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気づきの日記「怒っている人にどう対処する?」

 

犬は吠えたいときに吠えますし、噛みつきたいときに噛みついてきます。

「そんなことをするべきではない!」といくら言いきかせようとも、そうしたいときにはそうするものです。

人もまったく同じで、怒りを爆発させたい人は爆発させますし、怒鳴りたい人は怒鳴ります。

なぜなら、怒りを爆発させたい、怒鳴りたい、それがその人のしたいことだからです。それをすると気分がよくなると信じているのです。

「そうすると気分がいいから、そうしたい!」と思っている人に「そうするべきではない」と言っても、あまり説得力がありません。

本人がこころの底から、怒りの爆発も人を怒鳴ることもほんとうの解決策ではなく、むしろ自分も相手もダメージを受けてしまう、だから「もうこのやり方はやめよう」と気がつくまで、それがやむことはないのです。

いったん確立されてしまった習慣というものは、その人がしっかりとした認識をもって「やめる決心」をするまで、そのプログラミングは生きつづけるものなのです。

人は結局、自分がしたいようにすることしかできないので、その「したいようにしている」怒りに関して、巻き込まれて被害者にならないようにすることが大切です。

たとえば、「怒鳴りたい人」がいる場合、その対象となる「怒鳴られる人」は決して気分がよいものではありません。怒鳴られることによって、こころがひどく傷ついてしまう場合もあります。

しかし、いったん「この人は吠えたい犬と同じで、ただ怒鳴りたいだけなのだ」と理解することができれば、それは「自分に対して」行われているのではないことに気づきます。そして、客観的に落ち着いて対処することができるようになります。

ただ静かに「私にどうして欲しいのかを伝えてください」と言ったり(これは、その人の怒りと伝えたいと思っている内容とを切り離すのに役立ちます)、あるいは相手の感情がおさまるまで静かにその状態を味わい愛でていることもできます(これは、その人の怒りの劇場に参加することなく、自分はシラフな状態を保っていることです。まったく参加しない人が目のまえにいるき、相手は怒りをもちつづけることが難しくなります)。

私たちが怒っている人を苦手とするのは、「その怒りは、自分に対する攻撃だ」と個人的にとらえ、恐れを感じてしまうからです。

そして、自分はこのように怒られても仕方のない存在なのだ、と受け入れてしまうのです。

しかし、ミスをしたから、あるいは何かがうまくできないからといって、怒鳴られて当然なのでしょうか? ミスと怒鳴ることは、まったく結びつきません。

たとえ何かミスを犯してしまったとしても、ミスを指摘されたり、修正をうながされたり、ダメ出しをされるようなことはあるかもしれませんが、そこに怒りが加えられる正当なことではないのです。

ただ、「きみがこんな失敗をして残念だ」「どうしてこうなったと思う?」「解決策は?」「対処法は?」と静かにいちばんよい立て直し方法を話しあうことができます。

しかし、怒りをぶつけてしまうと、相手はこころを閉ざしてしまうし、ともに理性を失い、それ以上有益なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。

どのようなことにおいても、起きている出来事と怒りは結びつけられるものではないのです。

爆発しやすい人は、ただたんに罪悪感や無価値観という劣等感を自分の内にためこんでおり、それがガスのように自分のなかに充満しているがために、ちょっとイラっとすることで簡単に着火してしまいます。

そして、その小さな火花で、ガス爆発が起こったときのように周りに破壊的な影響を及ぼすエネルギーを撒き散らしてしまうのです。

またそのような人は、溜めこんでいる感情のゆえにとにかくそれらを放出したいので、ほんの小さなイラっとしたことで大放出という大きな爆発になってしまうのです。

大爆発を起こした人は、そのときにはスッキリしたように感じるかもしれませんが、じつはあとからイヤな気分に襲われるか、あるいは好ましくない体験に遭遇したりします。

なぜなら、こころは相手を攻撃してしまった罪悪感に襲われ、罪悪感を感じていれば、その気持ちを相殺するために自分に対してイヤな体験を作り出し、「ほら、私もイヤな思いをしているから、おあいこね!」とそれで平等になったと安心するからです。

イヤな気分や望まない体験が自分の怒りの爆発と関係していると気づくことがないので、その因果関係を認識することはなく、改善することもできません。

このように怒りを爆発させつづけることが好きな人がいるということをアタマにおいたうえで、人とのつき合いをもつことが大切です。

もしも、怒りのガスがたまった相手が着火してしまった場合には、被害者になったり、怒りの劇場に参加したりせずに、ただ静かに見守り、ガスが抜け切るのを待ちましょう

怒りにホンロウされることなく、毅然とした態度で「声を荒げていると内容がよくわかりません。どうしたらよいのかを教えてください」などと、ものごとの要点の方に注意を向けるようにしてみましょう。

