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ポトフはどこに?!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「美味しいポトフのお店がある」ということで、このポトフDayを楽しみにしていたのですが ・・・ どうやら、私たちのポトフDayはこの日ではなかったようで、結局お口に入ることはありませんでした (^^;;

この日の天の思し召しメニューは自然薯と湯葉。そちらのお店へと落ちつくことになりました。

湯葉が小鍋に入って出てきたので、これはほぼ和風ポトフ??だよね!(笑)

さまざまなメニューをみんなでシェアして楽しくいただきました。

そんな身体にやさしいランチをいただいたあとは、うっそうとした新宿御苑の森をかたわらにながめられる気持ちのいいオープンカフェへ。

梅雨の合間の曇り空の下、湿り気を含んだ風から木々や花や土の匂いがふんだんに感じられて、あ〜・・・なんてゼイタクな空間。

地元(中目・代官山)のカフェは最近、外国人観光客がどっとふえて落ちつかない雰囲気になってしまったので、この静けさはほんとうにありがたいです。

それに、おしゃれスウィーツもリーズナブルなのです。

私がいただいたのは、エンジェルフードという名前のスウィーツで、まるではんぺんのようなスポンジにキャラメルソースとホイップがもりもり。不思議な食感でとても美味しいでした。

あまりに風が心地よくって、日が落ちる頃まであれこれおしゃべりに興じておりました。

またリベンジポトフの帰りに、ぜひ立ち寄りたい癒しカフェでした。

みなさま、愉しいひとときをありがとうございました♡

 

 

 

気づきの日記「もっともっと・・・は不足を生みだす」

 

私たちは日々、自分に「つけ足す」ことに忙しくしています。

もっと美しく、もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに、もっと楽しく、もっと充実を・・・もっと、もっと、もっと・・・と。

この世界では「つけ足す」ことこそが幸せをもたらすと信じられているので、人生を通してつねに何かを「つけ足すこと」「補うこと」に労力を費やすことになります。

こどもの頃から、生きるための道具として国語や算数などの知識をつけ足すことにはじまって、今では生きるために必要な知識は十分に身につけたはずなのに、生涯を通通じてつけ足す作業は終わることがありません。

一般教養や趣味の知識にはじまって、マネ活、美容、副業、あの人は知っているのに私は知らないことについてなど・・・つけ足すものにはこと欠きません。

このように、つねに「つけ足す」ことに注意が向いているということは、それはまるで「私はこのままでは足りない不十分な人です」と自分自身に暗示をかけているようなものです。

足りないと信じていれば、何をしても、どこまでいっても結局は足りないということになってしまいます。つけ足そうとする努力は、さらなる不足感を生みだしてしまうのです。

セラピーにおいても勘違いされがちなのは、不十分な「足りない」自分に対して、セラピーを受けて「つけ足す」という考え方です。

しかし、そもそも幸せを感じることができない原因が「足りない」という不足の考えから生じているのであれば、修正するポイントはその「足りない私」「つけ足す必要がある私」という「不足の誤解」をただ取り除いてあげることだけなのです。

私たちのこころというのは、自分が目にするものすべてに魔法をかけてしまうほどの強力な力があります。

まさに、私たちは自分のこころが信じたものを目にするのです。そしてその力は、自分自身さえも欺いてしまうことができるのです。

だから、自分がある考えをいったん受け入れてしまえば、すぐさまそれは自分にとって真実となり、その考えが自分の体験を決定するようになります。

「私は足りない」と信じこんでいれば、どこまでも足りない状況を目にすることになり、足りない体験を楽しみつづけられる、ということなのです。

ものごとは、自分の決意ひとつにかかっているので、「自分が何を信じているか」ということはとても大切なことなのです。

それなのに、私たちは自分がどのような考えを信じているのかについて無頓着になっているがために、自分にかけてしまった不都合な魔法に気づくことがなく、そこから抜け出すことができません。

足りない体験をしているのなら、「足りない」と信じて、自分がそれを紡いでいることにまず気づいてみましょう。

すべての原因であるこころを修正することを忘れてしまうと、自分が生み出した結果にふりまわされ、その結果を補うことに忙しくしてしまうことになります。

このように自分で自分を不自由にしてしまう考えを手放すためには、その考えが「真実であるのか」「絶対にほんとうのことであるのか」をしっかりと見極めることが必要です。

たとえば「足りない」という考えに囚われているならば、ほんとうに自分の人生全般が足りていないのか、あるいは見落として忘れ去られている豊かさはないのか調べてみましょう。

