ブログ

気づきの日記「私の目標は “目標を達成しないこと”?!」

難しい資格の取得にむかって、長年コツコツと勉強をつづけているAさん。

そろそろ成果を手にできそうな今 ・・・ 心身のバランスを崩して、勉強すら手につかなくなってしまいました。ゴールは目前なのに ・・・ アセりがつのります。

そこで、Aさんの深いこころを探求してみたら ・・・ 意外にも、「この目標を達成してはならない」という思いが見いだされ、じつはこころは別のゴールを目指していたのです。

別のゴールとは、「苦しみつづけること」。

「その目標を達成しないことで、苦しみのなかにとどまるのだ! 」、これがAさんのエゴが言いはる目標です。

どうりで目標に到達できそうになってきたら、目標に近づけないことが起こりはじめたわけです。

目標を達成して幸せな気持ちになったら、エゴは出番がなくなってしまいます。なんせエゴのお仕事は、できるかぎり苦しんでもらうことだからです。

だからエゴは、よい気持ちや幸せを全力で阻止します。

たとえば ・・・ 「わ〜い♪ 大好きなケーキ!いただきま〜す」と喜びでケーキにかぶりつこうとしたら、ケーキが床にポトリ ・・・喜びの瞬間があっというまにガッカリの瞬間に早変わりします。とにかくエゴは、幸せになるまえに失敗してほしいのです。イヤな気分でいてほしいのです。

Aさんの場合は、体調不良とともに落ちこみやイヤな気分が浮上し、子どもの頃に体験したつらい場面が思いだされてきました。そうなると、「ああ〜、この体験のせいでこんな気持ちになり、勉強さえできなくなったんだ。私を傷つけたあの人のせいだ。だから私は進めない」と感じます。

この推論は、とても正当な感じがします。だって私はこんなに傷ついていて、たった今こんなに苦しいんですもの・・・と。

でも、ここで気をつけなければならないのは、エゴが幸せを阻止する手として、すぐにバレてしまう手は使わないということです。つまり、これはフェイクの原因です。

「苦しくて勉強が手につかない」 → 「苦しみつづけることを目標にしていたことに気がついた」 → 「でも、この苦しみそのものは子どものときの癒されていないつらい体験のせいだ。あのとき、ダメな人、不十分として扱われたからだ」 → 「すべてあの人のせいだ!」 ・・・ と自分を被害者に仕立てあげてしまうことで、解決の糸口が自分にはないように思わせるのです。

なんせ、「被害者」ですから。かわいそうな被害者は無力なのです。

これもエゴが「幸せにしない」という目標のために問題をかく乱し、原因をわからなくする手です。今、ここにある問題の原因を、自分から切り離して他人のせいにして、さらに遠い過去へともっていって、もうその時間に起こったことは癒すことができないように感じさせます。

でも、これはエゴの方便です。

真に解決したかったら、そんなエゴの複雑な理由づけにずぶずぶとかかわってはいけないのです。

解決法はもっとシンプルです!

Aさんの場合は、勉強ができないほどイヤな気分が出てきて、「この感情は過去に根ざしていて、そこが癒されなければ、私は立ち直れない。元気になれない」とエゴは語りかけます ・・・が、それが原因ではありません。

原因は、今感じているその倦怠感、やる気が出ない感じ、怖れ、自責の念、怒りなど ・・・今感じているすべてがただこころのなかに封印されつづけていた、自分がもっていたくて抱えていた、ということです。

そして、それは今、解放してほしいのです!

だから、ほんとうにしなければならないのは、たった「今」の感情を、たった今、まったく過去のストーリーや裁きの気持ちと結びつけることなく、ただそのまま受けいれて、感じてあげます。あとはハイヤーセルフに手渡すだけです。