他者の怒りの本質が理解できるようになると、自分の怒りも客観的に見られるようになります。

ものごとに対して怒っているのではなく、癒やさなければならないポイントが浮上していることに気づきます。そして、それを正しく見て、癒すことができるようになります。

怒りに対して、恐れを感じることなく客観的な目線をもってみましょう。それは「強さ」の表現ではなく、「弱さ」から悲鳴をあげているように見えるようになるかもしれません。

 

 

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ランチの集い♪

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幾度となく、「もう、ギブアップだわ!」と音をあげた今年の夏ですが、いくら「もうダメ!」と叫ぼうともいっこうに涼しくなる気配もなく九月下旬を迎えました。

昨日から曇り空で蒸し暑いものの、ようやく灼熱地獄から救われた気分です。

先日、ランチ会のあと、お外でお茶をしたくて天空のオープンカフェに行ってみました。

まだ気温は33度ごえでしたが、少しばかり高くなった空を見上げ、ほんの少し秋を感じさせる風にふかれて、気のむくままにおしゃべりを楽しみながら午後を過ごすというゼイタクなひとときを過ごすことができました。

のんびり、ゆるゆる、リラックスなこころのヒーリングタイムでした。

これから季節がよくなるので、こんな気持ちのいいお茶タイムを楽しみたいものです。

ちなみに、この日のランチ会は、「クレッソニエール(クレソン畑という意味)」というビストロさん。

銀色の大きなプレートに、カボチャのスープ、メイン(私は巨大なソーセージのグリル、山盛りのピラフとポテトつき)、ニンジンサラダ、パン、コーヒー、焼きプリンがセットされて出てくる、という楽しいランチです。

 

 

 

 

 

 

お味も雰囲気も気分も、パリのビストロでした〜♪

 

 

 

お友だちのオペラ公演

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お友だちの吉原圭子ちゃんのオペラ公演にお誘いいただきました。

プッチーニの「ラ ボエーム」。

名前はよく耳にする「ラ ボエーム」。

しかし、音楽の授業でチラリとアリアを耳にしたほか、近所のカフェの名前が「ラ ボエーム」だったことぐらいで、ほんとうのところどんなお話かよく知りませんでした。

拝聴するまえに少し予習をしてみると、舞台はフランスのパリ。屋根裏で共に暮らす、貧しくとも陽気な四人の芸術家たち。そのうちのひとり、詩人のロドルフォがお針子のミミと恋に落ちます。しかし、貧しさゆえに病気になったミミとロドルフォは一緒にいることができず、悲しい結末を迎える、というラブストーリーです。

圭子ちゃんの役は、芸術家のひとり、画家のマルチェッロの恋人であり、街の男性たちを魅了する美しき悪女のムゼッタ。

登場するなり、かなりの振り切れた悪女の演技に思わず笑みがこぼれてしまいました。なぜなら、以前から「妖艶な悪女役は苦手」と言われていたから。

映画などでお勉強されていて、私も「こんな妖艶な悪女が登場する作品はいかが?」などと映画をオススメしたりしておりました。

なので、のっけからの強烈な悪女っぷりに「わあ、研究成果、凄まじく発揮されているわ〜!」と感激のあまり、手を叩きたくなってしまいました。

圭子ちゃんの歌声も、ただ高慢な悪女というわけではなく、優しく包みこむような情の深い魅力的な女性を表現されていて、こころに染み入るようでした。

やっぱり、マイクなどを使用しない生の歌声というものは、そのバイブレーションがじかに身体に伝わり、こころの底から熱いものが湧きあがってくるのを感じます。

そして、ようやくみんな、こうして思い切り声をはりあげて歌えるようになってよかった!そして、私たちもこのように目のまえで鑑賞することができるようになってよかった!

ただただ感激でウルウル。公演後も、涙腺崩壊状態でした。

ほんとうにこころが満たされる素敵なひとときでした。ありがとうございます♡

終演後の撮影タイム、みなさまいい表情です♪

 

 

 

気づきの日記「豊かに受けとるには」

 

何かを渡してもらおうとするとき、手はどのような状態になっているでしょうか?