完璧に100% 不足しているということは考えられないので、きっと「この部分は恵まれている」「この部分は豊かだ」という点をいくつか見つけられるはずです。

そうしたら、不足よりも、そのような満ち足りている部分をしっかりと味わい、感謝のこころをもってみましょう。感謝をすることで、「足りている」という感覚を呼び起こすことができます。 

先ほども書いたように、自分自身の癒しは「何かをつけ足して欠陥を修正する」ことではなく、「もともと足りなくなどないから、なにひとつ頑張ってつけ足す必要はない」という、自分に対する「完全さ」に気づき、それを受け入れることなのです。

目を閉じてリラックスし、深い呼吸をしながらこころを鎮めてあげると、不思議とこころはなにも欲しがらなくなります。外へ外へと向かうことをやめ、自分のホームへと戻ってきた安心感で、こころろは安らぎのなかで本来自分に備わっている満たされた状態を取り戻すことができるからです。

「満たされた感覚」はすでにこころの中に存在しているのです。外に探しに行くことがなければ、それに気づくことができます。 

こころが「足りない」という思いを信じなくなることで、自然と「足りない」という現象は解決されてゆきます。

また、日々の生活のなかで、感謝できることを見つけようとする姿勢によって、自分に与えられている豊かさを受け入れてゆくことができるようになります。

そうするうちに、「足りない」とか「足りてる」という考に囚われることなく、すでにこころのなかに存在する「満ち足りた感覚」とつながることができるようになります。

また、自分自身を豊かさの源として自覚し、自分の持てるもの、たとえば知識とか笑顔とか、優しさ、人への奉仕などを、自分からまわりに与えることで、自分自身が「十分に足りている」ということを受け入れることができるようになります。

よく「being」と「having」は同じことを意味するといいますが、まさに自分が存在としての豊かさを表現するとき、自分はすでにそれを持っていることを知ることができるのです。

何かをつけ足すことに忙しくして外へ外へと走りまわることよりも、まず内側へと向かい、静かに自分のこころとつながり、自分の中にすでに存在している「満ち足りている安らぎの感覚」を取り戻し、それをまわりと分かち合ってみましょう。

きっと、自分の being が豊かな having を生みだしてくれるのを目にすることができることでしょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

いただきもの〜♪

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その1〜ピンクの冒険〜

幼い頃から、ピンクの洋服を着た記憶がありません。いつも母が手作りしていたのですが、紺や白や水色が多かったような(これらの色が似合うから・・・という理由でした)。

なので、大人になってもピンクにはかなり抵抗があり、お洋服はおろかアイシャドウも定番人気ピンクは決して手にとらず、イエロー&カーキというような色を使っていました。

ところがここにきて(このトシになって!)、ピンク系のシャドウをいただくことたびたび。

先日、モーヴ系のシャドウをお友だちにいただき、使ってみたら「あら?!けっこうイイ感じ?!」と開眼。

そして、再びピンク系のシャドウをいただくことに。

マットとラメというずらりピンクなグラデーションが並ぶ素敵なパレット(見てるだけで楽しい♪)

使ってみたら、モーヴ同様ピンクも違和感なし。新たな発見です。

Kちゃん、いつも未知の冒険をさせてくださってありがとうございます♡

その2〜のけぞる美味しさ〜

いただいた手提げ袋のロゴを見て、叫んでしまいました。「きゃあ〜〜〜、ECHIREだ〜♡」

美味しいバターで有名なエシレさん。このお店で出しているサブレがずっと食べてみたかったのです。

これです!

缶のブルーが素敵です。使いこんだら、さらにイイ感じになりそう。

頂戴してからすぐには食べられず、一週間ほど拝んでおりました(笑)。

が、ついに昨日いただきました。

くちあたりが、サクッ、ホロッ、バターの香りがじんわ〜、という感じでおいし〜〜〜〜〜♡

食感、香りともに格別で、予想をうわまわりました。

くださったYちゃんはスウィーツ男子ではないのにもかかわらず、いつも「おお!」とうなってしまう秀逸なスウィーツをくださるのです。

一枚づつ拝みながらいただきます。ごちそうさまです♡

 

 

梅雨入りまえのひととき

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関東もついに梅雨入りしました。

そんな、長い雨降りの季節のまえに、お友だちの家のご近所にある素敵なところを案内していただきました。

一面の菖蒲と、深い緑。

ここは向ヶ丘遊園駅に近い「生田緑地」という公園です。都心からものの数十分とは思えない山奥にやってきたような異空間です。

しばし東屋に腰をおろして、心地よい風に吹かれ、緑や土や菖蒲の香りにひたり、ときには野鳥や鶯、かわづの鳴き声に耳を澄ませ・・・あまりの心地よさに自分の存在も忘れてしまいそう。

気がつけば陽も傾いて、あっというまに一時間半はたっていたようです。

なにをするでもなく、ただ坐っているだけでこんなにも幸せな気持ちでいられるなんて、なんというゼイタク。

今度は紅葉がきれいな秋に、他のお友だちも誘ってまた来ようね〜、と次なる楽しみもできました♪

素敵なひとときをありがとうございました♡

 

 

気づきの日記「苦しみはどこからやってくる?」

 

私たちは、人生の中に「苦しみ」という何かが存在していて、ある日それに遭遇することによって苦しみがはじまる・・・というようなイメージを持っているかもしれません。

つまり、苦しみとは「外側の世界からやって来るものであり、自分に対してふりかかってくるもの」という感じなのです。

そして一度苦しみに出会ってしまったら、逃れることができず、自分自身では制御不可能であり、自分は可哀想な被害者となってしまうのです。

しかし「苦しみ」というのは、そのような外部からやってくる「出来事」ではありません。

それはあくまでも、自分自身のものの見方であり、認識であり、解釈によって生じるものなのです。つまり、自分が目の前にあるものをどのようなものとして認識するか、ということです。

こどもが暗闇や影や何でもないものを怖がるとき、それはそのものが怖いというよりも、こころのなかで自分がでっち上げた解釈が怖いのです。それは実際には存在しないお化けであったり、モンスターであったり、妖怪であったりします。

そのとき、こどもは目の前のものを直接見ておらず、自分のこころのなかで作り上げたイメージを信じているため、そのイメージに対して叫び声を上げています。

自分勝手な解釈さえなければ、それはただの暗闇であり、影であり、物に過ぎないのです。怖い要素はどこにもありません。

じつは、大人が恐怖や苦しみを感じているときも、これとまったく同じことが起こっています。

自分がものごとをでっち上げるスピードが異常に速いため、自分自身がその間違った解釈の罠にかかり、ほんとうは安全であるはずのものが恐ろしく感じたり苦しく感じたりしてしまいます。。

瞬時に間違ったことを完全に受け入れてしまっているために、まったく疑いを持つ余地がなくなってしまっています。

しかし、お子ちゃまレベルでしか物事を見ていないという事実も、プライドが邪魔をして気づけないかもしれません。

苦しみを感じているのであれば、まずは自分の物事に対する見方が根本的に間違っているのかもしれない、でもそのおかしさにさえ気づくことができない自分がいる、ということを率直に認めてしまいましょう。

たとえば、「私は今起きていることを○○だと解釈しているが、 それはほんとうにほんとうのことだろうか?必ずそうなるのだろうか?事実なのだろうか?」と一歩はなれて冷静にながめてみましょう。

これが苦しみを解決する第一歩となります。

「自分は目にするすべてに対してありえないでっち上げをしてしまい、何ひとつ本来の姿で見ることができない人だ」と白旗を掲げてしまった方が良いのです(大丈夫です!みんながみんなそうですから♪)。

知覚や解釈が歪んでいることを認めて、さっさと訂正の助けを求めることこそが楽になる近道です。

さて、誰に助けを求めましょう?

それは、存在しないものばかりをでっち上げて大騒ぎをしているおなじみの自分自身ではなく、自分の正気の部分です。

自分のこころの正気の部分を「高い自己」あるいは「ハイヤーセルフ」と呼びます。この部分は、いつも私たちにインスピレーションやひらめきを与えてくれている叡智に満ちたこころです。

この正気の部分は、私たちにとって完全に忘れ去られてしまっているので、意識的に呼び起こし、つながることによって助けや導きを得ることができます。

私たちの見方は、自分自身では完璧だと信じていても、じつは壁のシミをお化けだと大騒ぎするお子ちゃまレベルなのです。

「そんなはずはない!」と思っても、そもそもあるがままの世界や物事を見て、平和でいられず、大騒ぎをし、恐れたりしてしまう時点で、解釈が正常ではなくなっているということです。

そうであるならば、素直にそれを認めて、自分自身の正気の部分であるハイヤーセルフに「いったいどのように見たらよいか」を尋ねてみましょう。怖れを知らない正気のこころに、怖れを知らない正しいものごとの見方を教えてもらいましょう。

ハイヤーセルフは私たちを常に尊重してくれるため、尋ねもしないのに「そうじゃありませんよ」「間違っていますよ」と勝手に口を挟んでくることはありません。

いつでも、自分自身から「正しく見たいです。助けてください。ものの見方を分ち合ってください」とお願いすることが必要です。

どんなときにでも、どのような人にでも、完全な幸せしか見ることができないハイヤーセルフの視点こそ、幸せになりたい私たちがマスターしなければならないものの見方です。つまり、ハイヤーセルフの視点こそが正しいものの見方なのです。

それはあるがままの見方であり、認識であり、解釈でありながら、私たちの怖れに満ちたものの見方を超越した完全に平和な認識です。

どんなときでも、「私と一緒にこれを見てください」「私は困ったことがあるとしか認識できていません。本当は何が起きているのか教えてください」というように、常に苦しみや恐れをでっち上げることに慣れているお子ちゃまレベルの認識力を修正してもらいましょう。

こどもも、「それは怖いものではなく、ただの壁のシミだよ」とか「闇の中には、何も怖いものは存在していないよ」と教えてもらうことで、徐々に安心して正しく見ることができるようになります。

一つづつ高い自己と共に見ることを進めて、自分の見方の歪みを優しく修正してもらいましょう。

自分のこころこそが苦しみや恐れを世の中や出来事に押しつけていることに気づけば、肩の力が抜けてくるでしょう。

なぜなら、それらは外側から突然自分に襲いかかってくるものではなく、自分のものの見方を修正すれば異なるものが見えてくることがわかるからです。

自分のこころが災いの元であるならば、それを訂正するのは自分自身の責任であり、自分の幸せのためにも自ら行うべきことです。

「自分の見方や解釈は正しいのだ!」という思いは一度手放して、こどものような気持ちでひとつひとつをハイヤーセルフに「どういうことなのか」教え導いてもらいましょう。

常に尋ねる姿勢を持つことで、ハイヤーセルフと自分の境目が徐々に薄れ、ハイヤーセルフの見方や考え方が自分のものになってきます。それは、真の自己と一体化し、正気を取り戻すことです。

すると、過去の自分にとっては苦しみや恐れであったはずのものが、今の自分にとってはまったく脅かされることなく安らかにスルーすることができるようになっていることに気づくかもしれません。

そのようにして、苦しみではなく、安らぎや愛や幸せだけを見ることができるハイヤーセルフのものの見方をひとつずつ教えてもらいましょう。

 

 

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どこもにぎわっています♪

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ミーティングを早めに切りあげて、近所のイラリアンへ。

じつは、お目あてのお店は満席で、こちらのお店も時間をずらしてかろうじて席がとれた次第です。

アフターコロナで、みんな集うことの喜びを感じてにぎわっているようです。

ということで、この日は私とSちゃんのバースデー祝いをしていただきました。

また、お仲間にお祝いしていただける世の中になってほんとうに嬉しい♡

コロナがあったからこそ、みんなでテーブルを囲んでわいわい過ごすありがたさをひしひしと感じるこの頃です。

 

 

あじさい散歩

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まだ風がサラリと心地よいこの時期は、深い緑に包まれた公園をお散歩するのがとても気持ちがいいです。

ここ新宿中央公園には紫陽花ロードというのがあり、さまざまな紫陽花に彩られています。

ここ数日の雨で、お花がもっと大きく色濃くなっていることでしょう。

ベンチでお喋りするひとときは、ひんやりとした緑や土の匂いに包まれてこころがのびのびする癒しタイムとなりました。

帰りがけに老舗の珈琲屋さんで美味しい一杯をいただいて、ほっとひと息。

贅沢な午後でした♡

 

 

 

気づきの日記「こころが荒れ模様のときには」

 

今日は台風の影響で、朝から大雨&暴風のダブルパンチでした。

天候や四季が移り変わっていくように、私たちのこころも日々さまざまなお天気模様を体験します。

「もう、何があっても大丈夫!」と思えるほど、こころが安らいで穏やかに過ごせる日もあれば、問題が次々と勃発し、すべてを投げ出したくなる日もあります。

物事がうまくいかず大雨&暴風に見舞われているような感覚に陥ってしまうとき、私たちは必死でものごとを立て直そうと様々な手を尽くします。

しかし、焦ってジタバタすることで混乱が深まり、問題をさらに長引かせてしまうという結果になりかねません。 それは、スタート地点が間違っていたからです。

「それをどう見るのか」という解釈が、「物事がどうなるか」を決める大切な要素となります。

「自分にとって困ったことが起きている」と信じれば、「困難な状況」という判断から出発することになり、あせってあれこれ手を尽くしても、結局は「困難な状況」から抜け出せなかった、ということになりがちです。

逆に、「自分にとって善いことが起きている」と認識すれば、手に負えないように見えていた状況でも安心のなかでリラックスしながら対処することで混乱が鎮まり、最終的には「あの出来事が起こってよかった」と思える「善い結果」につながるのです。

「困ったことが起きている」と感じた場合、それに対して身構えることで抵抗する気持ち強まり、その対象により大きな存在感を与えてしまいます。そして結局、不快な状況を強力にしてしまい、対処するには自分は力不足であると感じてしまうのです。

一方、「善いことが起きている」と信じれば、リラックスして受け入れることができ、それによって問題を荒げることなく自然と収束に向かわせることができます。とくに頑張らなくても暗い雲は過ぎ去り、自然と穏やかな景色や善い結果が見えてくるのです。

だから、こころが悪天候に見舞われているときは、闘う、抵抗する、変えようとするのではなく、まずゆったりと落ち着いてから対処することが大切です。

台風やハリケーンに見舞われているときも、自らそれをどうにかしようと闘うことはありません。それと同じことです。

そのままにすることで抵抗する力を加えなければ、それは自ずと消滅してしまいます。逆に、どうにかしようとすることで、自分がそれをしっかりと握りしめてよりリアルにしてしまっていることに気づきましょう。

また、問題が連続して起こるようなときには、じつは問題から卒業するための浄化が起きているときです。「今度こそ問題を終わりにして、完全に手放して自由になりましょう」というときなのです。

私たちは誰でも、こころの中に廃棄しなければならないゴミをたくさん抱えこんでいます。しかし、普段はそのゴミの存在に気づくことすらありません。なぜなら、あまりにもこころの奥深いところ(無意識のなか)にそのゴミは押し込めらているからです。

深く押し込められて見えなくなっているため、そのようなゴミが存在していることにすら気づくことができなくなっています。しかし、そのゴミは私たちの知覚するものすべてに影響を及ぼし、それらを歪め、浄化の機会を逸してしまいます。

すべてが不快に見えるからこそ、それをそのままにしておくことができなくなってしまいます。あわててそれに立ち向かい、なんとか変えようとしてしまうのです。

問題が多発しているときこそ、こころのゴミがついに表面化し、気づくことができるレベルまで浮上してきたときなのです。だから、表面化してきた問題をそのままに手放して、それらが消え去ってゆくことができるようにしてあげましょう。

浄化作用が自然に起こり、たまっていたゴミをこころのなかから解き放ってくれます。

こころのゴミさえきれいになれば、放っておいても自分にとって善いことが起こるようになります。なぜなら、本来私たちのこころには自分が目にする世界を完璧にするための光が備わっているからです。

その本来こころに備わっている光が輝き出せるように、こころが悪天候にみまわれたとしてもあわてることなく、落ち込むことなく、穏やかなこころで受け入れてみましょう。

闘いを挑まなければ、悪天候はやがて過ぎ去ってゆきます。そして、浄化されたこころは光を放ち、穏やかな世界が照らし出されます。

すべては善きことのため 。起こっているプロセスを信頼して、すでに自分のなかにある光を解き放てるように、ゆったりとリラックスしてすべてをそのままに行かせてあげましょう。

 

 

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お茶の間シネマトーク「ミセス・ハリス、パリへ行く」

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戦後十数年、いまだ戦地から戻らぬ夫を待ちつづけるミセス・ハリス。

親友に支えてもらいながら、家政婦の仕事に精を出す日々。とっくにわかっている答えを直視できずに過ごしていたのですが、ついに夫の戦死を知らされることになります。

はかなげに見えたミセス・ハリスはポッキリとこころが折れてしまうかと思いきや ・・・ 意外や意外、解き放たれた表情。「これで自由だわ」と自分の人生を生きることをこころに決めた様子。

彼女は家政婦の仕事先でひと目ボレしこころを奪われてしまった美しいディオールのドレスを手に入れるため、大胆に行動を開始します。(→予告をみる

当時のディオールはまだパリにしかお店がなく、世界中の上流階級が自分のためのたった一着のドレスを求めてやってくる超高級メゾン。

しかしそんなことなどお構いなしのミセス・ハリスは、さっさと必要なお金(今にしたら、一着のお値段は500万円ほど)を用意して、嬉々としてパリへと旅立つのです・・・が、

パリのメゾンではひどい門前払いをくらうことに。しかし、ドレスと恋におちたミセス・ハリスは、どんな難関もドレスへの恋心で乗りこえてゆきます。

ミセス・ハリスは、おそらく50代ぐらいだと思うのですが、ほんとうに無垢な乙女のような表情がとってもチャーミング。誰もが彼女の魅力に引きこまれ、気づかぬうちに見方となってしまい、そして次々にありえないことが起こる、という不思議な力の持ち主のミセス・ハリス。

彼女のチャーミングさとたくましさだけでなく、パリのディオールのメゾンの様子も面白いです。

ちょうど、「ディオールと私」という、ディオールの新デザイナーだったラフ・シモンズのコレクション発表までの日々のドキュメンタリーを観たばかりだったので、白衣のような作業着を着たお針子さんの様子や、ディールという看板の厳格さなど、今もむかしもあまり変わっていないのね〜、と感じました。

この作品のなかでミセス・ハリスの表情を見ていて、なぜかよく知っている人を見ているように感じたのです。

「誰だろう?」と考えていたら、それはこちらにいらしているクライエントさんたちの表情でした。

セラピーを受けられた女性クライエントさんたちは、どんどん無垢な乙女のような表情をされるようになります。

こころのなかのわだかまりを手放して、さまざまなルールや制限から自由になったとき、私たちはとても穏やかでありながら無垢で、そして輝きのある優しい表情になります。

ミセス・ハリスがパリにやって来て、ものおじせずにどんどん自分らしさを発揮しながら輝いてゆく姿も、まさにクライエントさんが変わってゆく様子と重なるのでした。

こころが開放されて自由だったら、ものごとはいいように流れて行くし、みんなハッピーになれる♡

そんなふうに感じさせてくれる作品でした。

 

 

アタマとハート

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お江戸にいらしていたお友だちとランチ。

「なに食べる?」と話しあったところ、お互い「今日はおさかな、だね!」ということになり、いろいろなお魚定食のあるおばんざい屋さんへ。

ところが ・・・ 目のまえに運ばれてきた定食はこのようなことに。

鶏の柚子胡椒焼き定食と牛カツ定食。これはともにおさかなではなく、ミートでございます。どうしたことか?(笑)

アタマは、最近食べたメニューやダイエットのことなど考えて「おさかな!」と主張していたのですが、結局、私たちのハートは体調やら足りていない栄養素などのもろもろを考慮して、いま私たちにとって必要なメニューをわりだしてちゃんとオーダーしてくれたのでした。

アタマはいつもあれこれ考えて、ぬかりなく現実の指揮をとって満足しているように見えますが、じつはそれとは別にちゃんと必要なこと、ベストなことがただ起こっているのですよね。

だから、起きていることはそれでオッケー! もっとアタマではなく、ハートを信頼せねばっ(苦笑)。

ということで、この日ふたりにとって必要なお食事は鶏さんと牛さんなのでした。一切れづつトレードしていただきましたが、どちらもおいしかったです。

こちらは、お友だちから「少しでも姫気分になれたら♡」といただいたリップクリームとハンドクリーム。

パッケージがきらきら美しく、どちらも夢みるようないい香り。じつは、淡いピンク色のリップの先端がダイヤモンドのようにカットされていてるのです。どこまでも麗しい気分になれます。ありがとうございます♡