過去云々は、エゴがより問題を複雑にして混乱させ、もう解決ができないように感じさせる手口にすぎません。

ただ今ある苦しさとともに、たとえ過去が浮かびあがろうとも、ただそこにある「感情」だけにひたすら向きあうことが重要です。

こころのなかで責めつづけていたその人は過去なので、もう手放します(ほんとうはこの瞬間というものは独立して存在しているので、過去とはなんの関係もないのですね)。

もしそこで、誰かを責めることにハマってしまうと、相手を攻撃することでより罪悪感をふやし、そのため無意識のうちに自分を痛めつけることになります。「神さま、私と同じ完全性をもつ相手を攻撃してしまいました。間違っていました。神さまにおしおきされるまえに、自分で自分を痛めつけますから、どうか無罪放免にしてください」と。

私たちのこころはひとつなので、相手を責めて攻撃しつづけると結局、共倒れになるしかありません。手をつないで地獄行きです。それがひとつであるものの運命です。

自分のなかのわだかまり、怒り、赦せない思いが手放されると、自分の見ている世界が平和になります。

自分のこころで生じたものは、結局は自分のなかにあり、自分に対して何らかの結果を生み出します。すべての攻撃の思いは、自分に災いし、すべての愛の思いも、自分を豊かにします。

自分の目にする世界とは、結局は自分のこころが生みだす映像にすぎないので、もしほんとうに安らかな世界を体験したいのなら、まずは自分のこころのなかから闘いの思い、攻撃の思い、裁きの思いを断固として追放する気持ちが大切です。

それらのほんとうの自分ではない攻撃の思いに気づき、ハイヤーセルフにもって行ってもらいましょう。すべて手放しましょう。自分ではないものを大切にすると、ほんとうの自分自身を見失いつづけます。

ほんとうのあなたは、まったく無傷な光輝くダイヤモンドのような存在です。その光をさえぎるどんな思いも、ゆるしてはいけないのです。ゆるしてしまうと、あなたは知らぬまにゾンビ化してしまいます。

そのために、自分のこころに浮かぶ自分を傷つける思いに敏感になり、それを逐いちハイヤーセルフに渡して、もって行ってもらいましょう。本当の自分を体験したい!とお願いしましょう。

平和で穏やかなこころ、そこから自分の目にする平和で穏やかな世界が立ちあがります。攻撃さえなければ、安らぎと愛はすでにそこに存在しているからです。

天国のルートも、地獄のルートも、おもいのままです。二枚のチケットが渡されていて、選ぶのは自分です。

そして、Aさんが今懸命に進んでいる目標への道のりも、その目標じたいも、ぜんぶハイヤーセルフにゆだねてしまいましょう。それをエゴに乗っとらせるのではなく、ハイヤーセルフに渡して、全部をよきことのために使ってもらいます。

私たちは個人の満足のために目指すゴールにおいては、イバラの道を行かなければなりません。一方、それが全員のためによきことであるゴールで、人と手をとりあうなかで達成されるのであれば、道の景色もがらっと変わるはずです。

感情をただの感情(なんのラベルもない感情)として感じきったら、しっかりとハイヤーセルフの手をとってすすんでくださいね〜。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

お茶の間シネマトーク「ヒア アフター」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

津波に襲われて臨死体験をしたフランス人キャスター、あの世と交信できる天賦の才をもつアメリカ人サイキック、事故死した双子の兄ともう一度話しがしたいイギリス人少年 ・・・。

三人それぞれが「死」というものをとおして、違う世界をかいま見たり、つながれたり、心をひかれたりします。しかし、それが彼らをこの世界から「浮いた人」にしてしまい、その結果生きづらくなるのです。

ヒア アフターとは、まさに、ここのあと、あの世を意味しています。

キャスターのマリーは、臨死体験で深い安らぎや光を体験し、それ以降、相手を論破したり攻撃的になる今までの仕事スタイルに興味を失い、人とつながるという違う価値観をもちはじめます。丸くなってしまった結果、担当の番組を降板させられ、信用も失い、恋人ともうまくいかなくなり ・・・。

一方、生まれながらのサイキックであるジョーは、その能力を頼みとする人たちがつぎつぎに集まってくるのですが、私生活ではその能力が災いし、恋人もできずじまい。まさに、彼にとってはその能力こそが呪いと感じられるのです。しまいには、自分で自分が信じられなくなり、希望を失います。

