風にふかれて朝ごはん

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

五月の最後の休日、風がここちよいカフェのテラスでゆっくり朝ゴハン。

いつもはシェアしながらいくつかのメニューをためしてみるけど、「きょうは誰のバースデーであろうとも、パンケーキ丸々ひと皿はゆずれない!」と宣言され・・・。

はいはい、いくらでも心ゆくまでお召し上がりくださいまし。 (ꐦ ´͈ ᗨ `͈ ) (じつは、わたしのバースデーなのでした〜。)

しかしここのリコッタパンケーキ、一枚が尋常でない ・・・。ぶあつい!デカイ! すごい威力です。

メープルシロップをかけるそばから、力強くじゃんじゃん吸いこみます(汗)。半分いただいて、さすがのわたしも、あ〜・・・しょっぱいものがほし〜。おとなりのテーブルのカツサンド(ここの人気メニュー)を見て、目がハートに♡。

パンケーキ大好きさんは、「これ Pancake じゃないでしょ。これは、日本でいう ほぉっとぉ けえき でしょ〜?」って。あはは、アメリカのパンケーキはぺらぺらだからね。日本のパンケーキは、日々進化しているのです。

このカフェ、こんなに緑がモリモリなのに、東京のど真んなか六本木です。

カフェのまえの並木も、まだ人影がまばらで気持ちがいいこと。

夏じゅう、こんな爽やかさだったらどんなにステキか・・・。この夏の猛暑の予報に、お外でまったりも今のうちです。

Randyさん

 

愛しのポンポン

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友人があるものを海外からお取り寄せして送ってくださったという。

友人いわく、「一緒に出かけた英国のヴィクトリア&アルバートミュージアムを思い出したよ。ぜったい好きなテイストだと思う」って。

ヴィクトリア&アルバートといえば、ウィリアム・モリスかな〜? たしかにわたしの大好物で、モリスの額をセッションルームにもおいています。

ほどなくして届いたのがコレ!

たしかにっ!ヴィクトリア&アルバートにあったモリスの部屋の壁紙みたい♡ 大好きな感じです♡

これチェーンのついたミニバッグのように見えますが ・・・ じつはスマホケース。こんなオシャレなスマホケース、見たことない! さっそく、翌日のお出かけにスマホをお着替えさせて連れて行くことに。

出先で電話がかかってきて、このスマホをとりだして歩きながらしゃべっていたのです。そして到着したらナント、かわいいポンポンアクセサリーが消えてる〜! (ꐦ°д°) ガーン いなくなった〜!

待ち合わせ相手をほっぽらかして、あわてて捜索に戻りましたよ。

5分ぐらい歩いたところに花壇があって、そのレンガのうえに発見! 大切そうにおかれていました。よかった〜。

ポンポンがなおさら愛しく感じます。しっかりとイヤホンジャックにつけなおして、また一緒にお出かけしようね〜!

 

亜鉛同好会 @ Ginza

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牡蠣はビタミン、ミネラルなど女子にうれしい栄養の宝庫! まさに食べるサプリ。

今回の亜鉛同好会は、銀座の「Oysterbar&Wine BELON」さんにて。

オイスターのお店は素材を生かしたシンプルなお料理が多いのですが、こちらは牡蠣をメインにしたおいしいイタリアン。

イチ押しでおいしかったのは、コレ! おっきな牡蠣のうえにフォアグラがのったココット。

どっちも大好物〜!❤(。☌ᴗ☌。)   磯の香りとフォアグラの濃厚さがたまりませぬ。おかわりしたいっ♡

二番手は、生牡蠣。

産地別に左から順ぐりに味が濃厚になっていきます。サラリとした塩味から、どんどんミルキーに。

そして、殻つきオーブン焼き。にんにく香草風味&黒オリーブ。ちょっとアヒージョっぽい感じで、オイルたっぷり。

あとは、生ウニのムース風前菜やらボタン海老の生パスタトリュフソース、鴨のロースト、そしてムースとアイスクリームでした〜♪

牡蠣は5月ぐらいがいちばん栄養をためこんでまるまる肥っておいしいらしいです。たしかにぷくぷくでした。(あ・・・牡蠣にかぎらず、この季節、脂肪ためこんでぷっくぷくなひと、ひとり知っていますわ・・・汗。)

 

 

16-05-24 じつは、誰もがキケンな山登り人生が好き

今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。

この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。

マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。

マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。

なぜ?!  幸せになりたいんじゃ?

わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。

エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。

実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。

なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。

「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。

だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。

わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。

エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。

攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。

これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。

ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。

ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。

たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。

エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。

この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。

それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。

止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。

そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。

だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。

きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。

それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。

でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)

自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。

ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。

それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。

わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。

エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。

こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「じつは、誰もがキケンな山登り人生が好き」

今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。

この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。

マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。

マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。

なぜ?!  幸せになりたいんじゃ?

わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。

エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。

実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。

なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。

「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。

だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。

わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。

エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。

攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。

これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。

ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。

ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。

たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。

エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。

この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。

それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。

止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。

そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。

だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。

きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。

それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。

でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)

自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。

ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。

それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。

わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。

エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。

こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

16-05-19 泥まみれのレオさま-レヴェナント

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

自分じゃ観に行かないです。泥まみれっぽい映画は。(たとえば、「パイレーツ オブ カリビアン」もその部類。笑)

この「レヴェナント - 蘇りし者」はレオさま悲願のオスカー受賞作でもあり、レオさま好きのSちゃんと一緒に鑑賞しました。

前回Sちゃんと観たレオさまは、「華麗なるギャッツビー」でしたっけ。レオさま、超お金もちの色男でした。ところが今回は、最初から最後まで、ボロボロ、ドロドロ、ズタズタ。美しいシーンやロマンチックな場面は皆無です。

でもすごいなと思ったのは、そんな姿になりつつもレオさまは他のズタボロなおじさんたちにくらべて、どこか品があるのです。おもいっきり汚くって、悲惨になっても。

予告にあるようにグリズリーに襲われて、瀕死のまま生き埋めにされて ・・・ そこからの「蘇りし者」かと思ったら、完全に甘いでした・・・。2時間半、しじゅう「蘇りし者」です。詳細は書きませんが、ずっとです。(それにしても、グリズリーに馬のりになられて、顔のうえにヨダレをたらされたくはありません・・・汗。)

私は観ていてレオさまと一体化していたので、凍てつく荒野でサバイバルしながら、寒い、痛い、つらい  ・・・ああ、あったかいお風呂に入りたい、お布団で眠りたい ・・・とずっとそんな気持ちでしたが、一方せっちゃんはものの一時間程度で、あまりのことに笑いがこみあげてきていたとか。さすがハリウッド、悲惨さのなかにもしっかりと笑いをとっています。

なので、観終わったあとに重くなったり、考えさせられたり ・・・ という感じはまったくなく、誰かとしゃべりたくなります。私たちもエンドロールが終わって劇場が明るくなっても、しばしおしゃべりしていました。案の定、Sちゃん、お化粧室で知らないおばさまにおもいっきり感想をシェアされておりました。

こんなレオさまもめったに観られません。是非、ズタボロレオさま、ご賞味ください。

それにこのような究極なサバイバル体験もなかなかできません。レオさまと一緒だったらコワくない?! 劇場で擬似体験してみては?! かなりバラエティーに富んだサバイバルができますよ〜。 (ꐦ ´͈ ᗨ `͈ )

涙壷度:☆☆☆☆☆(ゼロ)けれど、2時間半、退屈しません!

お茶の間シネマトーク「泥まみれのレオさま-レヴェナント」

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自分じゃ観に行かないです。泥まみれっぽい映画は。(たとえば、「パイレーツ オブ カリビアン」もその部類。笑)

この「レヴェナント - 蘇りし者」はレオさま悲願のオスカー受賞作でもあり、レオさま好きのSちゃんと一緒に鑑賞しました。

前回Sちゃんと観たレオさまは、「華麗なるギャッツビー」でしたっけ。レオさま、超お金もちの色男でした。ところが今回は、最初から最後まで、ボロボロ、ドロドロ、ズタズタ。美しいシーンやロマンチックな場面は皆無です。

でもすごいなと思ったのは、そんな姿になりつつもレオさまは他のズタボロなおじさんたちにくらべて、どこか品があるのです。おもいっきり汚くって、悲惨になっても。

予告にあるようにグリズリーに襲われて、瀕死のまま生き埋めにされて ・・・ そこからの「蘇りし者」かと思ったら、完全に甘いでした・・・。2時間半、しじゅう「蘇りし者」です。詳細は書きませんが、ずっとです。(それにしても、グリズリーに馬のりになられて、顔のうえにヨダレをたらされたくはありません・・・汗。)

私は観ていてレオさまと一体化していたので、凍てつく荒野でサバイバルしながら、寒い、痛い、つらい  ・・・ああ、あったかいお風呂に入りたい、お布団で眠りたい ・・・とずっとそんな気持ちでしたが、一方せっちゃんはものの一時間程度で、あまりのことに笑いがこみあげてきていたとか。さすがハリウッド、悲惨さのなかにもしっかりと笑いをとっています。

なので、観終わったあとに重くなったり、考えさせられたり ・・・ という感じはまったくなく、誰かとしゃべりたくなります。私たちもエンドロールが終わって劇場が明るくなっても、しばしおしゃべりしていました。案の定、Sちゃん、お化粧室で知らないおばさまにおもいっきり感想をシェアされておりました。

こんなレオさまもめったに観られません。是非、ズタボロレオさま、ご賞味ください。

それにこのような究極なサバイバル体験もなかなかできません。レオさまと一緒だったらコワくない?! 劇場で擬似体験してみては?! かなりバラエティーに富んだサバイバルができますよ〜。 (ꐦ ´͈ ᗨ `͈ )

涙壷度:☆☆☆☆☆(ゼロ)けれど、2時間半、退屈しません!

ぶくぶく・・泡みたいなパール

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

たいへ〜ん! パールのつぶをテーブルにばらまいちゃた ・・・ わけではなく、

これはチョーカーなのです。

つけるとこんな感じ。

白シャツにジーンズとかで、襟元にちら見せでつけるとお洒落かも ・・・とくださったKちゃんのアドバイス。

そうそう! シンプルな装いほど似合いそう。

いつもありがと〜♡♡

 

 

バナナ姉妹とランチ♪

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

お友だちのドールとチキータ(バナナ姉妹?! 笑)とランチ♪ 

ホメオパスで食育のプロでもあるチキータと、西洋医学なしであらゆる病気を癒す自然療法を探求しているドール、そして日々ココロをいじくりまわす私という三人が集まると、ちょっぴりあやしい魔女会議風。(´▽`)

「素敵なお店があるの」・・・と連れて行っていただいたのはドールおすすめ、品川駅からほど近い自然食レストラン。フレンチのお店かと思うようなオシャレな雰囲気とゆったりとした静かさが魅力。

広々してて、窓の外には高輪の緑が広がります。

有機野菜たっぷりの前菜、ソースのおいしいお魚料理、はちみつの甘さが優しいデザート、バイオ珈琲。どれもおいしい!

身体によいものをいただいて、ゆったりとした時間を過ごしたいときにオススメです。

ナチュラルレストラン 﨓の木(たぶのき)さんでした。

 

 

16-05-10 すべてをすぐに解決する方法

「これから、すぐにすべての問題を解決する方法をお教えします」

と、セラピーにいらしたクライエントさんに言ったとしたら、きっとみなさん真剣に聞いてくださると思います。

「それはですね ・・・ そのことについていっさい“ 考えないこと ”です」・・・ 「考えないでください。 ・・・ 以上! これでセラピーを終わります」

なんて言ったら、「はあ?!  ・・・」って呆れられそうですが(笑)。

でも、冗談でもなんでもなく、シンプルに言うならそういうこと。このひとことに尽きます。

「問題について考えない」「問題を価値判断してセリフをならべたてない」。ひどいとか、大変だ、どうしよう、なんで?、これからどうなるの?、もうダメダ 、あの人っていったい!? ・・・などの解釈をいっさいしない。

それについてまったくコメントしなければ、それには意味などなく、じつは問題にはなりえないのですよね。

「あれ」がないと、「それ」も「これ」も存在しないのと同じで、「わたし」がいなければ「あなた」も「その他おおぜい」もいないことになるし、すべてに名前をつけなければ、すべては静かにひとつになってしまいます。

たとえば、こうしてパソコンに向かって文章を書いているとき、私には「私」の自覚がなくなっていて、そんなときってじつは「私」個人はいないのです。かといって気絶しているわけでもなんでもなく、誰のでもない「意識(気づき)」がそこにいるて作業してる感じ。

でもね、わたしたちは学校で「頭をつかう」ことをたたきこまれてきています。

「ほらっ、きみはまったく何も考えていないんだから!」「もっとちゃんとよく考えてからやりなさい」「頭は使うためにあるんだから、ちゃんと考えて!」などなど、つねに考えが足りない、足りないと言われ続けてきたのです。だから、分析、解釈、判断、思考いのちなのです。考えていないことは「おバカ」そのものであって、もっとも避けたいこと。

だから、朝テレビをつけると、いならぶコメンテーターが日々の出来事に関して、「あ〜だ、こ〜だ!」、あらゆる解釈をしてくれます。そして、そのコメントに対しても、またコメントがのべられて、朝のテレビはまさにコメント、解釈、価値判断合戦。

食レポのタレントさんだって、食べたものを解釈できなかったら「使えないひと」といわれ、こと細かに分析し、判断し、解釈できると、感性が豊かだと言われるし。(ほんとは、言葉をさがしているじてんで、味なんてわからなくなっています。)

だから、私たちは賢くいるためには、いつもグルグル考える。なにかが目のまえに現れるやいなや、「これはどうだ、こうだ」、何か言わなくちゃいけない。考えている人はどこか賢そうに見える。

でも、アタマで解釈するほど、じつは問題をつくっているようなもの。なんの意味もなかったものがどんどんこんがらがります。

つまり、私たちが生育過程のなかで習ってきたことは、ほとんど自分のクビをしめて、自分を制限することだったのですよね。

「思考(あ〜だこ〜だ)」は電気反応のように、自分という意識の空間のなかに放電されているようなもの。これを自分だと思ってしまうと、頭が混乱してきます。だって、とにかく一貫性に欠けているから。

大好き、愛してると言っていたかと思えば、何かの拍子に嫌いと言いはじめ、文句を言っているうちに怒りや憎しみまで出てきたり。

あるいは、気分がいいと言っているかと思えば、次の瞬間には死ぬほど最悪な気分に陥ったり、まずまずイケてると思ってた次の日には、世界でいちばんダサいと感じはじめ・・・わあ〜、つきあいきれない。

それらは、何かが実際に起きているというよりも、ほとんど「アタマ」のなかだけで行われていること。すごいバーチャルな世界です。

だから、「思考」には勝手にしててもらいしょ!

「思考」が何かわけのわからないことを言いだしてもまにうけず、てきと〜に流す。「あ、なにか言ってるな」ぐらいに。

あまりにうるさいときには、ひとこと「うるさい!だまりなさい!」と一喝。

こうして相手にしないと、ほんとに静かになってきます。・・・ ということは、相手にするからどんどんうるさくなるのですよね。

 

思考によって価値判断しないことで、すいぶんとコワいことも減るだろうし(そうです、思考が、思考そこがコワイのです)、いやだ!と思っていたことも、思考がなければふつうのことになったりします。

じつは、わたしもこれから「もういいかげんにしてよ!」と思っていることに取り組もうと思っているのですが(だから、きょうはこのトピックになりました・笑)。頭のおしゃべりをさせないと(解釈をしないと)、それじたい別にいいことでも、悪いことでもなくなります。「ただやらなくちゃいけないこと」って感じになりました。

思考によって価値判断してしまうと、自分が「受けとる」結果を決めたことになります。でも、ただ放っておくと、ものごとのなかにある完璧さをみせてもらことができるようになります。

それはそれで完璧なのです。そのままにしておけば。

そう、すべてのことはほっておけば完璧になる。けど、私たちは全部をコントロールしたがるので、完璧さが見えなくなって、自分の怖れの世界のストーリに姿を変えてしまうのですよね。

今は完璧さがわからなくっても、それを信じること。だから、目先のことばかりにあれこれ言う思考には黙っててもらって、ただしゅくしゅくと取り組みましょう。

すべての完璧さが見えるようにお願いしつつ・・・。

 

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