お茶の間シネマトーク「これはホラーか?!ジュラシック・ワールド」

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

もう20年以上前になるのですね。あの「ジュラシック・パーク」が公開されてから。

「観に行こう!」と誘われたとき、えらく抵抗しました。・・・だって、恐竜なんて映画で観てもおもしろくなさそうだったから。ゴジラのほうがよっぽどスター性がありそうな。

ところがどっこい!(笑)

予想外にコワかった! すごくコワかった! ドキドキしっぱなしだった〜。 恐竜ごときがあんなに俊敏で(高速!)、あんなに獰猛で、あんなに残酷だなんて・・・ショックを受けましたよ。エイリアン級じゃありませんか?!

あれからずいぶん経ちましたが、さて「ジュラシック・ワールド」とはどのように進化したのでしょうか?

観て思ったのは ・・・これ、ホラー?!

どこから、いつ、どんなふうに、獰猛で容赦のない恐竜が飛びだしてくるのか、いつ食われちゃうのか ・・・なんだか筋書きもへったくれもありません。とにかく、逃げる、逃げる、サバイバル オンリー。さもなければ捕食される。

恐竜は巨大化してて、ハイブリッドで知的、さらに残酷に進化しておりましたよ(汗)。

3D なので椅子は動かないはずなのですが、なぜかグラっとくる。まるで4D ばりではありませんか。なぜか? ・・・それは椅子が横並びなので、みんながいっせいにのけぞると椅子がいっきに傾くせい。(六本木ヒルズさん、しっかりしてくださ〜い!けど、4D 終わってしまって残念だったのでよかった? )

あまりにもつぎつぎ捕食場面(もちろん人間がエサ)を見すぎたせいで、映画のあとのお夕食は肉料理でなくてよかったわ〜、ホッ!(しかし、パスタに入っていたチキンのピースがどうも気になって、いまひとつパスタはすすまず・・・。)

そして、ゴハンを食べながら大ツッコミ大会。

おもしろいもので、映画のなかで違和感を感じていた場面がほぼ一致。

たとえば、命からがらに恐竜からのがれて、まだ完全に逃げきっていないのに、なぜあそこであんなに陽気に笑いあえるのか? そんな場合じゃないでしょ? さっさと逃げようよ! とか。ほとんど捕食されそうなギリギリで逃げているのに、ハイヒールであのアスリートなみのみごとな走りはどうしたことか? 恐竜がそこに迫っていたら、もっとボロボロの腰砕けになるでしょうに・・・。

だって、これですよ、これ! →

こんな形相の巨大な恐竜が背後まで猛スピードで迫っているのですよ〜!(汗)ただごとではありません。

というように、恐竜のCGに力をいれすぎた(?)ために、人の感情表現やら反応はちょっとアレレという感じでリアルさに欠けていたようなところも。

そしてエンディングで、ジュラシックワールドにはまだ大ものの恐竜が元気に生き残っているのですよね。ということは、次回はN.Y. にでも上陸しちゃってくれるのでしょうか??  どんなにパワーアップするのだろうと次回作を楽しみにしています。

 

15-09-25 人生、ほかの筋書きを選ぶには その2

(その1より)

まったく同じ体験をしていても、その経験のインパクトは人によって人生の明暗をわけるほど違っていたりします。ある人にとっては、記憶に残らないほどささいなことであっても、別の人にとっては一生消えないようなトラウマ的な出来事になってしまったり。

それは前回のブログでも書いたように、出来事じたいが問題なのではなく、体験した人がそれにどんな色づけ(意味づけ)をするのか・・・によるものでした。

私たちはそのときどきで自分で色づけ(意味づけ)を決めていると思っていますが、実はこれは自動的に行われます。

脳科学でも言われているように、私たちの知覚は自分の信じていることによって歪められているからです。正しくものごとを見ているどころか、じつは自分が信じていることにあったドラマをでっちあげています。自分の知覚に騙されているのですね。だから、もし自分は悲惨であると信じていれば、悲惨さばかりが目につく・・・というように、自分の無意識の思いで見るものは決定されています。

