気づきの日記「何を感じているのか・・.さっぱり?」その2

 

その1では、「頭(思考)」の声が優勢になり、「感情」の声が無視されてしまう、そんな方が多いというお話でした。

では、わたしたちの中にある「頭(思考)」と「感情」の違いって何でしょう?

「頭(思考)」は、まわりの状況を見ながらつねに合理的に変化します。一方、「感情(ハート)」はわきあがってくるこころのつぶやきで一貫しています。つまり、思考は外中心でつくられ、感情は内側からやってきます。思考は自分の思考でありながら狡猾にわたしたちを騙そうとする策略家。感情は朴トツでウソをつくことができない不器用者。思考は使えば使うほど心も身体も萎縮してゆきますが、感情は耳を傾ければ傾けるほど心も身体もホッとします。思考は感情を手なづけようとしますが、感情は従いません。何でも思いどおりにしたい思考はそんな手なずけられない感情をうとましく思い、ついには無視しようとします。

きっと、あなたにも経験がありますよね。「頭」ではそうしようと思っているのに、どうも「感情」がいやがるっていうこと。わたしたちはたいてい「頭」で考えてメリットがあると判断するや、感情がいくらいやがっても首に縄をつけてでも従わせようとします。そして「感情」は尊重されなかったことに傷つき、どんどんいやな気分を増長させてゆきます。すると、「頭」はついに「感情」を扱いかねて、「感情」をバッサリと切り捨てて無視することに。感情はそれにともない、引きこもりになってしまうこともあります。こんなふうに、わたしたちの「頭」と「感情」はずっと対立しながら存在しているのです。

わたしたちはハートが傷ついたことにより「感情」と縁をきり、「頭」を優勢にして生きてきました。その結果、ついには自分が何を感じているのかわからなくなってしまったのです。自分さえも、自分の思考に騙されてしまっているのです。さて、この感情がわからない症候群、人生において何か影響があるのでしょうか?

感情がわからない人の場合、会話において感情が除外されがちです。すると、「インフォメーション」的な会話になりがち。

たとえば、映画鑑賞後の会話。「あの場面、どきどきしたよね〜」「う〜ん、こわかったよね」「あんな体験したくないね〜」と、お互いの感想をシェアしますね。しかし、感情がわからない人の場合はこんなふう。「この映画、○○億も制作費かけてるって」「主演女優は代役たてずに全部自分が踊ったっていってるけど、ウソらしい。代役がクレームを起こしてさあ・・・」とインフォメーションが主体。友人との会話というより、映画評論家の解説を聞いているような気分に。感情を含まない会話には一体感が生まれないので共感しにくく、「なんかヘン?」というズレ感が生まれます。

また、感情を感じられない弊害の最たるものは、人生がモノクロになってゆくことです。感情豊かな人は泣いたり笑ったりいろいろと感じていますが、感情を感じない人にとっては何もかもフラットなのです。

すごく喜ばないけれど、さして悲しくもなく。人が「楽しいね!」と言えば一応口裏をあわせますが、目は笑っていません。冷めています。頭で「これは楽しいんだ!」といい聞かせても、どこかシラケています。もしかすると、人からは「動じない人」あるいは「穏やかな人」と言われるかもしれません。でも、ご本人は味気ない。ヴィヴィッドにフルカラーで感じてこそ、「人生って、まぁいろいろあるけど、でも生きてるっていいね〜!」と心からいえるのです。

感情がまったくわからなかった方も、はじめからわからないわけではないので、幼少の頃体験している「わからなくなっちゃった」理由を取り除いてあげることによってちゃんと豊かな感情がもどってきます。

また、何が好きで何が好きでないか、小さなことをないがしろにしないでいちいちハートにお伺いをたててあげる習慣をつけてあげることも大切。いつも、自分がどのように感じているのかをちゃんと気にしてあげる必要があるのです。「自分が広がる感じ」「ほわっとする感じ」・・・そうなら、ハートは喜んでいるでしょう。もし、「胃が縮こまる感じ」「肩がこる感じ」がしたら、ハートは NO! と言っているのかもしれません。

そうして常に自分の内側の声に敏感になってあげると、自分が何が好きか、どうしたいのか、どんな人生を生きたいのか・・・ほんとうの気持ちがわかるようになってきます。自分の体験にも満足感が持てるようになります。

さらにいいことは、感情をしっかり感じることができるようになると、自分の人生の舵取りがしやすくなるということ。なぜなら、絶えまなくやってきている「自分専用のスペシャルメッセージ from 宇宙」は、感情(ハート)を通してのみキャッチできるのです。すると、すべての答えを知っている「ほんとうの自分」とつながれるようになるのです。「今回の人生、どのように生きたらいいのか」ということにはじまって、「この仕事でいいのか」など。人生がすんなり流れる方向を知っているのです。それは頭ではできません。

ほんとうにこれがやりたい!とハートがワクワクする感じと、それにそって頭でつくりだす将来の鮮明なイメージをプラスしてあげると、これはもうモーゼの杖!なのです。ぱっくりと、あなたの目の前にあなたの行く道が開けてくるのです。

ワクワク楽しい自分の感情の声を理解し、さらにそこに思考のしっかりとした将来のイメージをプラスしてあげるとパワフルに未来をつくりだす力に早変わり。進むのが早くなります。これは感情だけでも、思考だけでもダメ。感情が大切にされて、それに思考が従ったときにこそ発揮されるパワーなのです。正しい行き先を知っている感情と、パワフルにイメージし行動を計画できる思考が合体したとき、それは力強く未来を切り開いてくれる最強ツールとなるのです。

自分の感情(ハート)の声を優先することで、自分本来の生きるべき道に導かれます。またその道を自ら力強く歩んでゆく力も与えてくれるのです。・・・だから、ハートの声、大切にしましょ!