さらに、兄を亡くして一人なった少年マーカスは、アルコール依存症の母のもとを離れ、里子に出された先にもなじめず、兄と再び話しがしたいという気持ちがおさえられなくなり、霊能者を求めて家を出ることに・・・。

苦しみを抱える三人が最後には引きつけられ ・・。それぞれに不思議なかたちで助けがやってきます。

この世界の向こう側を感じてしまった人たちは、たしかにそこに安らぎや希望や言葉にならない自由を見だしたにもかかわらず、それに反して現実社会では生きづらさを感じる、という矛盾が生まれます。

このアリ地獄のような世界の脱出口を見つけてしまうと、まるで脱出をはばむがごとくツライ体験するという ・・・ これこそがアリ地獄の仕組みそのものですよね

たしかに、あざむかれたこの世界のなかで、ホントのことを真っ正面から言っちゃおうものなら、ソク病院行きになりかねません!(ねえ、ホントは誰もここにはいないんですよ!あなたはあなたじゃないんです!なんてね・・・ 笑)いかに、この世界のカラクリがヘンであっても、口を閉ざし、隠れキリシタンのように静かに静かに自分の信じる方向に進まねばならないという・・・(苦笑)。

クリント・イーストウッドはこんなテーマの作品も撮っていたのですね。ラフマニノフの静かな音色のなかで、光をみつけだす三人の姿が印象的です。

 

花ざかりから新緑へバトンタッチ

あの凍える寒さから、ようやく春が戻ってきました。きょうは、春をとおりこして初夏のような陽ざしがまぶしいです。

おもわず駅までまわり道をしたら、愛らしい八重桜に出会いました。

萌木色とピンクのコラボもきれいです。

いよいよ、新緑の出番ですね!

 

 

どっちがお気にいり? ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お初スウィーツ、二種に挑戦しました。

さてさて、どんなお味でしょうか?

まずは、今きてる!バスク風チーズケーキ。

たびたびテレビで紹介されていますが、いったいどこで買えるのでしょう?と思っていたら、ローソンさんで「バスチー」新発売。190円とリーズナブルです。

はい、こちら!

焼きチーズほど固さはなく、レアほどクリームでもなく、スフレのようにかるくはない。全部を一緒にしちゃった感じ。けれど、けっこうしっかり、ずっしり。食べごたえあり!です。

ほどよい酸味と表面のカラメルのほろ苦さがマッチしていておいしいです。すぐにリピートした〜い♡

そしてお次は、人気のパンケーキ店 FLIPPER'Sさんのパンケーキパイ。

中目黒限定のラムレーズン味を!

二枚のサクサクしたパイのあいだに、ラムレーズンクリームとちょっとしっかりめのパンケーキがはさまっています。

パリパリとふわふわの食感で、こちらもたべごたえあり! こちらは400円です。

私はマイラムボトルでラム酒を追加トッピング。さらにおいしかった〜♪

 

 

オペラ♪「ジャンニ・スキッキ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちの歌姫、吉原圭子ちゃんご出演のオペラ、「ジャンニ・スキッキ」にお招きいただきました♪ @新国立劇場

私の大好きなプッチーニのアリア「私のお父さん」は、この劇中で歌われていたのですね! とても旋律が美しいアリアなので、きっと一度は耳にされたことがあるかもしれません。

曲の雰囲気がしっとりとロマンチックなので、さぞ叙情的な場面かと思いきや ・・・ 予想外!(笑)「ジャンニ・スキッキ」はコメディで、ずっと笑いっぱなしのくだりで歌われたのでした。 (゚o゚

いつもながら吉原圭子ちゃんのお声は透明感にあふれていて美しく、今回は舞台を上へ下へ左へ右へと無邪気に動きまわる、そんなお芝居も楽しいみどころでした。

前半は「フィレンツェの悲劇」という作品で、後半が「ジャンニ・スキッキ」という二本立て。どちらも舞台装置や大道具に手がこんでいて美しく、目にも耳にも楽しめる作品でした。

作品や演出のすばらしさのみならず、それぞれの歌い手さんのここまでの道のりや作品にかける真摯な情熱が、歌やお芝居や呼吸やエネルギーから伝わってきてゼイタクなひとときでした。ありがとうございます♡♡

