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気づきの日記「正直さって、なに?」

 

「自分に正直であること」は、幸せになりたいと思うならとても大切にしなければならないことです。

なぜなら、自分の考えや気持ちに対して自分自身を誤摩化してしまうと、幸せになるために正すべき点が見つけられなくなってしまうからです。それは、幸せへつながる扉のノブが見つからない状態です。

自分の考えや気持ちに対して正直に向きあうことができれば、自分にとって不適切な考えや気持ちを手放し、幸せへの扉をあけることができるようになるのです。

さて、「正直になる」とはどういうことなのでしょうか?

先日、正直であろうと努力なさっているクライエントのA子さんとお話をしていて、「なるほど〜、そういうふうに考えてしまうこともあるのか・・・」と正直さについての誤解しやすいポイントに気がつきました。

A子さんいわく、「正直さとは、自分が思ったこと感じたことは、何でも口に出してもかまわないことだ」と思われていたそうです。

思ったらすぐに口にすることで考えや感情を放出し、「正直ってスッキリする!」と感じていたそうです。

でも、人との関係はギクシャクしてしまいがちです。ズバズバものを言うことで敬遠されてしまうかもしれません。

正直さとは、「なんでもかんでも思ったことをそのまま口にすること」ではありません。

あくまでも「自分の領域」において正直になることなのです。

人に対してあれこれ言うことは、人の領域に土足でずかずか入りこんで、勝手にあれこれ断罪して、そして去ってゆく、という強引なイメージなのです。その相手にしてみたら、ビックリします。

なぜなら、相手に対して自分がもつ意見というものは、あくまでも「自分の考え」であって、ほんとうのことではないからです。自分のひとりよがりのイメージにすぎず、それを押しつけられても困ってしまいます。

人に対してあれこれ言うということは、自分の考えを相手に押しつけて、それを正しいものと決めたうえで、さらにそれを裁くという、二つの間違いをおしつけることになってしまいます。

さきほども正直さとは「自分の領域」のことだと書きましたが、それは「自分が自分に対して」正直になるということです。

たとえば、さっき友人から言われたことにとても傷ついてしまった、というようなとき。

こころが痛んでいるのに、まるでなにも感じていないがごとくスルーしてしまったりします。(傷ついたことをスルーしようとするあまり、なにかに執着したり溺れたりするような結果になることもあります。食べもの、ギャンブル、ゲーム、アルコール、恋愛・・・などなどです。)

これは、自分に対して正直ではありませんし、優しくもありません。こころは痛いと言っているのに、むりやり痛くないことにしてしまっているからです。

この場合の正直さとは、相手に対して「あなたの言葉で私は傷つきました!」と詰めよることではありません。正直さを勘違いしていると、このようにすぐに被害者になってしまうこともあるかもしれません。

そうではなくて、「あ・・・私は今、友人のあの言葉でとても悲しく感じている」「なぜなら、あの言葉は私は価値がない人だ、と言われているように感じているから」「なぜ、私はその言葉を聞いてそう思ってしまったのだろう?」「なぜなら、小さい頃から、人に軽く扱われているように感じていたから、またそうなったと思ってしまった」「でも、それってほんとうに私に価値がなかったのだろうか?」「価値がないと信じてしまっているのは、私自身ではないだろうか?」・・・・

こんなふうに、最初の感情から自分が信じていることを探求してゆくのです。すると、ある誤解や信じこみにつきあたったり、よく確かめてみると信じていたこがほんとうのことではなかったことがわかったりします。

私を傷つけた相手さえも、じつはこどもの頃傷ついた経験があり、相手を思いやる余裕がなくなってしまった ・・・とか。

そのような気づきによって「私は価値がない」という決めつけがゆるんでくると、友人から同じことを言われたとしても自分個人のこととして受けとめることなく、そのまま流すことができるようになったりします。

そして、どんなときでも自分がネガティブに反応する場面というのは、自分のこころの間違いを正すための機会となり、ひとつひとつ気づいてゆくことで、もとからある平和なこころを取り戻すことができます。

この平和のなかから世界を眺めれば、同じように平和が見えはじめるのです。

安らかな世界というのは、自分のこころで起きていることを正直に眺め、間違いを正すことでこそ達成することができるのです。

また、相手に対してどうしてもものを申したくなるようなときにも、自分のこころを探ってみましょう。

なぜそれを相手に言いたいのか?