11-05-20 何を感じているのか・・.さっぱり? その1

おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。

さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)

さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。

「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。

感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。

この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。

こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。

どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。

つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。

そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。

「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。

そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
その2に続く

 

気づきの日記「何を感じているのか・・.さっぱり?」その1

おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。

さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)

さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。

「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。

感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。

この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。

こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。

どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。

つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。

そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。

「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。

そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
その2に続く

 

五月の風とジャスミンと・・・スウィーツと

今月前半はぱっとしない空模様が続いていましたが、きょうは暑くもなく寒くもなく五月らしいさわやかなお天気。

やっぱり五月生まれとしては、五月の晴れた空は一年中でとびきり、いちばん美しいと感じてしまいます。

とにかくきょうは気持ちがい〜い♪

ああ、しあわせ〜...♪

ジャスミンの垣根がとってもいい匂いで、もっとしあわせ〜...☆

そしてそして、こんなおやつでさらにしあわせ〜...♥♥

 

気になる・・・どら

次回セミナーへ向けてのミーティングです。

最近の定番おやつは“どら焼き”。

前回は京都の宇治抹茶生クリームどら焼きで(たしかこれだったと思う。かなりおいしくて、やみつきになりそう)、今回は千葉からやってきたオーソドックスな栗どら(なんたって、栗どらは王道だわ)。

こどもの頃はケーキが特上のおやつでどら焼きなんてさほど興味がなかったのに、なぜかここにきて気になるよね、と三人で意見が一致。なかのフィリングも大切だけど、皮のこのモチモチ感が命!・・・としばしドラ焼き論へ。

たぶん、仕事の合間に食べるには腹持ちがいいのがウケるのかも。マカロンとかクッキーだと何個食べてもお腹はびくともしません(昨日がそうでしたよ。セッションの合間にクッキーを山のように消費・・・しかし、空腹おさまらず ・・・ )。

というわけで、しばらくミーティングのおやつはどらちゃんになりそうです。

おススメどら、あったら教えてくださいね〜(この“ぷりんどら”というのもすごそうだわ ・・・)。

しばしシュールな世界へ

すっかり忘れていた「シュルレアリズム展」。さいわい開期が延長され、なんとかセーフ!そのうえ、節電により早く閉館するのを忘れていて、これも閉館ギリギリセーフ=3

パリ、ポンピドーセンター所蔵、ってことはそーとー前衛的?「シュールはどれだって前衛的でしょ?」と言われるかもしれませんが、「楽しくフシギな」シュールと「かなりいっちゃってます」系シュールとがあって、ポンピドーセンターだったらまちがいなく“いっちゃってます”系だわ。

というわけで、ちょっとわたしテイストからは微妙にずれていましたが、大好きなダリの作品もきていました。

わたしの持っているダリのコピー(→)、そのオリジナル版「部分的幻影、ピアノに現れたレーニンの6つの肖像」に遭遇。実物はかなり大きいです。わたしのはとってもちっちゃい複製なので細部などあったものではなく、あらためて「ふ〜ん、こういう絵だったんだ」と理解を深めたわけです。

しかし、生ダリを観ているとあいかわらず細部描写のすごさに驚かされます。この作品はわりとラフなタッチにもかかわらず、鍵盤の上のレーニンの顔やら楽譜の上のアリさんたちはしっかりと描きこまれていました。アリさんの影まで描き込まれていて、いったいどんな筆を使っているのだろ〜と興味津々。う〜ん、あのナマズのようなおヒゲは筆のかわりだったのか??

その他、彫刻、リトグラフ、写真・・・(ブラッサイの写真まで。彼の写真のどこがシュールなの?!)