今回も、もうひとりの歌姫 瀬尾美智子ちゃんとご一緒したので、作品の詳細やら、演出のあれこれ、歌い手さんについてなど、豪華解説の特典つき!楽しい鑑賞となりました。

オペラのあとは、三人でお茶をしながら「プッチーニのイケメンっぷり」で盛りあがっておりました(笑)。奥さまはたいそう気をもんだそうな。

この当時はすでのお写真があるのですね・・・ お〜、なるほど〜! おめしものもパリっとしていて素敵ですこと♪  ご婦人方から、たいそう需要があったとうかがい知れます(笑)。

そのうえ、「ラ・ボエーム」やら「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」など、女ごころをキュンキュン・・・ どころではなくわしづかみ! な作品を次々に生みだした天才ですものね。なおさらですよね! (^。^)

▶「フィレンツェの悲劇 / ジャンニ・スキッキ」の公演の詳細はこちらから(4/17 までです)

 

 

気づきの日記「パートナーに変わってほしいのです!」

Bさんからのご質問: 「パートナーはいつも仕事のことや自分のことで忙しく、私は置きざりにされているように感じてしまいます。もっと私や家族のことを思いやってほしい!と悲しくなるのです」

A:  お互いが「人生で何をいちばん大切にしているのか」を話しあい、理解することがまず大切です。が・・・

Bさんの場合、もう何度も話しあい、Bさんが一緒にすごす時間を大切にしたいということをパートナーは重々了解ずみとのことなのです。

お互いが歩みよることが必要ですが、それでも同じ状況がつづく場合には、もう少し深いレベルで問題をとらえてゆかなければなりません。

私たちはおうおうにして、「パートナーとは、自分の必要をみたす義務がある」と信じてしまいます。「それがパートナーでしょ?!」と。

その結果、「あるがまま」に生きるその人ではなく、自分の理想のカタにはめこみ、思いどおりになってくれるまで葛藤がつづくことになります(が、思いどおりになりませんっ・汗)。

ある意味、私たちが「誰かを必要としている」とき、それは意識的に、あるいは無意識的に、自分のなかにある怖れをうめたいと望んでいるからです。そして、「この人なら自分の需要を満たせるはず!」とお互いが確信できれば、関係が成立することになります。

でも、自分が目にする相手というのは、そもそも自分のこころが信じているものをイメージ化した姿です。真実ではありません。

しだいに関係が深まると、自分のなかにあった「欠乏感」を相手のなかに見るようになってきます。

私たちは「自分のなかの足りなさや間違いは、自分の外に追いやって、目のまえの相手にそれ見る」というクセがあります。自分の思いを通してしかものごとを見ることができないので、必然的に自分の欠乏感を相手のなかに見るのです。

それは相手に欠けていたのではなく、自分のこころのなかで起こっていることなのです。

欠乏感が強く、まるで溺れるような恐怖を感じているとき、私たちは何かにすがりつかなければ!と、目のまえの相手をにぎりしめてしまいます。すると、相手は自分も溺れるのでは!という恐怖を感じて逃げ出すことになるのです。

なぜなら、彼も同様の欠乏感を感じながら彼なりに頑張っていたので、二人分も面倒を見られないと感じるからです。そうなると、彼は彼で自分の救いがえられる何か(仕事、趣味、お酒、恋愛、ギャンブル・・・)に必死ですがりつくことになり、すがりつかれた相手から逃れて、どこか他へ向かっていくように見えるのです。

「なぜ、この人は私に必要なものを与えてくれないのだ!」(たとえば、一緒にすごす時間など)とつめよってみても、まず自分のなかで欠乏感がある限り、すでにそこに答えがあったとしても見つけることができません。

どうにかしなくてはならないのは彼ではなく、自分のこころのなかにある不足の思いだからです。

相手は、あるがままのとして生きているだけなのですが、私たちのなかの不足の思いが相手をあるがままにしておくことをゆるさなくしてしまうのです。

さて・・・ どうすればよいのでしょうか?

