18-11-27 今あるものがあるもの

たった今、経験していることを、ただあるがままに経験してみます。

正直に、なにひとつ避けることも、抵抗することも、隠すことも、意味を変えようすることもなく・・・。

今あるものだけがほんとうに「あるもの」。これだけがあって、これだけで OK 。今の経験にとどまるならば。

なぜなら、これがあるものだから。

たとえば・・・

ある朝、冷蔵庫をあけると玉子がころんと一個あったとします。で、目玉焼きを作って食べました、マル

けれど、「え〜!玉子一個だけ? ベーコンがあったらベーコンエッグができるのに。トーストもないなんて?」という考えがよぎったとたんに、たった今あるのもが残念でわびしいものになります。

なにも言わなければ OK だったのに・・・。

あるがままにちゃちゃを入れることで、惨めになることにまんまと成功しました。

私たちはいつもこんなことをしている気がします。

思考が「あるがまま」にちゃちゃをいれるやいなや、とたんにそこにあった平和が打ち消されて問題がつくりだされるのです。

たった今、ここで起きていることとピッタリと親密であること。なにか(不平不満、価値判断・・・)が入りこむ、ちょっとのスキマもつくらないこと。起きていることを起きているままにしておくこと。

わたしたちは、「こうだったらいいのに、こうあるべきなのに・・・」とあたりまえのように口にするけれ、そのセリフは今あるものにはまったくあてはまらないのです(ほんとは、「今あるもの」について、ありえないセリフなのです)。

なぜなら、これだけがあるから・・・。

じゃあ、すべてに対して OK と言おう!ときめます。さて、いったいどんな気持ちになるのでしょうねか? (自分のなかでなにが起こるか、それも観察してみましょう!)

 

 

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気づきのぷちノート「今あるものがあるもの」

たった今、経験していることを、ただあるがままに経験してみます。

正直に、なにひとつ避けることも、抵抗することも、隠すことも、意味を変えようすることもなく・・・。

今あるものだけがほんとうに「あるもの」。これだけがあって、これだけで OK 。今の経験にとどまるならば。

なぜなら、これがあるものだから。

たとえば・・・

ある朝、冷蔵庫をあけると玉子がころんと一個あったとします。で、目玉焼きを作って食べました、マル

けれど、「え〜!玉子一個だけ? ベーコンがあったらベーコンエッグができるのに。トーストもないなんて?」という考えがよぎったとたんに、たった今あるのもが残念でわびしいものになります。

なにも言わなければ OK だったのに・・・。

あるがままにちゃちゃを入れることで、惨めになることにまんまと成功しました。

私たちはいつもこんなことをしている気がします。

思考が「あるがまま」にちゃちゃをいれるやいなや、とたんにそこにあった平和が打ち消されて問題がつくりだされるのです。

たった今、ここで起きていることとピッタリと親密であること。なにか(不平不満、価値判断・・・)が入りこむ、ちょっとのスキマもつくらないこと。起きていることを起きているままにしておくこと。

わたしたちは、「こうだったらいいのに、こうあるべきなのに・・・」とあたりまえのように口にするけれ、そのセリフは今あるものにはまったくあてはまらないのです(ほんとは、「今あるもの」について、ありえないセリフなのです)。

なぜなら、これだけがあるから・・・。

じゃあ、すべてに対して OK と言おう!ときめます。さて、いったいどんな気持ちになるのでしょうねか? (自分のなかでなにが起こるか、それも観察してみましょう!)

