ルスルス♪

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

以前にもブログでご紹介した焼き菓子のお店「菓子工房ルスルス」さん。とってもおいしくって感動したお店です。

Eちゃんには今まで何度もいただいているのですが、どれもまったくはずしません。

今回は予約しないと手にはいらないというひと品をいただきました。

シンプルな缶にリボンというお姿がオシャレ♡ なかはどんなだろう?

パカッ・・・とあけると、あら?! 色紙が出てきました。そして、そのしたには ・・・

わあ、かわいい!  (๑❛ᴗ❛๑)   ぜんぶ鳥のかたちをしたアイシングクッキー。

色紙は、こんなふうに使うのでしょうか?

以前にいただいたのも、どれもおいしかったな〜。口にしたとき、なごむようなあたたかい味わいがあって、他のお店のクッキーとはぜんぜん違うのです。

大きいクッキーはネコちゃん型でシナモンがきいていました。お花の形は、まんなかがアーモンドとキャラメルです。ビスコッティもナッツが入っていてコーヒーにとってもあいました。

ほっこり幸せなティータイムをたくさんいただきました。ありがとう♡

 

 

17-01-28 沈黙 〜サイレンス〜

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

学生のとき、この小説を読んでショックでした。ずっとこころに残っていました。

キリシタン弾圧下の長崎で、困難な宣教を続けるポルトガル人の宣教師たち。拷問を受けながら、かれらの命の叫びは ・・・ 「神さま、なぜあなたはこたえてくれないのですか?」

キリストの教えをかけて宣教師もキリシタンも次々に命を落としていくという、せっぱつまった状況のさなかで発せられる問いですが、私たちも生きていくなかで「神さま、なぜこたえてくれないのですか?」という問いは誰もが一度は発したことがあるのではないかと思います。

「なぜ、神はわたしにこんな試練を与えるのだろう?」「なぜ、こんな苦しみに満ちた世界を創ったのだろう」「なぜ? なぜ?」 わたしは見捨てられているのか?・・・ 私たちは、どこか理不尽だと思いながらも、それでも必死にこたえをみつけようとしてきたのだと思います。

セラピーをしていくなかでも、それぞれの無意識のこころのなかにとても根深い「見捨てられ感」があるのがわかります。

「どうせ、助けてもらえない」「わたしは見むきもされない」・・・まさに、おおもと(神さま)から私は見捨てられていて、助けなんてこないし、だから自力で必死に生き延びなければならない、苦しい ・・・ この無意識下にある絶望感が、私たちが感じるえたいの知れない恐怖心の原因です。そしてその怖れから逃れるために、自分をさまざまなものへと駆り立てます。

それはお金であったり、お酒、ギャンブル、買い物、恋愛、過食、ワーカホリック・・・ かたちは違ってもすべて怖れをうめるためのてだてとなると信じているものです。でも、それらでは決して満たされることはありません。ほんとうに求めるものでしか、その隙間はうめられないからです。

この怖れは、「見ているものは、自分のこころのなかが原因である」ということがわかるまで決して解決されることはありません。

私たちは「自分の信じているものしか見ることができない」から、自分のなかに深く隠しもっている闇、見捨てられているような空虚感を正直に認めることからはじめなければなりません。信じていることが変われば、おのずと見えるものも違ってくるのです。

本当に見捨てられているのか、自分の思い違いではないのか ・・・。怖れるあまり握りしめているものをいったん手放して、こころを落ちつけて、真実を知ろうとしないかぎり、本当のことは見えてこないのかもしれません。

ところで、この物語のなかでは踏み絵を躊躇する村人たちが次々と命をおとすはめになるのですが、キチジローというキリシタンは三回も踏み絵に遭遇しながらも、そのたびにまんまと生きのびてゆきます。

なぜなら、そのたびごとにバシバシ踏んだから。それでも、彼はさいごまでキリシタンのこころは決してすてていないのです。

人々がキリシタンになったのは、安らぎや幸せを求めてそうなったはずなのに、私たちはしばしば自分の考えの正しさを優先するあまり、本当に求めていたはずのものをみすみすドブにすててしまったりします。