手の平は開いています。

受け取るものが好ましいものであればあるほど、大きく開いた両手でしっかり受けとめようとするはずです。

もし手がグウになっているならば、まったく受け取ることができません。

固く握りしめているなら、それはまさしく受け取りたくないという拒絶の現れでもあります。拒絶は、なにひとつ受け入れないということです。

私たちが自分の望む現実や豊かさなど、受け取りたいと思うものがあるのに受け取れないと感じているとき、まず気づいてみるべきことは、自分がちゃんとパアになっているかどうかということです。ちゃんと受け取るべき体制になっているでしょうか。

グウの状態になっているならば・・・受け取りたいといいながらも、じつは拒絶しています。

受け取ることができるパアの状態は、オープンでなんでも受けいれるという状態です。

私たちにとって、受けいれている、開いている、とはどういうことなのでしょうか?

すべてのものごとはひとつの流れとしてやってきます。その流れは一つひとつのことがつながりあい大きな流れとなっているのです。そして、そのなかにはさまざまなものごとが含まれています。

しかし、私たちはその流れのなかから、自分にとって好ましいと思えるものだけを選び取ろうとし、それ以外は拒絶して切り捨ててしまいます。

流れはひとつのものであるので、ある部分を拒絶しようとすれば、それは全体が拒絶されたことになり、なにも受け取ることができません。

自分で選び取ろうとすることによって、流れが堰き止められ、そもそも何ひとつ入ってくることができなくなってしまうのです。

それは、流れ全体が拒絶されたことになるからです。

「自分にとっての贈りものを受け取る」ということは、ひとつの流れとしてやってくる体験全体を丸ごと全部受けとめようとすることです。

そのなかには、自分の目的とするものとは何の関係もないように見える人やものごとがあったり、むしろ受け入れたくないと思えるようなこともあるかもしれません。

でも、その流れはそれらを含んでこそ完全となっているので、それをバラバラにすることはできないのです。

それならば、大きなこころで自分の目のまえにやってくることをすべて受けいれてみることです。それは出来事であったり、そこにまつわる人々であったり、全部こみこみワンセットです。

自分で検閲をかけて選り分けようとするようなことはできないのです。

私たちは、自分が思い描いていたような物ごとや人がやってきたとき、それのみを切り取って受けいれ、他は拒絶したいと思っているのです。

でも、ものごとというのは小さく切り取ることができません。なんでもかんでも、「丸ごと」が基本です。

たとえば誰かを愛するとき、「この人のこの部分は大好きだけど、ここは嫌い」と言ってしまえば、それはもう愛とは言えなくなってしまうのと同じことです。

小さく切り取って受けいれようとするとき、私たちはそのすべてを失うことになります。

ここまで読んでこられたらおわかりかと思いますが、「豊かに受け取る」ということは、目のまえにやってくる全部を無条件に「受けいれる」ということで成立することです。

これがグウの手をパアにすることです。流れを全身で受けとめることです。

それは、価値判断を下すことなく、すべての物ごと、人々をあるがままにしておくことです。

宇宙が渡してくれるものを、自分の狭いものの味方で制限してしまうのではなく、ただ素直にすべてを受けいれます。

パッと見が素敵でなくとも、自分が好まないものが含まれているように見えたとしても、それでも賢明な宇宙が渡してくれるものだから「中味はきっと、自分にとって役に立つ素晴らしいものに違いない」と信頼することです。

パアの手とは、無条件に受けいれること。「宇宙から自分にやってくるものは、すべて贈りものに違いない」と信じて、安心して無条件に受けいれることです。

そして、受けいれてみてはじめて、自分では考えつかなかったような好ましい展開が姿をあらわしはじめます。

受け取るということは、信頼するということでもあります。

流れを信頼すること、人を自分を信頼すること。

宇宙とは優しいところで、自分は愛されていて、自分を傷つけるようなものが渡されるはずはないと信じること。信じられるからこそ、安心して両手を大きく開いて、やってくるものは余すことなく受け取ってみよう、とこころを開けるのです。

自分があれこれ受け取るものを選びたい気持ちをグッとおさえて、リラックスして安らかな気持ちで、やってくる流れを全身で受けとめてみましょう。

全身パアとなって、流れに身をさらしてみましょう。

 

 

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気づきの日記「幸せへの正しい対処法」

 