 

 

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和のあまみ

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最近いただいた愛らしい和のお菓子。やさしい甘さにこころがなごみます。

京都の金平糖・・・

このところ、金平糖にご縁があって少しまえにもいただきました。

お砂糖のシンプルな甘さにほのかな香りがついていて、「こんなにおいしかったんだ!」と金平糖再発見でした。(そうですよね!金平糖は宮内庁御用達の由緒正しいお引き菓子ですものね。)

ちょっと甘いものがほしいな〜というとき、数粒を口にふくんでいるとこころが満足します。和のキャンディですね。

会津の打ち菓子・・・

和三盆とそば粉のとっても上品な甘さの落雁。雅な姫が描かれた八角形の箱に入っています。

口のなかですっと溶けて、ふんわりとした甘さにほっとなごみます。

和紙にひとつづつ包まれていて、お花のよう。

出雲のお饅頭・・・

ご当地饅頭っていろいろありますが、この子たちは初対面です。

ドジョウ掬いスタイルがなんともかわいくて、なごみますね〜♡

なかは、おいしい白あんです。

チョコなどの舶来系のお菓子の甘味は自己主張が強いように感じますが、和のお菓子はひかえめでありながらしっかり癒し系の甘味です。

どれも、けっこう珈琲にあうのでした。ごちそうさまでした♡

 

 

18-11-23 ひとつである内側と外側

目を閉じると・・・そこに暗闇としての内側のスペースが広がっているのを感じます。

しばらくそのまま目を閉じて坐っていると、考えは勝手にあらわれてくるし、突然お腹がなったり足が痺れたりという感覚というものもあらわれたり。また、昔の記憶がふとやってきては、それとともに感情がわきあがってくることもあります。

その内側のスペースには、考えやら感覚、記憶、感情などがやってきては去っていくのです。

そして、その同じスペースに色や形や動きもあらわれることができます。それは、目を開いたときには顕著です。

そのスペースにはっきりとした色や形や動きが加わることを私たちは「世界」と呼び、考えや感覚、記憶、感情などのあらわれとは別もの扱いにしています。世界という外側と、こころの世界という内側というふたつの世界にわけているのです。

しかし、自分の考え、感覚、記憶、感情と、世界と名づけられた色や形や動きという要素は、まったく同じスペースにあらわれているものであり、じつは内側と外側の区別というものはありません。

それは、自分の意識(こころ)というステージ上で起きているように見える現象の数々なのです。そして、それらは、やってきては去ってゆきます。

いつも流れているのです。せき止めることなくただ流れていることによって、そこにはおだやかさがあります。

通称「世界(外側)」と呼ばれるところに一本の樹があるとします。私たちはこの樹について、いつ新芽を出し、いつ生い繁り、いつ花を咲かせ、いつ葉をちらすのか、まったく予測できません。知らなくていいと思っています。

その一本の樹の一生を予測できないことは理解できるのですが、樹と同じスペースに存在している自分というものの行動、考え、感情、記憶、感覚などが予測できないということはなかなか受け入れることができません。

けれど、自分の意識のスペースに存在する、という意味では、樹も、ポストも、カップも、あなたも私も、まったく同じレベルなのですね。

私たちは、自分については「いつ芽が出て、いつ花が咲くのか? 私こそが決めることができるのだ」と信じがちです。「この結果は私しだしだ!」と。でも、そう信じて、そうならないことこそが苦しみの原因といえます。

この自分の内側のスペースにあらわれてくるのもの、考え、感覚、記憶、感情、世界(人と自分)にはコントロールということがまったく通用しません。自然発生的に勝手にじゃんじゃんやってきては、ただ静かに去っていきます。(わたしたちがちょっかいを出さなければ・・・)

そして、それをそのまま、あるがままにしておくことが「ゆだねること」であり「明け渡し」です。

自分ではうかがい知ることができない完全な秩序に対して、自分を「ゆだねる」ことです。

でも、私たちは自分のあれこれについて「私がどうにかできる」「私こそ私の行くすえを決める人」と信じているので、流れくるものをじゃんじゃん行かせてあげることができず、少しでも自分の意にそわないと、すぐにちょっかいを出してつかみかかり、思いどおりにしようとしてはケンカを売って、それらがそのまま去っていくことを許さないでいるのです。

コントロールしたくてしたくてたまらない存在とは、じつはほんとうの自分ではありません。エゴという名の思考であり、そのニセの自分にこそ、ご退場いただかなければなりません。

エゴは口を開けばイジワルなことしか言いません。ちょっといいことを言ったとしても、自分を特別に感じさせて人とのあいだに溝をつくろうとします。必ずあとで仕打ちがまっているのです。