彼はまさに、「正しさよりも、生きのびること(幸せ)」を優先したわけです。

私もキリスト教の環境で育っていますが、もし私がこの時代の長崎に生まれていたら、きっとキチジロー同様、バシバシ踏んでるかもしれませんね〜(汗)。

この作品はーティン・スコセッシ監督のハリウッド映画です。

ハリウッドの日本を舞台にした作品って、これどこの国? というぐらいヘンテコリンなことになっている場合があるのですが、これは時代考証を日本人が担当しているそうなので違和感はありません。

でもちょっとヘビーで、午前中に観たら午後までへたってしまいました・・・。

 

お茶の間シネマトーク「沈黙 〜サイレンス〜」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

学生のとき、この小説を読んでショックでした。ずっとこころに残っていました。

キリシタン弾圧下の長崎で、困難な宣教を続けるポルトガル人の宣教師たち。拷問を受けながら、かれらの命の叫びは ・・・ 「神さま、なぜあなたはこたえてくれないのですか?」

キリストの教えをかけて宣教師もキリシタンも次々に命を落としていくという、せっぱつまった状況のさなかで発せられる問いですが、私たちも生きていくなかで「神さま、なぜこたえてくれないのですか?」という問いは誰もが一度は発したことがあるのではないかと思います。

「なぜ、神はわたしにこんな試練を与えるのだろう?」「なぜ、こんな苦しみに満ちた世界を創ったのだろう」「なぜ? なぜ?」 わたしは見捨てられているのか?・・・ 私たちは、どこか理不尽だと思いながらも、それでも必死にこたえをみつけようとしてきたのだと思います。

セラピーをしていくなかでも、それぞれの無意識のこころのなかにとても根深い「見捨てられ感」があるのがわかります。

「どうせ、助けてもらえない」「わたしは見むきもされない」・・・まさに、おおもと(神さま)から私は見捨てられていて、助けなんてこないし、だから自力で必死に生き延びなければならない、苦しい ・・・ この無意識下にある絶望感が、私たちが感じるえたいの知れない恐怖心の原因です。そしてその怖れから逃れるために、自分をさまざまなものへと駆り立てます。

それはお金であったり、お酒、ギャンブル、買い物、恋愛、過食、ワーカホリック・・・ かたちは違ってもすべて怖れをうめるためのてだてとなると信じているものです。でも、それらでは決して満たされることはありません。ほんとうに求めるものでしか、その隙間はうめられないからです。

この怖れは、「見ているものは、自分のこころのなかが原因である」ということがわかるまで決して解決されることはありません。

私たちは「自分の信じているものしか見ることができない」から、自分のなかに深く隠しもっている闇、見捨てられているような空虚感を正直に認めることからはじめなければなりません。信じていることが変われば、おのずと見えるものも違ってくるのです。

本当に見捨てられているのか、自分の思い違いではないのか ・・・。怖れるあまり握りしめているものをいったん手放して、こころを落ちつけて、真実を知ろうとしないかぎり、本当のことは見えてこないのかもしれません。

ところで、この物語のなかでは踏み絵を躊躇する村人たちが次々と命をおとすはめになるのですが、キチジローというキリシタンは三回も踏み絵に遭遇しながらも、そのたびにまんまと生きのびてゆきます。

なぜなら、そのたびごとにバシバシ踏んだから。それでも、彼はさいごまでキリシタンのこころは決してすてていないのです。

人々がキリシタンになったのは、安らぎや幸せを求めてそうなったはずなのに、私たちはしばしば自分の考えの正しさを優先するあまり、本当に求めていたはずのものをみすみすドブにすててしまったりします。

彼はまさに、「正しさよりも、生きのびること(幸せ)」を優先したわけです。

私もキリスト教の環境で育っていますが、もし私がこの時代の長崎に生まれていたら、きっとキチジロー同様、バシバシ踏んでるかもしれませんね〜(汗)。

この作品はマーティン・スコセッシ監督のハリウッド映画です。

ハリウッドの日本を舞台にした作品って、これどこの国? というぐらいヘンテコリンなことになっている場合があるのですが、これは時代考証を日本人が担当しているそうなので違和感はありません。

でもちょっとヘビーで、午前中に観たら午後までへたってしまいました・・・。

 

 

こころ温まるランチ会

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吉祥寺のステキな和食屋さんでランチ会。お友だちがさりげな〜く開いてくださった私を励ます会なのです。

お食事をいただきながら、お友だちの一人 Yさんが「古川さんには嫉妬を感じるよ」と笑いながら言われたのです。「え? なんで?」と意味不明な私。「私なんて、8歳のときに亡くなっているから。古川さんは亡くなったお母さんと、ずっと姉妹のように仲がよかったんでしょ」と。そっか〜・・・、Yさんは70代後半なので 70年もお母さまが不在だったっていうことだわ。

私は「母とは、もっと・・・ 」と思っていたけれど、じつは本当にじゅうぶんな時間をいただいていたんだな〜と改めて感じたのです。

それでも、その Yさんの生い立ちをうかがうと、「ああ〜、お母さま、ちゃんと見てて、いろいろな場面で手伝ってくださっていたのね〜」という数々のエピソード。母の愛は、こちらがわにいるときも、そしてあちらがわでもなお力強いのだと感じます。

ちょっと視点が変わると、また感じ方も変わってきます。あらためて、母とのじゅ〜ぶんすぎる時間をいただいたことに感謝するとともに、身軽に動きまわれるようになった母は愛とともに、さらに私のまわりをあれやこれやと飛び回っていてくれそうです。毎日、母に向かって(写真ではなく空中に向かって)、手をふって挨拶しています(かなりあぶない人にみえます・笑)。

さてさて、ランチ会は井の頭公園のすぐ隣にある大きなガラス窓から竹林と公園の緑が楽しめる雰囲気のあるお店「金の猿」さんです。新緑の頃、さらにサクラの頃もよさそうです。

菜の花など春を感じさせる食材をつかった美しい会席をいただきました。

食後は陽射したっぷりの井の頭公園へ。

長いおつきあいのこのお友だちは、なにかあるときも、なにもないときも、いつもさりげなく手をさしのべてくださいます。こころ和むランチ会をありがとうございました♡

 

 

あら?!

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このお花たち、どれも花びらの真ん中がみどり色なのです。はじめて見ました。

お花全体がみどりの子もいます。

不思議だ〜・・・。

よく、花びらかと思っていると、それは葉っぱですというパターンがあるので ・・・ まさか、まんなかが葉っぱだったりして。

えなちゃん、可愛いお花をありがとう♡

 

 

17-01-18 存在するのは、ひとつのこころ

以心伝心、言わなくてもビビッと伝わる ・・・ あるいは、相手のこころや今の状態が自分のことのように感じられる。

そんな経験は、誰にでもあると思うのです。パートナーや親しい友人、あるいは親子のあいだで。私は、母とつながっている体験をよくしていました。

20代で、ひとり暮らしをはじめてすぐの頃。それは四月の冷たい雨が降る昼下がりで、私はあることでひどく落ちこんで、寒い部屋のなかでちぢこまるようにじっと考えこんでいました。寒いし、慣れないひとりぼっちで寂しくて、涙がぼろぼろ・・・ そのとき電話がなりました。

受話器をとるやいなや「どうしたの? 」という母の声。ほとんど私からしか電話をかけなかったし、かかってくるときは夜ばかりだったので、昼間の母からの突然の電話、それも開口いちばん「どうしたの?」と言われ、「これは、今の状態をお見通しだわ!」とびっくりしました。母は「あら、何でもわかるわよ。ちゃんと見えてるから」と笑っていましたが。

あるいは、セミナーでよく訪れていたアメリカでこっそりスカイダイビングをしたときのことも。

もちろん心配するから母には何も言っていなかったのですが、次に出かけるときに「お願いだから、危ないことはやめてね」と念をおされ、おもわず話してなかったスカイダイビングのことをカミングアウトしそうになりました(笑)。もちろん母は、ただ何かを感じてそう言っただけだったのですが・・・。

ああ、母というものは、やっぱりこどものことについてはツーカーなのだなぁと実感しました。ちゃんと話そうが、話すまいが・・・。

母とのあいだには、こんな「なんでわかるの?」エピソードが山のようにあるのです。笑ってしまうぐらい。

そんな母が、先月末、天国へと旅立ってしまいました。

ただ次元を移動するだけで、いなくなってなどいない・・・とわかっていながらも、母の姿が見えなくなることは私にとってある意味、キョーフだったのです。やってくるであろう空虚感が怖かったのです。

けれど、いざ体験してみると、まったく思っていたのとは違う体験でした。

以前は遠いところに住んでいて距離感があったのに、今はとっても近い。母を思うとすぐ隣りに寄りそっていてくれます。

そして、なにか、今までに感じたことのない深い安らぎとか、ゆるぎない安心感、平安というような感覚が日々強くなっていくのです。

これは、今までの人生で感じていたつかのまの安心感やら幸せ感とはまったく違うものです。もっとゆるぎのない、もっと深い、もっと大きなもの。大きな光にすっぽりと包まれて、守れているような感覚で、それがどんどん大きくなっていく感じ。

なぜなのだろう? 大切な大好きだった母がいなくなったのに・・・ 世の人々がさめざめと喪に服するその様子を頭に描きながら、まえよりも幸せである自分に戸惑いというか、罪悪感のようなものを感じてもいました。「母が亡くなったのに、なに? この気持ちは?」と。

でも、ふと・・・気がつきました。「ああ、いつも母は私の気持ちを手にとるように感じくれていたっけ。こんどは、天国で自由になって癒されている母の解放感と安らぎが、私に伝わってきているんだ。私も母と一緒に感じさせてもらっているのかもしれない」と。そう、いままでの完全逆パターン。

量子物理学の本で、こんなことを言っていたのを思い出しました。「ひとたび接触のあったものは、その後いくら引き離しても、つながりが切れることはない。片方に刺激を加えると、即座にもう片方も反応する」と。つまり、まったくひとつだということ。

でも、そもそも私の存在そのものが母からきているので、その一心同体感は時空を越えているは納得できることです。

そして、それは親しい間柄や特別な関係に限られたものではないのです。なぜなら、もともと私たちの「こころ」はたったひとつだから。こんなに人口がたくさんいて、別々のこころをもった人たちがあふれかえっているように見えても。そもそもその起源は、「たったひとつのこころ」なのです。

だから、相手のことがわかるとか、つながれることは、驚いたり、特別視することなどではなく、そもそもとても自然なこと。できて、あたりまえなこと。

「自分以外のこころがわからない」ということのほうが、ずっと不自然なことなのでしょう。

私たちのこころはひとつだから、いつでも、どこでも、誰とでもつながれるし、わかりあえるし、それが当たりまえのこと。ほんとうは、すべてわかってる。だれとでも。

でも、いつのまにか私たちはコワガリさんになってしまったのでしょうね。だから感じないフリをしてる。

自分が怖れでいっぱいになっているときに、相手を感じようとすると、じつは自分のなかにある怖れのこころが相手のなかに見えるから。それを相手の本当の姿だと思って、「こわい!こわい!だったら、もう相手を感じたり、わかろうとすることはやめよう」と決めてしまったよう。

そう、私たちは自分が見ようとしているものしか見えないし、感じようとしているものしか感じることができません。それこそが自分の世界。でも、心が怖れに満ちたままだと、怖れているのは自分なのに外の世界がコワイのだと勘違いしてしまいます。

でも、おもしろいもので、相手のなかの真実(愛)、真の姿を見ようとすると、自分も自分の怖れを手放して真実(愛)、本当の姿に戻ることができます。正しい見方をしようとすると、相手も自分も、ともに癒されるということ。

そんなふうに自分のこころの怖れを手放して愛にシフトしようとすると、もっともっとこころが広がって、たったひとつのこころであるすべてのこころにつながれるようになるのです。

それはいろいろな人の気持ちや状態だけでなく、すべての創造性やインスピレーションや叡智やら真理やら、すべてのすべてが含まれているのです。

なんか、向こうにいる母のおかげで「そうか!」という気づきをいろいろといただいているこの頃です。

「ツーカーだから、心配させないようにちゃんとしなくちゃね!」と、このごろはせっせと掃除をしたり、花を飾ったり、若干働き者になりました(ははは・・・至近距離で見られてるからね、頑張ります! 笑)。

PS 今、聞いているFMで、「クリスマスにこの世を去ったジョージ・マイケルの曲を・・・」と言っています。母もクリスマス旅立ち組。もしや、ジョージ・マイケルと一緒だった? エスコートしてもらっちゃった? あの美声でヒット曲「ラスト クリスマス」 も歌ってもらっちゃった?

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「存在するのは、ひとつのこころ」

以心伝心、言わなくてもビビッと伝わる ・・・ あるいは、相手のこころや今の状態が自分のことのように感じられる。

そんな経験は、誰にでもあると思うのです。パートナーや親しい友人、あるいは親子のあいだで。私は、母とつながっている体験をよくしていました。

20代で、ひとり暮らしをはじめてすぐの頃。それは四月の冷たい雨が降る昼下がりで、私はあることでひどく落ちこんで、寒い部屋のなかでちぢこまるようにじっと考えこんでいました。寒いし、慣れないひとりぼっちで寂しくて、涙がぼろぼろ・・・ そのとき電話がなりました。

受話器をとるやいなや「どうしたの? 」という母の声。ほとんど私からしか電話をかけなかったし、かかってくるときは夜ばかりだったので、昼間の母からの突然の電話、それも開口いちばん「どうしたの?」と言われ、「これは、今の状態をお見通しだわ!」とびっくりしました。母は「あら、何でもわかるわよ。ちゃんと見えてるから」と笑っていましたが。

あるいは、セミナーでよく訪れていたアメリカでこっそりスカイダイビングをしたときのことも。

もちろん心配するから母には何も言っていなかったのですが、次に出かけるときに「お願いだから、危ないことはやめてね」と念をおされ、おもわず話してなかったスカイダイビングのことをカミングアウトしそうになりました(笑)。もちろん母は、ただ何かを感じてそう言っただけだったのですが・・・。

ああ、母というものは、やっぱりこどものことについてはツーカーなのだなぁと実感しました。ちゃんと話そうが、話すまいが・・・。

母とのあいだには、こんな「なんでわかるの?」エピソードが山のようにあるのです。笑ってしまうぐらい。

そんな母が、先月末、天国へと旅立ってしまいました。

ただ次元を移動するだけで、いなくなってなどいない・・・とわかっていながらも、母の姿が見えなくなることは私にとってある意味、キョーフだったのです。やってくるであろう空虚感が怖かったのです。

けれど、いざ体験してみると、まったく思っていたのとは違う体験でした。

以前は遠いところに住んでいて距離感があったのに、今はとっても近い。母を思うとすぐ隣りに寄りそっていてくれます。

そして、なにか、今までに感じたことのない深い安らぎとか、ゆるぎない安心感、平安というような感覚が日々強くなっていくのです。

これは、今までの人生で感じていたつかのまの安心感やら幸せ感とはまったく違うものです。もっとゆるぎのない、もっと深い、もっと大きなもの。大きな光にすっぽりと包まれて、守れているような感覚で、それがどんどん大きくなっていく感じ。

なぜなのだろう? 大切な大好きだった母がいなくなったのに・・・ 世の人々がさめざめと喪に服するその様子を頭に描きながら、まえよりも幸せである自分に戸惑いというか、罪悪感のようなものを感じてもいました。「母が亡くなったのに、なに? この気持ちは?」と。

でも、ふと・・・気がつきました。「ああ、いつも母は私の気持ちを手にとるように感じくれていたっけ。こんどは、天国で自由になって癒されている母の解放感と安らぎが、私に伝わってきているんだ。私も母と一緒に感じさせてもらっているのかもしれない」と。そう、いままでの完全逆パターン。

量子物理学の本で、こんなことを言っていたのを思い出しました。「ひとたび接触のあったものは、その後いくら引き離しても、つながりが切れることはない。片方に刺激を加えると、即座にもう片方も反応する」と。つまり、まったくひとつだということ。

でも、そもそも私の存在そのものが母からきているので、その一心同体感は時空を越えているは納得できることです。

そして、それは親しい間柄や特別な関係に限られたものではないのです。なぜなら、もともと私たちの「こころ」はたったひとつだから。こんなに人口がたくさんいて、別々のこころをもった人たちがあふれかえっているように見えても。そもそもその起源は、「たったひとつのこころ」なのです。

だから、相手のことがわかるとか、つながれることは、驚いたり、特別視することなどではなく、そもそもとても自然なこと。できて、あたりまえなこと。

「自分以外のこころがわからない」ということのほうが、ずっと不自然なことなのでしょう。

私たちのこころはひとつだから、いつでも、どこでも、誰とでもつながれるし、わかりあえるし、それが当たりまえのこと。ほんとうは、すべてわかってる。だれとでも。

でも、いつのまにか私たちはコワガリさんになってしまったのでしょうね。だから感じないフリをしてる。

自分が怖れでいっぱいになっているときに、相手を感じようとすると、じつは自分のなかにある怖れのこころが相手のなかに見えるから。それを相手の本当の姿だと思って、「こわい!こわい!だったら、もう相手を感じたり、わかろうとすることはやめよう」と決めてしまったよう。

そう、私たちは自分が見ようとしているものしか見えないし、感じようとしているものしか感じることができません。それこそが自分の世界。でも、心が怖れに満ちたままだと、怖れているのは自分なのに外の世界がコワイのだと勘違いしてしまいます。

でも、おもしろいもので、相手のなかの真実(愛)、真の姿を見ようとすると、自分も自分の怖れを手放して真実(愛)、本当の姿に戻ることができます。正しい見方をしようとすると、相手も自分も、ともに癒されるということ。

そんなふうに自分のこころの怖れを手放して愛にシフトしようとすると、もっともっとこころが広がって、たったひとつのこころであるすべてのこころにつながれるようになるのです。

それはいろいろな人の気持ちや状態だけでなく、すべての創造性やインスピレーションや叡智やら真理やら、すべてのすべてが含まれているのです。

なんか、向こうにいる母のおかげで「そうか!」という気づきをいろいろといただいているこの頃です。

「ツーカーだから、心配させないようにちゃんとしなくちゃね!」と、このごろはせっせと掃除をしたり、花を飾ったり、若干働き者になりました(ははは・・・至近距離で見られてるからね、頑張ります! 笑)。

PS 今、聞いているFMで、「クリスマスにこの世を去ったジョージ・マイケルの曲を・・・」と言っています。母もクリスマス旅立ち組。もしや、ジョージ・マイケルと一緒だった? エスコートしてもらっちゃった? あの美声でヒット曲「ラスト クリスマス」 も歌ってもらっちゃった?

 

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いつまでも元気なお花たち

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

お花の香りが部屋いっぱい♡

元日に Lちゃんにいただいたアレンジメントは、10日めぐらいから百合がどんどん開きはじめ、じつは二週間たったきょうもまだ十分にきれいなのです。すごいな〜。

このお花は天国にいる母のためにいただいたのですが、あまりに花もちがいいので Lちゃんにそのことをつげると「きっとお母様が夜な夜な”小人さん”を連れて、お花のケアに来てくださってるんじゃない!? 存在としてpureなお花達は、あちらとこちらを繋いでくれる存在なのかもね…」と。

なるほど〜、時空を超越して咲き続けてくれているのでしょうか?

すると、昨日、K子ちゃんから、またきれいなアレンジメントをいただきました。ありがとうございます♡  胡蝶蘭に百合、デイジーにカーネーション ・・・ とってもきれいです。

二週間頑張ってくれたアレンジメントさんに「お疲れさま! あとはまかせてね」といわんばかりに、部屋いっぱいにやさしい香りが広がります。

お花の香りが満ちているいる空間って、やっぱりどこか違う次元につながっているような気がします。そこだけふんわりしていて、時間がなくなったような空間・・・。

母にも見せたいし、私も楽しみたいし・・・なので、お料理するときも、リラックスするときも ・・・ 母の写真とこのお花アレンジメントをかかえて家のなかをせっせと移動しています(笑)。

 

17-01-08 自分で自分をごまかさない

幼い頃、注射されるとき、その痛みをごまかすためにほかの場所をつねったりしたものです。

でも、ホントのところ、これは解決策ではなく、たんにごまかしているだけ。じつは、痛いところはふえています。本当の問題(痛み)から、気をそらせただけでした。

いちばん怖いことが避けられれば、ちょっとぐらいつらくても我慢する ・・・ という、なにやら代替案というか、取引っぽい感じです。でも、結局は自分をもっと痛くしてるという。

これとまったく同じことを、わたしたちは日々の生活のなかで試みています。無意識的に・・・。

日々の生活のなかの悩み、問題は、ひとつ片づけば、また他の問題がたち起こり・・・ 尽きることがありません。

わたしたちは、これが「人生」とあきらめています。人生とは、次から次へとやってくる問題を対処しながら生きぬくものであると・・・。

それって、ホント?!

それでいいの?!

もしも、もしも、小さいころにやっていたように、本当に痛いところから気をそらせるために小さな痛みという問題(小さいとは見えないものもあるでしょう)をせっせとこしらえて、そして自分のこころをごまかしているとしたら?

そう・・・ どうやら、わたしたちのこころのなかには、ほんとうに直面したくない相当恐ろしい何かがあるようなのです。ある!と信じてる。

そんなキョーフに直面するぐらいだったら、ダミーの怖れで自分をごまかし続ける方がよっぽどよい ・・・というのが、わたしたちの無意識のおもい。

でも、さらに考えなくちゃいけないのは、そのこころの深いところにうめこまれていると思っている堪えがたいキョーフって、ホントにあり? 真に存在しているのか?

もし、そのような怖れるものがないとしたら?!

わたしたちは、ホントは何も困ったことなどないのに、まるでカーテンや壁にうつる影を怖がるこどものように、勝手にでっちあげた恐ろしいものを信じつづけて、怖がり続けているのかもしれません。(それって、すごい労力の消費だし、それをしている限りほんとうにするべきところに手がまわらないこと必至です。)

わたしはよくクライエントさんに、何度もくりかえすネガティブな考えに対して「うるさい!だまりなさい!」と一喝することをすすめています。

「ああなったらどうしよう!」「きっと、失敗するに違いない」「こんな恐ろしいことがやってくるのでは」・・・・と頭のおしゃべりがはじまったら、「うるさい! 」「黙ってもらってもいい? 聞いてないんですけど・・・」と。

勝手に出てくる考えは、自分のものではありません。(そういうと、「え〜!?自分の考えが自分のものではないのですか?!」とびっくりされちゃうのですが・・・。)

だって、自分でコントロールできないものが自分のものであるはずがないのです。

よく、考えとはお湯をわかしているときに生まれる気泡のようなもの、と言われています。勝手にわきあがってきては、そのまま消えていくのです。

なので、そんなひとつひとつの考えに真剣にかかわっていると、混乱します。わいてくる考えは一貫性がないので、自分が分裂したように感じます。自分が信じられなくなります。

だからこそ、ネガティブな考えには気をつけて、「うるさい!」と言い放つこと。耳をかさないこと。すると、ちゃんと静かになってくれます。(おそらくは、何度もこれをくりかえすことになりますが・・・ でも役にたちます。)ますが・・・ でも役にたちます。)

それを同じように、つぎつぎにあらわれる問題に対しても、「こんなものはないんだ!」と認識することが大切なのです。

「問題はある」と思っているうちは、親切にもどんどん現れてくれます。だって、自分がそう信じてつくっているから。

でも、「ない」と決めること。それこそが、わたしたちのこころがもっているパワーなのです。わたしたちは、まさにこころにあるものしか見ることができないのです。

自分の間違った考えに騙されない、自分の間違った見方に騙されない ・・・。

どんな考えが浮かんでこようとも、どんなものが目のまえにあらわれようとも、そんなダミーにはごまかされないんだ、そしてほんとうのところ、怖れるものなど何も存在していないのだ、ということをしっかりとこころに刻みつけること。それが、自分の考えや見えるものを変えることなのだと思います。

こころの力は、ほっておくとコワイものをつくり続けることもできるし、あるいは自分の幸せのために役立てることできる、つまり自由自在な力なのです。

だからこそ、わたしたちの選択がものをいいます。その選択とは、「わたしとはどんな存在なのか」という、自分を信ることにかかっているのだと感じます。

わたしは宇宙(源・神)に守られ、慈しまれ、愛され、導かれている存在であり、いつだって自分が決めればその恩恵のすべてを見ることができる、ということをしっかりとこころに言いきかせたいものです♡

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「自分で自分をごまかさない」

幼い頃、注射されるとき、その痛みをごまかすためにほかの場所をつねったりしたものです。

でも、ホントのところ、これは解決策ではなく、たんにごまかしているだけ。じつは、痛いところはふえています。本当の問題(痛み)から、気をそらせただけでした。

いちばん怖いことが避けられれば、ちょっとぐらいつらくても我慢する ・・・ という、なにやら代替案というか、取引っぽい感じです。でも、結局は自分をもっと痛くしてるという。

これとまったく同じことを、わたしたちは日々の生活のなかで試みています。無意識的に・・・。

日々の生活のなかの悩み、問題は、ひとつ片づけば、また他の問題がたち起こり・・・ 尽きることがありません。

わたしたちは、これが「人生」とあきらめています。人生とは、次から次へとやってくる問題を対処しながら生きぬくものであると・・・。

それって、ホント?!

それでいいの?!

もしも、もしも、小さいころにやっていたように、本当に痛いところから気をそらせるために小さな痛みという問題(小さいとは見えないものもあるでしょう)をせっせとこしらえて、そして自分のこころをごまかしているとしたら?

そう・・・ どうやら、わたしたちのこころのなかには、ほんとうに直面したくない相当恐ろしい何かがあるようなのです。ある!と信じてる。

そんなキョーフに直面するぐらいだったら、ダミーの怖れで自分をごまかし続ける方がよっぽどよい ・・・というのが、わたしたちの無意識のおもい。

でも、さらに考えなくちゃいけないのは、そのこころの深いところにうめこまれていると思っている堪えがたいキョーフって、ホントにあり? 真に存在しているのか?

もし、そのような怖れるものがないとしたら?!

わたしたちは、ホントは何も困ったことなどないのに、まるでカーテンや壁にうつる影を怖がるこどものように、勝手にでっちあげた恐ろしいものを信じつづけて、怖がり続けているのかもしれません。(それって、すごい労力の消費だし、それをしている限りほんとうにするべきところに手がまわらないこと必至です。)

わたしはよくクライエントさんに、何度もくりかえすネガティブな考えに対して「うるさい!だまりなさい!」と一喝することをすすめています。

「ああなったらどうしよう!」「きっと、失敗するに違いない」「こんな恐ろしいことがやってくるのでは」・・・・と頭のおしゃべりがはじまったら、「うるさい! 」「黙ってもらってもいい? 聞いてないんですけど・・・」と。

勝手に出てくる考えは、自分のものではありません。(そういうと、「え〜!?自分の考えが自分のものではないのですか?!」とびっくりされちゃうのですが・・・。)

だって、自分でコントロールできないものが自分のものであるはずがないのです。

よく、考えとはお湯をわかしているときに生まれる気泡のようなもの、と言われています。勝手にわきあがってきては、そのまま消えていくのです。

なので、そんなひとつひとつの考えに真剣にかかわっていると、混乱します。わいてくる考えは一貫性がないので、自分が分裂したように感じます。自分が信じられなくなります。

だからこそ、ネガティブな考えには気をつけて、「うるさい!」と言い放つこと。耳をかさないこと。すると、ちゃんと静かになってくれます。(おそらくは、何度もこれをくりかえすことになりますが・・・ でも役にたちます。)

それを同じように、つぎつぎにあらわれる問題に対しても、「こんなものはないんだ!」と認識することが大切なのです。

「問題はある」と思っているうちは、親切にもどんどん現れてくれます。だって、自分がそう信じてつくっているから。

でも、「ない」と決めること。それこそが、わたしたちのこころがもっているパワーなのです。わたしたちは、まさにこころにあるものしか見ることができないのです。

自分の間違った考えに騙されない、自分の間違った見方に騙されない ・・・。

どんな考えが浮かんでこようとも、どんなものが目のまえにあらわれようとも、そんなダミーにはごまかされないんだ、そしてほんとうのところ、怖れるものなど何も存在していないのだ、ということをしっかりとこころに刻みつけること。それが、自分の考えや見えるものを変えることなのだと思います。

こころの力は、ほっておくとコワイものをつくり続けることもできるし、あるいは自分の幸せのために役立てることできる、つまり自由自在な力なのです。

だからこそ、わたしたちの選択がものをいいます。その選択とは、「わたしとはどんな存在なのか」という、自分を信ることにかかっているのだと感じます。

わたしは宇宙(源・神)に守られ、慈しまれ、愛され、導かれている存在であり、いつだって自分が決めればその恩恵のすべてを見ることができる、ということをしっかりとこころに言いきかせたいものです♡

 

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