昔から慣れ親しんでいた美容法が、最近になって何の役にもたたないとか、むしろ害を及ぼすなどと言われたりしています。

あたりまえのように皆んながやっていることでも、それがほんとうに正しいことなのかどうかはまた別なことなのです。

美容法に限らず、私たちが日常行っていることにおいても、「それはほんとうのところ、ダメなのです!」ということが多々あります。

たとえば、幸せになろうとして自分の欲しいものを手に入れようとすることは、ごく自然なことのように感じられます。「自分の欲望を満たすこと」が幸せには欠かせないと信じているからです。

そのため、なんとか自分の思いどおりになるように占いに頼ったり、縁起のいい日やパワーのある日にこだわったり、あれこれ行動の戦略を練ったり、ああすれば思いどおりになる、こうすれば運がよくなる・・・と、自分の欲求を満たすためにあれこれこころを砕きます。

しかし、欲望というものを感じているのは自分のなかのエゴの部分であり、そのエゴの自分はいくら食べさせても満足しないモンスター級の怪物なのです。

そのエゴの言いなりになるということは、結果として取り消さなければならないはずのエゴを増長させてしまうことになります。

エゴは何かを手に入れることが大切で、そうすれば思ったとおりに幸せになれる、とそそのかします。そして、行動に駆り立てます。

「自分が今、手にしたいと思っているものを手に入れる」「成功したい、お金もちになりたい、有名になりたい、目立ちたい」などなど・・・どれもこのまま じゃ不十分で情けなく感じる自分自身を容認することであり、その情けない自分をどうにかするために「あれをつけ足そう」「これをつけ足すべき」とたきつけ られてしまっているのです。

しかし、「足りない私」はどこまで行っても足りなく感じるものです。

「足りない!」と主張するエゴの部分は、何かを与えれば一時的に「よしとする」かもしれませんが、ほんとうのところ底なし沼の欲望を抱えています。そして、次なる欲望を提示してくるのです。

このエゴの言うことを聞いて走りつづけることは、ほんとうの解決法にはなりえません。それどころか、どこまで行っても乾きは癒やされず、不毛な感覚が増してゆきます。 

修正しなければならないポイントは、「頑張ってつけ足そうとする」ことよりも、まずは「なにもつけ足す必要のない自分」として出発する、ということなのです。

欲しいものをつけ足すことにやっきになってしまう自分の「足りなさ」「自信のなさ」「今のままじゃダメな感覚」に気づいて、それを癒してあげる必要があります。

「足りない!足りない!」と叫んでいるとき、その先にやってくる現実はやっぱり依然として「足りない」ままなのです。

なぜなら、自分のこころがそのように言い張るので、それは自分にとっての現実となるからです。

私たちはこころが感じてる状態を、そのまま自分で体験することができるぐらい、私たちはパワフルな存在なのです。

そうであるなら、「足りない!足りない!」と叫びながら、その埋め合わせに走り回るよりも、足りている感覚を優しくこころのなかに呼び覚ましてあげましょう。

ふだんの生活のなかで、「ちゃんと美味しいゴハンを食べることができる」ぐらい足りているし、「疲れた夜には温かな湯船でくつろげる」ほど足りている。さらに、「季節の心地よい風や日差しが自分を包みこんでくれる」ぐらい十分足りているのです。

それだけにとどまりません。冷蔵庫を開ければお気に入りの食べものが入っていたり、今夜楽しめるお待ちかねのビデオ配信があったり、どうでもいい話をあれこれ笑ってわかちあえる友人がいるかもしれません。

どんなささいなことでも、あれこれ「足りている」なにかを書き出してみてください。きょう一日でも、さまざまな「足りている」に気がつくことでしょう。

そして、「足りない」と言い張るところから、「どれだけ足りているのか」の気づきへと意識を向け変えてみましょう。

私たちは「あれも欲しい」「これも欲しい」と欲することで、いつも欠乏状態に意識が固定されてしまいます。なぜなら、「欲しい」というのは、まさに「足りない」ということを自分に言い聞かせることになってしまうからです。

それよりも、どれだけすでに「足りているのか」、どれだけ「十分に与えられているのか」、どれだけ「ちゃんと宇宙に気遣われているのか」を思い出してみましょう。

私たちのこころが、いつもどのような思いを抱いているのか? 満ち足りた感謝の気持ちなのか、それとも足りないという不平不満なのか?

