furukawaさんのブログ

気づきのぷちノート「ゲームからおりる」

もし、今、なんらかの怖れや苦痛、攻撃を経験しているのなら ・・・

じつは、「みずからそのゲームを楽しんでいて、やめられない自分がいる」ということ(たとえ無意識であったとしても)。

そこから救われるただひとつの方法は、

ただ自分がそのゲームをやめる、ゲームからおりる、ということだけです。

ゲームからおりる手っとりばやい方法とは、「ただゲームのルールを無視する」ことだけです。

それが怖れや苦痛、攻撃のゲームなら、それにいちいちかまわない、反応しない、ということ。

ゲームのなかでは、怖れや苦痛、攻撃の兆候を見つけるやいなや、おもいっきり「被害者」という役割を演じはじめ、「反撃、逃走、引きこもり、死んだふり」をきめこむことが決まりでした。私は傷ついたのだ!という合図です。

それによって、怖れや苦痛、攻撃は解決されず、つづきます。

でも、ゲームをしないということは、そんな反応を一切やらない、やめる、ということ。

ただ、状況をあるがままに見て、重要視せずにスルーします。裁きません。なんせ、ただのゲームですから。

もし、そこに怖れや痛みの感情・感覚がわき起こったなら、それを価値判断することなく、怖れることなく、あるがままに、ただ自分のなかを通過させます。それによってその感情・感覚は終わりになります。

「裁くことのない姿勢」こそが、もう私はこのゲームをしていない、これからおりたのです、というサインです。

新たなエネルギーが供給されることなく、ゲームの電源は静かに抜かれ、おだやかな本来の日常が戻ってくるのです。(そう! ゲーム機を切ると静かです。闘いがやみます。)

だから ・・・ ただゲームをおりる、ということを学びましょう! ( ・◡・ )♫

 

 

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A Happy New Year, 2019

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みなさまの一歩一歩が光に導かれ、 たくさんの贈りものを受けとることができる一年となりますように♡

本年もどうぞよろしくお願い致します。

2019年元旦   
オフィス・るん 古川貴子

 

こんなときどうする?!

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お友だちとランチのお約束。

地下鉄を出て、スマホのナビを起動して、いざ待ち合わせのイタリアンのお店へ! ・・・ ところが、ビルの谷間でナビの矢印が誤作動していると思ったら、とつぜん画面が真っ暗に。

それ以後、まったく電源が入らなくなってしまったのです(バッテリーは100%だったのに)。

ハタ ・・・ と気づいたら、お店の場所も、電話番号も、名前すらわかっていないことにガクゼン! さらに、お友だちの電話番号も死んじゃったスマホのなか・・・。替えバッテリーも持ってないし。

あちゃ〜・・・どうする?? 次の一歩の手がかりは、まるでゼロ。銀座界隈にイタリアンなんてゴマンとあります。

久々に会うお友だちだから、なんとしても行きたい!  ・・・ 思わず天に助けを求めましたよ。「どうしたらいいですか?(大汗)」って。

・・・ すると、

目のまえにワイングラスのショールームがあるのに気づき、思わず飛びこんじゃいました(イタリアン情報あるかも?)。

「スマホがダウンしちゃったのですが、イタリアンのお店を探しているのです。名前は・・・ La なんとか」(イタリアンなんて、ほぼ La ではじまるし・苦笑)。

やさしいオネエサンは iPad で近所の La ではじまるイタリアンを検索してくださったのですが、案の定、La ○○ というお店がドドっと。

残る手がかりは ・・・ ああ! オーガニックって書いてあったような。

そんなキーワードで、浮かび上がったお店があり(探偵?!笑)、なんかそれっぽい!