しばし異次元を楽しみ、絵を観たあとは美術館のまわりの緑でたっぷりと癒されてきました♪

 

 

“希望”のコラム

セラピーコモンズ・ネットモールさんから、「希望」というお題目でコラムを書いてくださいと依頼されました。

ついつい長々書くわたしは、ほっておけば5000文字や6000文字も楽勝。かえって1000字文字におさめるのは苦行なのであります。あれこれ言いたい!書きたい!気持ちは山々ですが、きっぱり1000字で!(笑)

コラムはセラピーコモンズさんのトップページ中央「新着!セラピストのコラム」5/10日分「心理療法家/ヒプノセラピスト  古川貴子」という項目で〜す(こちらからでも)。

11-05-09 ドキドキする「太陽がいっぱい」

そういえば・・・若い頃のアラン・ドロンの映画って一本も観たことないな〜。アラン・ドロン世代ではないけれど、友人のなかには大ファンの子もいましたっけ。今さらですが、「いったい何がよかったの?」とばかりに、リバイバル中の「太陽がいっぱい」を観に行ってきました。

大富豪からイタリアで豪遊するドラ息子を連れ戻す、というお役目をおおせつかるトム(アラン・ドロン)。その放蕩息子と行動をともにするうちに、彼と自分とを同一化しはじめます。だんだん、だんだん、富豪っぽい横柄で大胆不敵なキャラを身につけてゆきます(別に大富豪さんがみんな、そのようなキャラではありませぬが・・・)。そうするうちに、ドラ息子を首尾よく片づけ、自分が彼になりかわってしまえばいいじゃないか...と、かなり短絡的なひらめきがやってきます。そして財産だけでなく、彼の恋人までもを自分のものにしようとたくらむわけです。

何年か前に「リプリー」というハリウッド版リメイク作品がありましたっけ。富豪がジュード・ロウ(ちょい気品があり、自信たっぷりで鼻持ちならない感じがはまり役)。そしてお目付け役トムはマット・ディモン。彼の場合は、アラン・ドロンのような獲物をねらうヒョウのギラギラ感はなかったな〜。ノラクラしているうちになりかわったような。でも、観ていてドキドキした(ときめいた!という意味ではなく、スリリングの意味)のは「リプリー」の方。

最後のオチはちょっと違っているような・・・(「リプリー」のオチは忘れた・・・)。いずれにしても、ウソがばれてトムはただのトムに逆戻り。

「リプリー」にしろ「太陽がいっぱい」にしろ、ここまでひやひやの労力払ってちまちま小細工して他人になりかわり・・・いったい楽しいの?と思ってしまうのでした。う〜ん、甲斐性なしには完全にムリ。

涙壷度;ゼロ(泣く場面などありませぬ)

観ていてアラン・ドロンと富豪の息子の区別がつかなくなり(て、ことは同一化には成功しているのでしょうが)・・・アラン・ドロンのオーラはいまいち理解できなかったわたしなのでした。

お茶の間シネマトーク「ドキドキする“太陽がいっぱい”」

そういえば・・・若い頃のアラン・ドロンの映画って一本も観たことないな〜。アラン・ドロン世代ではないけれど、友人のなかには大ファンの子もいましたっけ。今さらですが、「いったい何がよかったの?」とばかりに、リバイバル中の「太陽がいっぱい」を観に行ってきました。

大富豪からイタリアで豪遊するドラ息子を連れ戻す、というお役目をおおせつかるトム(アラン・ドロン)。その放蕩息子と行動をともにするうちに、彼と自分とを同一化しはじめます。だんだん、だんだん、富豪っぽい横柄で大胆不敵なキャラを身につけてゆきます(別に大富豪さんがみんな、そのようなキャラではありませぬが・・・)。そうするうちに、ドラ息子を首尾よく片づけ、自分が彼になりかわってしまえばいいじゃないか...と、かなり短絡的なひらめきがやってきます。そして財産だけでなく、彼の恋人までもを自分のものにしようとたくらむわけです。

何年か前に「リプリー」というハリウッド版リメイク作品がありましたっけ。富豪がジュード・ロウ(ちょい気品があり、自信たっぷりで鼻持ちならない感じがはまり役)。そしてお目付け役トムはマット・ディモン。彼の場合は、アラン・ドロンのような獲物をねらうヒョウのギラギラ感はなかったな〜。ノラクラしているうちになりかわったような。でも、観ていてドキドキした(ときめいた!という意味ではなく、スリリングの意味)のは「リプリー」の方。

最後のオチはちょっと違っているような・・・(「リプリー」のオチは忘れた・・・)。いずれにしても、ウソがばれてトムはただのトムに逆戻り。

「リプリー」にしろ「太陽がいっぱい」にしろ、ここまでひやひやの労力払ってちまちま小細工して他人になりかわり・・・いったい楽しいの?と思ってしまうのでした。う〜ん、甲斐性なしには完全にムリ。

涙壷度;ゼロ(泣く場面などありませぬ)

観ていてアラン・ドロンと富豪の息子の区別がつかなくなり(て、ことは同一化には成功しているのでしょうが)・・・アラン・ドロンのオーラはいまいち理解できなかったわたしなのでした。

歩きたくなる街

新緑のころに足を運びたくなるスポットのひとつに表参道があります。

けやき並木がクレヨンみたいな「きみどり」色。

きょうは、二回目の表参道ヒルズ詣で。前回もそうなのですが、ここのイタリアン「サルヴァトーレ・クオモ」さんに来ました(敷居が高くて、まだショップめぐりはしたことがありません)。

3階にあるガラス張りのレストランは一面新緑に包まれていて、これだけでもたいそうなゴチソウ。エネルギー、いっぱいもらいましたよ。(^-^)ノ

ゴハンのあとも気持ち良くって、みどりのなか風にふかれてそぞろ歩きを楽しみました。