この自分の感じている気持ちこそが、自分の体験を生み出すスタート地点となります。

それならば、「足りない、足りない」と叫びながら、何かを手に入れようと走りまわり、さらに足りなさを体験してしまうよりも、「きょう、これだけのも のを与えてくださってありがとうございます」という穏やかな満足と感謝の気持ちのなかで、自分の人生がどのように優しく展開してゆくのかを見守ってみま しょう。

満ち足りた穏やかさや、今あるものに感謝する気持ちをもつことで、きっと自分の日常もそのような気持ちを起こさせてくれるさまざまな体験で彩られてゆくことに気づくことでしょう。

自分のこころにある思いを抱くということは、「それを自分が望んだ」ということだからです。

足りないと叫んでカリカリしている自分には、そもそも満ち足りた穏やかな世界は相入れないのです。それは水に油です。また、そのようなものごとが自分のまえにやってきても気づくことができません。

自分が望む幸せな状態とは、そもそも次元が違ってしまったのです。

「何かを必死で追い求めて手にしなければならない」と考えるとき、私たちは「それほどにしなければ幸せになりえない自分」を受け入れてしまっているのです。

あるがままそのままで幸せであっていい自分を受け入れるためには、ただゆったりとして、日々の生活のなかにある「満ち足りたもの」「感謝できるもの」に気づき、すでに満たされている人となって、満たされている人の人生へとシフトチェンジしてゆきましょう。

穏やかさと感謝をこころにもつことで、自然にその世界へと導かれてゆきます。

なにかを求めて走る回ることよりも、こころが穏やかに変われば、目にする世界もそれにあわせて変わることに気づくことでしょう♪

 

 

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ひさびさ渋谷

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打ち合わせで、久方ぶりに渋谷へ。

渋谷は遊びで、習いごとで、買い物で ・・・ しょっちゅう足を運んだおなじみの街です。

ずっと、あちこちの通路で工事がつづいていてまるで迷路のようになっていましたが、それが完成したら新たなビルがニョキニョキ。

馴染みのカフェやレストランは再開発とコロナですっかり姿を消してしまい、気づいたらまるで見知らぬ街になっておりました。

オシャレだけどよそよそしくって、落ち着きません。

なんでもかんでも丸ごと新しくしてしまうのではなく、ヨーロッパのように古いものも大切に残してほしいものです。

レトロな喫茶店がいま人気なように、昔からの街並は新鮮にうつる日がくるからね〜。

 

 

ずいぶん日が短くなりました

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まだまだ暑い毎日ですが、ここ一週間で陽が落ちるのがめっきり早くなってきたのを感じます。

18:15ごろに空を撮影していたのですが、18:00にはすでに薄暗くなってきました。

夕暮れが早くなると、夏もおなごり惜しい気がします。

でも連日のこの蒸し暑さ・・・!そろそろほっとしたいですね〜。

8/12

8/14

8/17

8/20

8/22

8/23

 

 

気づきの日記「ハイヤーセルフとは?」

 

Q: 「ブログのなかに毎回ハイヤーセルフという単語が出てきますが、そんなに重要な存在なのでしょうか?」

A: はい、かなり重要な存在です。

ひとことで言えば、過酷な状態で宙ぶらりんになってしまっている私たちにとって、ハイヤーセルフは「命綱」であり、またその状態からレスキューしてくれる存在でもあるのです。

私たちが「自分の生き方や人生を変えたい」と思うとき、ハイヤーセルフの存在なしではまったく意味のあることができません。だから、ハイヤーセルフとはまさに自分の幸せにとって要となる存在といえます。

ハイヤーセルフを抜きにして、私たちは自分自身や自分の人生に真の変化をもたらすことはできないのです

なぜなら、私たちはほんとうの自分とその自分がもっているどのようなことでも可能にする力を、すっかり忘れてしまっているからです。それはまるで、重度の記憶喪失状態です。

ハイヤーセルフはそんな私たちを、ほんとうの自分のちからを思い出せるように、そして苦しみのない人生を生きることができるように、つねに優しくガイドしてくれる存在です。

ハイヤーセルフと聞いて、「自分にはそんな存在はいない」と感じていらっしゃる方も多いと思います。しかし、ハイヤーセルフは誰にとっても昔から馴じみのある存在です。

幼い頃から今にいたるまで、神さまや仏さま、天使やご先祖さま、あるいは大いなる存在、宇宙にお願いごとをしたり、助けを求めたことがない人はいないと思います。

自分を守り、導いてくれる高い次元の存在に対して、どのように呼びかけるかは人それぞれです。ご自分が呼びかけたい名前でかまいません。なぜなら、すべて同じ源からやってくる力の現れだからです。ここではハイヤーセルフという呼び名を使っています。