オネエサンに厚くお礼をのべて、そのお店にかけつけてみると、ビンゴっ!!でした。 ちゃんと会えました! よかった〜☆

お友だちにいきさつを話したら、「私だったら帰っちゃうよ〜!」と笑っていました。こんなとき、人によって反応も手段もまちまちなのでしょうね。

やっぱり、アナログ手帳、必携ですねっ! 学習しました。

無事、おいしいランチをいただき(お友だちがためておいてくれたポイントでめちゃくちゃリーズナブルランチでした♪)、あれこれ楽しいおしゃべりで盛り上がり、その後一緒に映画にも行くことができたのでした。天の助けである協力的なオネエサンに感謝感謝です。

冷や汗かいたけれど、めでたし、めでたし♡ のよい一日となったのでした、マル(笑)

ビーツと安納芋の前菜、フォカッチャとスープ、ジェノベーゼとピザ、美桜鶏のロースト、苺のカタラーナ
@La Sanaさん

 

 

 

 

恒例のお疲れさま会

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いよいよ 2018年もおしせまってきましたね。みなさまは、いかがお過ごしでしょうか?

いつも年末ギリギリにお疲れさま会をするお友だちとのデートへ。

昨年同様、ペニンシュラホテルのアフタヌーンティーです♪ (数あるアフタヌーンティーのなかでも、私たちにとっては No.1の☆五つ!)

立体的なスタンドにセイボリーとスウィーツがわんさか♪ 今回のテーマは、すでに春! イチゴのスウィーツいろいろです♡ ミニでも、お味は太鼓判ですよ。

そして、プレーンとストロベリーのスコーン。スコーンは他のお店のものとまったく味がちがうので、日比谷にくるとついついベーカリーに寄ってしまいます(売り切れていることも!)。

♡セイボリー
キノコのキッシュ、カニのサンドイッチ、カプレーゼ、クロケット・・・どれも本格的!

♡スウィーツ
タルト、ダックワーズ、シュークリーム ・・・ みんなイチゴです。ひとつだけでも満足できそうなほど深いお味。

紅茶はお友だちとシェアしながら六種類ぐらいいただき(飲めるものですね〜・汗)、お腹がたっぷたぷ。最後は、甘いスウィーツとともにカフェラテでしめました。

ベルボーイのクマちゃん、ピーターくんと。なんと、今年はかわいい彼女ができたって♪

ゆったりとお茶をして、お喋りして、笑って、楽しい癒しのひとときでした。

 

 

気づきの日記「たった今、幸せでいる! と決めること」

「このこころの痛みがなくなったら・・・」
「このやっかいな問題が解決したら・・・」
「この忙しさから解放されたら・・・」
そうしたら、そのときにこそ幸せになろう。けれど、それは今じゃない。今なんて、ムリっ!!

この考えじたいが、幸せになるためにはムリっ!です(笑)。

「いつか、そのときには」なんて ・・・ その「いつか」はいっくら待ってもやってきません。あるのは、いつだって「今」「今」「今」・・・。

この「いつか」という言葉は、エゴが大好きなセリフです。「いつか」と言ってしまえば、「今」から注意をそらすことができるからです。

「たった今、幸せでいる」ということから意識をはずして、「いつか」という存在などしない架空の時間を目指せ!と指示します。

「またそのうちにね!」「またいつかね!」と言ってしまえば、お茶をにごして、「今すぐ」なにかをする!という責任から逃れられる気がします(そんなに会いたいと思わない友人にも、「またいつかね!」と言っておけば、ヨイ感じでお別れができます・笑)。

エゴは「いつか」という言葉を使って、「今ここにあるもの」を煙にまこうとします。私たちは、「そっか! いつか幸せになるんだから、今はしょうがないよね!」「いつか、それはよくなるんだね!今はあきらめていいんだ」、そして「今は苦しくても仕方がない」とあきらめて、今を無力にします。

そして、エゴがじゃんじゃん投げこんでくる痛みややっかいごとや大忙しに正面から向きあって、ホンロウされることになります。それらが、「今、幸せを感じないためのオトリの数々」であるとも気づくことなく・・・。

今、大人気の映画「ボヘミアン ラプソディ」の主人公 フレディ・マーキュリーは45歳で病気によって亡くなるのですが、彼の公での最後のインタビューで(これは映画にはありません)、こんなことを言っていました。

「僕にとっていちばん大切なことは、幸せでいること。自分らしく生きること。残された年月をできる限り生き生きと楽しく過ごそうと思う」・・・これは、フレディが病気になってそういう生き方をしていたというよりは、彼のそこまでの人生そのものだったように感じます。

