15-10-16 いつだって、問題の原因はわたし!

わたしたちは、自分の現実のなかに何かコワイものを見つけると ・・・「うひゃっ!」っとおびえてちぢみあがります。自分が小さくなったように感じます。 ・・・すると外側がさらに大きくなったように見えて ・・・またまた自分はちぢこまる ・・・。

心が怖がっているとき、自分が限りなく小さくなってゆく ・・・という悪循環におちいります。

コワイものに反応するたびに小さくなるので、まるで負のスパイラル。そして、問題はさらに悪化していくように見えます。

怖がっている心は、自分のなかにある恐ろしさを外の世界へと投げ捨てたくなります。それこそが、自分の目がとらえるイメージとなるので、怖がれば怖がるほど怖いものはふえていく、大きくなっていくようです。

この状態だと、問題はいつまでも自分のまえに大きく立ちふさがります。

でもそこで、「見ているものは自分の心のイメージにすぎない。外には何も存在しない」ということに冷静に気づくことができれば ・・・それは、流れを変えるチャンス♪

目をとじて、少し静かにして、心のなかに光をイメージしてみます。

とってもあたたかな光が心のなかに広がって、その光に自分がすっぽりと包まれて、安全に安らかに守られている感じ。その光のなかでは、すべてのことが完璧で安全。やさしい母性にいだかれて、すべてをゆだねて安らいでいる感じ。愛に見守られて、育まれている感じ。

そのような暖かさや安心感、くつろぎが感じられたら、さらにそこに注意を注いでみます。そこにしっかりとフォーカスし味わすことで、その感覚がさらに強さをましてきます。

十分にその感覚が感じられたら、その感じが光となって自分のハートから外に向かって放射されているのをイメージします。

その光がどんどん広がって、世界を照らしだしているのを見ます。その光が世界をあたたかく包みこんで、そのなかですべてが愛されて大切にされて育まれている様子。

わたしたちが目にしているのは、もともとそこにある事実だ! と思いがちですが、じつはじつは、「自分の心の状態」だけを外に見ているのいすぎません。だからこそ、ひとりひとりの世界は違うのです。

怖いものを自分が見ているときは、自分のなかが混乱をきたしているサイン。スパイラルにのみこまれないように、方向を変えましょうというサインです。

自分のなかにもういちど安らかさと愛の光を取りもどして、それを外に放射してあげること。それによってのみ、わたしたちは平和な愛の世界を目にできるようです。

幸せになりたい!と、せっせと外に働きかけることは、エネルギーの浪費につながります。効果が出ないところにエネルギーを注ぎこむことになるからです。

ほんとうに効果を生むところ、それは自分の心の状態。

だから、まずは自分の心のなかをのぞきこんで、♡穏やかさと愛と光でいっぱいにしてあげること♡。これこそが、目にしている問題の対処につながることなのですね。

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「いつだって、問題の原因はわたし!」

わたしたちは、自分の現実のなかに何かコワイものを見つけると ・・・「うひゃっ!」っとおびえてちぢみあがります。自分が小さくなったように感じます。 ・・・すると外側がさらに大きくなったように見えて ・・・またまた自分はちぢこまる ・・・。

心が怖がっているとき、自分が限りなく小さくなってゆく ・・・という悪循環におちいります。

コワイものに反応するたびに小さくなるので、まるで負のスパイラル。そして、問題はさらに悪化していくように見えます。

怖がっている心は、自分のなかにある恐ろしさを外の世界へと投げ捨てたくなります。それこそが、自分の目がとらえるイメージとなるので、怖がれば怖がるほど怖いものはふえていく、大きくなっていくようです。

この状態だと、問題はいつまでも自分のまえに大きく立ちふさがります。

でもそこで、「見ているものは自分の心のイメージにすぎない。外には何も存在しない」ということに冷静に気づくことができれば ・・・それは、流れを変えるチャンス♪

目をとじて、少し静かにして、心のなかに光をイメージしてみます。

とってもあたたかな光が心のなかに広がって、その光に自分がすっぽりと包まれて、安全に安らかに守られている感じ。その光のなかでは、すべてのことが完璧で安全。やさしい母性にいだかれて、すべてをゆだねて安らいでいる感じ。愛に見守られて、育まれている感じ。

そのような暖かさや安心感、くつろぎが感じられたら、さらにそこに注意を注いでみます。そこにしっかりとフォーカスし味わすことで、その感覚がさらに強さをましてきます。

十分にその感覚が感じられたら、その感じが光となって自分のハートから外に向かって放射されているのをイメージします。

その光がどんどん広がって、世界を照らしだしているのを見ます。その光が世界をあたたかく包みこんで、そのなかですべてが愛されて大切にされて育まれている様子。

わたしたちが目にしているのは、もともとそこにある事実だ! と思いがちですが、じつはじつは、「自分の心の状態」だけを外に見ているのいすぎません。だからこそ、ひとりひとりの世界は違うのです。

