12-06-16 学校に行けないこども・・・どうする? その1

最近いくつか寄せられたご相談は、「学校を休みがちなこどもと、そのことに関してギクシャクする夫と妻」という問題。

ハイ、最近よく耳にする状況ですね。

ここには二つの問題があります。

「学校に行かないこどもをどのように扱ったらいいのか」ということと、「夫婦でのこどもに対する考え方、接し方に違いがあり、混乱が生じる」ということ。

親は自分のこどもが学校に行けないと、なんとかしてテコでも「行かせる」ことに苦心します。なぜなら、「学校に行けないこども=問題児」という考えがあるからです。(しかし学校システムを冷静にながめてみると、かなり不思議なトコロですよ〜、学校って。一日中同じ方向を向いてちんまりとハコの中に坐らされ、みんなまったく同じことをするよう強制され、同じようにできると「いい子」と褒め讃えられ、しないと「わるい子」のレッテルを貼られる・・・かなり奇妙なトコロです。みんなよくぞ卒業したな〜とも思えてきます。)

しかし、「学校に行かない」ことをもうちょっと引きの目線でみてみると、実際「いいこと」でも「わるいこと」でもなくって、ただシンプルに「行かないのだ」という事実があるだけなのです。もしも、そこに特別な意味あいがあるように感じられるならば、おそらくそれは親の書いた「こどもの筋書き(脚本)」にどれだけあっているか、はずれているかによる査定にすぎません。「みんながやっていることをできない子」=「欠陥がある子」というレッテルをはってしまっているのかもしれません。

しかし、ちゃんと学校に行けたからといって、すごい人になるわけでもありません。有名な話しですが、エジソンもアインシュタインもめちゃくちゃ変わったこどもで、どちらかというと問題児だったそうな。

だからと言って「学校に行かない」こどもをほっておきなさい、ということとは違うのです。まず、それが「いいことだ」「わるいことだ」という裁きの目線をストップさせる必要があります。なぜなら、こどもは「裁かれている」「親の筋書きにどれだけあっているかで自分の価値を測られる」と感じるのがいちばんつらいからです。

「いい」とか「わるい」を手放したときに、こどもは本当に安心して自分のココロを見せることができるようになります。そうですよね。「さあ、あなたのココロをみせてごらんなさい。わたしがすぐに「いい」か「わるい」か言ってあげるから」・・・なんて態度だったら、何も正直に話すこともできません。

こどもは感じているのです。親が勝手に「自分に対する理想の筋書き」を作っていて、それに沿って歩むべきだとあたりまえに信じている、ということを。「何も期待していない」と言いつつも、その筋書きからはみ出そうものなら、「とり乱す」「見捨てるわよ!というそぶりを見せる」「悲しんでいるところを見せる」など、あらゆる手を使ってこどもに罪悪感を持たせ、そこからはずれることをちょっとも許さないのです。

学校の友人との軋轢に悩んでいたり、うまく結果が出せないあれこれについて悩んでいるこどもにとって、「あ〜だ」「こ〜だ」の大人目線のアドバイスは何の癒しにも解決にもなりません。

自分がこどもの頃、落ち込んでいたときのことを思い出してみてください。「ちゃんとする」「筋書きに沿って生きる」ことだけを気にしている親の対応に「全然、わかってない」と思ったことがあるはずです。おそらくその時に欲しかったのは、「そのまま」の自分を受けとめて、包み込んでくれる安心感。すぐに立ち直る自分を期待してアドバイスやら手を貸されるよりは、何が起っているのかがわからなくってもただ受けとめて欲しかったはずです。

ただ無条件に、何が起っていようとも、その人の存在にOKを出してくれる、受けとめてくれる、どんな状態であろうと味方でいてくれる、そんな存在が一人でもいてくれると、わたしたちは心の中から前向きなエネルギーがわき出してきて、「よし!また頑張るか!」と前を向く気持ちになれるのです。

そうお話しすると、「え?だったら、こどもにやってますよ」とおっしゃる親御さんが多いことも事実です。

本当に「その子のため」のサポートするとは、どういうことなのでしょうか?