私たちは、自分で片づけることをのびのびにしているこころのなかのゴミを、どうしても相手のなかに見てしまうものです。すると、一気にひとごとになったような気がして、その相手への攻撃を開始します。

この人さえ変われば自分は心地よくなるに違いないと思うからです。しかし、自分のこころの間違いはいつまでも場所を変えて映しだされることになります。自分のこころのなかでゴミすてがしっかりと完了するまでは終わることがないのです。

だから、相手にもの申したくなるようなときも、いったい自分は何に対して反応しているのか? それをよくよく見て、それは自分のなかにあると認め、いさぎよく片づけてしまいましょう。

癒しは、いつもでも自分と向きあうことです。

こころは外へ外へと向かおうとしますが(人やものごとをあれこれ攻撃したくなりますが)、その手にはのらず、自分自身へと向かう習慣をつけましょう。

つねに自分のこころに戻ってきて正直に向きあうことで、つねに安らぎへのドアが開きます。

 

 

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お茶の間シネマトーク「舞妓さんちのまかないさん」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

最近お気に入りのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」は、是枝裕和監督の作品です。

人間模様があたたかくてほっこりするし、古都の街なみや四季は美しく、舞妓ちゃんたちは健気で愛らしい、そしてまかないゴハンがなんとも美味しそう♡

青森の中学を卒業して、舞妓さんの見習いで祇園の花街にやってきたキヨちゃんとすみれちゃん。ふたりは幼なじみで大の仲良し。

修学旅行で目にした舞妓さんにこころを奪われ、ふたりでこの道を志すことになったのです。

でも、憧れや決意だけではどうにもならないこともあり、キヨちゃんはお稽古数ヶ月でお師匠さんに見離されることに・・・。

あわや青森に送り返される寸前に、腰を痛めたまかないさんにかわって「もしよかったら、私に作らせてもらえませんか?きょうのまかないごはん」と声をあげたキヨちゃん。それによって、キヨちゃんは尾形のまかないさんとして京都に残ることになるのです。(→予告をみる

尾形のおかあさんいわく、キヨちゃんは「お多福」のようだと。

お多福といえば、穏やかで優しい顔の女性。そしてなによりも、まわりに福を運んで幸せにするひと。

実際、キヨちゃんは手に入らないものに執着したり、羨ましがったり、人や自分を責めることがありません。

たとえ、目のまえでひとつの扉が閉ざされてしまっても、次に開きかけている扉にひらりと自然体で身をまかせることができるのです。

だから、いつでも腐ることなく、たったいま目のまえにある現実を喜びと感謝をもって受け入れて、太陽のように無条件に喜びを与えてゆきます。

そのむかし、日本が舞台の作品であってもハリウッドが制作していると、「えっ?これどこよ?」と笑っちゃうぐらいヘンテコな日本になっておりましたっけ。

今は日本人の監督さんの作品がそのまま世界に配信されるようになり、日本古来の美しさや伝統がゆがめられることなくそのまま伝わるようになりました。

世界中の是枝ファンも、ぜひキヨちゃんとすみれちゃんの花街での奮闘を見て欲しいものです。

きっと、もっと日本が好きになっちゃうはず♡ そして、親子丼や茄子の煮びたしを食べるために、日本に来ちゃうかも?!(→メイキング映像

 

 

 

新年会♪

焼肉新年会で〜す♡

コロナのおかげで、完全個室のお店がずいぶん増えましたね。

こちら、中目黒の兜さんは細い通路の右と左に個室が並ぶお店。しっかり扉がしまっているので、酔っぱらっていたら戻って来れなさそうです(汗)。

左右のお部屋から聞こえてくる声で、お顔が見えなくてもだいたいどんなグループなのかがわかっちゃいます。

右のお部屋は「なにかお仕事をしている70代三人組の女性」。これは声のトーンとオホホという笑い方と、サプリについての話題などから推測。

左のお部屋は、「20代、男女グループ」。こちらは、かなりテンション高いし、完全にいまっぽい喋りから。

さて・・・私たちはいったいどう思われていたのやら・・・?(笑)

ちなみに私たちは、Yちゃんのもってきたスナックについて盛り上がっておりました。

それは焼肉の部位の形をしたクラッカーで、一頭分のさまざまな部位があばら骨のなかに収まるようにできています。さらにクラッカーを指でこすると表面の色が変わって、まるで焼けたようになるというオモシロお菓子なのでした。