怖いものを自分が見ているときは、自分のなかが混乱をきたしているサイン。スパイラルにのみこまれないように、方向を変えましょうというサインです。

自分のなかにもういちど安らかさと愛の光を取りもどして、それを外に放射してあげること。それによってのみ、わたしたちは平和な愛の世界を目にできるようです。

幸せになりたい!と、せっせと外に働きかけることは、エネルギーの浪費につながります。効果が出ないところにエネルギーを注ぎこむことになるからです。

ほんとうに効果を生むところ、それは自分の心の状態。

だから、まずは自分の心のなかをのぞきこんで、♡穏やかさと愛と光でいっぱいにしてあげること♡。これこそが、目にしている問題の対処につながることなのですね。

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15-10-13 わたしたちはバラバラ好き

こどもはなんでもバラバラにするのが大好き♡

好き放題にバラバラにできるから、ブロック遊びがお気に入りなのですね。

ブロックにとどまらず、男の子だったら懐中電灯や置き時計にはじまり、はてはラジオまでも、手あたりしだいにバラバラにしてきたはず。女の子だって、ティッシュボックスのティッシュをつぎつぎひっぱりだしてバラバラにしたり、ひもの通ったビースをバラバラにしてみたり、いろいろなバラバラ体験があることでしょう。

そのままで完璧だったものをバラバラにする。すると、それらはひとつでは意味のわからないピースになる ・・・ 。

バラバラにしてしまうと、意味が失われます。つまらなくなります。ブロックは全体が組み上がることで楽しいけれど、たった一個もっていてもあそべない。機械だって、部品一個を手にとってみても意味がわかりません。これ、いったいど〜するの? っていう感じです。

それでも「バラバラにしたい」という不思議な欲求は、じつはおとなになった今でもわたしたちのなかで健在なのです。そしてそのことによって、いろいろなことの「ほんとうの意味」が失われるということが起っています。

たとえば ・・・日常のなかで人のふとした言動をまのあたりにして、「あ〜、この人ってこういう人なんだ。(はいはい、もうわかりましたよ)」とすべてがわかった気になっているとき ・・・(その人には、ほかの膨大な部分があるのですが)。あるいは、日常のひとこまに起きた出来事にたいして、「きっと、これってこういう意味だわ(わかった、わかった、そうなのよ)」 ・・・とわかっちゃった気分の自分になっているとき(それも、大きな流れのなかのほんの一点にすぎません)。

これらはまぎれもなく、バラバラにしている作業なのです。一瞬でものごとを価値判断することによって、完璧だった全体の意味から一部だけをきりはなして、ほんとうはわけがわからなくしているという。

そのとき、ものごとや人のなかにすでに保たれている完全性は無視されています。ただ自分の注意がひかれたある一部だけが大切に扱われてピックアップされ、意味づけがなされ、答えが与えられます。

自分がたまたま手にとった小さな意味のわからないピースだけを見て、「はい、この意味はわかりました」と理解した気になっているけれども、じつはぜんぜん意味などなしていないのです。それは意味などないピースだから。ピースのままでは意味がない。全体があってこそ、はじめてそこに意味が生まれるのです。

だから、わたしたちは「わかった!わかった!」と言ってしまうとき、それは全体の意味は無視して、一部の意味のないものだけによって無理やり意味を決めてしまった、ということになります。

これはおそらく、無意識のうちに「わたしたちは目にしたものにすばやく反応し、意味を理解しなければバカな子だと思われるに違いない」という怖れがあるから。小学生のころ、教室で先生が問いをなげかけたら、間髪をいれずに反応しなければならなかったし、そこにはいつもちゃんとした答えがあってあたりまえだと教わったから。すばやく答えをさがしに行くことになれているのです。

だからわたしたちは「これってなんだ?」と疑問に思うやいなや、ほんとうはわかってなどいないのに「ああ、知ってる知ってる!」と答えをねつ造し、わかった気になってしまうクセがついているようです。目にしたらとりあえず答えをでっちあげるというルール。

でも、わたしたちの「こころ」にはとてつもない力があります。

その真実などではないでっちあげを答えとして受けいれると、結局は自分が不自由になります。自分で言い放った言葉は、自分にとって真実であり、自分にとっての規則になります。自分はそこから出ていくことができなくなっちゃう。自分の言葉が自分の足かせになってしまうのです。

自分の放つ言葉はいつも一人称的であり、自分にとっていいきかせるもの、自分にとっての呪文のようなものです。自分がてきとうに言い放ったことによって、自分が制限されてしまう不都合が起るのです。

自分にとってのおなじみの意味を与えるということは、自分のおなじみの世界に入っていきます。おなじみの景色が見え、おなじみのパターンがくりかえされ、おなじみの結末がやってくる、そして同じようにがっかりする・・・というかわりばえのしない世界。