(その2へつづく)

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

 

 

気づきの日記「学校に行けないこども・・・どうする?」その1

最近いくつか寄せられたご相談は、「学校を休みがちなこどもと、そのことに関してギクシャクする夫と妻」という問題。

ハイ、最近よく耳にする状況ですね。

ここには二つの問題があります。

「学校に行かないこどもをどのように扱ったらいいのか」ということと、「夫婦でのこどもに対する考え方、接し方に違いがあり、混乱が生じる」ということ。

親は自分のこどもが学校に行けないと、なんとかしてテコでも「行かせる」ことに苦心します。なぜなら、「学校に行けないこども=問題児」という考えがあるからです。(しかし学校システムを冷静にながめてみると、かなり不思議なトコロですよ〜、学校って。一日中同じ方向を向いてちんまりとハコの中に坐らされ、みんなまったく同じことをするよう強制され、同じようにできると「いい子」と褒め讃えられ、しないと「わるい子」のレッテルを貼られる・・・かなり奇妙なトコロです。みんなよくぞ卒業したな〜とも思えてきます。)

しかし、「学校に行かない」ことをもうちょっと引きの目線でみてみると、実際「いいこと」でも「わるいこと」でもなくって、ただシンプルに「行かないのだ」という事実があるだけなのです。もしも、そこに特別な意味あいがあるように感じられるならば、おそらくそれは親の書いた「こどもの筋書き(脚本)」にどれだけあっているか、はずれているかによる査定にすぎません。「みんながやっていることをできない子」=「欠陥がある子」というレッテルをはってしまっているのかもしれません。

しかし、ちゃんと学校に行けたからといって、すごい人になるわけでもありません。有名な話しですが、エジソンもアインシュタインもめちゃくちゃ変わったこどもで、どちらかというと問題児だったそうな。

だからと言って「学校に行かない」こどもをほっておきなさい、ということとは違うのです。まず、それが「いいことだ」「わるいことだ」という裁きの目線をストップさせる必要があります。なぜなら、こどもは「裁かれている」「親の筋書きにどれだけあっているかで自分の価値を測られる」と感じるのがいちばんつらいからです。

「いい」とか「わるい」を手放したときに、こどもは本当に安心して自分のココロを見せることができるようになります。そうですよね。「さあ、あなたのココロをみせてごらんなさい。わたしがすぐに「いい」か「わるい」か言ってあげるから」・・・なんて態度だったら、何も正直に話すこともできません。

こどもは感じているのです。親が勝手に「自分に対する理想の筋書き」を作っていて、それに沿って歩むべきだとあたりまえに信じている、ということを。「何も期待していない」と言いつつも、その筋書きからはみ出そうものなら、「とり乱す」「見捨てるわよ!というそぶりを見せる」「悲しんでいるところを見せる」など、あらゆる手を使ってこどもに罪悪感を持たせ、そこからはずれることをちょっとも許さないのです。

学校の友人との軋轢に悩んでいたり、うまく結果が出せないあれこれについて悩んでいるこどもにとって、「あ〜だ」「こ〜だ」の大人目線のアドバイスは何の癒しにも解決にもなりません。

自分がこどもの頃、落ち込んでいたときのことを思い出してみてください。「ちゃんとする」「筋書きに沿って生きる」ことだけを気にしている親の対応に「全然、わかってない」と思ったことがあるはずです。おそらくその時に欲しかったのは、「そのまま」の自分を受けとめて、包み込んでくれる安心感。すぐに立ち直る自分を期待してアドバイスやら手を貸されるよりは、何が起っているのかがわからなくってもただ受けとめて欲しかったはずです。

ただ無条件に、何が起っていようとも、その人の存在にOKを出してくれる、受けとめてくれる、どんな状態であろうと味方でいてくれる、そんな存在が一人でもいてくれると、わたしたちは心の中から前向きなエネルギーがわき出してきて、「よし!また頑張るか!」と前を向く気持ちになれるのです。

そうお話しすると、「え?だったら、こどもにやってますよ」とおっしゃる親御さんが多いことも事実です。

本当に「その子のため」のサポートするとは、どういうことなのでしょうか?