私たちは、非常にツラい体験をしたとき「神も仏もいるものか!」と癇癪を起こしたりしますが、そもそもそう言いたくなるということは、私たちはもともと「自分を守ってくれる存在がいるはずだ」と信じていたからです。信頼していなかったら、ガッカリして怒りを感じることもありません。

「ぜんぜん守ってくれているように感じない!」と文句を言いたくなるときは、もしかすると自分からそのつながりを遮断してしまっているのかもしれません。それならば、再びその存在を認識し、つながり直すだけでよいのです。

幼いこどもに自立心が芽生えると、母親から離れて行動しようとします。そのとき、母親はそのような態度を優しく受けとめ、その子が気づかないところで優しく見守りつづけるものです。こどもを忘れ去ったりはしません。

ハイヤーセルフも同様に、私たちの冒険を見守りながら、気づかれないように控えているのです。

しかし、いったんハイヤーセルフに助けを求める呼びかけが聞こえたならば、即刻救いの手をさしのべる用意もできているのです。

ハイヤーセルフの力をかりるためには、私たちが「自分から」守ってほしい、導いてほしい、助けてほしい、と自己申告することが大切です。勝手に手を出すのであれば、それはたんに自由意志を無視したコントロールになってしまうからです。

それだけ、ハイヤーセルフは私たちを尊重し、いちばん望むことを叶えたいと思っているのです。

さて、なぜ私たちが真に幸せになるためには、それほどまでにハイヤーセルフに助けを求めること、つながることが大切となっているのでしょうか?

それは、私たちがあまりにも近視眼的になっているからです。

ものごとを近くで見すぎていて、たまたま目に入った一点だけですべての判断を下そうとしてしまいます。そして、それを無条件に正しいと信じています。

少し距離をとって眺めれば、全体としての意味がわかり、自分の下した判断は目先の解決にしかすぎなかったことがわかります。

インドの寓話に、盲目の人たちが象の正体を突きとめようとしている話があります。ある者は象の鼻を触り「象は蛇のようなものだ」と言い、またある者は尻尾を触って「象は筆のようなものだ」と言うのです。

この盲目の人たちと同じように、私たちもものごとのほんの一部だけで答えを導き出してしまっているのです。そして、その答えは間違った行動を誘発し、そこからさらに誤りへと導かれてしまいます。

しかし、ハイヤーセルフは高い視点からすべてを見渡す存在として、過去・現在・未来、そして別の時間の流れまですべてを見通して、私たちが確実に幸せになる答えを与えてくれるのです。それは、自分のみならず、そこにかかわるすべての人のためにもなる最強の答えです。

さらに、その答えは間違うということがありません。だから、お願いしたらあとは安心して流れにまかせることができます。

私たち自身には、決してそのような答えを導き出すことはできません。

私たちが考えつく答えは、つねに過去のデータに根ざしているので、毎回同じパターンを繰り返すことを余儀なくされます。

また、私たち個人としての考えは、「自分がこの世界でなんとかサバイバルしなければならない」という恐れの感情をベースにしているので、恐れが動機となっているのであれば、結果はさらなる恐れを生みだすことになってしまうのです。

自分の考えに頼って生きようとすることは、まったく何も見えない真っ暗な闇のなかを、ライトもカーナビもなく運転しつづけることと同じぐらい無謀なことなのです。

必然的に何かにぶちあたったり、また道をはずれて崖から転がり落ちてしまったり・・・まさしく自殺行為となります。

一方、高次元の存在であるハイヤーセルフに頼るということは、道を照らし出してもらうこと以上にすべての時間の流れも見通して調整することができるので、そのナビは完璧そのものです。すべての危険や災難をあらかじめしっかりと回避しつつ、完全な幸せという目的地に向かって、楽しみながらぶれることなく導いてくれるのです。

その強力なナビを自分のものにするには、ただ自己申告が必要なだけです。

自分自身でハイヤーセルフとのコミュニケーションボタンを押して、つながりを再構築しましょう。

私たちが人とつながりを作りたいとき、どのようにするでしょうか? 挨拶をしたり、声をかけたり、自分のことを話してみたり ・・・コミュニケーションを積極的にとろうとこころを開くはずです。

ハイヤーセルフに対しても同様です。自分から挨拶をして、存在を認める。助けてほしい、教えてほしい、導いてほしい、一緒にいてほしいとお願いする、助けに対してありがとうと感謝をする・・・など、優しく頼りになる友人に接するようにコミュニケーションをしてみましょう。