つまり、価値判断するということは、宇宙が決めたはかりしれない完璧な意味と全体性は無視しておいて、意味をなさない一点だけをきりとってバラバラにし、「これこそが真実である」と主張し、その真実とはいえない規則を自分の人生の絶対的なルールとして受けいれてしまうこと。これではうまくいかないのは当たりまえです。

自分のでっちあげた意味に人生を左右されないために ・・・見たものをただ観察するだけにとどめること。なにも価値判断しないこと。それにたいして黙っていること。あーだ、こーだと意味をくっつけたり、解釈しないこと。

でもわたしたちは、どうしても意味を知りたい存在です。意味こそ、生きる目的であると。だったら・・・

自分で答えないで、ほんとうの自分ともいえる自分の高い意識(ハイヤーセルフ)に意味のお答えのパートは担当していただきましょう。

「これはいったいなんでしょうか? どんな意味があるのでしょうか? わたしにはわかりません。教えてください」とお願いして、パーツの意味を理解することをあきらめて、全体のもつ完璧性をあらわす意味を教えてもらいます。

完璧性をあらわす意味とは ・・・まさに自分にとっての完璧なる幸せ。わたしたちにとって、「完璧なる幸せ」なんて見たことも、経験したこともないからわからない範疇のことですが、それは自分の価値判断というものの外に出ないと完璧性は見えてこないということです。自分の考えに頼っている限りは、完璧のなかのほんのちっちゃな一点だけを凝視することになってしまいます。

わたしたちが即座に自分で意味を与えてしまうのは、意味がわからないで放っておくほどコワいことはないと思っているから。暗闇のなかで光を見失った気分になるのです。でも、急いで意味を与えたい衝動こそ押さえて、じっとがまん!! つねづね自分が与えている意味が間違っていて、それこそが自分を制限していることを認識すれば、意味を与えることを踏みとどまるのも難しくありません。

オモチャの小さなピースにこだわっていては、全体の働きや目的はいつまでもわからないのです。

自分の習慣的な判断には一歩ふみとどまって、「尋ねる」という習慣をつけること。ほんとうの自分にいつもおうかがいをたてるクセをつけること。

意味をなさない小さなピースで遊ぶのになれていたけれど、完璧に完成した意味のある楽しいおもちゃを知りたい、見たい、体験したいとこころに決めて、一歩自分がひきさがって教えてもらうこと。そうすると、自分が知らない展開や違った感じ方、新しい世界を見せてもらえるようになるのだと思います。

「おっと、まてよ!」 ・・・「これについてはわからない」 ・・・「教えてください」 ・・・そして「じっと待つ」 ・・・これを習慣にしましょう♪ 

 

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気づきの日記「わたしたちはバラバラ好き」

こどもはなんでもバラバラにするのが大好き♡

好き放題にバラバラにできるから、ブロック遊びがお気に入りなのですね。

ブロックにとどまらず、男の子だったら懐中電灯や置き時計にはじまり、はてはラジオまでも、手あたりしだいにバラバラにしてきたはず。女の子だって、ティッシュボックスのティッシュをつぎつぎひっぱりだしてバラバラにしたり、ひもの通ったビースをバラバラにしてみたり、いろいろなバラバラ体験があることでしょう。

そのままで完璧だったものをバラバラにする。すると、それらはひとつでは意味のわからないピースになる ・・・ 。

バラバラにしてしまうと、意味が失われます。つまらなくなります。ブロックは全体が組み上がることで楽しいけれど、たった一個もっていてもあそべない。機械だって、部品一個を手にとってみても意味がわかりません。これ、いったいど〜するの? っていう感じです。

それでも「バラバラにしたい」という不思議な欲求は、じつはおとなになった今でもわたしたちのなかで健在なのです。そしてそのことによって、いろいろなことの「ほんとうの意味」が失われるということが起っています。

たとえば ・・・日常のなかで人のふとした言動をまのあたりにして、「あ〜、この人ってこういう人なんだ。(はいはい、もうわかりましたよ)」とすべてがわかった気になっているとき ・・・(その人には、ほかの膨大な部分があるのですが)。あるいは、日常のひとこまに起きた出来事にたいして、「きっと、これってこういう意味だわ(わかった、わかった、そうなのよ)」 ・・・とわかっちゃった気分の自分になっているとき(それも、大きな流れのなかのほんの一点にすぎません)。

これらはまぎれもなく、バラバラにしている作業なのです。一瞬でものごとを価値判断することによって、完璧だった全体の意味から一部だけをきりはなして、ほんとうはわけがわからなくしているという。

そのとき、ものごとや人のなかにすでに保たれている完全性は無視されています。ただ自分の注意がひかれたある一部だけが大切に扱われてピックアップされ、意味づけがなされ、答えが与えられます。