そんなわけで、自分のくだす判断に従うということは、じつは同じところをぐるぐる回るはめになります。新しい人生が展開をしているように見えながらいつも同じ信念に従っているので、基本的にはどの道も「いつかきた道」、知ってる道。何をしても「あれれ?また同じ結末になった!いつも同じだわ(汗)」ということになります。

「も〜、いつもなんでこうなるの?」「結局、いつも同じ結果になっちゃうよね!」「うまくいっていると思ったのに、やっぱりダメだ!」というとき、通いなれている道をグルグルしている証拠なのです。

なんせ同じプログラミングだからね。・・・まさに、私たちは自分のなかの同じプログラミングに従って、いっけん違うように見える同じ道を歩きます。

違う道を行くには、やり方を変えないといけません。 ・・・ それは、同じ道しか選べない「自分の判断に頼らない」こと。

「自分の判断」以外に頼るべき存在がいるのです! いつも自分とともに。

それは、いつも自分で判断することによっておおい隠されてしまっています。だから自分の判断の後ろには、もっと大きな存在、高い知性が存在しています。そこからは自分にとってのすべてにおいてのベストな回答が得られるのです。

その秘密の存在ともいえる大きな存在、高い知性に接続するには、そもそもその存在を知って、信頼して、それに対してこころを開いていなければなりません。

そして問いをインプットすることによって答えが得られるコンピューターのように、自分からつながって問いかけなければなりません。

その高い知性は、まったく違う目線で私たちがベストな幸せへたどりつく方法をしっかりと見通してくれています。だから、同じ出来事が起きていても、まったく違う体験にする色づけ(意味づけ)する方法を教えてくれるのです。それによって、まったく違ったストーリーを紡ぎ出されることになり。「最悪」に違いないと思えたことでも、じつは「人生最大の贈り物」に変わっちゃったりするのです。

高い知性は、問いかければ今までとは違う新しい世界の見方を教えてくれます。

これは実際体験してみてわかるのですが、じつはその出来事には数えきれないほどの別バージョンの現実がすでに存在しているのだな〜とわかります。なぜなら、高い知性からの回答によって出来事の流れがまったく変わってしまうことが多々あるからです。それって、無限に創造されてるパラレルワールドのひとつを選ぶように!

あ、パラレルワールドと聞いて、笑ってはいけません。SFでもなんでもありません。物理学者ミチオ・カク氏の本のなかにもパラレルワールドが紹介されているのですが、想像できる以上の別バージョンの現実が存在していて、ひとつひとつは密接にくっついるそうな。そして簡単に移動できるとか。だから思考を変えることで、あっというまに別の展開にワープすることも可能なのでしょう。

自分の高い知性につながるって判断をゆだねるのは、他のストーリーがあるのを知っている高い存在に、自分にとってベストなストーリーを選んでもらうこと。完璧な幸せを願っているわたしたちの高い知性はそのお願いを聞いて、すでに存在している無数のパラレルワールドから今いちばんベストな筋書きを私たちのために選んで、そこに接続してくれるのです。

つまり、自分でものごとを勝手に解釈しない。(自分で判断すれば、いつもワンパターンになる。)高い知性は、「自分でやらないで、すべてゆだねて渡しなさい。私が正しい道を指示します」と言ってくれています。誰よりも完璧な幸せを願ってくれる高い知性に、もっともっと甘えてよいのですね〜。

高い知性へゆだねるには・・・

なにかものごとが起きていて自動的に反応してしまったとき、

それに気づいて、いったん立ち止まる・・・

そして「わたしは今、目のまえの出来事を〜〜だと判断していいます。でも、これはいつものパターンにつながる道です。私は自分にとってのベストな判断がわかってはいません」