リアル焼肉のほうは、どれもふんわりトロトロでとても美味でした。

 

 

 

 

 

塩とタレがひとしきり運ばれてきて、その後シーンとしているので、「あれ?ここでおしまいみたい・・・?」。「でも、もうちょっと食べたいよね〜」と追加注文をしてせっせと焼いていたら、あらたにお肉と生たまごが運ばれてきました。じつは、まだコースが終わってなどいなかったのでした(あのインターバルはお店の戦略か?!笑)

食後は、向いにあるスーパーでお買いものをして、家飲みへ。

ワイン、葡萄ジュース、ブルーチーズ、タコ、チーズケーキ、ロールケーキ、自分で作るポップコーンなど、それぞれが思い思いにカゴのなかへ。

童心にかえってポップコーンなんか作っちゃったりして(せっせとフリフリ!)

賑やかな家飲みタイムでした〜。今年も楽しくがんばろ〜♪

 

 

 

気づきの日記「新年の目標?・・・忘れてください」

 

Q:今年こそはと新年の目標を作ったのですが、なかなか行動にうつせずフラストレーションを感じています。このまま気がつけば、半年、一年と過ぎてしまいそうで、なにもできない自分にガッカリしています。

A:「あれをするべき、これもするべき」と思いながらなにもしないのと、ただリラックスしてなにもしないのと ・・・ どちらもなにもしないことには変わりはないのですが、こころもちがぜんぜん違います。

前者は、焦りながら、がっかり感や罪悪感にさいなまれます。そして自分の無力さを責めるかもしれません。

一方、なんの考えもなくただリラックスしてなにもしないときは、同じくなにもしていないのにもかかわらず心地よささえ感じるかもしれません。

そして、ここちよくダラダラ(リラックス)しているうちに、フト気がついたらいつのまにかなにかを始めているかもしれません。

お腹がすいたらふらっとお台所に立つように、トイレに行きたくなったら無意識のうちにトイレのドアをあけているように、

ほんとうはなんの決意もいらないし、自分を鼓舞する必要もないし、ましてやお尻を叩く必要もないのです。

テコでも自分を動かさなくては・・・思うなら、それは自分へのギャクタイです。だって、それを実際にする、という現実はまだ起きていないのに、ムリじいをしているのですからです。

梅や桜だって、頼みこまれて、お尻をたたかれて、せかされてしぶしぶ咲くわけではありません。そのときがくれば咲きます。それはときに、みんながヘンだ!という季節に咲くのかもしれないのです。

すべては自然の流れのなかで自動的に起こっています。

お台所に行きたい、トイレに行きたい、コンビニに行きたい・・・ いえ、行きたいと思うまえにもう身体は動いているかもしれません。考えはいつもあとづけです。

だから、今ゆったり静かな時間がつづいているとしたら、思いきりそれを受け入れて楽しんでみましょう。

新年の誓いさえも、それは架空のものかもしれません。もし起こらないのであれば、忘れてしまってかまわないのです。

ゆったり過ごしているうちに、そんなリラックスタイムさえも持てないほど活動的な時期も巡ってくるかもしれません。

起きていること、それがいつも答え。

「でも」「だって」「そうはいっても」とごたくを並べはじめると、そこにすでにある静けさ、完全性、秩序が乱されてしまいます。

そして、自分がすべての意味を把握している必要もありません。起きていることをほっておきましょう。

ルービックキューブだって、きれいに全部がそろうまえは、「えっ?!ちゃんと揃っていたところまでグチャグチャにしちゃうの?」というカオスをへながら完成に向います。

宇宙(神なる存在)が私たちのルービックキューブをきれいに整えてくれています。

グチャグチャでちょっと心配でも、お手なみ拝見! おまかせしておきましょう。

 

 

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最近のおやつ♡

いただきもののおやつです。

ガレットデロワ♪

この時期に食べられるフランスの焼き菓子ですが、日本でもよく見かけるようになってきました。

ホールを切りわけて、お菓子のなかから陶器のフェーブ(お人形や王冠など)が出てきた人はアタリ! この一年ラッキーに過ごせるそうな。

どれどれ・・・?

私がいただいたガレットデロワは、どのピースにもフェーブは見つからず・・・ そのかわりに、それぞれにまん丸の栗が入っていました。

ということで、みんなでラッキー! よかったね♪

パンダバウム♪

可愛いパンダちゃんがプリントされたバウムクーヘン。

こんなふうにくりぬいて遊べるようになっています。

けっこう食べごたえアリでした。

お友だちが一緒に送ってくださったフォションの濃いめのコーヒーにぴったり。どちらも美味でした。

ごちそうさま〜♡

 

 

気づきの日記「これじゃない、ここじゃないと思うとき」

 

「私が望んでいるのは、こんなことじゃない」「私がいたいところは、ここじゃない」「この人じゃない」「これじゃない」 ・・・ こんなセリフがアタマのなかをかけめぐるやいなや、突如としてイヤな気持ちにおそわれます。

「私は間違ってしまった」「失敗してしまった」・・・そんな敗北感や罪悪感でこころがいっぱいになってしまうからです。

「これじゃない」とアタマがささやくまでは、こころは平穏だったはずなのに・・・。とたんに、見えていた景色も日常も、一気に生気を失いトーンダウンしてしまったように感じます。

そうなのです。いつもアタマのなかには、自分自身を幸せにしないようなラジオ放送が流れっぱなしになっています。

その流れてくる音声を、私たちは「自分の」考えと呼んでしまっています。しかし、それはたんに勝手にどこからともなく流れてくる音声、まさしくラジオ放送のようなもので、じつはまったく「私の」ものではないのです。

「私の」ものではないからこそ、スイッチを切ることもできませんし、チャンネルを変えることも容易ではありません。

そんな勝手な放送に対して「なになに?」と真剣に耳を傾けてしまうと、それまで平穏だったはずの日常がいきなり失敗と不足モードに切り替わってしまうのです。

もしも学校で、「あなたはいつだって、いるべきところにいるし、そもそもあなたは間違うことなどできやしない」「いつだってそれで大丈夫だから」「ただ流れを信頼してみましょう」、そう教えてくれさえしたら、私たちは今というときのなかでもっとくつろいで安らかでいられたことでしょう。

ところが、誰ひとりとしてそのようなことは教えてくれなかったのです。

なぜなら、誰もほんとうのことを知らないからです。そしてじつは、誰もが一日中アタマのなかで流れつづける「みんなで苦しもう放送局」の熱心なリスナーであり、ファンでもあるからなのです。

その音声に耳を傾けるのはあたりまえ、そしてその情報をうのみにすることが正しいことだ、と信じているのです。

もし、「これじゃない」「ここじゃない」「この人じゃない」というセリフが流れてきても、「ただ勝手になにか言っているけど、私とは関係ない!」とまったくとりあわなかったとしたら、こころはそのウソをまにうけることなく、穏やかでいられるのです。なぜなら、このままでまったく間違いがないから。大丈夫だからです。

私たちは誰でも、いつの瞬間においても自分にできることしかしていません。どんなときもちゃんと自分なりのベストを尽くしているのです。そして、そのようにしかできません。

できることがそれだけだからこそ、起きることがいつも私たちにとってたったひとつの答えなのです。もともと他の道という選択肢は存在しないのです。

それを潔く受け入れてしまいましょう。そうすると、いろいろなことがシンプルになり、こころが穏やかになります。

まさに、♪これでいいのだ〜♪とひらき直れます。

「失敗した」とか「間違うかもしれない」などという、心配や怖れにこころが占領されることがないぶん、より正しい導きがこころのなかにストンと落ちてきて、それに容易に気づくことができるようになります。

心配や怖れはかなりのエネルギーを消耗させ、混乱におとしいれ、負のスパイラルへと引きこみます。だから、いつも「私はこれでいい!これが大正解!」と信じられるならば(実際そうなのですが)、クリアなこころと十分なエネルギーのなかで、導きに従ってたくさんの解決策を受けとることができるようになります。

アタマのなかのラジオ放送は無料のサービスなので勝手にじゃんじゃん配信されてきますが、私たちはそれに耳を傾けない、信じこまない、握りしめない、巻き込まれない、そしてただスルーする、という自由があります。

アタマが現状に対して「これじゃない」「ここじゃない」と文句をいいだしたら、「ほほ〜、あなたはそう思っているんですね。でも、私はそう思いませんよ。そもそも、私は間違うことなどできないからです。だから、私はこのままで大丈夫です」と軽く受け流しましょう。

そして、リラックスして、ドンとかまえていましょう。 それで、かならず大丈夫! すべては順を追ってうまく運びます。

 

 

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☆ Happy New Year 2023 ☆

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あけましておめでとうございます。

今年も安らかなこころから、平和な世界を紡いでまいりましょう♪

ぴょんぴょんと軽やかな、よいお年となりますように♡

今年もどうぞよろしくお願い致します。

オフィス・るん 古川貴子

 

 

気づきの日記「ほんとうの癒し・・・とは」

 

「アロマで癒されましょう」「ストレッチやヨガで癒しを」、あるいは「癒しの空間」「癒しのひととき」・・・というように、巷には「癒し」というワードがあふれています。

しかし、それらは「癒し」というレッテルにすぎません。レッテルが「癒し」ならば、なんとなく癒されているような気にもなるものですが、ほんとうのところは癒しではなくリラックスのためのものです。

ほんとうに「癒される」ということは、病んでいた原因を取り去り完全に回復させることです。リラックスとは、原因はそのままで和らげることなのです。

なので、巷でいわれている癒しは、ほんとうのところ癒されることなくさらに走りつづけるためのニンジンを差しだされているにすぎません。今までと同じように、ちょっと気持ちがよくて、ちょっとステキなニンジンに気をとられながらさらに走りつづけ、欲望の底なし沼に足をとられて少しづつ呑みこまれてしまいます。

「癒しだと思っていたけれど、じつは癒しではなかった!」と気づくのは、底なし沼に呑みこまれて、息ができなくなるあと数センチのところです。

そうなるまで、それがほんとうの癒しだったのか、はたまたエゴの差し出すニンジンにおびきよせられてワナにはまっていただけなのか、考えてみることもありません。

真の癒し、つまり病や苦しみの原因を癒すことは、もはや追いかけるためのニンジンをあきらめることです。それは、自分の外側に見える一見コウゴウしく見えるなにかに救いを求めないことです。

今までは、外側にあるなにかパワフルでステキなものをとっかえひっかえ試してみれば、きっと自分を幸せにしてくれる、私は救われる、と信じていたかもしれません。そして、さまざまな刺激的なものに中毒になっていたかもしれません。

外側のなにかは、じつは底なし沼に沈んでゆく自分のむなしさからちょっとだけ気をそらしてくれただけかもしれません。それは一時的な気晴らし、痛み止めの役割しかはたしてくれなかったのです。

しかし、外にニンジンを求めることをやめさえすれば、そのときはじめて「なんで、私はこんなドロ沼に無力なままはまっていたのだろう?ここはわたしの住むところではない」と沼に沈みゆく自分の現状を直視することができたはずです。

「こんな私はおかしい!」とドロ沼にはまっている異常な状態に気づいて、気づけたからこそ脱出をはかろうとしたはずです。

だから、自分を真に救ってくれはしない外側の刺激で自分を満たそうとすることよりも、まずはただ静まって、今の自分の状態と向きあい、直視してみましょう。そして、「私ときたら、どっぷり沼のなかだったわ!」と気づいてしまいましょう(そのように、生きづらさに正直に気づくことが、救いのために必要な一歩なのです!)。

気づいたらハイヤーセルフ(高い自己)に助けを求めて、「ここは私のいたいところではありません」とそこからひっぱり出してもらいましょう。

なぜなら、もやは私たちは自分ではそこから出られないところまできてしまっているのです。アゴ下までまるまる呑みこまれているときには、強力な助っ人であるハイヤーセルフがレスキューに駆けつけてくれます。

こころを開いて助けさえ求ることができれば、いつだってあなたにぴったりの聖なる救助隊の存在に気づくことができるはずです。

まずは、日々どんなニンジンで自分自身を麻痺させているのかに気づいてみることです。そして、怖れずにそのドロ沼という現状に向きあってみましょう。

すると、助けだしてくれるハイヤーセルフとともにもっと別の道を行くことができることに気づきます。

ニンジンのかわりにハイヤーセルフとともに進む道は、一回試したらやめられなくなるほど安心でラクチンな道のりかもしれません。

 

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気づきの日記「安らかなこころが与えるもの」

 

〜自分が与えるものこそが、自分が受けとるもの〜、こんな言葉を耳にしたことがあるかもしれません。

これこそが、私たちが生きているこの世界で働いている不動の法則です。

与えたものしか受けとれないのです。あるいは、与えてしまったのなら、受けとるしかないのです(苦痛や痛みもです)。

「与えるものが受けとるもの」というこの言葉をきくと、「そうか! だったら気前よくじゃんじゃんモノを与えれば、さらにじゃんじゃん戻ってくるのか」と、モノを与えることに一生懸命になってしまう場合があります。

これはそもそもモノのことではなく、モノよりも以前にある「こころの姿勢」「動機」のことを言っています。

たとえものをジャカジャカ与えようとも、そこに「自分は足りない」という根強い欠乏感があるのなら、「足りない」という気持ちを再確認していることにすぎなくなってしまいます。

欠乏を信じ、他から与えられることを期待しているので、「人は豊かだけれど、自分は足りない人なのだ」という信念を強めることになってしまいます。

「与えるもの」とはモノではありません。モノよりも前にあるこころです。

そのこころ、動機こそが、与えられて戻されてくるように感じます(なぜなら、すべてはひとつなので自分で自分にしていることになるからです)。

どのような結果を手にするのかは、どのような気持ち(動機)でそれを行ったかとイコールになるわけです。

欠乏から? 怖れから? 罪悪感から? あるいは、感謝から? 慈愛のおもいから? 喜びから?

自分のなかが欠乏や怖れや罪悪感でいっぱいでありながら、「そうか、与えればうまくいくのだな」とせっせと与えてみても、結局受けとる体験はやはり欠乏や怖れや罪悪感を感じさせるものになってしまいます。つまり、動機と結果は同じ内容だということです。

欠乏感を感じながら、「モノをたくさん与えて、豊かになろう」とジタバタするよりも、自分の内側に目を向けることをしてみましょう。

欠乏感も怖れも罪悪感も、正面から無条件に受けいれてあげることでやわらいできます。避けず、無視することもなしに見てあげることでほどけてゆくことができるのです。

そして、自分のこころを静かにさせてあげましょう。凪のように、安らかに穏やかに落ち着かせてあげましょう。

安らぎのなかから世界を見られるようにいたしましょう。

そうすることで、自分とひとつである源(すべてであるもの)に自分を与えることになります(源こそが静けさ、安らぎそのものなので、そのすべてとひとつになります)。そしてそこから、すべてを受けとることになります。

なによりも、自分自身が自分に戻ってきたように寛いで、真の自分の感覚を思い出すことになります。

すると、目のまえで波だっているように感じたあれこれが、静かにほどけて解決してゆくことを目にするでしょう。

安らかな自分自身こそが与えるもの。世界やまわりの人へとわかちあう贈りものにいたしましょう☆

 

 

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お友だちと下北でお茶タイム

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前回お友だちとお茶をしたのも下北でしたっけ。そうそう、コロナという怪しい感染症がはやりはじめた頃で、恐る恐るお出かけしたのを思い出します。

あれから三年余。まるでお久しぶり感がないのは、オンラインお茶会のおかげ。画面をまえにすれば、いつでも一緒にお茶ができる、というなんと便利な時代なのでしょう。

下北はそのむかし近所に住んだことがある懐かしい街です。今ではすっかり様変わりしてしまい駅前は見る影もありません。

かつては入りくんだ路地に店主さんの思いいれが感じられるステキなお店がたくさん立ち並んでいたものですが、以前のような静かな雰囲気はなくなってしまったように感じます。

でも、私にはずっと行きつけのカフェがあるのです!(そのむかし、いつもお茶しに通っていましたっけ♡)勇んで向かったら、ナントその日は定休日でした。

そこで、少し歩いて見つけた珈琲屋さんの木の看板。そんな看板のあるお店は、かならず珈琲がおいしいはず!

一軒家からビルに変わってしまったけれど、もうお店を開いて40年以上になるそうで、娘さんと年配のお父さま(?推測です)がやっているような暖かなお店です。

運ばれてきた珈琲は口あたりがちょっとトロっとした感じで、「わあ♡美味しい」と声をあげてしまうほどのこだわりのお味でした。お友だちのロイヤルミルクティーも、とっても美味しかったそう。

ロールケーキもおいしい玉子を選んで手作りされているそうな。とても優しいお味で、おかわりしたくなりました。

そして、なによりもここは時間がゆったりと流れているように感じます。

窓際のカウンターで、お久しぶりのような、いつもどおりのような、そんなゆったりおしゃべりタイムを楽しむことができました。

ステキなひとときでした♡
@カフェ ド パルファン 下北沢