自分がたまたま手にとった小さな意味のわからないピースだけを見て、「はい、この意味はわかりました」と理解した気になっているけれども、じつはぜんぜん意味などなしていないのです。それは意味などないピースだから。ピースのままでは意味がない。全体があってこそ、はじめてそこに意味が生まれるのです。

だから、わたしたちは「わかった!わかった!」と言ってしまうとき、それは全体の意味は無視して、一部の意味のないものだけによって無理やり意味を決めてしまった、ということになります。

これはおそらく、無意識のうちに「わたしたちは目にしたものにすばやく反応し、意味を理解しなければバカな子だと思われるに違いない」という怖れがあるから。小学生のころ、教室で先生が問いをなげかけたら、間髪をいれずに反応しなければならなかったし、そこにはいつもちゃんとした答えがあってあたりまえだと教わったから。すばやく答えをさがしに行くことになれているのです。

だからわたしたちは「これってなんだ?」と疑問に思うやいなや、ほんとうはわかってなどいないのに「ああ、知ってる知ってる!」と答えをねつ造し、わかった気になってしまうクセがついているようです。目にしたらとりあえず答えをでっちあげるというルール。

でも、わたしたちの「こころ」にはとてつもない力があります。

その真実などではないでっちあげを答えとして受けいれると、結局は自分が不自由になります。自分で言い放った言葉は、自分にとって真実であり、自分にとっての規則になります。自分はそこから出ていくことができなくなっちゃう。自分の言葉が自分の足かせになってしまうのです。

自分の放つ言葉はいつも一人称的であり、自分にとっていいきかせるもの、自分にとっての呪文のようなものです。自分がてきとうに言い放ったことによって、自分が制限されてしまう不都合が起るのです。

自分にとってのおなじみの意味を与えるということは、自分のおなじみの世界に入っていきます。おなじみの景色が見え、おなじみのパターンがくりかえされ、おなじみの結末がやってくる、そして同じようにがっかりする・・・というかわりばえのしない世界。

つまり、価値判断するということは、宇宙が決めたはかりしれない完璧な意味と全体性は無視しておいて、意味をなさない一点だけをきりとってバラバラにし、「これこそが真実である」と主張し、その真実とはいえない規則を自分の人生の絶対的なルールとして受けいれてしまうこと。これではうまくいかないのは当たりまえです。

自分のでっちあげた意味に人生を左右されないために ・・・見たものをただ観察するだけにとどめること。なにも価値判断しないこと。それにたいして黙っていること。あーだ、こーだと意味をくっつけたり、解釈しないこと。

でもわたしたちは、どうしても意味を知りたい存在です。意味こそ、生きる目的であると。だったら・・・

自分で答えないで、ほんとうの自分ともいえる自分の高い意識(ハイヤーセルフ)に意味のお答えのパートは担当していただきましょう。

「これはいったいなんでしょうか? どんな意味があるのでしょうか? わたしにはわかりません。教えてください」とお願いして、パーツの意味を理解することをあきらめて、全体のもつ完璧性をあらわす意味を教えてもらいます。

完璧性をあらわす意味とは ・・・まさに自分にとっての完璧なる幸せ。わたしたちにとって、「完璧なる幸せ」なんて見たことも、経験したこともないからわからない範疇のことですが、それは自分の価値判断というものの外に出ないと完璧性は見えてこないということです。自分の考えに頼っている限りは、完璧のなかのほんのちっちゃな一点だけを凝視することになってしまいます。

わたしたちが即座に自分で意味を与えてしまうのは、意味がわからないで放っておくほどコワいことはないと思っているから。暗闇のなかで光を見失った気分になるのです。でも、急いで意味を与えたい衝動こそ押さえて、じっとがまん!! つねづね自分が与えている意味が間違っていて、それこそが自分を制限していることを認識すれば、意味を与えることを踏みとどまるのも難しくありません。

オモチャの小さなピースにこだわっていては、全体の働きや目的はいつまでもわからないのです。

自分の習慣的な判断には一歩ふみとどまって、「尋ねる」という習慣をつけること。ほんとうの自分にいつもおうかがいをたてるクセをつけること。

意味をなさない小さなピースで遊ぶのになれていたけれど、完璧に完成した意味のある楽しいおもちゃを知りたい、見たい、体験したいとこころに決めて、一歩自分がひきさがって教えてもらうこと。そうすると、自分が知らない展開や違った感じ方、新しい世界を見せてもらえるようになるのだと思います。

「おっと、まてよ!」 ・・・「これについてはわからない」 ・・・「教えてください」 ・・・そして「じっと待つ」 ・・・これを習慣にしましょう♪ 

 

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目玉 FRISK

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

いただきものの FRISK です。

かわったデザインの缶に入っているのですが、これポップアーティストの村上隆さんの作品。カラフルな目玉がいっぱいです♪

なかの FRISK も、なんと目玉柄です。

お味はミックスフルーツ。ふんわり甘いので、FRISK 特有の「Sharpen you up !! (シャッキリ!)」という感じはありません。

バッグに入れておくのに可愛いな〜♡

 

マダムのお気にいり?

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

朝いちのデパ地下。

めったに立ち寄らない時間帯です。渋谷にあるマダム御用達のデパートですが、さすがにまだガラガラ・・・

と思ったら、一カ所だけすごい行例。60〜70代のマダムが、ざっと30人以上。

なんだろ〜?・・・お菓子のようです。

並んでいたマダムのひとりに聞いてみました。「これ、買ったことありますか?」って。すると、「これね、おいしいチョコレートなのよ。いつもは売ってないから」って。神戸のチョコなんですと。みなさん、山もりかかえて10袋以上の爆買い。

「お友だちに会うとき、ちょっとさしあげるのに便利でしょ」って。なるほど〜。山の手マダムの女子会はこんな手みやげの交換ではじまるのですね〜。

がぜん興味をそそられて、並んでひとつ買ってみることに。時間があったからね。それに、愛するスウィーツのためなら♡

こんなちっちゃな巾着が、袋にいっぱい。

なかは、葉っぱのかたちのチョコ。わたしが買ったのはおススメされた、ミルクと抹茶バージョン。いろんな味があるらしいです。

ちょっと食べたいときに巾着ひとつ。小さいのに、ひらくとこまごま入っている。ブラック、ミルク、ホワイトというように・・・  これは楽しいかも♪

とってもクリーミーな味わいのチョコでした。(by チョコレートハウス  Mon Loire

 

 

15-10-05 まさか!「犠牲者こそが生きる道」だったとは?

わたしたちは、幼い頃の人間関係や体験から『人生とはこういうものだ!』という自分なりの見解をうちたてます。そして、まさにその考えに沿って人生を生きていくようになります。幼い頃に信じたことこそが、人生の青写真。

とくにそのなかで大きな力を持っているのは、兄弟との関係。そこで培われる信念です。兄弟関係をとおして、「親しい人間関係とはどういうものか」「人生とはどうやったら安全にサバイバルできるのか」という生きるための自分なりの智恵をつけていくのです。

しかし残念なことに、こどもの智恵 = サル智恵に近く(汗)、その当時は少しは役にたつのですが、のちのち自分の首をしめることになってしまいます。

兄弟関係には、兄弟葛藤といわれるさまざまな問題が存在します。つまり、上の子には上の子なりの痛みがあり、下の子には下の子なりの傷があります。

じゃあ、ひとりっ子は問題ないのか ・・・ というとそんなことはなく、ひとりっ子にはひとりっ子の問題があります。そして兄弟葛藤はトラウマというよりは、もっと無意識で静かなもの。しかし、何度もその兄弟葛藤に直面し、なんとかサバイバルしようとしているうちに、そこで使った方法が自分が幸せになるための手段に違いないと勘違いしてしまうのです。

たとえば、わたしの場合 ・・・ 兄がいてわたしは下、妹です。

さて、兄弟葛藤からどんな信念をつくりあげ、その信念がその後の人生にどう影響したのでしょうか? (あくまでもわたし目線ですが。)

兄はわたしが生まれてくるまでは、はじめてのこどもで、まるで王子さま、スターでした。しかし、わずか一年で王子さまの座が危うくなります。まるまる太った、ものおじしない、たくましくうるさいやつ(わたし)が突然登場するのです。それは乳飲み子なので、すごく手がかかる。昼だって夜中だって、お母さんのおっぱいとおひざを一人じめ。

兄からみればひとつ違いは心理的にも脅威になります。なによりも、今まで100%注がれていた愛情を奪われたように感じて不安になります。(親からしたら、少しも愛情は減っていないよ!というでしょう。)

そのころ父がとりためていた8ミリ(ビデオ)を見ると、わたしが寝ているベビーベッドのなかに兄が乱暴にオモチャを投げ入れていったり、庭で砂遊びをするわたしの背後に兄が静かにしのびより頭から砂をかけるといった姿が写っていました。これは兄が特別いじわるだったわけではなく、下が生まれたときの上の子の反応はたいていこんなものです。だから、この8ミリを見たとき、家族もわたしも笑っていたものです。

けっして仲が悪かったわけではなく、むしろよかったと思うのです。ふつ〜に仲のよい兄弟でした。しかし、そこにはつねにこどもにとって神、あるいは生きるための源ともいえる両親からの愛情をめぐって、兄弟葛藤というある種の攻防が繰り広げられていたのです。その攻防のなかでわたしたちは、人生とは、人間関係とは、「どうすればサバイバルできるか」「幸せでいられるのか」という、自分なりのある考えをつくりだしていきます。そして、これこそがその後の自分の人生の「方針」ともいえるものになるのです。

たいていは仲よく遊んでいるのですが、でもケンカがはじまると(こどもにケンカはつきもの)、兄の手が出る、足も出る。男の子のケンカはちからづく。たまったものではありません。そこで「たちうちできない」と感じたわたしは、サバイバル方法として何をするようになったのか? はい!それは、最強の手段 ・・・ 大声で泣くこと。そうすれば、すぐにわれらの神(母)がかけつけてきて、救いだしてくれるのです!

さきほど、「こどもの頃の信念にそって、その後の人生を生きる」と書きましたが・・・じゃあ、これがどのようにわたしの後々の行動に影響したのか?

兄とのケンカの体験からわたしが信じたのは、「仲のいい相手(兄)でさえ、ときには容赦なく攻撃してくるから、それに対してわたしができるのは泣くことによって助けがやってくるのを待つこと。そうすれば窮地を脱する」ということ。

つまり、「自分の愛する人は自分を攻撃してくるものだ。それは避けられない。それに対してわたしが唯一できることは、かわいそうな犠牲者になりすまし、助けをえることである」。

冷静に考えたらあまりよいアイデアとは思えないのですが、当時のサル智恵ではベストなサバイバル方法だったわけです。

この信念によって、人生において安全に幸せになるには  ・・・ 助けてもらうことが必須である → それをえるためには犠牲者になる必要がある → 犠牲者には攻撃が必要である ・・・ というわけで、幸せになりたいわたしは大切な人間関係のなかで無意識に攻撃されるためのいさかいをわざとつくりだして、かわいそうな自分という役をになっていたのです。

「ゲゲ〜!こんな幸せのなり方なんてイヤだ!」と思いますが、じつはみんなもれなく、そんな不毛な役にたたないパターンで幸せをめざしています。やり方はさまざまですが、意識化されていないだけです。

こんなことを自分が信じていたことに気がついたとき、自分の愛する人とのあいだで繰りかえしているパターン化している争いやら、なかなか解決しない問題の理由がわかったのです。幸せのために、攻撃こそ大切!と思っていたのですから。

わたしが自分はかわいそうな犠牲者であるいう役まわりを手放さず、助けをえるために犠牲者でいたがっていたという。まさに、自分に痛みを与えることこそ、自分が幸せになる道だと思っていたのですね・・・(大汗)。

誰のこころにも、探求してみるともれなくこんな不毛な、幸せとは逆方向に向かう信念を握りしめていて、それこそが自分に幸せをもたらすと信じています。努力しながら逆方向に向かっているのです。

信念というのは、意識化されることでようやく手放すことができます。自分の手のひらのうえにのせて「え〜!わたしはこんな悲惨なことを信じていたのね。まさか、首をしめながら幸せになろうとしていたなんて」と気がついて笑いとばすことができたとき、それを終わりにすることができます。わたしも、もちろん手放しました。

そうしたら、あきらかにムダな戦いがなくなりました(戦いがなくなってみて、はじめて戦っていたことに気づくことも・・・)。そして、幸せになるためにわざわざつらいめにあって犠牲者になろうとする気持ちがなくなり、生活がシンプルに自然に、安らかで平和になってきたと感じます。

なぜかいまひとつ人生がすっきりしないとき、もっと幸せ感を感じたいとき、是非、兄弟関係のなかで、あるいは兄弟がいないことで、幼い頃にどうしたら自分が傷つかずに安全にサバイバルできると考えてきたか? そのために何をしてきたか? を探求してみてください。そこからきっと、今の人生のパターンや、繰りかえし起こる問題などとの間のつながりを発見することができると思います。

それがどんなパターンか?  ・・・気づいちゃったら、もうそれは終わりです!パチパチ♪

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング

気づきの日記「まさか!“犠牲者こそが生きる道”だったとは?」

わたしたちは、幼い頃の人間関係や体験から『人生とはこういうものだ!』という自分なりの見解をうちたてます。そして、まさにその考えに沿って人生を生きていくようになります。幼い頃に信じたことこそが、人生の青写真。

とくにそのなかで大きな力を持っているのは、兄弟との関係。そこで培われる信念です。兄弟関係をとおして、「親しい人間関係とはどういうものか」「人生とはどうやったら安全にサバイバルできるのか」という生きるための自分なりの智恵をつけていくのです。

しかし残念なことに、こどもの智恵 = サル智恵に近く(汗)、その当時は少しは役にたつのですが、のちのち自分の首をしめることになってしまいます。

兄弟関係には、兄弟葛藤といわれるさまざまな問題が存在します。つまり、上の子には上の子なりの痛みがあり、下の子には下の子なりの傷があります。

じゃあ、ひとりっ子は問題ないのか ・・・ というとそんなことはなく、ひとりっ子にはひとりっ子の問題があります。そして兄弟葛藤はトラウマというよりは、もっと無意識で静かなもの。しかし、何度もその兄弟葛藤に直面し、なんとかサバイバルしようとしているうちに、そこで使った方法が自分が幸せになるための手段に違いないと勘違いしてしまうのです。