だから、エゴにはそのスペースから何歩も退いてもらって、スペースの向こう側に落っこっちゃってください(向こう側ってどこだ??笑)。

エゴというニセの自分はあまりにも怖がりなので、コントロールが存在しないところで懸命に仕切ろうと頑張ります。しかし、それができないからこそ問題が生まれ、苦しみが生まれてしまいます。

コントロール狂のエゴには何歩も後ろにおさがりいただいて、そのかわりにほんとうの自分であるハイヤーセルフにご登場いただきます。そして、その光のなかですべてを見ることで、別な見方ができるようになります。

いままでステージには照明がないまま暗闇のなか手探りで奮闘していたのです。だから、ものごとをあるがままに正しく見たり、受け入れることができませんでした。

このスペースをハイヤーセルフの光で照らしてもらえるようにお願いします。すると、ステージに光がやってきて、光であふれて、「あれ? いままで怖いと思っていたものは全然怖いものではなかった!」と気づくかもしれません。

これがすべてを自分で決めようとする「コントロール」というものを手放して、もとから存在している宇宙の秩序、完全さのなかに「明け渡して」、あるがままに見せて、体験させてもらうこと。

ハイヤーセルフのいっぱいの光のなかで、「いったいなにが起こっていくのだろうと?」と興味しんしんで見ること。

エゴではなく、ハイヤーセルフとともに見ることで、「かならず、いちばんいいことがもたらされる」という確信と安心感を感じることができます。

それこそが、そこに存在しているギフトを受けとるために大切な「信頼」です。ハイヤーセルフの手を握って、その存在の光とともにいれば大丈夫!という信頼。

ただ後ろにさがる気持ちで、静かにして、さまざまなものがあらわれるそのスペースをオープンしてみましょう。

そしてやってくるものを、ハイヤーセルフとともに信頼をもって穏やかに受けとめて、そして見せてもらいましょう。「すべては、私にとってのかけがえのないギフトだ!」という信頼とともに♡

 

 

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気づきの日記「ひとつである内側と外側」

目を閉じると・・・そこに暗闇としての内側のスペースが広がっているのを感じます。

しばらくそのまま目を閉じて坐っていると、考えは勝手にあらわれてくるし、突然お腹がなったり足が痺れたりという感覚というものもあらわれたり。また、昔の記憶がふとやってきては、それとともに感情がわきあがってくることもあります。

その内側のスペースには、考えやら感覚、記憶、感情などがやってきては去っていくのです。

そして、その同じスペースに色や形や動きもあらわれることができます。それは、目を開いたときには顕著です。

そのスペースにはっきりとした色や形や動きが加わることを私たちは「世界」と呼び、考えや感覚、記憶、感情などのあらわれとは別もの扱いにしています。世界という外側と、こころの世界という内側というふたつの世界にわけているのです。

しかし、自分の考え、感覚、記憶、感情と、世界と名づけられた色や形や動きという要素は、まったく同じスペースにあらわれているものであり、じつは内側と外側の区別というものはありません。

それは、自分の意識(こころ)というステージ上で起きているように見える現象の数々なのです。そして、それらは、やってきては去ってゆきます。

いつも流れているのです。せき止めることなくただ流れていることによって、そこにはおだやかさがあります。

通称「世界(外側)」と呼ばれるところに一本の樹があるとします。私たちはこの樹について、いつ新芽を出し、いつ生い繁り、いつ花を咲かせ、いつ葉をちらすのか、まったく予測できません。知らなくていいと思っています。

その一本の樹の一生を予測できないことは理解できるのですが、樹と同じスペースに存在している自分というものの行動、考え、感情、記憶、感覚などが予測できないということはなかなか受け入れることができません。

けれど、自分の意識のスペースに存在する、という意味では、樹も、ポストも、カップも、あなたも私も、まったく同じレベルなのですね。

私たちは、自分については「いつ芽が出て、いつ花が咲くのか? 私こそが決めることができるのだ」と信じがちです。「この結果は私しだしだ!」と。でも、そう信じて、そうならないことこそが苦しみの原因といえます。