(その2へつづく)

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

 

 

ブクロでスタミ

いつもオフィスか近隣でやっているスタッフミーティング。今回は珍しく池袋。

池袋って、何回行ってもラビリンスだわ〜。(@_@)  とくに地の果てにあるような「副都心線」を使ったのが大きな間違い。外に出るまで歩くわ、歩くわ・・・。

集まったインターネットカフェは、B1にあってとってもアンダーグラウンドな雰囲気。トリ目のわたしにはコケそうなぐらい真っ暗で、なぜかこの時代にミラーボールまで回っているという。

でも、そんなことはおかまいなしにお仕事に熱中するSちゃんとYちゃん(ミラーボールのせいで、壁が水玉)。

本日はサイトのシステム変更なのでわたしの出る幕もなく(というか、もれなく毎回出る幕はありましぇん)、なので隣に鎮座し、頑張る二人を味わい愛でておりました(決して、邪気は送っていませんっ!)。

本日も「神降臨」のSちゃんパワー(赤ワインが入れば、いつでも絶好調!)で、おどろくほどさっさと終了!そして、いさんでお夕食へ。

ビストロ「ラシーヌ」さんで軽くフレンチ。仏の片田舎にあるおうちのキッチンでゴハンを食べているようなリラックスできる雰囲気です。

パンにチーズにレバーペースト・・・飲めないのにこういうメニューって大好き!お料理もデザートもとってもおいしくって、お店のお兄さんたちも気さくで楽しげ。おいしいパンのおみやげ、二つもいただいちゃいました♪ 

きょうもゴトゴトお出かけ

群馬の榛名山方面に行ってきました。

このところ、長距離電車移動が多いです。激しい揺れにも慣れてきてグッスリ眠れてしまうのですが、慣れない路線、それも本数が少ない電車での爆睡ほどキケンなものはありません。

なので、念のためケータイアラームを設定したのですが、あら?もう駅に着いちゃったのに鳴ってない!?

どうやら、AM / PM を間違えた〜(汗)。

正直言うと、このケータイもかかってきたらでる程度で、他の機能はぜんぜん生かしてもらっておりません。なので、今はやりのスマートフォンなど、夢のまた夢、ブタに小判、いや、ネコに真珠か・・・?

今度は電車に乗っているあいだに、ケータイの使い方から学習しよう!(^^;;

どこまで行くの?

宇都宮まで湘南新宿ラインで2時間。あわてて乗り換えて、宇都宮線に1時間。さらに東北本線・・・いったいどこまで行っちゃうの?という感じです。

新幹線を使わないで移動してみたのですが、お尻にふと〜い根っこがはえそうでした。

それに、在来線は結構すごいスピードだし激しく揺れるので、読書をしながら本に書き込みをしていたら、ミミズの大行列になってしまいました(あるいは、宇宙との交信記録・・・?  汗)。

高架を走り抜ける新幹線の景色は単調で味気ないけれど、田んぼや山がすぐ目のまえに迫っている在来線の風景は自然の豊かさをあらためて感じることができます。これぞほんとうの「旅」、という気分です。

12-06-04 うるさ〜い騒音!じつは私だったのね・汗

ここしばらく、騒音に悩まされておりました。

それは外からやってくるもので、まるでバイクの警報装置が作動しちゃったようなうるささ。それも、24時間!連日!どうやら、このあたらりのビルの空調に問題がありそうです。

で、さっそく音のアタリをつけてそのビルの管理の方と話したのですが週末のこともあり業者と連絡がとれず、しばし苦痛な音とともに共存することを強いられました。音は日ごとに騒々しさを増し、頭痛と肩こりの原因に。しかし後日わかったことは、アタリをつけたビルにはなんら問題がなかったこと(残念!)。

ここでハタと気がついたのは、今年の二月にも上階の物音に悩まされていた、ということ。なぜか、美空ひばりとフォークソングの大音響。あまり上階の音は聞こえないのですが、自室でかけているようなうるささ。これは管理人さんにクレームを出して無事解決したのですが、「音」に関するトラブルが続いているな〜、ということ。

すべてのことは外界に現象として現れる前に、「ココロ」の中で形づくられます。つまり、うるさいのはわたしの「ココロ」。自分の「ココロ」が騒音をたてている、ということなのです。あるいは、混乱しているとでもいいましょうか。

はい、思い当たります。今年に入って、今まで信じてきた価値観がまっさかさまになるような大きな気づきがあって、その考え方にまだなじんでいないのです。だから、ものごとが起るたびに新しい解釈に手間取り、ちょっと混乱をきたしていたのです。