そして、いつもハイヤーセルフとコミュニケーションをとっているうちに、ハイヤーセルフのすべてを見通す知覚や、恐れや罪の概念のない考え方、制限のない感覚というものがしだいに自分のものになってゆきます。

なぜなら、ハイヤーセルフとは、まさに真の自分の記憶のようなもので、つながればつながるほど、私たちは正気を取り戻して、自分自身のすべてを超越している本来の力を思い出すことができるのです。

また、過去ばかりを繰り返しつづけるパターンから抜け出し、今までとはまったく違うハイヤーセルフ独自の幸せなストーリーへと導かれるのです。

そうしたときに、かつての自分はいかにさまざまな制限でがんじがらめになっていたのか、いかにものごとを正しく見られていなかったのか、そしてどれほど怯えて行動し失敗を繰り返していたのか、気づくようになります。

ハイヤーセルフは私たちが幸せな人生に向かって進んでゆきたいと思うときに、まずはしっかりと手をとっていなければならない大切な存在なのだ、と気づかれたことと思います。

こころのなかえで、「ハイヤーセルフ、私は何ひとつ正しく判断することができません。私のかわりに決めてください。そして、一歩一歩導いてください」とお願いしてみましょう。

クライエントさんにハイヤーセルフのことお教えすると、みなさま「助けが確かに来ました!すごいです!」と実感してくださいます。「頼ってお願いすれば、必ず答えが受け取れる」ということが体験としてわかることで、さらに信頼しこころが開けるようになります。

そして、もう日々の生活になくてはならない存在となってゆくのです。まさに、ハイヤーセルフと自分がひとつになり、最強のナビがついた自分こそがほんとうの自分となるのです。

そのためには、まずは自分からこころを開いて、コミュニケーションをはかってみましょう。そして、そこからなにが起こってくるのか、見ていてみましょう♪

 

 

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美味しいランチで乗りきろう!

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6月下旬から、ノンストップで30度ごえの暑い日がつづいておりますね〜。

いささかお疲れがたまって、身体が重たい日々です。けれど、食欲だけは衰えを知らず・・・ 十分すぎる水分補給と相まって、むくむく夏太り進行中です(トホホ・・・)。

先日、ミーティング後のランチで近所のビストロさんへ。

いつものランチセットにプラス千円するだけで、けっこうなボリュームのコースになっちゃうのです(2600円ほどでした)。

 しっかりいただいて充電いたしました〜。

*前菜はイチジクとサブレの組み合わせ(サブレのバターがきいていて、まるでデザートみたい♪)

*濃厚コーンスープのウニソースぞえ(ほぼこれは食べものです。冷たくっておいしい♡)

*貝柱のパイ包(サクサクのパイにクリーミーな貝柱がひとつ。これでメインになりそう♪)

*ポークのリンゴソース煮(かなりのボリューム。しゃきしゃきリンゴとポークのとろとろ感が美味です!Sちゃんのチキンも迫力でした。)

*モンブラン&コーヒー(お腹がいっぱいでも美味しくいただける軽い風味のモンブラン♡)

ふたりとも完食!

こちらはいつ来ても、ほんとうに美味しいです。

お料理をされているのも、フロアの接客も若い女性ばかりで、女子の「こんなフレンチが食べてみたい!」というニーズを満たしてくださるようなメニューと美味しさです。なので、いつも女性客を中心にテーブルがうまっています。

またしばらくしたらうかがって、おいしく体力をつけたいです♪  @ura ebisuさんでした。

 

 

気づきの日記「正しく悩むことも大切なこと」

 

その昔、悩んでいる人がいると、「なんとか手を貸さなくては!」という気持ちになったものです。

悩みから抜け出すための解決メソッドやものの見方をお教えしたり、あれこれアドバイスをしたりしたものです。

今思うと、この段階で自分が間違っていたことに気がつきます。なぜなら、すでにその人を「困りはてている弱い存在」として扱ってしまっているからです。

ほんとうの意味で「助ける」ということは、その人に「真の自己の力を思い出させてあげる」ということ、つまり正気にさせてあげることです。

決して弱い存在のままにしておいてはいけないのです。

たいていの場合、人は悩んでいるからとと言って、「自分を変えたい」と思っているとはかぎりません。

置かれている状況に対してただ不平不満を言いたいだけで、ほんとうの変化を起こすことができる「自分自身の内側」を変えたい思っている人はあまりいないのです。

それなのに、あれこれ一方的に教えようとすることは、口がまったく開いていないのにグイグイ食べものをねじこもうとするような強引な行為なのでした。

そんなメイワク行為をしてしまっていたのは、自分自身が相手のなかにある強さを信頼していなかったからであり、また自分自身が「悩んだり苦しんだりしている人」を見ているのがいやだったからかもしれません。