この自分の内側のスペースにあらわれてくるのもの、考え、感覚、記憶、感情、世界(人と自分)にはコントロールということがまったく通用しません。自然発生的に勝手にじゃんじゃんやってきては、ただ静かに去っていきます。(わたしたちがちょっかいを出さなければ・・・)

そして、それをそのまま、あるがままにしておくことが「ゆだねること」であり「明け渡し」です。

自分ではうかがい知ることができない完全な秩序に対して、自分を「ゆだねる」ことです。

でも、私たちは自分のあれこれについて「私がどうにかできる」「私こそ私の行くすえを決める人」と信じているので、流れくるものをじゃんじゃん行かせてあげることができず、少しでも自分の意にそわないと、すぐにちょっかいを出してつかみかかり、思いどおりにしようとしてはケンカを売って、それらがそのまま去っていくことを許さないでいるのです。

コントロールしたくてしたくてたまらない存在とは、じつはほんとうの自分ではありません。エゴという名の思考であり、そのニセの自分にこそ、ご退場いただかなければなりません。

エゴは口を開けばイジワルなことしか言いません。ちょっといいことを言ったとしても、自分を特別に感じさせて人とのあいだに溝をつくろうとします。必ずあとで仕打ちがまっているのです。

だから、エゴにはそのスペースから何歩も退いてもらって、スペースの向こう側に落っこっちゃってください(向こう側ってどこだ??笑)。

エゴというニセの自分はあまりにも怖がりなので、コントロールが存在しないところで懸命に仕切ろうと頑張ります。しかし、それができないからこそ問題が生まれ、苦しみが生まれてしまいます。

コントロール狂のエゴには何歩も後ろにおさがりいただいて、そのかわりにほんとうの自分であるハイヤーセルフにご登場いただきます。そして、その光のなかですべてを見ることで、別な見方ができるようになります。

いままでステージには照明がないまま暗闇のなか手探りで奮闘していたのです。だから、ものごとをあるがままに正しく見たり、受け入れることができませんでした。

このスペースをハイヤーセルフの光で照らしてもらえるようにお願いします。すると、ステージに光がやってきて、光であふれて、「あれ? いままで怖いと思っていたものは全然怖いものではなかった!」と気づくかもしれません。

これがすべてを自分で決めようとする「コントロール」というものを手放して、もとから存在している宇宙の秩序、完全さのなかに「明け渡して」、あるがままに見せて、体験させてもらうこと。

ハイヤーセルフのいっぱいの光のなかで、「いったいなにが起こっていくのだろうと?」と興味しんしんで見ること。

エゴではなく、ハイヤーセルフとともに見ることで、「かならず、いちばんいいことがもたらされる」という確信と安心感を感じることができます。

それこそが、そこに存在しているギフトを受けとるために大切な「信頼」です。ハイヤーセルフの手を握って、その存在の光とともにいれば大丈夫!という信頼。

ただ後ろにさがる気持ちで、静かにして、さまざまなものがあらわれるそのスペースをオープンしてみましょう。

そしてやってくるものを、ハイヤーセルフとともに信頼をもって穏やかに受けとめて、そして見せてもらいましょう。「すべては、私にとってのかけがえのないギフトだ!」という信頼とともに♡

 

 

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沈丁花まで・・・

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きょうは曇り空でしたが、ここのところ雲ひとつない気持ちのいい空が広がっていました。

都心も、木々が色づきはじめています。

昨日の夕方、信号待ちで足をとめたとき、ふと春の宵を感じたのです。

それは、どこからか風にのってきた花の香りのせい。

あたりをみまわしてみたら、なんと沈丁花が開いていました。

サクラやら、セミやら、沈丁花まで、バラエティゆたかな晩秋です(笑)。

 

 