「私の高い知性、わたしのためにこの出来事を判断して、それをわたしに教えてください。あなたに決定のすべてをゆだねます」

そして、なるべくこころをからっぽにして答えを待ちます。

答えは「声」が聞こえる、というよりも、自分の感情や直感で納得するという場合が多いです。あとは、親しい人の言葉からくる場合もあるし、読んでいる本が教えてくれる場合もあります。いずれにしろ、こころを開いているときっとキャッチすることができます。

というように、自分でやろうとすることを手放して、自分のスーパーコンピューターである高い知性を意識しながら、そこに判断をゆだねます。

大切なのは、「自分ではやりません。お願いします」という GO サインです。

さて、GO サインを出したら、あとは高い知性が無限のバージョンのなかからどんな新しい筋書きの幸せのドラマを提供してくれるのか ・・・楽しみに答えを待ちましょう♪

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー

気づきの日記「人生、ほかの筋書きを選ぶには その2」

(その1より)

まったく同じ体験をしていても、その経験のインパクトは人によって人生の明暗をわけるほど違っていたりします。ある人にとっては、記憶に残らないほどささいなことであっても、別の人にとっては一生消えないようなトラウマ的な出来事になってしまったり。

それは前回のブログでも書いたように、出来事じたいが問題なのではなく、体験した人がそれにどんな色づけ(意味づけ)をするのか・・・によるものでした。

私たちはそのときどきで自分で色づけ(意味づけ)を決めていると思っていますが、実はこれは自動的に行われます。

脳科学でも言われているように、私たちの知覚は自分の信じていることによって歪められているからです。正しくものごとを見ているどころか、じつは自分が信じていることにあったドラマをでっちあげています。自分の知覚に騙されているのですね。だから、もし自分は悲惨であると信じていれば、悲惨さばかりが目につく・・・というように、自分の無意識の思いで見るものは決定されています。

そんなわけで、自分のくだす判断に従うということは、じつは同じところをぐるぐる回るはめになります。新しい人生が展開をしているように見えながらいつも同じ信念に従っているので、基本的にはどの道も「いつかきた道」、知ってる道。何をしても「あれれ?また同じ結末になった!いつも同じだわ(汗)」ということになります。

「も〜、いつもなんでこうなるの?」「結局、いつも同じ結果になっちゃうよね!」「うまくいっていると思ったのに、やっぱりダメだ!」というとき、通いなれている道をグルグルしている証拠なのです。

なんせ同じプログラミングだからね。・・・まさに、私たちは自分のなかの同じプログラミングに従って、いっけん違うように見える同じ道を歩きます。

違う道を行くには、やり方を変えないといけません。 ・・・ それは、同じ道しか選べない「自分の判断に頼らない」こと。

「自分の判断」以外に頼るべき存在がいるのです! いつも自分とともに。

それは、いつも自分で判断することによっておおい隠されてしまっています。だから自分の判断の後ろには、もっと大きな存在、高い知性が存在しています。そこからは自分にとってのすべてにおいてのベストな回答が得られるのです。

その秘密の存在ともいえる大きな存在、高い知性に接続するには、そもそもその存在を知って、信頼して、それに対してこころを開いていなければなりません。

そして問いをインプットすることによって答えが得られるコンピューターのように、自分からつながって問いかけなければなりません。

その高い知性は、まったく違う目線で私たちがベストな幸せへたどりつく方法をしっかりと見通してくれています。だから、同じ出来事が起きていても、まったく違う体験にする色づけ(意味づけ)する方法を教えてくれるのです。それによって、まったく違ったストーリーを紡ぎ出されることになり。「最悪」に違いないと思えたことでも、じつは「人生最大の贈り物」に変わっちゃったりするのです。

高い知性は、問いかければ今までとは違う新しい世界の見方を教えてくれます。

これは実際体験してみてわかるのですが、じつはその出来事には数えきれないほどの別バージョンの現実がすでに存在しているのだな〜とわかります。なぜなら、高い知性からの回答によって出来事の流れがまったく変わってしまうことが多々あるからです。それって、無限に創造されてるパラレルワールドのひとつを選ぶように!

あ、パラレルワールドと聞いて、笑ってはいけません。SFでもなんでもありません。物理学者ミチオ・カク氏の本のなかにもパラレルワールドが紹介されているのですが、想像できる以上の別バージョンの現実が存在していて、ひとつひとつは密接にくっついるそうな。そして簡単に移動できるとか。だから思考を変えることで、あっというまに別の展開にワープすることも可能なのでしょう。

自分の高い知性につながるって判断をゆだねるのは、他のストーリーがあるのを知っている高い存在に、自分にとってベストなストーリーを選んでもらうこと。完璧な幸せを願っているわたしたちの高い知性はそのお願いを聞いて、すでに存在している無数のパラレルワールドから今いちばんベストな筋書きを私たちのために選んで、そこに接続してくれるのです。

つまり、自分でものごとを勝手に解釈しない。(自分で判断すれば、いつもワンパターンになる。)高い知性は、「自分でやらないで、すべてゆだねて渡しなさい。私が正しい道を指示します」と言ってくれています。誰よりも完璧な幸せを願ってくれる高い知性に、もっともっと甘えてよいのですね〜。

高い知性へゆだねるには・・・

なにかものごとが起きていて自動的に反応してしまったとき、

それに気づいて、いったん立ち止まる・・・

そして「わたしは今、目のまえの出来事を〜〜だと判断していいます。でも、これはいつものパターンにつながる道です。私は自分にとってのベストな判断がわかってはいません」

「私の高い知性、わたしのためにこの出来事を判断して、それをわたしに教えてください。あなたに決定のすべてをゆだねます」

そして、なるべくこころをからっぽにして答えを待ちます。

答えは「声」が聞こえる、というよりも、自分の感情や直感で納得するという場合が多いです。あとは、親しい人の言葉からくる場合もあるし、読んでいる本が教えてくれる場合もあります。いずれにしろ、こころを開いているときっとキャッチすることができます。

というように、自分でやろうとすることを手放して、自分のスーパーコンピューターである高い知性を意識しながら、そこに判断をゆだねます。

大切なのは、「自分ではやりません。お願いします」という GO サインです。

さて、GO サインを出したら、あとは高い知性が無限のバージョンのなかからどんな新しい筋書きの幸せのドラマを提供してくれるのか ・・・楽しみに答えを待ちましょう♪

 

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秋といえば・・・やっぱり

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

気持ちのいいお休みですね〜♪

曼珠沙華を目にすると、いよいよ秋本番という感じです。

そして、秋には読書も!

本棚の整理をしていたら、買うつもりだった本が三冊も出てきてラッキー☆ なんだかプレゼントしてもらったようないい気分。(喜んでるけど・・・すでに読んだの覚えてないとは、ど〜ゆ〜ことでしょ? 付箋までたくさんついてるのに・・・汗)

さっそく、その本を抱えてカフェで読書タイム。

お店の方オススメ、季節の栗のタルト、キャラメルマロン。大当たり!

わたしの秋は、花より、読書より ・・・ やっぱり迷わず、団子だわ〜♡♡ 

@ Campagne et ferme

 

 

15-09-17 人生、ほかの筋書きを選ぶには その1

先日、レンタルDVD屋さんでのこと。

パッケージの違う二本のDVDが目に入りました。どちらも同じストーリーのよう。違うのは、一方は女性の目線から、もう一方は相手の男性の目線からその恋愛をとらえたもの。二本立てにしたということは、視点が変われば同じなりゆきも違ったドラマになる・・・ということ。(DVD「ラブストーリーズ コナーの涙 / エリナーの愛情」)

そういえばむかし、「冷静と情熱のあいだ」という同じような小説(映画)がありました。辻仁成さんと江國香織さんという二人の作家が同じ筋書きの恋愛ドラマを男女それぞれの目線から書いていましたっけ。ひとつの恋愛も二人の目線から見ると、二つのまったく違うドラマが存在しているのです。

まさに、「人生で起ることはニュートラル」。なんの意味もない。「意味は体験する人が与えるもの」。与えた意味のとおりのドラマになる、ということです。

まっさらな出来事に、見る人が色あいをつける。・・・ということは、わたしたちは日々自分の人生に色をぬっていて、それが人生の明暗をわけていることになります。

決して最初から色のついたもの(意味があるもの)をさし出されて、それに対して一定の反応を求められているのではないということです。

まっさらな下絵に対して、わたしがどんな色づけ(意味づけや選択)をするかでホラーにもコメディにもなっちゃう。暗い色合いを選べば、それは当然鬱々とした絵になるけど、同じ下絵でもきゃりーぱみゅぱみゅ的なカラフル&ポップな色柄をつけたら、「まあ♡ とってもラブリー!ステキだわ」ということになるのです。

だから「ヒドイ体験に見まわれた!」というときは、無意識のうちに自分なりの色つけが完了していて、それに対してあらためて自分が反応していることになります。

どうやらわたしたしはほっておくと、自動的にものごとに対してダークな色つけ(意味づけや選択)をしてしまうようです。たしかに、何かを見ればすぐに「あ〜だ、こ〜だ」という価値判断がはじまり、そのものごとが自分にとって役に立つのか立たないのかが唯一の判断の基準となります。

つまり、自分の自己保存とサバイバルにとってプラスになるかどうかで、ものごとをばっさばっさと切り捨てているのです。(サヨナラする彼氏彼女、妻、夫は、自己保存においてもはや役に立たなくなったので、じゃあレプレイスしましょ!ということです。・・・あじゃ〜・汗)

 

自分を守るためにする解釈は当然、怖れのこころに基づいています。そして、怖れが動機となっていれば、行きつくところはやはり怖れの結末。 ・・・だから気がついてみたら、結局は失敗、悲しみ、痛み、苦しみ、怖れ、罪悪感、無価値観、怒り、後悔などなど・・・ 残念な結果にたどりつきます。

成功に見えた転職も、仕事がきつくて地獄の職場に ・・・。ついに運命の人だ!と思った出会いも、メッキがはがれて史上最悪、バトルの絶えない間柄に ・・・。マイホームさえ手にすれば完璧と思っていたのに、天災にみまわれた ・・・というように。

けれども、わたしたちにはもっと別なハッピーな人生の色づけ、ストーリー展開につながる選択もすることができるのです。

それはあまり使ってなかったので、すっかり忘れられている選択の仕方なのですが。さて、それは・・・。

(その2につづく)

 

 

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気づきの日記「人生、ほかの筋書きを選ぶには その1」

先日、レンタルDVD屋さんでのこと。

パッケージの違う二本のDVDが目に入りました。どちらも同じストーリーのよう。違うのは、一方は女性の目線から、もう一方は相手の男性の目線からその恋愛をとらえたもの。二本立てにしたということは、視点が変われば同じなりゆきも違ったドラマになる・・・ということ。(DVD「ラブストーリーズ コナーの涙 / エリナーの愛情」)

そういえばむかし、「冷静と情熱のあいだ」という同じような小説(映画)がありました。辻仁成さんと江國香織さんという二人の作家が同じ筋書きの恋愛ドラマを男女それぞれの目線から書いていましたっけ。ひとつの恋愛も二人の目線から見ると、二つのまったく違うドラマが存在しているのです。

まさに、「人生で起ることはニュートラル」。なんの意味もない。「意味は体験する人が与えるもの」。与えた意味のとおりのドラマになる、ということです。

まっさらな出来事に、見る人が色あいをつける。・・・ということは、わたしたちは日々自分の人生に色をぬっていて、それが人生の明暗をわけていることになります。

決して最初から色のついたもの(意味があるもの)をさし出されて、それに対して一定の反応を求められているのではないということです。

まっさらな下絵に対して、わたしがどんな色づけ(意味づけや選択)をするかでホラーにもコメディにもなっちゃう。暗い色合いを選べば、それは当然鬱々とした絵になるけど、同じ下絵でもきゃりーぱみゅぱみゅ的なカラフル&ポップな色柄をつけたら、「まあ♡ とってもラブリー!ステキだわ」ということになるのです。

だから「ヒドイ体験に見まわれた!」というときは、無意識のうちに自分なりの色つけが完了していて、それに対してあらためて自分が反応していることになります。

どうやらわたしたしはほっておくと、自動的にものごとに対してダークな色つけ(意味づけや選択)をしてしまうようです。たしかに、何かを見ればすぐに「あ〜だ、こ〜だ」という価値判断がはじまり、そのものごとが自分にとって役に立つのか立たないのかが唯一の判断の基準となります。

つまり、自分の自己保存とサバイバルにとってプラスになるかどうかで、ものごとをばっさばっさと切り捨てているのです。(サヨナラする彼氏彼女、妻、夫は、自己保存においてもはや役に立たなくなったので、じゃあレプレイスしましょ!ということです。・・・あじゃ〜・汗)

自分を守るためにする解釈は当然、怖れのこころに基づいています。そして、怖れが動機となっていれば、行きつくところはやはり怖れの結末。 ・・・だから気がついてみたら、結局は失敗、悲しみ、痛み、苦しみ、怖れ、罪悪感、無価値観、怒り、後悔などなど・・・ 残念な結果にたどりつきます。

成功に見えた転職も、仕事がきつくて地獄の職場に ・・・。ついに運命の人だ!と思った出会いも、メッキがはがれて史上最悪、バトルの絶えない間柄に ・・・。マイホームさえ手にすれば完璧と思っていたのに、天災にみまわれた ・・・というように。

けれども、わたしたちにはもっと別なハッピーな人生の色づけ、ストーリー展開につながる選択もすることができるのです。

それはあまり使ってなかったので、すっかり忘れられている選択の仕方なのですが。さて、それは・・・。

(その2につづく)

 

 

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人形劇みたい?!

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

人形劇か紙芝居か?! そんなセッティングのなかにはいっちゃったわたしたち。(^^;;

テーマパークではありません。 ・・・これはお食事中のひとこま。

ここは不思議の国のアリス御用達(らしい)、フレンチのクイーン・アリスさん。内装もお料理も、どこかメルヘンチックなのです。

クリーン・アリス好きの友人のバースデー祝いにきました。

フレンチといえどもどことなく和のテイストがあって最後までさっぱりといただけるお料理は、彩りも盛りつけも美しかった〜。

以前もバースデー祝いでクイーンアリスにきたけど、それは日吉のお店。こちらは横浜にある本家といえます。

お料理の名前も「アリスの○○」という名前がついていたり、撮ってくださったお写真にもアリスがついています。

○ちゃん、この一年も不思議の国で楽しい日々を♪

 

トリュフポテチ♡

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

あしげく通う輸入食材屋さん。その日によって品揃えが変わっているので楽しいのです。

本日の収穫は・・・黒トリュフポテチ。

トリュフ好きとしてはとっても惹かれたけど、たまにトリュフエッセンスでトリュフ風の味だったりするとガッカリなのです。

でも、ながめているうちにどんどん売れていくので、勢いで買ってしまいました。

さて・・・お味は?!

一口め ・・・まぎれもなく、トリュフだ〜♡

しかし、二枚め、三枚めになると ・・・ふつ〜のポテチとなんら変わらない。完全に鼻が慣れちゃう??