たとえば、わたしの場合 ・・・ 兄がいてわたしは下、妹です。

さて、兄弟葛藤からどんな信念をつくりあげ、その信念がその後の人生にどう影響したのでしょうか? (あくまでもわたし目線ですが。)

兄はわたしが生まれてくるまでは、はじめてのこどもで、まるで王子さま、スターでした。しかし、わずか一年で王子さまの座が危うくなります。まるまる太った、ものおじしない、たくましくうるさいやつ(わたし)が突然登場するのです。それは乳飲み子なので、すごく手がかかる。昼だって夜中だって、お母さんのおっぱいとおひざを一人じめ。

兄からみればひとつ違いは心理的にも脅威になります。なによりも、今まで100%注がれていた愛情を奪われたように感じて不安になります。(親からしたら、少しも愛情は減っていないよ!というでしょう。)

そのころ父がとりためていた8ミリ(ビデオ)を見ると、わたしが寝ているベビーベッドのなかに兄が乱暴にオモチャを投げ入れていったり、庭で砂遊びをするわたしの背後に兄が静かにしのびより頭から砂をかけるといった姿が写っていました。これは兄が特別いじわるだったわけではなく、下が生まれたときの上の子の反応はたいていこんなものです。だから、この8ミリを見たとき、家族もわたしも笑っていたものです。

けっして仲が悪かったわけではなく、むしろよかったと思うのです。ふつ〜に仲のよい兄弟でした。しかし、そこにはつねにこどもにとって神、あるいは生きるための源ともいえる両親からの愛情をめぐって、兄弟葛藤というある種の攻防が繰り広げられていたのです。その攻防のなかでわたしたちは、人生とは、人間関係とは、「どうすればサバイバルできるか」「幸せでいられるのか」という、自分なりのある考えをつくりだしていきます。そして、これこそがその後の自分の人生の「方針」ともいえるものになるのです。

たいていは仲よく遊んでいるのですが、でもケンカがはじまると(こどもにケンカはつきもの)、兄の手が出る、足も出る。男の子のケンカはちからづく。たまったものではありません。そこで「たちうちできない」と感じたわたしは、サバイバル方法として何をするようになったのか? はい!それは、最強の手段 ・・・ 大声で泣くこと。そうすれば、すぐにわれらの神(母)がかけつけてきて、救いだしてくれるのです!

さきほど、「こどもの頃の信念にそって、その後の人生を生きる」と書きましたが・・・じゃあ、これがどのようにわたしの後々の行動に影響したのか?

兄とのケンカの体験からわたしが信じたのは、「仲のいい相手(兄)でさえ、ときには容赦なく攻撃してくるから、それに対してわたしができるのは泣くことによって助けがやってくるのを待つこと。そうすれば窮地を脱する」ということ。

つまり、「自分の愛する人は自分を攻撃してくるものだ。それは避けられない。それに対してわたしが唯一できることは、かわいそうな犠牲者になりすまし、助けをえることである」。

冷静に考えたらあまりよいアイデアとは思えないのですが、当時のサル智恵ではベストなサバイバル方法だったわけです。

この信念によって、人生において安全に幸せになるには  ・・・ 助けてもらうことが必須である → それをえるためには犠牲者になる必要がある → 犠牲者には攻撃が必要である ・・・ というわけで、幸せになりたいわたしは大切な人間関係のなかで無意識に攻撃されるためのいさかいをわざとつくりだして、かわいそうな自分という役をになっていたのです。

「ゲゲ〜!こんな幸せのなり方なんてイヤだ!」と思いますが、じつはみんなもれなく、そんな不毛な役にたたないパターンで幸せをめざしています。やり方はさまざまですが、意識化されていないだけです。

こんなことを自分が信じていたことに気がついたとき、自分の愛する人とのあいだで繰りかえしているパターン化している争いやら、なかなか解決しない問題の理由がわかったのです。幸せのために、攻撃こそ大切!と思っていたのですから。

わたしが自分はかわいそうな犠牲者であるいう役まわりを手放さず、助けをえるために犠牲者でいたがっていたという。まさに、自分に痛みを与えることこそ、自分が幸せになる道だと思っていたのですね・・・(大汗)。

誰のこころにも、探求してみるともれなくこんな不毛な、幸せとは逆方向に向かう信念を握りしめていて、それこそが自分に幸せをもたらすと信じています。努力しながら逆方向に向かっているのです。

信念というのは、意識化されることでようやく手放すことができます。自分の手のひらのうえにのせて「え〜!わたしはこんな悲惨なことを信じていたのね。まさか、首をしめながら幸せになろうとしていたなんて」と気がついて笑いとばすことができたとき、それを終わりにすることができます。わたしも、もちろん手放しました。