まず「なぜ、自分はそんなに動揺しているのか?」「自分のなかで何が起きているのか?」をしっかりと見て、気づく必要があります。

そこにある思いこそが、真の原因だからです。

すると、「私はひとりではひどく空虚で死んでしまいそうだ、みじめだ」という思いがあるかもしれないし、「私は見捨てられていて、怖くてしかたがない」という感情があるかもしれません。

そこにある孤独や恐怖の感情を、まったく隠したり抵抗することなく、まるのままゆるして受けとめます。なぜなら、それはずっとそこにあったからです。いくら押しやって、この感情の責任を誰かにとってもらおうとしてもそれはなくならないからです。

そして、やすらぎのなかで生きることこそが、自分自身の自然なあり方であり、そのやすらぎはすでに自分のなかにあることを思い出さなければなりません。

それを邪魔している思いも気持ちも、ハイヤーセルフ(高い意自己)へとさしだして、もっていってもらうことで手放すことができます。

その悲しみや孤独という思いや気持ちの下にこそ、ゆらぐことのないやすらぎや平和が隠されているからです。それは最初からないのではなく、ただ間違った自分を信じつづけたために見つけることができなくなっていたのです。

このように、「誰か」に自分の葛藤をおしつけて解決してもらおうとするのではなく、まず自分のなかに未解決の思いと感情があることを認めて、それから逃げずに向きあい、そのあとにハイヤーセルフに渡して、真の自分でないものを取り去ってもらいましょう。

そして、自分のまわりにいる人に要求や怒りや、葛藤を感じるときには、「これは自分の問題である」こと、そして「責任転嫁したいためにこの人のなかに見ようとしている」ことに気づき、そのたびごとに自分のこころへと戻るようにします。

自分のこころにあった不具合が取り除かれると、すべてがあるがままで問題がなく見えてきます。

悲しみの原因に見えたことも、まったく違う視点で見られるようになり、今まで見えていなかった愛や思いやりや優しさ、すべての流れの完全さを見られるようになるかもしれません。

外へ人へと向かって満たしてくれるものを探そうとするのではなく、自分のうちなる思い・感情に向かいあうことが大切です。

自分のこころにしっかりと向きあいはじめるとき、こころが映しだす世界は必ず変化をしてゆきます。

間違っていたのは目にしている世界ではなく、自分のこころにある「思い」だったのだと気づき、その「思い」じたいも自分のほんとうの「思い」ではないと気づくこと。そして、それを手放す決意をすること、です。

自分のこころの葛藤が取り除かれることによって、外の世界の葛藤がなくなってゆくのを感じることができます。

また、自分の思いが見るものに反映するのであれば、相手の「よいところ」「愛のあるところ」「尊敬できるところ」を見られる自分になりたいとハイヤーセルフにお願いしてみましょう。

相手の輝いているところを見せてもらうことで、自分の無意識のなかへと追いやっていた同じ部分を目覚めさせることができます。それによって、目にする世界のなかにも輝きややすらぎがふえるという好循環が生まれるかもしれません。

相手を変えることはできませんが、自分のこころを変えることでしだいに変化を生みだすことができるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

中目はまだ花盛り♡

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

昨日も今日も、気温がぐっと下がり、風が冷たいですね。

でも、そのおかげでサクラがもちこたえてくれています。

お仕事まえに、早朝のお花見♡ (といっても、目黒川は「るん」からものの一分ですが) 

今朝は澄んだ青空をバックに、ほんとりのしたピンクが美しく映ります。

新しい元号がついに発表されました。サクラも咲いて、そしてさわかな新緑とともに新しい時代がやってきますね。

「令和」にこめられた意味のとおり、人が尊重しあい、つながりあうことで、平和でやすらぎのある時代になったらいいな〜と思います ( •ॢ◡-ॢ)-♡

 

 

満開には、もう少し!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

目黒川のサクラはすっかり有名になってしまい、報道番組のサクラ情報では定番です。

きょうあたりついに満開かな? と早朝のサクラ散歩に出かけたら、この真冬のような寒さのなか八分咲きでストップしている様子。

 

来週まで、余裕で楽しめそうですよ〜。

満開は青空の下でながめたいな〜♪

 

