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気づきの日記「学校に行けないこども・・・どうする?」その2

その1より

「学校に行かないこどもを、なんとか行かせたい!」というのは、こどもを思ってというよりは、じつは自分の満足を優先させたい、安心を得たいという親本位の考えです。なぜなら、こどもは学校に行けない=行きたくない、のが事実なのです。

そのこどもに、親は「どうして?」「そんなんじゃダメでしょ?」と追求の手をゆるめません。こどもはその追求に反発します。

まずしなければならないのは、こどもを「理解して受けとめる」こと。

理解することの基本は「無条件の受容」です。こどもが投げてきた球に対して「白」「黒」つけずに、そのまま受けとって、同じ球を投げ返してあげること。つまり、「学校に行きたくない」というこどもに、いい、とか、わるい、という価値判断は手放して、「そっか〜、行きたくないんだね」と受けとめて、その子とひとつになってどんな気持ちなのかを理解しようとすること。

不思議なもので、この「無条件の受容」があるとホッとするせいか、特別道を示してもらわなくても自分の中のポジティブな面が顔を出してくるのですね。何も間違っていない、という安心感からココロの自然治癒力が生まれるのです。

実際はこの「受容」がすっぽり抜けて、「早く正気を取り戻して、わたしたちの望む筋書きを生きるいい子でいでちょうだいね」というコントロールと隠された意図からこどもを「どうにかしよう」とあせってしまいます。

すると、こどもは敏感にそれに反応します。(ことばよりも、エネルギーのほうが雄弁に本当の意図を語ります。)こどもは、「その勝手な決めつけがいやなんだよ!」「自分のことを真剣に考えていない」と反発するのです。ある意味、親を冷静に試しているところさえあります。「学校へ行けない、期待に応えない自分。それでも、愛してくれているのか」と。

だから、親はまず「学校には行くべき」とか「この子はこう生きるべき」という決めつけを手放して、その子の気持ちとひとつになって感じることからはじめなくてはなりません。価値判断のないまっさらなところからこどもと繋がって受け入れ、リード、サポートをします。様々なことが起る社会(学校)の中で、親こそが「何が起っても、そのままのあなたでいいのよ」とつねにOKを出しげあげる人生のセイフティーネットになってあげることが大切なのです。

学校や仕事に行けない、引きこもってしまうこどもが増え続けている昨今、こどものココロの根っこが今ひとつしかりとはっていないのを感じます。

幼児が親から離れて保育園や幼稚園という社会に出てゆくとき、それまでに十分甘えることを認められて育ってきたこどもは、安心して大胆な冒険をすることができるようになります。何が起っても、安心して戻る場所がある、助けてくれる人がいる、そのままの自分にOKを出してくれる人がいる、という安心感が自分に対する自信へとつながっているのです。だから安定して新しいチャレンジができるし、失敗しても大丈夫と感じることができます。

もし幼児期にそのように十分に甘えたり完全に受容される経験が欠落していると、自分の存在の根っこの部分がゆらゆらしたまま大きくなってしいます。すると、どこか不安で、安定した感覚をもって冒険したり、挑戦したり、失敗することもできなくなります。その不安感が頂点に達すると、自分の内側にこもるようになってしまい、引きこもりを生み出してしまいます。

あらら〜、わたしちょっと育て方、失敗しちゃったかも・・・・という方。もしそうなら、今からでも大丈夫。「どんなあなたでも、あなたへの愛情は変わらないよ」ということを態度と言葉でしっかりと伝えてあげてください。こどもの言葉を判断することなく、そのままを受けとめる練習をしてください。もしそれをするのがむずかしかったり、ためらったりしてしまうのなら、もしかすると自分の中にこどもに対する「秘密の脚本」があって、その脚本をまだ手放せずにいるのかもしれません。

何よりも大切なことは、「こう生きるべき」「こうするべき」という自分が当然に思っている「こどもに対する筋書き」を手放すことです。「こども自身が書こうとしている筋書き」を尊重してあげること。たとえそれが未熟に見えたり、価値がなく思えても、大切にして、さらによい案を提案しながら常によりそっていてあげることです。

どうしても、わたしたちは自分が生きてきたように(つまり、親が自分にしたように)こどもにしてしまいます。「いえ、わたしは親のやり方が許せなかったから、絶対こどもには同じことはしていません!」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、わたしたちは「されたこと」や「今、していること」はあまりにも自分と一体化しすぎているため、自分が何をしているのか冷静に眺めることができないのが事実です。一体化しているものは、自分にとってあたりまえなのです。しかしハタから見ると、「あらら、根本的には同じかもよ〜」というように見えます。

そして、この親から受けた教育の違いで、「こどもに対する接し方」で夫婦が対立することになります。

夫と妻のそれぞれの教育方針。こどもは混乱しそうですね。こどもの問題を解決しなければならないのに、夫婦で対立したらさらに困ったことに・・・。さて、どうしましょう?次は夫婦の問題です。

(その3につづく)

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

べこちゃん、いただきました♪

その昔、会津の「赤べこ」(お菓子)というと、ピンク色をしたお餅でした。きめの細かいきな粉がまぶされていて、小豆がはさまった上品な味わいのお菓子。

今やべこちゃんはキャラクターになっていて、こんなにキュートなお菓子がいろいろあるのですね。べこちゃん色の真っ赤な箱が可愛いです。

べこちゃんのストラップも!

この子はお腹のクリーナーで携帯をきれいにしてくれます。

殺風景だったわたしの携帯。さっそくつけましたよ〜。べこちゃんがつぶれないように、携帯、特別扱いです。

ごきげんうかがい

台風がじゃんじゃんやってくる不思議な六月ですね。

ここ数年、真夏のような六月が続いていたので、梅雨らしい雨模様には少しほっとします。

代官山の裏通りに、毎年あじさいが塀の向こうからこぼれるように咲くお家があります。

今年も元気かな〜?と、あじさいのご機嫌伺いに行ってきました(楽しみにしていると、突然、ばっさり・・なんてこともあるので。)

まだ小さい花が多かったけれど、無事に元気にしてました。よかった!(*^_^*)

気づきの日記「学校に行けないこども・・・どうする?」その1

最近いくつか寄せられたご相談は、「学校を休みがちなこどもと、そのことに関してギクシャクする夫と妻」という問題。

ハイ、最近よく耳にする状況ですね。

ここには二つの問題があります。

「学校に行かないこどもをどのように扱ったらいいのか」ということと、「夫婦でのこどもに対する考え方、接し方に違いがあり、混乱が生じる」ということ。

親は自分のこどもが学校に行けないと、なんとかしてテコでも「行かせる」ことに苦心します。なぜなら、「学校に行けないこども=問題児」という考えがあるからです。(しかし学校システムを冷静にながめてみると、かなり不思議なトコロですよ〜、学校って。一日中同じ方向を向いてちんまりとハコの中に坐らされ、みんなまったく同じことをするよう強制され、同じようにできると「いい子」と褒め讃えられ、しないと「わるい子」のレッテルを貼られる・・・かなり奇妙なトコロです。みんなよくぞ卒業したな〜とも思えてきます。)

しかし、「学校に行かない」ことをもうちょっと引きの目線でみてみると、実際「いいこと」でも「わるいこと」でもなくって、ただシンプルに「行かないのだ」という事実があるだけなのです。もしも、そこに特別な意味あいがあるように感じられるならば、おそらくそれは親の書いた「こどもの筋書き(脚本)」にどれだけあっているか、はずれているかによる査定にすぎません。「みんながやっていることをできない子」=「欠陥がある子」というレッテルをはってしまっているのかもしれません。

しかし、ちゃんと学校に行けたからといって、すごい人になるわけでもありません。有名な話しですが、エジソンもアインシュタインもめちゃくちゃ変わったこどもで、どちらかというと問題児だったそうな。

だからと言って「学校に行かない」こどもをほっておきなさい、ということとは違うのです。まず、それが「いいことだ」「わるいことだ」という裁きの目線をストップさせる必要があります。なぜなら、こどもは「裁かれている」「親の筋書きにどれだけあっているかで自分の価値を測られる」と感じるのがいちばんつらいからです。

「いい」とか「わるい」を手放したときに、こどもは本当に安心して自分のココロを見せることができるようになります。そうですよね。「さあ、あなたのココロをみせてごらんなさい。わたしがすぐに「いい」か「わるい」か言ってあげるから」・・・なんて態度だったら、何も正直に話すこともできません。

こどもは感じているのです。親が勝手に「自分に対する理想の筋書き」を作っていて、それに沿って歩むべきだとあたりまえに信じている、ということを。「何も期待していない」と言いつつも、その筋書きからはみ出そうものなら、「とり乱す」「見捨てるわよ!というそぶりを見せる」「悲しんでいるところを見せる」など、あらゆる手を使ってこどもに罪悪感を持たせ、そこからはずれることをちょっとも許さないのです。

学校の友人との軋轢に悩んでいたり、うまく結果が出せないあれこれについて悩んでいるこどもにとって、「あ〜だ」「こ〜だ」の大人目線のアドバイスは何の癒しにも解決にもなりません。

自分がこどもの頃、落ち込んでいたときのことを思い出してみてください。「ちゃんとする」「筋書きに沿って生きる」ことだけを気にしている親の対応に「全然、わかってない」と思ったことがあるはずです。おそらくその時に欲しかったのは、「そのまま」の自分を受けとめて、包み込んでくれる安心感。すぐに立ち直る自分を期待してアドバイスやら手を貸されるよりは、何が起っているのかがわからなくってもただ受けとめて欲しかったはずです。

ただ無条件に、何が起っていようとも、その人の存在にOKを出してくれる、受けとめてくれる、どんな状態であろうと味方でいてくれる、そんな存在が一人でもいてくれると、わたしたちは心の中から前向きなエネルギーがわき出してきて、「よし!また頑張るか!」と前を向く気持ちになれるのです。

そうお話しすると、「え?だったら、こどもにやってますよ」とおっしゃる親御さんが多いことも事実です。

本当に「その子のため」のサポートするとは、どういうことなのでしょうか?

(その2へつづく)

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

 

 

ブクロでスタミ

いつもオフィスか近隣でやっているスタッフミーティング。今回は珍しく池袋。

池袋って、何回行ってもラビリンスだわ〜。(@_@)  とくに地の果てにあるような「副都心線」を使ったのが大きな間違い。外に出るまで歩くわ、歩くわ・・・。

集まったインターネットカフェは、B1にあってとってもアンダーグラウンドな雰囲気。トリ目のわたしにはコケそうなぐらい真っ暗で、なぜかこの時代にミラーボールまで回っているという。

でも、そんなことはおかまいなしにお仕事に熱中するSちゃんとYちゃん(ミラーボールのせいで、壁が水玉)。

本日はサイトのシステム変更なのでわたしの出る幕もなく(というか、もれなく毎回出る幕はありましぇん)、なので隣に鎮座し、頑張る二人を味わい愛でておりました(決して、邪気は送っていませんっ!)。

本日も「神降臨」のSちゃんパワー(赤ワインが入れば、いつでも絶好調!)で、おどろくほどさっさと終了!そして、いさんでお夕食へ。

ビストロ「ラシーヌ」さんで軽くフレンチ。仏の片田舎にあるおうちのキッチンでゴハンを食べているようなリラックスできる雰囲気です。

パンにチーズにレバーペースト・・・飲めないのにこういうメニューって大好き!お料理もデザートもとってもおいしくって、お店のお兄さんたちも気さくで楽しげ。おいしいパンのおみやげ、二つもいただいちゃいました♪ 

きょうもゴトゴトお出かけ

群馬の榛名山方面に行ってきました。

このところ、長距離電車移動が多いです。激しい揺れにも慣れてきてグッスリ眠れてしまうのですが、慣れない路線、それも本数が少ない電車での爆睡ほどキケンなものはありません。

なので、念のためケータイアラームを設定したのですが、あら?もう駅に着いちゃったのに鳴ってない!?

どうやら、AM / PM を間違えた〜(汗)。

正直言うと、このケータイもかかってきたらでる程度で、他の機能はぜんぜん生かしてもらっておりません。なので、今はやりのスマートフォンなど、夢のまた夢、ブタに小判、いや、ネコに真珠か・・・?

今度は電車に乗っているあいだに、ケータイの使い方から学習しよう!(^^;;

どこまで行くの?

宇都宮まで湘南新宿ラインで2時間。あわてて乗り換えて、宇都宮線に1時間。さらに東北本線・・・いったいどこまで行っちゃうの?という感じです。

新幹線を使わないで移動してみたのですが、お尻にふと〜い根っこがはえそうでした。

それに、在来線は結構すごいスピードだし激しく揺れるので、読書をしながら本に書き込みをしていたら、ミミズの大行列になってしまいました(あるいは、宇宙との交信記録・・・?  汗)。

高架を走り抜ける新幹線の景色は単調で味気ないけれど、田んぼや山がすぐ目のまえに迫っている在来線の風景は自然の豊かさをあらためて感じることができます。これぞほんとうの「旅」、という気分です。

気づきの日記「うるさ〜い騒音!じつは私だったのね・汗」

ここしばらく、騒音に悩まされておりました。

それは外からやってくるもので、まるでバイクの警報装置が作動しちゃったようなうるささ。それも、24時間!連日!どうやら、このあたらりのビルの空調に問題がありそうです。

で、さっそく音のアタリをつけてそのビルの管理の方と話したのですが週末のこともあり業者と連絡がとれず、しばし苦痛な音とともに共存することを強いられました。音は日ごとに騒々しさを増し、頭痛と肩こりの原因に。しかし後日わかったことは、アタリをつけたビルにはなんら問題がなかったこと(残念!)。

ここでハタと気がついたのは、今年の二月にも上階の物音に悩まされていた、ということ。なぜか、美空ひばりとフォークソングの大音響。あまり上階の音は聞こえないのですが、自室でかけているようなうるささ。これは管理人さんにクレームを出して無事解決したのですが、「音」に関するトラブルが続いているな〜、ということ。

すべてのことは外界に現象として現れる前に、「ココロ」の中で形づくられます。つまり、うるさいのはわたしの「ココロ」。自分の「ココロ」が騒音をたてている、ということなのです。あるいは、混乱しているとでもいいましょうか。

はい、思い当たります。今年に入って、今まで信じてきた価値観がまっさかさまになるような大きな気づきがあって、その考え方にまだなじんでいないのです。だから、ものごとが起るたびに新しい解釈に手間取り、ちょっと混乱をきたしていたのです。

「ココロ」から起きてきていることを行動レベルだけで解決しようとしても、これは解決をみずに必ず繰り返されます。そう、二月のときも、すみやかに管理人さんにクレームを出して、自分が被害者になることで「こんなこと起こしているのは、わたしなんかじゃありませ〜ん。この騒音は明らかにわたしの外からやってきているでしょ。ああ〜、うるさくされて、なんて可哀想なわたし」というお得意のパターンにはまって誰かを悪ものにして自分が可哀想ないい人のフリをして悦に入っていたわけです。

でも、学びがないところはちゃんと再度レッスンがやってくるのですよね。「はい、もう一回、被害者になるのをやめて処理してみよ〜。自分で創ったことの責任をとってみようね〜」というわけです。

「はいはい、わかりましたよ〜」と自分のココロが騒音をたてまくっている張本人であることを認め、外に聞こえてくる音はたんに自分の心の状態の投影なのだ、と理解し、ちゃんと叫んでいるココロをなだめてあげましたよ。

で、そのあとに必要な行動がくるのです。この順番を間違ってはいけません。「すべてのことは自分のココロが創り出している」という責任をちゃんととってから、起こすべき物理的な行動に出るわけです。

おもしろいもので裏道を歩いていたら、その「音」のほんとうの源を発見!(ちゃんとした順序をわきまえているときには、次のステップを見つけるのも早い!)

すぐにそのビルに入って、管理の方とお話しをしました。すると、以前から空調のベルトが切れていて修理をお願いしていたのですが、ご迷惑をおかけしてすみません・・・とちゃんと認識していらっしゃり、話しが簡単でした。

戻ってみたら、ちゃんと「音」はやんでいましたよ。

どんなことが外からやってこようと、たとえそれがどう考えても自分とは関係なさそうに見えても、「自分が知覚している」ということは自分が創り出した自分の宇宙の中で起きているのですね。だから、「自分で責任をとる」ことがまずはじめに求められます。

そして、物理的な共有されてる世界にあるものは、その後「事情を話し合う」「改善をお願いする」という現実のアクションも必要になってきます。

なんにしても「自分が体験すること」にはいつだって、自分に責任があるのですよね。すべては「自分のココロから」!!キモに命じて、忘れないようにしたいものです。

今思うと、こんなにうるさかったのになぜ他の人たちが何も言わなかったのか?とも思うのですが、あくまでもこれは「わたしの」レッスンだったようです。(他の人は聞こえてなかったりして・・・汗。)

PS ああ〜、静かさがありがた〜い!

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

薔薇と紅茶はお似合い

季節はどんどんめぐります。早くも、一年の真ん中の月を迎えましたね。六月の声をきくと、紫陽花があちこちで目につきはじめます。

こちらは先日訪れた自由が丘にある洋館、英国紅茶のお店「St. Christophers Garden」さん。

以前から行きたいと思っていたお店で、お店のイングリッシュガーデンにあるさまざまな薔薇がいちばん美しい季節に来ることができて幸運でした。

この雰囲気のなか、丁寧にいれられたポットサービスの紅茶にスコーン、イングリッシュケーキをいただけば、気分はすっかり英国貴婦人♪なのでした。

ココロあらたに♡

ステキなラッピングのお届けものが到着。

学生時代からおつきあいのある Kちゃんから(彼女は、今とは別人格?の "しおらしく見えた”頃のわたしを知ってている貴重な一人です)。じつはね、きょうはわたしの B.D. なのです。(^-^*)v

Kちゃんは昔からとびぬけてセンスがよくって、若かりし頃のわたしは彼女からオシャレやステキな生活をたくさん習いましたよ。そんな彼女は、ラッピングも決してお店まかせではなく、ちゃんと自分の手で仕上げます。だからこれらも彼女のラッピング。色のついた薄紙と水玉の透明フィルムが重ねてあり、リボンもステキ!う〜ん、開けたいけどこのまま飾っておきたいぐらい。

中身は、夏にぴったりのレースをあしらった生成りのコットンバッグ、そして今までトライしたことのないようなハーフパンツ(おお、今でもオシャレ鍛えてくれます)。そして、美しいボトルのフレグランス(最近、まったく香りをつけてなかったので、これを機にまたトライします)。

昔からそうだけど、忙しい日常にもかかわらずわたしに似合いそうなものがあるといつもピックアップしてくれる気遣いのある彼女。「将来どんな二人になっているかな〜?ネギかかえて、こめかみにバンソーコーだけは避けたいね」なんて笑っていたことがあったけど、今度はどんなおばあちゃんになるか予想しようね〜。

ほんとうに永年のおつきあいをありがとう♪いつも忙しいKちゃんだけど、またランチしようね〜。 (^o^)/

そして、もうひとつのお届けものはお手紙。

こちらも永〜いおつきあいのあるK氏。ともに学び、ときにはともに夢をめざし、自称わたしの応援団を名乗ってくれる貴重な一人です。

達筆な心のこもったお手紙。カードもいいけれど、こんな勢いのある書をいただくのも味があっていいものです。

そんなお手紙とともに送られてきたのは、ディズニーリゾートのペア券。「いつまでも無邪気に!」というメッセージとともに。

はい、たしかについつい難しく考えすぎて、ものごとさらに複雑でヘビーなものにしちゃいがちです。

ありがと〜♪「無邪気さこそ、天につうじる道」でしたね!ディズニーで奇声(黄声?)を発してこどもに戻ってきますよ〜。

・・・と、みなさまからたくさんエネルギーと愛情をいただきました!また、一年、すべてに心をこめて大切に過ごしてゆきたいものです。