そうしたら、あきらかにムダな戦いがなくなりました(戦いがなくなってみて、はじめて戦っていたことに気づくことも・・・)。そして、幸せになるためにわざわざつらいめにあって犠牲者になろうとする気持ちがなくなり、生活がシンプルに自然に、安らかで平和になってきたと感じます。

なぜかいまひとつ人生がすっきりしないとき、もっと幸せ感を感じたいとき、是非、兄弟関係のなかで、あるいは兄弟がいないことで、幼い頃にどうしたら自分が傷つかずに安全にサバイバルできると考えてきたか? そのために何をしてきたか? を探求してみてください。そこからきっと、今の人生のパターンや、繰りかえし起こる問題などとの間のつながりを発見することができると思います。

それがどんなパターンか?  ・・・気づいちゃったら、もうそれは終わりです!パチパチ♪

 

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見ためはジミですが・・・

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

すっかり秋が深まってきましたね〜。大好きな季節です。

さて、こちらは先日いただいたピザ。

かなり地味なビジュアルですが・・・、

Sちゃん、口にするなり聞いたことのない音を発した(奇声? )。(^。^;

「ええっっ? そんなリアクションになっちゃう味なの?」・・・ といぶかりつつ、わたしもひと口いただいたら ・・・ ほぼ同じ反応でした(汗)。

これは、トリュフのピザ。

すご〜く香りがいいのです。口にするたびにうなってました。おいしさって、香りなのですね〜。

食事中に匂いをかぎながらいただくってあんまりないことですが、二人でおもいっきりクンクンしながらいただきましたよ〜。トリュフ狩りのオーディション(そんなのあり?)に、ブタちゃんに負けることなく参戦できそうな勢いでした・笑。

ここはチーズのお店なので、ピザにのってるチーズもおいしい!

お店の売りでもあるモッツァレラチーズは、さっぱりしていていくらでもいただけそうでした。

@OBICA MOZZARELLA BAR、六本木ヒルズ

 

15-09-27 これはホラーか?!ジュラシック・ワールド

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

もう20年以上前になるのですね。あの「ジュラシック・パーク」が公開されてから。

「観に行こう!」と誘われたとき、えらく抵抗しました。・・・だって、恐竜なんて映画で観てもおもしろくなさそうだったから。ゴジラのほうがよっぽどスター性がありそうな。

ところがどっこい!(笑)

予想外にコワかった! すごくコワかった! ドキドキしっぱなしだった〜。 恐竜ごときがあんなに俊敏で(高速!)、あんなに獰猛で、あんなに残酷だなんて・・・ショックを受けましたよ。エイリアン級じゃありませんか?!

あれからずいぶん経ちましたが、さて「ジュラシック・ワールド」とはどのように進化したのでしょうか?

観て思ったのは ・・・これ、ホラー?!

どこから、いつ、どんなふうに、獰猛で容赦のない恐竜が飛びだしてくるのか、いつ食われちゃうのか ・・・なんだか筋書きもへったくれもありません。とにかく、逃げる、逃げる、サバイバル オンリー。さもなければ捕食される。

恐竜は巨大化してて、ハイブリッドで知的、さらに残酷に進化しておりましたよ(汗)。

3D なので椅子は動かないはずなのですが、なぜかグラっとくる。まるで4D ばりではありませんか。なぜか? ・・・それは椅子が横並びなので、みんながいっせいにのけぞると椅子がいっきに傾くせい。(六本木ヒルズさん、しっかりしてくださ〜い!けど、4D 終わってしまって残念だったのでよかった? )

あまりにもつぎつぎ捕食場面(もちろん人間がエサ)を見すぎたせいで、映画のあとのお夕食は肉料理でなくてよかったわ〜、ホッ!(しかし、パスタに入っていたチキンのピースがどうも気になって、いまひとつパスタはすすまず・・・。)

そして、ゴハンを食べながら大ツッコミ大会。

おもしろいもので、映画のなかで違和感を感じていた場面がほぼ一致。

たとえば、命からがらに恐竜からのがれて、まだ完全に逃げきっていないのに、なぜあそこであんなに陽気に笑いあえるのか? そんな場合じゃないでしょ? さっさと逃げようよ! とか。ほとんど捕食されそうなギリギリで逃げているのに、ハイヒールであのアスリートなみのみごとな走りはどうしたことか? 恐竜がそこに迫っていたら、もっとボロボロの腰砕けになるでしょうに・・・。

だって、これですよ、これ! →

こんな形相の巨大な恐竜が背後まで猛スピードで迫っているのですよ〜!(汗)ただごとではありません。

というように、恐竜のCGに力をいれすぎた(?)ために、人の感情表現やら反応はちょっとアレレという感じでリアルさに欠けていたようなところも。

そしてエンディングで、ジュラシックワールドにはまだ大ものの恐竜が元気に生き残っているのですよね。ということは、次回はN.Y. にでも上陸しちゃってくれるのでしょうか??  どんなにパワーアップするのだろうと次回作を楽しみにしています。