気づきの日記「安らぎのスペースから生きる」

注意を、外といわれる世界に向けつづけていると ・・・不安や怖れ、葛藤にみまわれるのをさけることができません。

世界にはたくさんのものがあるように見え(ほんとうはたった一つのイメージだけなのですが)、日々「途方もない数の雑多で秩序のないものたち」VS 「ちっちゃくて無力な自分」というプレッシャーのなかで生きることになるからです。

それはフェアじゃない力関係なので、当然怖れを感じることになります。そして、必死で世界をコントロールしようと試みます(コントロールはとっても疲れることです・汗)。

一方、注意をまったく反対側に向けてみることで(外の世界から顔の表面へ、さらにそのうしろへ) ・・・ 何も存在しないかにみえる空間、空(くう)が広がっています。

私たちはあまりにも雑多なものに囚われることに慣れてしまっているため、この何ひとつ存在しない空間は居心地悪く感じてしまいます。とても退屈です。

外の世界の方が刺激に満ちていますが、刺激と安らぎ(平和)は両立しません。

そして、この忘れさられていたスペースこそがほんとうの「私」なのです。

それは私たちの意識の空間であり、存在そのものであり、全方向に途方もなく広がっています。また、向こう側といわれる世界が生まれる源であり、いわば根っこの部分です。世界を包みこんでいるのです。

根っこの部分を完全に無視していたがために、そこから現れでた世界はぐらぐらと混乱して感じられていました。

どうしても外の世界ばかりを気にしたがる注意を、この根っこの空間へともどしてあげる必要があるのです。根っこを気づかってこそ、そこを強く養い、そこから力をえて出発することができます。

それは、ここのスペースを忘れさることなく、ここにくつろぎ、ここから世界を見て、ここから選択し、ここから行動を起こす・・・ということです。ここからすべてを始めなければならないのです。

そんなことをしてもなんの違いもないように思いますが、

なぜだか安定感があります。安らぎがあります。静けさがあります。確信が生まれます。自然と正しい行動に導かれます。そして、いつのまにかみんなにとっていい結果となります。

この空間にとどまることは、いいかえるなら自分の高い意識とつながることと同じなのです。その存在からの答えを手にすることと同じです。

そして、この空間にとどまることは、退くこと、聞くこと、委ねること、明け渡すこと、といいかえることもできます。

ここに注意をおきながら同じように生きることで、怖れや葛藤が減少しはじめ、少しづつ世界に対する意味づけが優しくなり、その結果自分のなかに安らぎが生まれるようになります。

さらに、それが外側に広がり、安らぎの循環を生み出すように感じられます。

外の雑多な世界にばかり注意をむけてあたふたするのではなく、

向きをかけて、そこのスペースにくつろいで、その静かなスペースとともにそこからすべてのことを始める習慣をつけてみましょう。一日のうちに何度でも、このスペースにもどってとどまります。

この根っこの部分での安らぎこそが、平和な世界をみるためのもととなるもの。そして、私たちが何よりも求めている幸せを達成してくれる大切なスペースなのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

マスクちがい(笑)

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちから「気に入っているマスクを何枚か送ったよ〜」というメール。

それはアレルギーテスト済みで、痒くならないそう ・・・ そういえば最近、耳が痛くならないマスクとか、小顔になるマスクとか、あるいは花柄やら、アロマの香りとか ・・・ ほんとマスクのバリエーションがふえましたよね〜。

私は花粉症じゃないけれど、この季節、マスクは必需品です。

さて、届いてみたら ・・・ あれ? なんかずっしり重いけど?! いったいどんなマスク??

あけてびっくり! 「あ〜〜☆ マスクねっっ!!」とおもわず笑っちゃいました。

マスクはマスクでも、マスクちがい。お顔のケア用のマスク(シートパック)だったのでした〜!

ハチミツ入りやらローズエキス入りなどなど ・・・

最近、お肌パリパリで困っているのが見えてた?と思うほど、まさに今の私に必要な方のマスクでした  ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

いつもかゆいところに手がとどいちゃうお届けものをありがと〜♡♡