♪♫•*¨*•.¸¸♪♫•*¨*•.¸¸♪

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こちらのセッションでは、ヒプノセラピーのセッションにあわせて、カウンセリングとその方に必要なワーク、問題解決のティーチングなどもあわせて行うセッションとなっております(お時間は、1時間半から2時間ほどです)。
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*プレセッションとあわせておとりただくことも → 「ヒプノセラピー 1セッション(割引金額¥20,000)」に、プレセッションとして「受講コース相談カウンセリング(¥5,000)」をあわせておとりいただくこともできます(初めての場合には、問題の聞き取りなどにお時間を要しますので、プレセッションをおとりいただくことでより深いセッションをお受けいただくことができます。

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18-11-15 ボヘミアン・ラプソディ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

公開を楽しみにしていたクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的な映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。

正直、ちょっと心配だったのです。ドキュメンタリーフィルムならまだしも、あの異色のエンターティナー、フレディのカリスマ性を演じきれる俳優さんなどいるのかしら ・・・と。たんなるモノマネっぽくなっていたらゲンメツだな〜と。

あの希有な個性こそがフレディーだから・・・。

それが ・・・ すごくフレディでしたっ!

実物のフレディ以上にフレディの内面を感じさせる俳優さんで、ステージのマイクパフォーマンスやあの独特の身のこなしも、立ち姿もフレディそのもの。そして、ステージ上では見せることのない彼の内面の繊細さや葛藤も表現されていて、ひとりの若者としてのフレディを描きだしています。

ラストの10万人規模のライブエイドの場面は圧巻で、まさにライブ会場に足を運んでフレディの歌声を聴いているよう。(ご覧になるときには、ぜひスクリーンが大きくて音響のよい映画館でどうぞ! 私は I MAX シアター で観たのですが、音の臨場感がすごかったです。)

中学生の頃、私の親しい友人たちは熱狂的なクイーンのファンだったので、新しいレコードが出るたびに貸してくれたし、来日公演の様子もいろいろと聞かされてきました。でも、彼女たちはフレディではなく、ロジャーとブライアンのファンでしたっけ。(フレディは、なんかハードル高い感じ! 笑 )

徐々に過激になってゆくフレディのステージ衣装、ぴたぴたのタイツ姿にきゃ〜きゃ〜騒いでいたものです・・・ (まあ、女子校はそんなことでしか盛りあがるネタがありません・汗)。

そんなこんなで、とっても懐かし楽曲の数々・・・。それらが、「ああ、こんなふうにして作られていたのか〜」と今になって知ることができました。

あらためて、フレディというボーカルの凄さを実感しました! つややかで魅力的な声質は、いちど耳にすると忘れられない歌声です。またロックでありながら、ゴスペルのようでもあり、クラッシックの雰囲気もあり、でもノリがいい・・・クイーンのサウンドの独特さをあらためて楽しむことができました。

ああ、もういちど観たい♪

涙壷度:★★☆☆☆(ラストのライブ場面、感動でした!)

 

 

お茶の間シネマトーク「ボヘミアン・ラプソディ」

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公開を楽しみにしていたクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的な映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。

正直、ちょっと心配だったのです。ドキュメンタリーフィルムならまだしも、あの異色のエンターティナー、フレディのカリスマ性を演じきれる俳優さんなどいるのかしら ・・・と。たんなるモノマネっぽくなっていたらゲンメツだな〜と。

あの希有な個性こそがフレディーだから・・・。

それが ・・・ すごくフレディでしたっ!

実物のフレディ以上にフレディの内面を感じさせる俳優さんで、ステージのマイクパフォーマンスやあの独特の身のこなしも、立ち姿もフレディそのもの。そして、ステージ上では見せることのない彼の内面の繊細さや葛藤も表現されていて、ひとりの若者としてのフレディを描きだしています。

ラストの10万人規模のライブエイドの場面は圧巻で、まさにライブ会場に足を運んでフレディの歌声を聴いているよう。(ご覧になるときには、ぜひスクリーンが大きくて音響のよい映画館でどうぞ! 私は I MAX シアター で観たのですが、音の臨場感がすごかったです。)

中学生の頃、私の親しい友人たちは熱狂的なクイーンのファンだったので、新しいレコードが出るたびに貸してくれたし、来日公演の様子もいろいろと聞かされてきました。でも、彼女たちはフレディではなく、ロジャーとブライアンのファンでしたっけ。(フレディは、なんかハードル高い感じ! 笑 )