「ココロ」から起きてきていることを行動レベルだけで解決しようとしても、これは解決をみずに必ず繰り返されます。そう、二月のときも、すみやかに管理人さんにクレームを出して、自分が被害者になることで「こんなこと起こしているのは、わたしなんかじゃありませ〜ん。この騒音は明らかにわたしの外からやってきているでしょ。ああ〜、うるさくされて、なんて可哀想なわたし」というお得意のパターンにはまって誰かを悪ものにして自分が可哀想ないい人のフリをして悦に入っていたわけです。

でも、学びがないところはちゃんと再度レッスンがやってくるのですよね。「はい、もう一回、被害者になるのをやめて処理してみよ〜。自分で創ったことの責任をとってみようね〜」というわけです。

「はいはい、わかりましたよ〜」と自分のココロが騒音をたてまくっている張本人であることを認め、外に聞こえてくる音はたんに自分の心の状態の投影なのだ、と理解し、ちゃんと叫んでいるココロをなだめてあげましたよ。

で、そのあとに必要な行動がくるのです。この順番を間違ってはいけません。「すべてのことは自分のココロが創り出している」という責任をちゃんととってから、起こすべき物理的な行動に出るわけです。

おもしろいもので裏道を歩いていたら、その「音」のほんとうの源を発見!(ちゃんとした順序をわきまえているときには、次のステップを見つけるのも早い!)

すぐにそのビルに入って、管理の方とお話しをしました。すると、以前から空調のベルトが切れていて修理をお願いしていたのですが、ご迷惑をおかけしてすみません・・・とちゃんと認識していらっしゃり、話しが簡単でした。

戻ってみたら、ちゃんと「音」はやんでいましたよ。

どんなことが外からやってこようと、たとえそれがどう考えても自分とは関係なさそうに見えても、「自分が知覚している」ということは自分が創り出した自分の宇宙の中で起きているのですね。だから、「自分で責任をとる」ことがまずはじめに求められます。

そして、物理的な共有されてる世界にあるものは、その後「事情を話し合う」「改善をお願いする」という現実のアクションも必要になってきます。

なんにしても「自分が体験すること」にはいつだって、自分に責任があるのですよね。すべては「自分のココロから」!!キモに命じて、忘れないようにしたいものです。

今おもうと、なぜ他の人たちが何も言わなかったのか?とも思うのですが、あくまでもこれは「わたしの」レッスンなのでした。(他の人は聞こえてなかったりして・・・汗。)

PS ああ〜、静かさがありがた〜い!

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気づきの日記「うるさ〜い騒音!じつは私だったのね・汗」

ここしばらく、騒音に悩まされておりました。

それは外からやってくるもので、まるでバイクの警報装置が作動しちゃったようなうるささ。それも、24時間!連日!どうやら、このあたらりのビルの空調に問題がありそうです。

で、さっそく音のアタリをつけてそのビルの管理の方と話したのですが週末のこともあり業者と連絡がとれず、しばし苦痛な音とともに共存することを強いられました。音は日ごとに騒々しさを増し、頭痛と肩こりの原因に。しかし後日わかったことは、アタリをつけたビルにはなんら問題がなかったこと(残念!)。

ここでハタと気がついたのは、今年の二月にも上階の物音に悩まされていた、ということ。なぜか、美空ひばりとフォークソングの大音響。あまり上階の音は聞こえないのですが、自室でかけているようなうるささ。これは管理人さんにクレームを出して無事解決したのですが、「音」に関するトラブルが続いているな〜、ということ。

すべてのことは外界に現象として現れる前に、「ココロ」の中で形づくられます。つまり、うるさいのはわたしの「ココロ」。自分の「ココロ」が騒音をたてている、ということなのです。あるいは、混乱しているとでもいいましょうか。

はい、思い当たります。今年に入って、今まで信じてきた価値観がまっさかさまになるような大きな気づきがあって、その考え方にまだなじんでいないのです。だから、ものごとが起るたびに新しい解釈に手間取り、ちょっと混乱をきたしていたのです。

「ココロ」から起きてきていることを行動レベルだけで解決しようとしても、これは解決をみずに必ず繰り返されます。そう、二月のときも、すみやかに管理人さんにクレームを出して、自分が被害者になることで「こんなこと起こしているのは、わたしなんかじゃありませ〜ん。この騒音は明らかにわたしの外からやってきているでしょ。ああ〜、うるさくされて、なんて可哀想なわたし」というお得意のパターンにはまって誰かを悪ものにして自分が可哀想ないい人のフリをして悦に入っていたわけです。

でも、学びがないところはちゃんと再度レッスンがやってくるのですよね。「はい、もう一回、被害者になるのをやめて処理してみよ〜。自分で創ったことの責任をとってみようね〜」というわけです。

「はいはい、わかりましたよ〜」と自分のココロが騒音をたてまくっている張本人であることを認め、外に聞こえてくる音はたんに自分の心の状態の投影なのだ、と理解し、ちゃんと叫んでいるココロをなだめてあげましたよ。

で、そのあとに必要な行動がくるのです。この順番を間違ってはいけません。「すべてのことは自分のココロが創り出している」という責任をちゃんととってから、起こすべき物理的な行動に出るわけです。

おもしろいもので裏道を歩いていたら、その「音」のほんとうの源を発見!(ちゃんとした順序をわきまえているときには、次のステップを見つけるのも早い!)

すぐにそのビルに入って、管理の方とお話しをしました。すると、以前から空調のベルトが切れていて修理をお願いしていたのですが、ご迷惑をおかけしてすみません・・・とちゃんと認識していらっしゃり、話しが簡単でした。

戻ってみたら、ちゃんと「音」はやんでいましたよ。

どんなことが外からやってこようと、たとえそれがどう考えても自分とは関係なさそうに見えても、「自分が知覚している」ということは自分が創り出した自分の宇宙の中で起きているのですね。だから、「自分で責任をとる」ことがまずはじめに求められます。

そして、物理的な共有されてる世界にあるものは、その後「事情を話し合う」「改善をお願いする」という現実のアクションも必要になってきます。

なんにしても「自分が体験すること」にはいつだって、自分に責任があるのですよね。すべては「自分のココロから」!!キモに命じて、忘れないようにしたいものです。

今思うと、こんなにうるさかったのになぜ他の人たちが何も言わなかったのか?とも思うのですが、あくまでもこれは「わたしの」レッスンだったようです。(他の人は聞こえてなかったりして・・・汗。)

PS ああ〜、静かさがありがた〜い!

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薔薇と紅茶はお似合い

季節はどんどんめぐります。早くも、一年の真ん中の月を迎えましたね。六月の声をきくと、紫陽花があちこちで目につきはじめます。

こちらは先日訪れた自由が丘にある洋館、英国紅茶のお店「St. Christophers Garden」さん。

以前から行きたいと思っていたお店で、お店のイングリッシュガーデンにあるさまざまな薔薇がいちばん美しい季節に来ることができて幸運でした。

この雰囲気のなか、丁寧にいれられたポットサービスの紅茶にスコーン、イングリッシュケーキをいただけば、気分はすっかり英国貴婦人♪なのでした。

ココロあらたに♡

ステキなラッピングのお届けものが到着。

学生時代からおつきあいのある Kちゃんから(彼女は、今とは別人格?の "しおらしく見えた”頃のわたしを知ってている貴重な一人です)。じつはね、きょうはわたしの B.D. なのです。(^-^*)v

Kちゃんは昔からとびぬけてセンスがよくって、若かりし頃のわたしは彼女からオシャレやステキな生活をたくさん習いましたよ。そんな彼女は、ラッピングも決してお店まかせではなく、ちゃんと自分の手で仕上げます。だからこれらも彼女のラッピング。色のついた薄紙と水玉の透明フィルムが重ねてあり、リボンもステキ!う〜ん、開けたいけどこのまま飾っておきたいぐらい。

中身は、夏にぴったりのレースをあしらった生成りのコットンバッグ、そして今までトライしたことのないようなハーフパンツ(おお、今でもオシャレ鍛えてくれます)。そして、美しいボトルのフレグランス(最近、まったく香りをつけてなかったので、これを機にまたトライします)。

昔からそうだけど、忙しい日常にもかかわらずわたしに似合いそうなものがあるといつもピックアップしてくれる気遣いのある彼女。「将来どんな二人になっているかな〜?ネギかかえて、こめかみにバンソーコーだけは避けたいね」なんて笑っていたことがあったけど、今度はどんなおばあちゃんになるか予想しようね〜。

ほんとうに永年のおつきあいをありがとう♪いつも忙しいKちゃんだけど、またランチしようね〜。 (^o^)/

そして、もうひとつのお届けものはお手紙。

こちらも永〜いおつきあいのあるK氏。ともに学び、ときにはともに夢をめざし、自称わたしの応援団を名乗ってくれる貴重な一人です。

達筆な心のこもったお手紙。カードもいいけれど、こんな勢いのある書をいただくのも味があっていいものです。

そんなお手紙とともに送られてきたのは、ディズニーリゾートのペア券。「いつまでも無邪気に!」というメッセージとともに。

はい、たしかについつい難しく考えすぎて、ものごとさらに複雑でヘビーなものにしちゃいがちです。

ありがと〜♪「無邪気さこそ、天につうじる道」でしたね!ディズニーで奇声(黄声?)を発してこどもに戻ってきますよ〜。

・・・と、みなさまからたくさんエネルギーと愛情をいただきました!また、一年、すべてに心をこめて大切に過ごしてゆきたいものです。

12-05-19 ココロがボッキリ折れたなら・・・ その3

その2より

わたしたちは自分を保護し導いてくれる「高い存在としての自己」をお供にこの世を旅することになっているのですが、親や先生から「何でも自分でできるようになりなさい」「誰かに頼るような依存的な人になってはいけません」と教えられたがために、すっかり自分のガイドを見失い路頭に迷うような存在になってしまいました。

頼れるガイドを失ったという怖れから、がむしゃらに「自分で頑張る」という方向に進みます。とりあえず、「俺サマボート」という単独の自己を信じようとします。が、ほんとうは信じてなんかいないのです。信じられないから、その不信感を覆い隠そうとがむしゃらな行動に出てしまうのですね。

すると、自分の愛する人々の様子や変化に気がつくことができないほど自分を忙しくしてしまいます。それでいったい何をなしとげようとしているのでしょうか?何を証明しようとしているのでしょうか?そんなにまでして埋めなければならない、どんな穴を感じているのでしょうか?

今まで自分を生かしてくれた「すべての叡智とつながる高い自己」の存在を認められるようになると、おのずと風向きが変わります。その存在は自分よりも膨大な智恵と情報、自分のための先見の明があります。そんな存在が常に自分のためだけに心を砕き、働いてくれているとしたらどうでしょう?

そうなんです。わたしたちはその存在にこそ「頼っていいんです(頼らなくちゃいけないんです)」「自分でやらなくっていいんです(自分でやっちゃいけないんです)」「何も知らないことを認めて、教えてくださいと言っていいんです」。「助けてくれ〜。わたしには、どうにもできない」「どうしていいのかわからない」、そう言ったときはじめて、「はいはい、その言葉を待ってました!まかせてくださいね。ここにはあなたのために、どんな難問、要望にも答えられる用意がありますよ〜」とはじめて無限からあらゆる助けの手がやってくるのです。

しかし、自分をそこまで愛して導いてくれる存在はいったいいずこに?とまわりを見回してもなかなか気づくことはできません。

ポイントは、自分の今までのやり方を喜んで手放すこと。宇宙の無限なるバックアップにくらべたら、この自分には限界があるのです。そして、「自分では何もできません。このちっちゃい脳ミソではお手上げです」とさっさと白旗をかかげ、自分の小ささ、弱さを認めること。そして、「どうしたらいいでしょう?教えてください」と尋ね、「この件について助けてください」と助けを求めること。

ここがミドリムシの脳ミソを信じるのか、それとも宇宙の無限のバックアップとしての叡智を受け入れるのかの分かれ道なのです。たとえ宇宙の叡智を受け入れてたとしても、それはあなたの敗北にはなりません。ただ、自分でも気づいていなかったほんとうの自分の可能性の扉を開いただけなのです。

そう、とにかく自分のいつものパターンでやろうとする前に、「聞いてみる」ことなのです。お尋ねしたら、あとは答えを待ちます。尋ねなければ、答えを聞くことはありません。

答えは「必ず」来ます。でもそれは、天啓のようにやってくるわけではなく、たいていはすごくふつ〜です。「そんな気分になる」「家族、友人とのお喋りの中で答えのようなものが与えられる」「借りていた本の中にメッセージがある」というように、答えはいつもの生活の中にまぎれこんでいます。だから、いったんお尋ねしたり助けを求めたらいろいろなことに聞き耳をたてていなければなりません。

わたしにもこんなことがありました。あることで悩んでいて、その解決を自分の高い自己にお伺いをたてていたときのことです。「もう数日になるのに、全然返事がこないじゃない。なんか見捨てられてる気分だな〜」とそんなふうに感じながらスーパーで買い物をしていたときです。ふと、かかっていたBGMの一節が耳に入ってきました。特に聞こうとしたわけではなく、その一節だけが耳に残った感じだったのですが、それは

"From a distance, there is harmony....it's the hope of hopes.... God is watching us" * (遠くからみれば、そこにはハーモニーがある。それは希望そのもの。神さははいつだってわたしたちを見守っている。)という歌詞だったのです。

「!!」と思いましたよ。「ちゃんと見てるよ。そこにはハーモニーがあるのがわかる?」って。きっと、たくさんメッセージは来ていたのかもしれませんが、おそらく自分が閉じていたので気がつかなかったのでしょう。これを聞いて、スーパーの中でひとりほほえんでいるあやしい人になってしまいました。

俺サマボートの「自分を信じて」行動していると、まるでハムスターの回し車をこいでいるように、やたら怖れを原動力に走り続けることになります。自分をめちゃくちゃ信じられる瞬間もあるかもしれないし、まったく信じられない、と感じる瞬間もあるかもしれません。アップダウンが激しく、上に行ったり下に行ったりとその自信はとても不安定。だから、とにかく回し車を力いっぱいこぎ続け、止まるわけにはいかないのです。

そして、すべてを自分でやろうとすると、まわりと比べたり、戦ったり、うまくいくための策略が必要になります。常に自分の人生をコントロールしようとしているうちに、人をも自分の都合のいいようにコントロールできると勘違いしてしまい、気がついたら孤独な「お山の大将」になりかねません。

一方、「大きな力に支えられた自分」は、まず「大きな力」にお伺いをたてて、そこからインスピレーションがくるまでは動かないのです。やってくるインスピレーションは決して空回りさせるものではなく、少ないエネルギーで必要な達成が得られるものです。考え込んだり、むだな動きをしないし、不安も少ないので、エネルギーの消費量も少ない。そしてそこから動けば、さらにエネルギーを得られるというオマケつき。

「大きな力に支えられている自分」は、あくせくすることがなくなります。なぜなら、根底には「わたしの心臓は自分で動かしているわけじゃないけれど、勝手に動いてきょうまで無事に生かされてきた。ここまで生きてきたってことは、まあ、どうなろうとも、どちみちわたしは支えられているから大丈夫なのだ」というお気楽思考が生まれるからです。大きな力がいちばんよい方向に導いてくれるという信頼、結局は自分にとってベストになるという安心感があります。

そして、決定的な違いは、「自分を頼りにしている」場合は、どこかで不安や無気力、ひどくするとウツにつきあたりますが、これは大もとのほんとうの自分とのつながりが切れているがゆえの不安定感。家なき子な気分なのです。「大きな力を支えにしている」場合は、ハデでなないけれど静かな安定感、そしてそれに従えばもっとエネルギーがチャージされるような、とっても省エネな感覚です。これは宇宙に根をはって、つながっている安定感なのでしょう。

だから、大海原で波に翻弄されるボートのような自己を信じるのではなくって、「大きな力に支えられる自己」、これは大海原の上空を大きな力に導かれながゆうゆうと渡ってゆく渡り鳥のような感覚です。

自分のすべてを包み込み、いつも自分を思いやって幸せを願ってくれている力に支えられ、そこから自信をもらっていると感じるとき、自分のコンディションにかかわらず静かに自分を「信じ続ける」ことが可能になります。

そして、その大きな力に心を開いて自分をあけ渡せばあけ渡すほど、その力は自分の人生にどんどん関与してきてくれるのだと感じます。

問題が起きて、行き詰まっているときには、いつでも「もっといいやり方」へのご招待状、「もっと幸せな自分」へのお誘いがきているときです。そして、忘れかけていた「高い自己による本当の自信」を思い出さなければならないときかもしれません。そんなときには、「俺サマボート」をなげすてて、すぐに白旗をかかげてお尋ねしてしまいましょう。お気楽な「すべておまかせコース」信頼してのってしまいましょう♪

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

* From a distance