私たちは、人から簡単に与えられたものについて大した価値を見出しません。それよりも、自分がこころから望んで手にしたものは大切に持ちつづけるのです。

そういう意味では、正しく悩んで苦しんで、口から手が出るようになるまでそのままにしてあげる、ということも大切なのです。そのときにつかんだものは、自分にとって大切な宝物になります。

外から与えられたものはスルスルと手の平をすり抜けて消えてゆきますが、自分がこころから欲したものはしっかりと握って離さないのです。

だから、「ほんとうに今の状態をやめたい!」とこころが決心するまで、しっかりと「自ら変化を起こしたい!」と熱望するまで、その方に寄りそいながら静かに見守ってあげることなのです。

そしてそのときが来たら、差し出されているカラの両手に必要なものをせっせとのせてあげることができます。

かといって、それは「悩んで苦しんでいる人に何もしてないけない」ということではありません。

そのときにできることはもちろんするのですが、しかしその状況はその人にとって「かけがえのない気づきと癒しのチャンス」であるとこころえて、むやみに赤ちゃんの世話をするように何でも助けようとするのではなく、ただともにいて見守って、準備ができるまで待ってあげることも大切なのです。

私たちの人生のなかに現れるハードルのひとつひとつは、「うまくやりすごす」ものではなく、「正しく正面から超えなければならない癒しのチャンス」なのです。

正しく超えることで、それらは永遠に姿を消すことができるからです。

「正しく超える」とは、ただものごとの被害者となって不平不満を言いつづけるのではなく、このことについて「自分のこころを正したい」、「こころを正して、ものごとを正しく見られるようになりたい」、だから「自分の考えが変えられるように導いてほしい」、と自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いをすることです。

本来の自分の強さのみを信頼するのではなく、一度自分の考えややり方を手放して、ただ謙虚な気持ちで助けを求めます。

「自分を変えたい」「別のやり方をしたい」、「だからどうしたらいいのか知りたい」と自分の手の平をカラにして開いたとき、そこに今までとは違う解決策が与えられます。

そのためには、「自分こそが知っていて、思いどおりにする」という今までのルールを手放せるようになるために正しく悩んで、「どうしたらうまくいくのかわからない。だから知りたい」と、ものごとの主導権を手放します。そして、まったく新たな考えへと自分を開くとき、今までとは違った世界へと導いてくれるドアが開きます。そして、不毛な悪循環から救い出してくれるのです。

正しく悩むことで、白旗を掲げることができるようになり、自分のやり方をすみやかに手放し、新たな世界を体験するための見方へとこころを開くことができます。

「自ら受け取る気持ち」になったときにだけ、導き手は現れ、軌道は修正されます。

そのためには、本人の気づきがやってこないうちに中途半端に世話をやいてしまうことは、かえってその人の癒しの邪魔をしてしまうことになってしまいます。過保護なこどもと同じ状態です。

だからこそ、正しく問題と向き合えるように悩んでいるあいだも静かに寄りそい、手が開いた状態になったならば、そこからじゃんじゃんサポートをする、というように、その人の苦しみをいったん容認してさしあげることも大切なことなのです。

実際、本人が自分で問題の核心に気づくまでは、同じ要素を含んだ問題が繰り返されてくることになります。

それは、小学生のドリル学習と同じで、「さあ、自分ひとりでできるようになるまでやってみようね!」「もう、わかったぞ!というところまでやってみよう!」ということなのです。

本人自らの気づきこそが、癒しにとってはなによりも重要だからです。

いちばんラクに学べる道は、問題が起こったときに被害者にならないようにすることです。

「自分のこころが起こしている問題」という観点から、「これは何を学ばなければならないのでしょうか」と自分自身のハイヤーセルフに尋ねてみましょう。

答えは言葉ではわからないかもしれませんが、被害者にならずにその問題に対応しようとする行動に答えがすでに現れているかもしれません。無意識のうちに、いつもとは違うものの見方をして、違う行動に導かれているかもしれません。

ひとつひとつのことを「尋ねて」「学ぶ」姿勢をもつとき、自然と流れに乗り、繰り返していた問題というパターンから抜け出すことができるようになるでしょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング