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気づきの日記「静けさが答えてくれる」

 

私たちが怖れを感じているとき、

何かが自分に対してふりかかってくるように感じています。つまり、ある状況が自分の外側から自分に対してやってくるように感じられるのです。

苦難にしろ、病にしろ、困窮にしろ ・・・ 自分はいつもその状況に見舞われる被害者なのです。

しかし、ほんとうはそうではありません。

怖れを感じているときはいつでも、アタマのなかで紡いでいる自作のストーリーこそに脅されているのです。コワいのはそのストーリーのベースとなっている自分の考えです。

私たちはその自作のストーリーを信奉しすぎるあまり、それは自分が勝手に紡いだものであり、なんの根拠もなく、まったく真実ではない、ということがわからなくなっています。

私たちは自分の考え(でっちあげ)については、疑う姿勢をもちません。ハタから見てどんなにマトはずれであろうとも、自分のものだからこそ大切にしてしまうのです。

そして、それがドラマチックでかつ悲惨的であればあるほど、こころのすべてのエネルギーを傾け、片ときも忘れまいとこころに保ちます。

こんなに愛しちゃったのだからこそ、自分にとってはまぎれもなく真実となっているのですが・・・。

自分のアタマはこの自作のストーリーでいつもぱつぱつなので、何が目に映ろうともこの自作のストーリー展開に加担させてしまうのです。

すべて自分のストーリーに巻きこんで、うまくつじつまをあわせてしまいます。

そうなると、どんなにヨイことが起きていようとも、明るい方法に向かっていようとも、すべてを自分色の悲惨にぬりかえてしまうのです。こころはいつも、自分が信じたことには恐るべきパワーを発揮するからです。

そして、自分が紡ぐ悲劇のストーリーはどんどん成長し完璧になってゆきます。

けれど、しょせんストーリーはストーリー。真実とストーリーは違うのです。

ストーリーはほんとうのことのように感じますが、ただのでっちあげの妄想。絵空事にすぎません(架空の妄想にちぢみあがる私たちっていったい・・・?!汗)。

自分のアタマのなかで妄想ストーリーを紡ぐことをしなければ、そこにはただまっさらなあるがままの平和があります。

それはそのまま流れてゆき、おのずと完全な形をなしてゆきます。

せき止めたり、コントロールしようとしたり、ねじ曲げたりしなければ、自動的にいちばん省エネでラクなルートをスルスルと通りぬけ、行くべきところ(幸せ)へと行きつくのです。

それこそが、すべてのなかに存在する叡智のなせるわざ。

エゴ的な思いでものごとにふれることをしなければ、それは手だしせずともすべてをなしてくれるのです。

でも、その完全さが見えない?わからない? ・・・ それはすでに、自分で結末やプロセスうんぬんを決めてしまっているので、起きていることがそこにあてはまらないように感じているだけです。たんにエゴの戦略にあっていないだけなのです。

ただ手ばなすとことをすると、いつもびっくりさせられます。

こころはまだ疑って怖れを感じていても、とにかくゆだねよう!とすべてから手をひいていると、あるとき「えっっっ?!そうくる?」とビックリするすることになります。それは、自分の予測、計画、思いつきのすべてを超えるストーリー展開だったりするのです。

そして、もちろんそれを気に入らないはずがありません。

コワくても手ばなす練習をつづけていくうちに、この「えっっっ?!」という予想外の完全さをくりかえし体験するようになり、今起っているプロセスへの信頼が深まっていきます。

「私の策略はなんの役にもたたない」「私の考えは怖れをベースに紡がれているから、たんに完全さの邪魔をしているだけなんだ」「すべては手をはなしたとたんに転がりだす」「そして結末は、私はもちろん、かかわる全員にとって恩恵のあるものになる」

「私にできるのは、ただこの流れに指一本ふれずに静かに退いていること」

そして、この信頼からくる平和なこころこそが、本来の自分のなかにあるひかりを広げ、そのひかりのなかで目にするすべてを輝かせてくれます。

だからいつだって、平和な世界は自分のこころ・思いこそがすべてなのです。

アタマはいつも瞬時に判断を下そうとしますが、裁きを手ばなしただ静かに見ている存在になることで、自分の世界に存在していた戦いが静まります。

裁きの思い、判断こそが、自分の目にするものにケンカを売って、その敵意がはねかえってくることで自分のこころを傷つけていたのでした。

戦いの気持ちがなくなれば、はねかえりもなく、自分にとっての世界は平和に静まります。

ついついしてしまいたくなる間違い探しや比較、裁きを手ばなして、すべてをただそのままにしておきましょう。ただ流れゆくものとして流してあげましょう。

ストーリー(セリフ)はすべて手ばなして、アタマをからっぽに鎮めて、起こることをそのままにしてあげましょう。

裁きもなくカラッポにされた空間には、自分本来の安らぎであるひかりが広がります。そして、そのひかりこそがすべてを浄化し美しくしてくれるのです。

静かにすれば、ひかりの中でおのずと答えが展開してゆきます。自分のなかの叡智が静かにリーダーシップをとります。

それには間違い、というものはありません。ただあるがままで大丈夫なことこそが、私たちがいつも守られ大きなちちからに慈しまれている証なのです。

もしその途中で怖れを感じることがあるのなら、それは自分のものではない怖れが浮上してきただけです。ただ受けとめて、感じて、終わりにしましょう。自分でストーリーを紡げなくなったエゴが縮みあがって叫んでいるのですから。

エゴはいつも、結局は苦しみを生みだすことしか提案してこなかったのです。すみやかに去ってもらいましょう。

私たちの思い(考え=エゴ)は決して正しくない、ということです。

こころに抑圧されていた罪悪感や怖れのせいで、なんとか自分が罰(苦しみ)を受けずにすむように、必死で策略してあがいていたのが「あれこれの思考」だったのです。

けれど私たちの高い自己であるハイヤーセルフは、そんな私たちの怯えたこころも見越して、

「ただすべてから手を引いていてください。あなたの一歩一歩を安全に導きましょう。そして、あなたの自分に対する間違ったイメージ(罪悪感や怖れ)もまとめて手ばなせるように面倒をみましょう」と言ってくれています。

だから、今することはひとつだけ! ただ信頼して、後ろに退いて、手だしをすることなく、ゆったりくつろいで、「これっていったい、どうなるのかな〜?楽しみ♪」という気持ちですべてを見守っていましょう。

おまかせしておけば大丈夫! からなず、自分(エゴ)が思っていたよりもはるか上に連れていってもらえます(自分でするよりも、もっといいところに!)。

ハイヤーセルフにすべてをゆだねる気持ちをもつことで、傷をおうことなく、ひとつひとつにおいて守られ導かれていることをこころの底から知ることができるようになるでしょう☆

 

 

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お茶の間シネマトーク「セッション」

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米国最高峰の音楽院に入学したばかりのアンドリュー・ニーマンくん。彼はジャズ ドラマーとして偉大になることを夢見ています。

幸いにも著名な教師フレッチャーのもと、バンドに参加することが許されたのですが ・・・ そこでアンドリューくんは想像を絶する地獄を見ることになります。

教師からのハラスメントなんてものではありません。まるで「愛と青春の旅立ち」や「フルメタルジャケット」の鬼教官を彷彿とさせる血も涙もない拷問のようなシゴキそのもの。ここは軍隊?!

言葉の暴力は生徒自身のことのみならず、親や生まれのことにまで及び、さらにビンタは飛ぶは、ドラムやシンバル、椅子までも飛んでくるしまつ(わあ〜!この人、サイコパス?!)。

しまいには、アンドリューくんのドラムをたたく手は血まみれに・・・。(→予告をみる

人は自分の言動がどのようなものであろうとも、自分がそのときに最善だと信じていることを言ったり行ったりするものです(はたから見たら、それが狂気であったとしても)。

この教師は、自分が見こんだ生徒に対しては徹底的に貶めて、屈辱を与えて、心身ともにボロボロにすることこそが成長の動機となると固く信じています。

「次のチャーリー・パーカーはなにがあっても挫折しない」とフレッチャー。自分の使命は、生徒たちを期待以上の高みに引き上げること。それも自分が信じた方法で。

だから、それらは決してイジメや暴力ではなく、彼にとっては最善であり、生徒への愛そのものなのです(丸々信じたら、それがその人にとっては真実ですね・汗)。

しかし、こんなことが学校で問題にならないはずもなく・・・やがて傷ついたアンドリューくんも教師のフレッチャーもともに学校を去ることになるのですが、それが終わりではありませんでした・・・・(きゃあ〜☆コワ!)。

ふだんはあまり目がいくことはなかったのですが、ドラムスってたいへん〜〜〜! 演奏家というよりもアスリートです!

生徒役のマイルズ・テラーさんはドラム未経験者にもかかわらず、ほぼスタントなしで演じきったそうですが、まさに狂気の演奏です。

ずっとドキドキですが、私はこのエンディングのあとこそがすごく気になりました。

 

 

時をこえた音楽の館

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「ランチをしたあと行きたい喫茶店があるんだ」と言われ、

喫茶店?! カフェじゃなくって、あえて喫茶店っていうことは ・・・ クリームソーダやナポリタンがある昔ながらの純喫茶か、はたまた初老のマスターが一杯づつ丁寧にサイフォンやネルドリップでいれてくれるこだわりのお店か ・・・?

どっちも違っていました。「名曲喫茶」だったのです。

名曲喫茶とは、珈琲などを楽しみながらレコードから流れてくる音楽に静かに耳を傾けるお店。

新宿にはまだあると聞いていましたが、渋谷にもあったのですね。

見てください! この外観。名曲喫茶ライオンといいます。

(撮影:MM氏)

なんと、創業1926年だそう(おおよそ100年まえ!)。一回戦火で消失したそうですが、それでも再びつづけられたのですね。

当時はステレオでさまざまな名曲を自由に聴くことはむずかしかったと思うので、このお店は名曲と珈琲のある贅沢な空間だったことでしょう。

お店のプログラムには、「帝都随一を誇るステレオ音響完備」とあります。「帝都」という単語が年代を感じさせます。

お店のなかは撮影禁止なのですが、壁一面に巨大なスピーカーがあり、当時からのレコードプレーヤーも置いてあります。

きらめく古いシャンデリアや木でできたゴシック風の柱を見ていると、ここで過ごした人々の雰囲気や流れた数々の音楽が肌で感じられるようです。

ここのシステムはどうなっているのかわからなかってのですが、コーヒーを持ってきてくださったおにいさんに「リクエストなんてできたりするんですか?」と尋ねてみたら、「はい」と言われ、

「どうやって?」と再び尋ねると、「口頭で」と。

では!と、すかさずリクエストを口頭で伝えました。

この日は冷たい雨降りだったので、青空と広がりと風が感じられる曲が聞きたくて、「じゃあ、ラフマニノフのパガニーニの主題によるラプソディの18を」とお願いすると、おにいさんは題名を復唱することもなく静かに「はい」と答えると去ってゆきました。

この日のお店のプログラムはバルトークだったので、先客のリクエストとバルトークがかかったあとに、曲目と演奏者の紹介があって私のリクエストがかかりました。

お店いっぱいに広がる重厚なレコードの音色。大好きなルービンシュタインの演奏で嬉しくなりました。

お店にアルバイト募集のはり紙があったそうですが、クラッシックからグレゴリオ聖歌まで網羅する知識があり、瞬時にレコードをピックアップするためには相当な経験が必要そうです。店員のおにーさん、すご〜〜〜い☆

びっしりと収納されたレコードは毎日出し入れされたせいで、すっかりジャケットがすりきれていました。

ひさしぶりにレコードからの音色を聴きましたが、CDにくらべてしっかりと重さや奥行き、広がりがあるように感じ、こころに沁み入るようでした。

思わぬステキな体験ができました。お誘い、ありがとうございました。楽しかった♪

 

 

気づきの日記「タロットにハマってる?!」

 

その月々によって、いらっしゃるクライエントさんに特徴があったりします。

男性ばかりの月もあれば、ご相談者がオール28歳とか、相談内容がオール「浮気」などなど。クライエントさん同士が申しあわせたの?! と疑いたくなるほどシンクロしていたりするのです。

9月は ・・・ みごとに「タロット」月間でした。

いらっしゃるクライエントさんが口々に同じことをおっしゃるのです。「最近、YouTube のタロットに中毒的にハマっていて、やっているうちに身も心も具合が悪くなってきました・・・」と。

YouTubeでさまざまな動画が見られるようになり、タロット占いもわざわざ占い師さんを訪ねなくとも簡単にできるようになったのですね。

あまりにも手軽にできるので、ちょくちょくのぞいているうちにすっかり依存状態になり、占いの結果を見てはいちいちザワザワする・・・と。

タロットじたいはまったく害のあるものではありませんが、大切なのはその使い方です。出てくる札には不吉な雰囲気のものもあるので、どのように解釈するのかが大切になってきます。

そして、タロットに依存してしまう心理とは・・・ それは、過去に思い残しがあるため、現在がもの足りなく感じ、じゃあ未来はいったいどうなのよ?!少しは変われる? と未来ばかりに期待してしまうのです。

タロットはそのときの自分のこころを投影しているだけなので、いくらひきつづけてもこころを変えることはできません。むしろ、タロットを見て、今の状態に気づき、ではどう対処するのか、が大切になってくるのです。

タロットをひきながら未来を気にすれば気にするほど、たった「今」という自分が真に存在している時間軸からパワーが失われてしまいます。

未来は存在していないので、そこにいくらパワーを注ごうとしてもパワーは帳消しになってしまいます。

私たちがいるべき時間軸は唯一存在する「今」だけで、ここにこそすべてに変化を起こすためのカギが存在するのです。

過去を悔やんだり未来を心配することは、すっかり「今」がお留守になるので、まさに「今」から力が失われ、すっかり消耗しきってしまうのです。

そして、何度未来を心配しても、そこには変化を起こす手がかりは存在しません。

こころにとっていちばん健康なことは、しっかりと「今」に足をふんばること。

でも、「今」にいると不安や感じたくない感情に出くわす、ということもありえます。

そのときはまさに、今のこころをお掃除してくださいね、いらない感情を認めて、素直に手放し、安らかにすっぽりと「今」に向きあえるようにしてくださいね、というメッセージなのです。

「今」にいたくない理由を認めて、それを手放してあげる必要があるだけです。

そして、いらないものを手放したら、まったく怖れとは無関係の真の自分を思い出すことができるように、高い意識(ハイヤーセルフ)の力をかりましょう。

変化は真に存在する時間軸「今」のなかでしか起こすことができません。

存在しない過去や未来にとらわれることなく、しっかりと「今」に向きあって、ここから確実な変化を起こしましょう。

たった「今」、自分のこころが誤作動して起こしている間違い(後悔、罪悪感、無価値観、虚無感・・・)を修正することによって、すべてが変化してゆきます。それぐらい「今」にあるこころにはパワーがあります。

そして、タロットでどんなカードが出たとしても、こわがらなくって大丈夫です。

なぜなら、エゴが紡ぎ出す残酷なストーリーでは「死神」やらこわいカードが不吉なことを伝えていましたが、今や私たちは自分を完璧に守ってくれるハイヤーセルフの光のなかで安らいでいます。

ハイヤーセルフはそんなこわいカードさえも、いちばんステキな贈ものへと魔法をかけて見せてくれるのです。

そのためには、しっかりと「それが見たい」と伝えてみましょう。

タロットのカードはなにが出ても大丈夫! ハイヤーセルフとともに見て、ステキな贈ものを受けとる機会にしましょう♪

 

 

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空の色

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最近、朝に夕に空を眺めることが多くなりました。

それは、ようやく分厚い遮熱カーテンから景色が開放されたから。

夏のあいだもこんなに夕焼けは綺麗だったのかしら?

もう少しすると、ある日いきなりきれいな富士山が姿をあらわしてびっくりします。

これから冬の終わりまで、雲や空の色、遠くの山並みを眺めるのが楽しみな季節です。

 

 

朝からメデタイ♡

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お友だちのバースデーです♪

私のお誕生日には毎年素敵なお祝いをして下さるので、私もお友だちのバースデーが近づくと「今年は何がいいかな〜?」と考えるのが楽しみのひとつなのです。

ということで、今年は二部構成にしてみました。

第一部は、少し早起きをして朝カフェの巻。ちょっとオシャレなそのお店は私のお気に入りスペースで、コロナ以前はよく通っていました(@代官山IVY PLACE)。

そして、朝食のあとはおうちで映画鑑賞会をすることに。去年一緒に行こうと話していたのに見逃してしまった作品「きのう何たべた?」を観る ・・・ というプラン。

第二部は別日程で、近所のカジュアルフレンチにてランチ会です。

まずは、第一日程から! お友だちがせっせと早起きして、ラッシュに揉まれつつも代官山まで来てくれました。

スープにオムレツにパンケーキ ・・・ という、ごくごくふつ〜の朝ゴハンですが、

パンケーキはハレの日なので、しっかりとおめかししてもらいました(お店の方、早朝からありがとうございます!)

いつも二人でシェアして食べる三段重ねの大きなパンケーキですが、プレートの迫力で小さく見えますね。

Mちゃん、今年も一緒にお祝いできることがなによりの幸せ♪ 元気で Mちゃんらしい楽しい一年になりますように♡♡♡ おめでと〜 ♡♡♡

 

 

 

気づきの日記「幸せはあるがままを見ることから ー妄想劇場から脱出するー」

 

ものごとをそのままに、「あるがまま」見ることが幸せにつながります。

そこに自分自身の考えを何もつけ足さないとき、 安らかさや平和が存在するのです。

さて・・・私たちは日々、どれだけものごとをあるがままに、まっさらな状態で見ることができているでしょうか? 

あるいは、自分独自のでっちあげである妄想劇場にハマって、自分自身を怯えさせてしまっているでしょうか? 

まっさらに見るということは、「あるがまま」に受けとめることです。それは、自分勝手な価値判断やでっちあげをせずに「素のままで見る」ということです。それをただそのままにしておくのです。

「そんなこと、あたりまえじゃないですか? 」と言われそうですが ・・・ あるがままに、でっちあげなしでものごとを見ている人はあまりいません。

それをそのままにして、自分の空想や妄想にひっぱりこまないでいる人は少ないのです。無意識のうちに、私たちはものごとを自分の妄想劇場へとひっぱりこんでしまっています。

たとえば、「今朝、パートナーがとても不機嫌だった。私が何か気に入らないことをしてしまったのだろうか?」、あるいは「さっき同僚に話しかけたのに、無視されてしまった。私は嫌われているのだろうか?」 ・・・ これらはすでに、勝手な「妄想(でっちあげ)」です。

「パートナーの不機嫌」も「私が気に入らないことをした」というのも本当のことではないし、「同僚に無視された」「私は嫌われている」というのも自分が作り出したストーリーにすぎません。 

まっさらな見方というのはこんな感じです。「今朝、パートナーはいつもと違うように私には感じられた」、とうことであり、「さっき同僚に話しかけたが、私には彼女の答えは聞こえなかった」ということです。違いがわかるでしょうか?

後者は、そのときに起こった事実のみであり、自分の推測や憶測・でっちあげは含まれていないのです。 

私たちにとってものごとを「見ること」ということは、「妄想すること(勝手なでっちあげをすること)」とイコールになってしまっているようです。

なにかを目にするたびに、自分にとっての意味や価値判断を勝手にくっつけて、自分独自のストーリーをでっちあげてしまうことで、妄想劇場が始まってしまいます。

その妄想劇場はたいてい、見捨てられたり、攻撃されたり、拒絶されたり、という悲しいストーリー展開が待ち構えています。 

幸せを感じられない人、喜びや安らぎの感覚が乏しい人、不安に支配されている人は、決まって妄想劇場の住人であり、悲しいストーリーの主人公になるのが得意なのです。

何かを目にしようものなら、そこから怒濤のように自分のでっちあげがはじまり、そのストーリー自体に自らが呑み込まれてしまうのです。

ひとつでっちあげをしたら、そこからまた別の架空のストーリーが生まれ、さらにそこからも・・・というように、アタマのなかは事実ではないストーリーでいっぱいになってしまいます。

そうなると、最初に自分が目にしたものごとから、とんでもなくかけ離れたストーリーが捏造されてしまうのです。

そして、その捏造したストーリーについて悩みはじめます。なぜなら、でっちあげ劇場はいつも悲しくつらいストーリーが展開し、そのストーリーがこころを釘づけにするからです。

「私がこんなに悲しいのは、これらのものごとが起こっているせいに違いない?!」と、架空のストーリーを信じてこころを痛めます。

しかしこころが痛むのは、自分が作りあげたストーリーを信じているせいです。自分で自分の首をしめて苦しがっているのです。それしか理由がありません。

不幸の原因は、つねに自分勝手なものごとへの価値判断であり、でっちあげストーリーなので、原因は自分以外にはありえないことになります。

自分のでっちあげ・妄想こそが、自分を傷つける凶器となってしまっているのです。

このような妄想によって自分を痛めつけないために、ものごとを「あるがままに見る」ことを学ばなければなりません。

「あるがままに見る」とは、文字通りまさに「あるがまま」。ものごとについての「解釈」や「価値判断」の一切を停止して、それらを空欄のままにしておくことです。ただ事実だけにとどめておくのです。

つまり、「見る」ということは、そこに何かをつけ加えるのではなく、見たらそれで「はい!おしまい」。それ以上なにも必要はありません。そのままにしておく、ということです。

それが、「あるがまま」を受け入れること、味わいめでること、正しく見ることです。

あるがままに受け入れ、味わいめでることができると、ものごとと自分との間に対立が生まれることがなくなるので、摩擦が起こることもなく、自分自身が安らかで平和になります。

何に対しても「ものを申したい」「コメントしたい」「解釈したい」という気持ちは手放して、すべてをそのまま、「あるがままに」とどめおきましょう。

そのままにすることによって、目のまえのことはただ流れてゆき、自分がありもしない複雑なストーリーに巻きこまれて、あれこれ考え悩むことがなくなります。ムダなエネルギーを消耗することがなくなるのです。

それはまるで、自分自身は岸辺に立って、ただ静かにものごとという川が流れてゆくのを眺めているような感じです。

わざわざ自らが川に飛びこんで、バシャバシャと溺れそうになりながら川の流れと取っ組みあいをする必要はないのです。

川岸に佇んで、ただ静かに流れを見守るという穏やかなこころの状態から、安らかな自分の世界が広がってゆきます。安らぎとは、まさに自分の世界の静けさです。

すべてを安らかに、そのままにしておきましょう。ものごとが流れて行くままにしておきましょう。

そして、そのままものごとに手をふれないでいるとき、宇宙の秩序がすべての面倒を見てくれます。自然にすべてのピースがきれいにおさまり、たんたんと正しく進んで行くというような完全さを見ることができるでしょう。

その安らかさと完全さを体験するために、自分の妄想で自分を混乱させることなく、ものごとをただ起きている事実として「あるがまま 」に見る、という練習をしてみましょう。

 

 

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夏バテ、ご注意!

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朝晩はめっきり秋らしくなってきたのに、日中は今だに30℃ごえの毎日です。

こどものころ母が、「九月にはいったらノースリーブは寒くて着せられないわ」と言っていましたが、今は九月中旬でも余裕のノースリーブ。

猛暑のころよりも格段にラクなはずなのに、なぜだか体がボロボロ状態。眠れないし、頭は痛いし、めまいはするし、体温調整ができず、動悸に息切れ、脱水症状まで ・・・ 。

あら? これって、テレビで解説していた夏バテ症状にどストライクではありませんか。

なんだ〜、夏バテか〜!と気づいたら、ちょっとラクになりました。(じつは、心臓に不具合が起きたかと思って冷汗ものでした・苦笑)

心配したお友だちからすぐに、元気になるサプリが送られてきました。

たしかに・・・汗かくとミネラル分は不足するし、口あたりのいいものばかりを食べていると基本的な栄養素が不足気味になるのでした〜。

オマケ(?)も入っていました☆

ピンクのコンパクトがキュートなクッションファンデ♡ かわいい♡ (私のアガる↑ ポイントをこころえていらっしゃる!笑)

もう、この二つを眺めた時点で、70%回復状態!

サプリをとって、あたたかいお風呂にゆっくりつかって、おいしいものを食べて、少し瞑想をして、ベッドでごろごろ過ごしたら ・・・ すっかり体力が戻ってきました。

Kちゃん、おこころづかいをありがとう!やっぱり、愛こそがいちばんのおクスリです♡

みなさまも、夏バテにはくれぐれもお気をつけくださいませ。

 

 

秋にぴったり、きらきらキャンドル

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沖縄のお土産でいただいたキャンドル。

モーヴ色のガラスがきらきらと綺麗です♡

じつは、きらきらはガラスではありませんでした。グミのようにぽにょぽにょ不思議な触感。

火を灯してみましょう。

ライターが行方不明で十数年かぶりでマッチを使ったのですが、この湿度でなかなかつきませぬ。そのうえ、けっこう指が熱いっ・汗。(今のお子たちは、マッチの使い方を知っているのでしょうか?)

火が灯ると、ちょっと情熱的な雰囲気になります。ほんのりとミルクのような甘い香り。

これから、秋の夜長にはキャンドルがあると静かな時間がすごせそうです。長湯のバスタイムにもぴったり。

ありがとうございます♡

 

 

夜のお散歩

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昨日、今日と、ようやくすごしやすい気温となり、ほっと一息です。

もともと湿気が大の苦手なうえ、たびたび36℃ごえという高温にみまわれ、アタマもカラダも機能不全状態がつづいておりました。

昼間はとうてい出歩けないので、仕事終わりのお散歩もすっかり夜間にずれこむしまつ。

日がおちてもなお、アスファルトの熱気とムッとする湿気で、歩いているうちにじんわりと蒸し焼き状態。帰ってくるころには、チーン! 一丁あがり、ポン酢でどうぞ! てな感じです (^^;;

夜間のお散歩のメリットは、あの突き刺すような陽射しと紫外線攻撃から逃れられること。

デメリットは ・・・ 太ること。

なぜに?って・・・せっせと歩いて、滝のように汗をかき、小腹がすきはじめる頃、

スタバのネオンが目のまえにあらわれ、吸いこまれるように姿を消しておりました(途中でクーラーにあたらないと、身体がもたないのです・汗)。

いちばんお世話になったのは、こちら!

ジューシーな桃がゴロゴロのったアールグレーのタルト♡  スポンジの甘味がしっかりとしているので、濃いめのアイスコーヒーによくあって、しばしハマっておりました。

ようやく涼しくなってきたので、そろそろ夜間のお散歩もおしまいです。スタバの煌めくネオン、おなごり惜しい ( •ॢ◡-ॢ)-♡