重い病気であると診断されたり、あるいは余命を宣告されたとき、まだ何も変わらず十分に元気であるにもかかわらず、人生がすでに終わってしまったように、つまり死んだような絶望感のなかで生きてしまう方が多いのです。せっかく生きているのに、気持ちはもうすでに死んでしまっているのです。

そして、死んだように生きている(すでにこころは死んでしまっている)のに、「死ぬのがコワイ!」と怯えます。

あるいは、重い病でなくとも、つねに過去にとらわれ、また未来を思い煩い、たった今というまっさらな時間が汚染されたようにすっかり台無しにされてしまう場合もあります。

フレディは「たった今、幸せでいる」ということの達人だったように感じます。

だから、決して逃れられない病の悲劇の主人公にひたっていません。ほんとうに亡くなる寸前まで、バンドの仲間や大切な人々に囲まれて、自分の好きな歌を歌いつづけて、つながりあって、わかちあって、愛しあって 、そしてついに旅立っていった・・・ そんな彼の生き方が、きっとこの映画のなかで私たちのこころに伝わり、「自分を生きる」という勇気をもらうのだと感じます。

私たちはみんな、努力のすえにいつか幸せになる、いつか穏やかな日がやってくる、今は幸せじゃないけれどそこに向かって頑張ろう!とこころに誓うけれど ・・・ それは正しくありません。

フレディが言っていたように、「たった今、幸せでいる」こと。「たった今、幸せでいることを決意すること」、そして実際にそうすること。

たとえ、身体のどこかが痛くても、やっかいな問題が立ちはだかっていても、大忙しで目がまわりそうででも ・・・ 「私は、今、幸せでいるんだ!」、なぜなら「それが、私の当然の権利だから!」。

私たちがまず、それをこころのなかでしっかりと決めて、どんなものにも「私の権利を邪魔させない」という決意が必要です。

なぜなら、「幸せであること」はほんとうは自分のなかにしっかりとそなわっている生まれながらの状態であるからです。それにもかかわらず、いとも簡単にいろいろな言い訳で隠されて、無きものにしてしまうことができるからです。

でも、痛みや問題やどんな状況も、ほんとうは「幸せであること」をはばむこととはなんら関係がないのですね。

「幸せであること」というのは、ピカピカ、ハデハデしく輝いて、騒々しいものではなく、ただ静かに安らかであること。ただ、日溜まりのなかでポカポカぬくぬくと安心している安らぎの感覚です。ほんとうの自分自身であることの安心感です。

自分のうえに大きな美しい光がさんさんとふり注いでいて(大きな日溜まりのなかで日なたぼっこをしている感じです)、そのポカポカとあたたかな光のなかで、安全に安らかに守られて、大切に育まれ、無条件に愛されて、すべての必要なことは自然に教えられ、導かれ、リラックスして「はあ〜〜〜っ♡」と脱力しているようなイメージをしてみましょう。

優しく暖かな大いなる力が、すべての自分の面倒をみてくれている、私がひとりでなにも頑張らなくてもいい、と ・・・ ほんの一瞬だけでも、その光を信頼して、すべての心配、煩わしいこと、痛みを手放してゆだねてみましょう。

そんな安らぎを感じる一瞬を、お茶を飲んでいるときに、駅のホームで電車を待っているときに、人との待ち合わせのちょっとしたあき時間に ・・・ いつも光とともにイメージして感じてみましょう。

ほんの少しのやすらぎのひとときが、そのあとの時間も安らかなものに導いてくれることに気がつくことでしょう♡

PS 「Don't Stop Me Now」(作詞/作曲 フレディ・マーキュリー)、いつも今を大切に生きたフレディらしい曲ですね♪

 

 

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気づきの日記「不足、欠乏という錯覚 ~しまわれていた贈りもの~」

ちょっとオシャレをしてお出かけしたいとき、ふだん開けることのないアクセサリーの引き出しをゴソゴソします。

 

すると、「こんなの持っていたのね!あんなのも!」と、お蔵入りしてすっかり忘れ去られていたアクセサリーの数々に出会います。

 

「こういうの、買おうと思っていた♪」「これも使えるし、あれも使える♡」」と、引き出しを開けるまでは「無かった」はずのものに驚かされ、豊かさを感じることができます。

 

しまっておくと目につかなくなり、目につかなければ無きものとなります。それらを「もっていない人」になってしまうのです。

 

しまっておいて使わないことは、それらを失うことと同じなのです。

 

これは、私たちのこころのなかにある「贈りもの」の引き出しについても言えることです。

 

私たちはこころのなかに、すでに十分な「贈りもの」が与えられています。贈りものはそこに存在しているのです。

 

しかし、取り出して使うことがなければ、それは「まったく存在しないもの」になってしまうのです。

 

実際、私たちの人生における宝探し、それは豊かさであったり、才能であったり、幸せであったり、愛であったりさまざまですが、つねに外の世界へと取りに向かいます。

 

引き出しのなかにあるものを忘れて「足りない、足りない!」とお店へ走るのと同じように、私たちはつねに「不足」の思いを抱えて外へと調達に走るのです。

 

しかし、「足りない」と大騒ぎをするまえに、まずはいちばん身近なところ、それは自分自身のこころそのものなのですが、そこをオープンにすることが最善策である、ということを忘れています。忘れているというよりは、知らないのです。

 

自分のこころの深いところにある引き出しは、自分が望むすべてで満たされ、輝き出すのを待っています。

 

それらは宇宙とひとつなので無尽蔵です。

自分が望むあれこれについて、つい外へ外へと走り出す衝動をおさえてみましょう。そして、それがすでに自分の内側に存在していることを信頼してみましょう。

 

そこにはあらゆる「贈りもの」が眠っていて、それらは引っ張り出せば出すほど無限に供給されるのです。

 

しかし、自分で気づかなければ、それを「無きもの」にすることもできます。

 

その引き出しの存在に気づき、中身をひっぱり出すこと、つまり「表現する」ことによって、自分でもはじめて「私にはある!」という体験、「私はすでに大丈夫だ!」という気づきをえることができます。

 

それらを表現することは、すでに持っていることを知る作業なのです。

 

「私にはない」と決めてしまえば、自分のその決断によって「ない」私になることもできます。あるいは、「ある」という確信とともにそれを表現すれば、「ほんとうにあった!」と実感することもできるのです。

「いつか、こんな私になりたい!」とこころに決めるとき、それはポジティブな決意のように聞こえますが、足りないという自分から出発するため、どこまでいっても足りない自分から脱することができません。

 

また、未来に期待しているので、すべてを解決することができる「今」のちからをないがしろにしています。

 

「今はないけれど、頑張っていつかは手にする」という考えは、たった今、自分のこころのなかに存在している宝ものをなきものにしてしまう考えなのです。自分が「ない」と決めたものは、どこまでいっても「ない」からです。

 

それならば、「それらはすでにある!」と信じて(実際そうなのですから)、そうなった自分を表現し、そうなった自分から周りに与えてみましょう。

 

愛がほしいなら、自分が愛になってみる。優しさがほしいなら、自分が優しさになってみる。豊かさがほしいなら、自分が豊かさの源であるように表現してみる。

 

そうしているときに、即座に自分がそうであることを実感することができます。

 

私たちは引き出しにしまいこんだものはやすやすと忘れ去り、欲しいものを求めて外へとまっしぐらに走りだします。それが欲しいものを得るためのたった一つの方法だと信じているからです。

 

そして、自分の引き出しのことは一生思い出さないのです。

 

ただまっすぐに内側へ向かい、「すべてがしまいこまれている引き出しから、表現してみる」・・・ほんとうは、それだけでよいのです。

 

表現することそのものが呼水となり、自分のなかにある豊かさの記憶がよみがえりはじめます。

 

そして、自分の気持ちや、目に映る世界が、自分が望んだ色合いに変わっていくことに気づくことでしょう。

 

 

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Merry Christmas...☆

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一年間がんばったご自分にも、ステキなプレゼントをお忘れなく! ( ・◡・ )♫

 

気づきのぷちノート「受け皿をひろげる」

いただきもののクッキーです。おいしそ〜っっ♡

一口いただいて ・・・ ありゃ?! とびっくり。

甘いバニラ風味をイメージしていたら、想定外の塩味!

フタを見たら、「サレ(塩味)」の文字が。ゲランドのお塩を使った、赤はトマト、グリーンはバジル、イエローはチーズという、お野菜感とチーズの香りがいっぱいのサブレでした。

人って自分の想定した受け皿にあてはまらないものがくると、知覚がフリーズして素直に受け入れようとしなかったりします。だから、一瞬おいしいのかどうかわからなくなりました(モチロン、このサブレはとってもおいしいです♡)。

お友だちとランチをしていたときにも、そんなことが。

パンにグリーンとオレンジのコンフィチュールがそえてあったのです。口にしたとき、クリーンはオリーブとケッパーだとすぐにわかったのですが、オレンジの方はなん度口にしても味がさっぱりわからず ・・・なんか、まずっっ!(汗)

「なにコレ!?」という私に、お友だちが食べてみたら「たかちゃん、これトマトだよ!」と。

私は色から察してマーマレードだと信じていたので、マーマレードの味しか受けつけず、なんだかとってもヘンなお味に感じたわけです。けれど、あらためてトマトとして味わうと、素直においしくいただけました。

人間って、結局は、見るもの、聞くもの、体験すること、すべてを自分の「知ってること(受け皿)」にあてはめて、その受け皿に存在するデータから良いとか悪いと解釈しようとします。そこにあてはまらないものは、却下されたり、否定されたり、無視、拒絶されるのです。

また、そのデータから「昔、おなじ場面ではキケンだった」「うまくいかなかった」、だからこうするべきだ!という忠告がやってきて、また過去と同じパターンをくりかえすことになり、まったく同じ結果を手にすることになります(いつもグルグル同じこと!)。

自分の知っていることなんて、たかが知れているのに・・・。そんな小さな受け皿にこだわりつづけていると、せっかくやってきた新しい贈りものも無意識のうちにすべてスルーしてしまうことでしょう。

人に会うときも、何かを体験するときにも、まっさらな気持ちでいられたら(誰々さんに似ているとか、以前のあれと同じとか、過去に結びつけて解釈しようとしなかったら) ・・・。すべてはじめての体験となり、イヤだも、コワいも、ダメだも、ネガティブな感覚はひとつもなく、すべてがまったく新しく新鮮なわくわくする贈りもののように感じるかもしれません。

そうなったときにはじめて、自分を攻撃するものなどひとつもない、安全で穏やかな、こころから安心できる世界を見られるのかもしれません。

 

 

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忙しい師走の安らぎランチ

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12月も中旬になると、あれやこれやと忙しさがましてきます。

「年内に一度来てくださいね」というクリニックの予約やら、「このぐらいは年内に掃除しとかなきゃ!」というにわか大掃除やら、さらに年賀状も!

そんな師走のひととき、お友だちが「たかちゃんの好きなお菓子と珈琲をゲットしたよ!」と持ってきてくださいました。

珈琲は、もう十年以上も頂きつづけている GODIVA のヘーゼルナッツクリーム(いつもありがとうございます! お蔭さまで、大好きになってしまいました)。ヘーゼルナッツとコーヒーの香りのバランスがとってもいいのです。日本だと、このサイズは見かけないのですよね。

癒しの一杯で、とろけてしまいそうになります♡

お友だちとのランチは、ご近所の TAVERN にて。

(Chiekoちゃん撮)
わあ! Chiekoちゃんが撮ると、さらにおいしそうに見える♡ エッグベネディクト & デザートのパンプディング。

ここはパンのビュッフェがあって、いま人気のバルミューダのスチームトースターで温めてからいただきます。パンがとってもおいしいお店なので、さらにおいしくなります。

師走のひととき、あれやこれやをお喋りして、大笑いして、すっかりエネルギーチャージいたしました! ありがとう♡