なので、一枚食べては、しばし休憩。そして、また一枚。

でも、結局、あっというまに完食。(小さめの袋でよかった!これキケンだわ。)

あと味、たしかにトリュフです♡

トリュフ同好会(そんなのいつつくったの?)のメンバー、○ちゃんにもおすそわけしよう♪

 

風にふかれて朝ゴハン

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

昨日は20度だなんて! 寒いのなんの。あの倒れそうな暑さがウソのようでした。

きょうもまだ涼しいです。お外カフェするには、もってこいの気候。

お友だちのMちゃんが2本も電車を乗りついで、早朝から朝カフェに来てくれました。なので、いつものお店にご案内。テラスで風に吹かれながら、気持ちのいい朝ゴハンのひととき♪

この季節のお外は爽やかだけど、Mちゃんはめいっぱい蚊にくわれてました。

蚊は、二酸化炭素をたくさん出している人のところに行くそうな(ギセイになってくれてありがとう)。でも、新陳代謝がよくって健康な証拠!!(^。^; 

わたしは蚊よりもスズメちゃん攻撃。ふと気がつくと、わたしのコップに三羽もとまってることも・・・。(あなたたち〜!ほかで遊んできなさいね〜!)

朝早くに来たはずが、気がつけばお昼! 気持ちのいい時間は、あっというまです。

@代官山 IVY PLACE

 

15-08-25 わたしに会うまでの1600キロ

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

試写会に行ってきました〜♪

歩く歩く・・・女の子がたったひとりで、1600キロの道のりを三ヶ月も。砂漠をつっきり、雪をかきわけ、森にわけいり・・・ カリフォルニアからオレゴンのはずれまで。山歩きの経験すらないのに。

これはベストセラーになったノンフィクションの映画化。

この彼女は、いったいどうしたというのしょう?

日々の生活で直面するさまざまな悲しみや痛み、不条理を、なんとか飲みこむようにやりすごし ・・・けれど「わたしのすべて」であった最愛の母の死にいたって、ついに制御不能に。こみあげてくる悲しみや孤独感をを麻薬やゆきづりの関係でうめようとするものの、お腹のこどもの父親すらわからない状態までに・・・。

そんな自分をどうにかするには、こんなみそぎしかない・・・それは過酷なコース、1600キロを歩きづつけること。

たった一人でもくもくと歩く日々。抑圧してきたいろいろな場面が走馬灯のようによみがえり、その痛みをひとつひとつ手のひらにのせるようにこころのなかで追体験していきます。まさに浄化、癒しのプロセスそのもの。

わたしたちはだれもがさまざまな悲しみ、痛み、折りあいのつかない気持ちをどこかに抱えつつも、それに気づいてしまったら大変! とばかりに、知らないフリを決めこみます。「そんなツライことはなかったのだ!」「わたしは大丈夫!」と。でも、平気なんかじゃないのです。・・・で、あるとき、もうどうにもそのすべてを押さえきれなくなってしまう日がやってきます。

見たくないものばかり放りこんできた押し入れがパンパンになって、ふすまがついには吹っ飛び、今まで見ないフリをしていた醜いものたちがせきを切ったように部屋全体にぶちまけられるような。そしてそれを目の当たりにして、アゼンとする自分。

そんなとき、セラピーに行く人もいれば、また再びおなじ押し入れに詰めこもうとする人もいます。

彼女はまるで「行」をおこなうように歩いたのです。

この映画を見ながら、スクリーンのなかの過酷な道を彼女と一緒に歩くことで、少しは自分のこころのみそぎになるかもしれません。

主演のリース・ウィザースプーンって、キュートでオシャレなイメージの役が多かったけど(シャネルスーツにチワワをつれたバーバードビジネススクール生なんていうのもありましたっけ)、今回はノーメークで過酷な自然をサバイバルします。

邦画の女優さんたちはこんなシチュエーションであろうとも、ご自分の美しさのほうを優先されてばっちりと美しく画面におさまっていたりします。リアル感よりも、女優さんとしての見た目のほうが大切? その点、ハリウッドの女優さんはけっこう容赦なくボロボロです。

そのむかし、シャーリーズ・セロンの「モンスター」という映画があったけど、すごい役作りでした。あの美しい方がデブデブぶよぶよ、おそろしく人相が悪い。こんなになって大丈夫なの?というぐらい迫力ありましたっけ。スゴイね。

PS 「わたしに会うまでの1600キロ」は、8/28から公開されるようです。