徐々に過激になってゆくフレディのステージ衣装、ぴたぴたのタイツ姿にきゃ〜きゃ〜騒いでいたものです・・・ (まあ、女子校はそんなことでしか盛りあがるネタがありません・汗)。

そんなこんなで、とっても懐かし楽曲の数々・・・。それらが、「ああ、こんなふうにして作られていたのか〜」と今になって知ることができました。

あらためて、フレディというボーカルの凄さを実感しました! つややかで魅力的な声質は、いちど耳にすると忘れられない歌声です。またロックでありながら、ゴスペルのようでもあり、クラッシックの雰囲気もあり、でもノリがいい・・・クイーンのサウンドの独特さをあらためて楽しむことができました。



ああ、もういちど観たい♪

涙壷度:★★☆☆☆(ラストのライブ場面、感動でした!)

 

 

18-11-13 なんでっ?!のナゾ

A美さんは、小さいお子さんがいらっしゃるお母さま。

ご相談内容は、「わが子に対して感情をおさえられず怒りまくってしまい、その後に罪悪感にさいなまれて苦しい」ということ。

可愛くなくて虐待してしまうということではなく、「ただただ、とっさに怒りがとめられなくなる」ということ。そして「子どもに申し訳なく感じて、自分を責める」「そんな子どもを救わなくちゃ!とあせる」というくりかえし。

「怒り」というのは、その場面で感じた「ほんとうの感情」を隠すためのいわゆる武器のような感情です。自分が弱いと感じていればいるほど、とっさに怒りという感情で武装して猛々しい強い自分のフリをすることで、それ以上攻めこまれるのを防いでいるわけです。

つまり、ヒリヒリするこころの傷を隠すためにバンドエイドはる。しかし、そのバンドエイドは両面トゲトゲ ・・・ みたいな感じ。この怒りというバンドエイドを使うと、相手も自分も傷つけることになります。

スポーツ界でもやたら怒鳴りつけたり、暴力をふるったりという、怒りダダ漏れの指導者さんたちがおられましたが、こういう方はいざとなる、急にかりてきたネコのようにチンマリしてしまうことも ・・・。

怒りダダ漏れの方は、自分のおもいどおりにならないことに対して無意識のうちに恐怖を感じているので、その動揺をなんとかしようと、怒りを使ってゴリ押しでものごとを自分が安心できる状態にコントロールしようとします。

ほんとうに強い人は強く見せるための武器(怒りや暴力)は必要としません。コワがっている人だけが、怒りまくって威嚇してしまいます。

だから、怒りまくっているということはコワがっている証拠なので、そういう怒りまくっている人をコワがる必要はないのですね。

そこで、A美さんの怒りの下に隠されている、ビビってる自分(ニセモノの自分です)を明らかにしようとしたのですが ・・・ 小さい頃からツライ感情をもてあまし、こころの底に抑圧してきたので、武器としてなじんできた怒り以外の感情は隠されていてあまり意識することができません。

ふつうは、怒りの感情からその下に隠された真の感情へと掘り下げてゆくことで、怒りの原因を探ることができます。

たとえば ・・・ 私は怒りたい → なぜなら、思うようにならなくて動揺しているので、強がりたい → 私はコワい → どうにもならない無力感がある → コントロールしないと生きていけない → 怒りこそコントロールするための最強の武器!・・・というように、怒りの底辺にある本当の感情をあばいてゆくことができるのですが、A美さんは完全にブロックされています。

そして、A美さんいわく、怒っているときにはきまって、「なんでっ!?」という言葉だけがあるそうです。

「なんでっ?!」というナゾのセリフのみ・・・。そこには感情もなんの手がかりもありません。

「なんでっ?!」がなにをあらわしているのかをうかがっても、ただただ怒りの感情とともに「なんでっ!?」というセリフだけが出てくる、というのです。

「なんでっ?!」がなにを意味しているのか?

そんなこまったときには、ヒプノだのみ!

感情を抑圧している自我(エゴ)にちょっとおいとましていただいて、そのすきに本当の気持ちへと攻めいる、というのがヒプノセラピーのやり方です。リラックスして自我が無防備になるトランス状態になると、本当の気持ちにアクセスすることができます。

そこで、A美さんをヒプノ状態へと誘導してみると ・・・

いままでは突発的にあらわれる怒りの原因を調べようとすると、その下の感情はブロックされてなにひとつ感じることができなかったA美さんですが、いきなり涙を流しはじめたのです。それも、まるで幼いこどもが泣きじゃくるように。

私が「A美ちゃん、どうしたの?」と声をかけると、「お母さんがぜんぜん話しを聞いてくれない」「相手にしてくれない」「見捨てられているようで寂しかった。悲しかった」と幼い女の子として答えてくれました。

どうやら、まだちいさくて、いちばんお母さんになんでも聞いてもらって甘えたいときに、それがぜんぜん満たされていなかったようなのです。幼い子どもにとっては、こころのよりどころがない感じです。

ヒプノをするまえは、まるで感情を感じることができなかったA美さんですが、とつぜん幼いA美ちゃんが飛び出してきて、泣きながら悲しみをうったえているようでした。

そして、そこでわかったことは、A美さんのお母さんもA美さん同様、まったく話しをきいてもらうことなく寂しく育っていたということ。そして、いざ母になってA美さんの面倒をみようとしても、してもらったことがないことはできないし、まだこころは傷ついた幼児のままだったということです。傷ついた幼児には、子育てはなどできるはずがありません。

そしてA美さんも母になったわけですが、お母さんとまったく同じで、こころはまだ傷ついたおさないA美ちゃんが痛みをかかえたまま存在していて、「私は母にちゃんと話しをきいてもらっていない」「面倒をみてもらっていない」「愛されていない」と主張していたのでした。

つまり、A美さんのこどもに対する怒りとともに出てくるあのセリフ、「なんでっ?!」というのは ・・・

じつは、「なんでっ?! 私はちゃんと面倒をみてもらっていないのに、この子の面倒などみなくちゃいけないの?!」「なんでっ?!私がこの子のワガママ聞いてあげなくちゃいけないの? 私は聞いてもらったことないのに!」という「なんでっ?!」だったのです。

私たちは自分が持っているものしか人に与えることができないので、「まだまだぜんぜん足りていないのよ!」と叫んでいるA美さん(A美ちゃん)にとっては、たとえ自分のこどもといえども与える余裕などなく、ひたすら理不尽に感じていて、こころが悲鳴をあげていたのでした。

そんなときには、ただただ、「ああ、そうかそんなふうに感じていたんだね」と自分がこころのなかでしっかりと受けとめて、育てなおしをしてあげることができます。ただその不満に気づいて、受けとめて、「足りない!」と主張しているところを安心させてあげれば、その気持ちはおさまるのです(本当は、外から調達しなくちゃならないようなものはないので、足りないということはないのです)。

その不安だった子どもが安心感をえることさえできれば、「足りていない」という勘違いを正すことができます。そして、本来自分のなかにすでにある安心感につながりやすくなります。

イライラしたり怒り爆発してしまうとき、ついつい自分を責めてしまいますが、責めてしまうとさらに罪悪感の悪循環におちいります。ただ、「なにかが間違っている!」と主張している自分のこころにやさしく耳を傾けて、いったい何をうったえているのか聴いてあげることが大切です。

この無条件に「受けとめる」という態度こそが、私たち誰もがいちばん望んでいることであり、癒しのポイントなのです。

それにしっかりと答えてあげることこそが、理不尽な感情も、荒れ狂う思考も、静めてあげることができることがわかります。

自分のなかに泣いていて、まだ満たされていない子どもがいることに気がついたら、批判したり、無視したり、変えようとすることなく、ただ「そうだったんだね〜」と言って、やさしく抱きしめて安心させてあげましょう。気づいて、受けとめてもらうことで、その子は癒されるのです。

 

 

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