「男性合唱フェスティバル」という一年に一回開かれている男性合唱の祭典。

こぎれいな浜離宮ホールの入口で「ここからは男ばかりの世界で男くさいですから・・・」と念をおされ、どれだけむさ苦しいのかとかまえつつ入場。

ところが、目からウロコでした。男くさいどころか、キラッキラだったのです!

男性合唱ときくと「ダークダックス」しかイメージできない私ですが、のっけから「グレゴリオ聖歌」のような美しい調べ。天上から光が降り注いでくるようなこころあらわれるハーモニーのシャワー。

「え〜、男性の歌声って、こんなに澄んでいて美しかったのね!」と認識をあらたにしました。

むかしながらの合唱というよりは、アカペラ ボーカルグループみたいなイメージのところもあり、また力強いミュージカル風とか、ポップスに振りつけつきとか、老若男子の熱のこもった合唱の数々。みなさん、歌うことをほんとうに愛していらっしゃるのだな〜というのが、その楽しさからひしひしと伝わってきます。

じつは、私の愛する妹ちゃん(いとこともいう)のだんなさまが去年の優勝グループ(会津高校OB合唱団)で、今年はご招待グループとしてトリで歌われたのです。

そちらは、ヴィオラやチェロ、コントラバスの伴奏がついたドイツ語の荘厳な雰囲気の楽曲でした。さすが、去年の優勝グループ!ぶれることのないどっしり安定のハーモニーで、美しくも力強い素晴らしい合唱でした。バチバチ!!

私は妹ちゃんとの五年ぶりの再会ででかけたのですが、男フェスの予想外の充実ぶりと癒し効果にびっくりでした。

妹ちゃんののんちゃんと合唱をなさっただんなさま、そしてそのおかあさまとともに♡ 楽しいひとときでした。ありがとうございました♡

PS「東京男性合唱フェスティバル」は、毎年11月、この時期に開催されているようです。とても美しい合唱の数々です。男性の包容力のある歌声に癒されたい方はぜひ来年足をお運びになってみてください。

 

 

コケっ?!

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「アイスランドのコケ」、というタイトルのメールが届いて

いったい、なに?!とビックリして読んでみたら、

お友だちから「アイスランドのコケ、送りました」と・・・。

マリモのようなモノが送られてくるのを想像しましたか?

それはコスメだったのです!

でも、いま流行の苔玉を使って顔を洗うわけではありませぬ。

アイスランドの苔が22%もはいったチューブ入りクレンジング! 小鼻の汚れもすっきり、お肌がツルリと白さをましてすごく良い感じなんですって。

Kちゃんのおススメはいつも間違いなしだからね! それにしても、いろんなハーバル コスメがあるものですが、ついにコケとは・・・(笑)。

アイスランドというと、氷にとざされてエキスが凝縮されてる感があって(よくわからないけどそんなイメージ・笑)、とっても効きそうだわ。楽しみです! ありがとう  ( ・◡・ )♫

 

 

気づきの日記「ゆだねられないワケ」

Q: 「ゆだねることが大切だと知り、問題をハイヤーセルフにゆだねています。しかし、今だに思うようにいきません。なぜでしょうか?」

A :   私たちは、「ゆだねる」ことさえすれば「思いどおりになる」と考えてしまいがちです。

しかし、「ゆだねる」 = 「自分の思いどおりの結果になる」ということではないのです。ここはよく勘違いしてしまいます。

「自分の思いどおり」は、はたして自分にとってほんとうに幸せをもたらしてくれるのでしょうか? ハイヤーセルフや宇宙(神さま)が提案してくれる幸せよりももっとよいものなのでしょうか?

私たちは、「自分」という小さな点からしかものごとを見ることができません。なにごともその小さな点を基準にして、「それは間違っている」「これはOK」という選別をしてしまいます。

自分という小さな穴からしか覗いていないので、全体象などは見たこともなく(全体像の意味もわかっていません)、目にはいるものごとは小さな断片であり、それが何なのかを知ることはできません。

「自分の思いどおり」とは、エゴの想定する幸せでです。

でも、エゴとは怖れそのものなので、その動機は「怖れ(不足感、欠乏感)」であり、したがって到着地点も幸せではなく「怖れ」をともなうものとなってしまいます。

一方、ハイヤーセルフがもたらしてくれるゴールは、怖れをこえたゆるぎない「安らぎ」としての幸せなのです。

だから、ゆだねることは「大将のおまかせメニュー」のようなもの。

なにが出てくるのかはまったく未知で、ときにはそのとっぴさにびっくりするかもしれません。けれど、今まで知らなかった驚き、喜び、味わいがあるです。

そんな予想外の喜びを人は愛するので、ふしぎなお料理を出すことで知られたスペインのレストラン「エル・ブジ」も伝説になったのだと思います。

私たちは「はい、ゆだねます!」と軽く応じますが、それはポーズだけです。実際は、かなりしっかりと握りしめたままです。

「ゆだねる」ことは、運転席からバックシートに退き、VIP気分でゆったり静観すること。

VIP は、「運転手が道を間違えるかもしれない」とか「ちゃんと運転できないかもしれない」などと気をもむこともなく、安心して車内でのリラックスタイムを楽しんでいます。ちゃんと予定どおりに到着できることも、いちばんよいルートを選んでくれることも、安全であることも、すべてが大丈夫で自分のためにいちばんよいとわかっているから。

でも、私たちの「ゆだねる」は、運転席はあけ渡したもののまだ助手席に座っていて、片手はハンドルに手をかけたままで、あるいは毎瞬毎瞬、運転手が間違えないか逐一ガン見しているような状態です。

いったい、どれだけ信じられないの?! 私たちを導いているのはただの運転手ではなくて、すべてを知るハイヤーセルフですよ〜!(汗)

そう、まるで信じていないのです。信頼することができないことが問題なのです。大将のおまかせサプライズをまったく信頼しません(毒でも盛られると思ってるのでしょうか? 笑)。

つまり、キケンを感じているのです!

「何をされるかわからない」って(なんかされちゃう私って、いったいどういう人なの?!・・・汗・笑)。

ハイヤーセルフにゆだねたら、いちばんいいようにしてもらえるはずなのに ・・・そうは思えない。

「ちゃんとやってくれないよ」「ヘンなことされるに違いない」・・・

「ヘンなことされちゃう私」って、いったいどんな私なんでしょ?

「ヘンなことされる私って・・・」 → 「私、てきと〜にあしらわれて大切にされていないから」「あまり真剣に考えてもらってない」 → 「だから、いいものを与えられるとはとうてい思えない」(なぜ、そう思うの? ) → 「好かれてないと思うから」「価値がないから」「どうでもいいって思われているから」(どうでもいい人ってどんな人?)→「結局、私って見捨てられている感じ」

この「自分は見捨てられているから、いいものなんかもらえないんだ」という思いこみ  ・・・ これはハイヤーセルフセルフがそう言ったわけではなく、自分自身がそうだと言い張っているのです。

この自分に対する考えこそが、緊張を生みだして、すでに与えられているよいものにも気づかなくさせ、自然な流れに乗れなくしてしまいます。

「見捨てられてる」自分ってなんなんでしょう?

それは、自分のなかにありながら、長いあいだ抑圧されてきた孤独感、怖れ、無価値感です。

抑圧されてきたために、それは外側にうつしだされてあらゆる人(この場合はハイヤーセルフ)のなかに見るのです。

この抑圧された感情を終わりにするためには、ただその感情があることに気づいて、ありのままに感じて、手放してしまいましょう。その感情がしっかりと認識されていなかったために、さまざまな場面に顔を出して、怖れや不信をまわりの人のなかに見てきたことでしょう。

その感情によって、人との距離ができて近づけなかったり、それはまたハイヤーセルフに対しても同様に感じていたのでした。

気づくことさえできたら、終わりにすることができます。ただ気づいて、手放してしまいましょう。

すると、そこには「受けとれる自分」「全てを安心して受けとってかまわない自分」がちゃんと存在してくれているのです。

自分のなかのほんとうの自分ではない感情を手放すことで、しぜんと自分自身を信頼できるようになります。そうすると、まわりの人もハイヤーセルフもしぜんに信頼して、リラックスしてゆだねることができるようになります。

 

♪♫•*¨*•.¸¸♪♫•*¨*•.¸¸♪

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日暮れどき

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きょうも二十度ごえの小春日和。

インディアンサマーにふさわしく、ナント、蝉がないておりました!(なかざるをえなかった?笑)

でも、秋の陽はつるべおとし。いっきに暮れてゆきます。

夕方五時のチャイムで空をながめてみたら、ピンクにそまった黄昏の雲が。

暖かくて穏やかな夕暮れどきです。

みなさまも安らかな夕べを☆

 

 

気づきのぷちノート「自分を見たことがありますか?」

「はい、毎日、出かけるまえには必ず鏡で自分をチェックします」「お化粧するときに見ます」 ・・・

これは、自分を見ているのではなく、自分のイメージを見ているということです。

「自分を見る」というのは、「私」という存在のありかを見るということ。イメージではなく、ホンモノを見るということです。

私たちの目はつねに外側の出来事に気をとられているので、なかなか内側でホンモノの「自分を見る」ということをしたことがある方はいないかもしれません。

私が最初に意識的に「自分を見る」ということをしたとき、今までスポットライトがあたったこともなかった存在に急に光があたったように感じて、所在ないやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら。透明人間のように誰の目にもとまることのなかった存在が急に見出されて大切にされたようで、もうひとりぼっちじゃないんだという安堵を感じたものです。

つまり、私たちが孤独や不安を感じるのは、このほんとうの自分を忘れさっているからとも言えます。

つねにこころが紡ぎだすイメージにばかりこころを奪われて、ほんとうの自分が見捨てられ、置きざりにされている空虚感が不安や孤独、怖れの原因です。そして、それをうめるためにイメージの世界で空回りを続けるので、さらに怖れや孤独がつのるわけです。

自分へと戻ってゆくことは、安らぎと満足の体験で、それが自分が目にするイメージへと反映されてゆきます。

イメージの世界には何も引寄せるもはなく、引寄せるよりは自分から発するものこそが目にするものとなります。

ではでは、自分を見ることをしてみましょう。慣れると一瞬ですみます。

1♡ 自分のこころのなかの考え、イメージ、感情にただ気づきます。気づいて、見ているうちに静かになってきます。

2♡ 静かになったら、その「見ていた存在」に気づいてみます。その見ていた存在にスポットライトをあてるイメージです。

3♡ そして、その「見ている存在」のなかに、自らがダイブして消え去り、ひとつになります。そこには、沈黙があります。

4♡ そこにあらわれる安らぎ、満足感にとどまります。(もし、注意がずれて考えやイメージに巻き込まれてしまったら、また静かにそれ気づいて、この状態に戻りましょう。

練習しているうちに、いつでも簡単にできるようになります。また、考えやイメージ、感情に巻き込まれづらくなります。

だんだん、いつもそこにある安らぎの感覚こそが大切になってゆきます。すると、目にしているイメージのなかにも、同じ安らぎの象徴があらわれるようになります。

はじめて自分をしっかり見ようとすると、むずむずとした恥ずかしさを感じる方もいますし、また突如「やっと見てくれた!」という喜びの号泣が起こったという方もいます。それぞれの体験があると思いますが、そこには「やっと!」という静かな、あるいは強い喜びがあるのだと思います。

これが正しく自分を大切にすることなのですね。自分を大切にすると、目にするイメージが整ってくるのを感じます。

 

 

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秋のおやつ

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ハロウィーンのお菓子をいただきました。

このかわいいトラック、缶なんですよね!(缶 LOVE♡)

ハロウィンを待たず、すでにお菓子は消えさり、トラック缶も活躍中です。

サプリ入れにピッタリ! テーブルのうえを走りまわっています。

ありがとうございます。(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪

こちらも、秋のシーズン限定のおやつ。

マックのシナモンメルツ。

シナモン好きなので、是非トライしてみたかったのです。

シナモンもチーズソースもかなりたっぷりめ。パンは香ばしくローストしてあって、シナモンロールのまわりばかりを食べてるような感じです。ブラックコーヒによくあいます。

ラッキーなことにコーヒーが無料サービスの日で、とってもおトクな気分でした♡

 

気づきの日記「人生を紡(つむ)・・・がない」

私たちのエゴ(思考)は、お喋りが大好き。だから、ほっておくと一日じゅう「ああだ、こうだ」と喋りつづけることができます。

ためしに、少しのあいだ何も考えないようにしてみましょう。すると ・・・ あっというまにアタマのなかにお喋りの洪水が勝手にまきおこって、それに参戦している自分に気づくと思います。

路上でぶつぶつ言いながら歩いている人を目にすると、「あの人、頭がおかしい」とコワがりますが、もし私たちのこころに拡声器がついていようものなら、まちがいなく全員「アブナイ人」です!(笑) いつか目にしたアブナイおじさんのつぶやきと、たいして変わらないことに笑ってしまうことでしょう。

エゴ(思考)はひっきりなしに、ものごとに意味づけしたり、原因を推測したり、結果を予測したり、あれはうまくいったのいかなかったのとジャッジしたりするのが大好き。ちょっとまえの出来事に対しても、だいじに握りしめておいてあれこれ批判やコメントをくりかえします。

しかし、これをすることじたいが私たちの苦しさの原因なのだ、ということになかなか気づくことができません。

どうやらエゴは、ものごとの理由がわからないと落ち着かないらしいし、原因さえわかれば納得できると思っているようだし、結果はこうだと決めておけば安心できると信じているし、なによりも自分のルールにのっとってものごとを把握しておかないと気がすまないのです(私こそが “神” と思っていますから・笑)。

でも、ぜんぜんそれらは正しくないので、起こることとのあいだにさらに葛藤を生みだします。そして、「こんなはずじゃなかった・・・汗」という予想外が生み出されます(もともと、あれこれ考えることさえしなかったら、こんながっかり感も起こらなかったのですが・・・)。

予想外とは、もともと自分のたったひとつの考えに固執していることから生じるものです。

エゴがなんでこんなに忙しく喋っているのかというと、コワイからです。

こころが静かになっちゃったら、イヤ〜な気持ちが浮上してきそうだから、とりあえずこころを雑音で満たしておきたいのですね。あるいは、カラッポ感が耐えられないので、ウソでもなんでもいいからお喋りをつめこんでおきたいのです。

そんな理由から、私たちは何かを目にするとすぐに意味づけをしたくなります。

たった一枚の絵を見せられても、すぐさまストーリーを紡ぎはじめるのです。

たとえば、こんな絵 ・・・

「ああ、赤ずきんちゃんのオオカミね」「おばあさんになりすまして、食べてやろうと赤ずきんちゃんを待ってるのね」「でも、大丈夫!ハッピーエンドだから」とほとんどの方が「赤ずきんちゃん」のストーリーが浮かんだと思うのです。

でも、絵のなかには、赤ずきんの姿も、おばあさんのかわりだというくだりも、「食べちゃうぞ!」の文字も、危険が襲っても大丈夫だということも、さらにこれがオオカミであることすら、この絵はこれっぽちも示していません。

ただ、「こういう」絵なのです。

じゃあ、なぜわかったの? なぜ、こんな長々とストーリーを語ったの? ・・・ それは、過去から情報を引っぱってきたからです。「オオカミ」「ナイトキャップ」「ベッド」・・・ 「赤ずきんちゃんね!って。

私たちは、自分の過去の体験や知識からさまざまなものを集めてきて、いろいろなものごとがちゃんとわかったような気になっているけれど、ほんとうにわかっているのでしょうか?

それはかえって「あるがまま」を混乱させることになっているのかもしれません。

つまり、この絵には何の意味もない、ということなのです。どんな意味も内容も暗示していないし、そんな凶暴なストーリーもハッピーエンドも語っていはいません(宇宙人がみたら、まったく何がなんだかわからないでしょう)。

そんなふうに、私たちは自分の過去から、即座に今、目にしているものに対して意味づけを行います。自分でそうしているともわからないほど、瞬時に意味をでっちあげているのです。

しかしその意味づけは、この一枚の絵が教えてくれているように、ぜんんぜん正しくはないし、ほんとうではない、ということなのです。

これはただ、これだけです。

じつは、人生の一瞬、一瞬もこの一枚の絵のようなものです。

いろいろな絵柄の絵が積みあげられていて、私たちはそれをつぎつぎにめくっていきながら、即座にストーリーを紡ぎはじめます。

まったく吹き出しも注釈もない一枚一枚の絵(瞬間)は、じつはどのようにも解釈できるので。

そうそう、松本人志さんの「IPPONグランプリ」という番組で、芸人さんたちが提示された写真や絵を見て、瞬時にストーリーやセリフをつけるというのがありますが、同じ絵柄がシニカルになったり、笑えたり、悲惨だったり ・・・ 芸人さんの目線でまったく違う意味あいをおびてきます。

まさにわたしたちもそれをやっている、というわけです。

そして、それらの絵たちは、解釈されたままにストーリーを紡ぎはじめます。なぜなら、私たちは自分が「見る」と決めたものをなんとしてでも目にするからです。

しかし実際のところ、一枚一枚の絵には何の意味もないし、ましてや他の絵札との因果関係もまったくないのです(カルタが一枚一枚独立しているのと同じです)。

あれがあったから、こうなって、きっとああなる ・・・ 私たちは一瞬という絵札を並べて自分なりの物語を語っていますが、そこにはそんな物語はどこにも存在していません。一枚の絵(一瞬)は、それぞれそれでそのまま完結しています。

ただ「あるがまま」があるだけなのです。そして、一瞬は一瞬で完結します。私たちが意味をあたえて、つなげない限り、ストーリーはどんなストーリーも紡がれないのです。

ときどき思います。まったく過去の記憶がなく、自分に対するイメージも、人に対する決めつけもなかったら ・・・ 一瞬一瞬はどうなるのだろう? どんなふうに感じるのだろう? と。

おそらく、毎瞬、毎瞬、「はじめまして」の気持ちで人に会うかもしれないし、なんてことない体験でもびっくりするぐらい新鮮かもしれないし、すべてがきっと驚きで満ちていることでしょう。それが「あるがまま」の素晴らしさですね。(毎日毎日、記憶をなくしてしまう女の子と恋をして、毎日がファーストキスなんていう話しがありましたっけ。「50回目のファースト・キス」、私が観たのはドリュー・バリモア バージョン)。

つながりがないと、じつは怖れというものも存在しなくなります。

また、過去からリベンジするためにもちこむあれこれもなく、まったくプレッシャーがなくなって、きっとどれだけ軽くなることか・・・。

「きょうは新しい日」「私はきょう生まれました」、あるいは「一瞬一瞬、私は新しい」・・・ まったくストーリーを紡ぐことなく、こんなまっさらな気持ちでいっときいっときに向きあったら、どんな感じがするでしょうね?

ほんとうは、一瞬とはそんな無垢なまっさらなものであり、それが私たち自身のまっさらさなのですね。

 

 

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