お仕事ランチ♪

打ち合わせで、「るん」の向かいにあるチャイニーズ「花壇」さんに行ってきました。

古くからの学びの同志であり、魂のお友だちでもあるお二人と千葉でセミナーをやります。2月下旬、九十九里にて(あ、ハマでのセミナーじゃないですよ〜。そりゃ、寒すぎ・・・)。また、詳しく決まりしだいお知らせいたします。

今回は「自分を好きになること」「しあわせになる秘訣」などをお話しする予定で〜す。

「花壇」さんのランチ、充実してておいしかった♪お二人との会話にもインスピレーションがいっぱい。やりたいことがたくさん見つかりましたよ。ありがとう!(^_^)

11-01-29 ゆだねる、ということ その2

「ゆだねる」=「ホンロウ」されちゃう?のでしょうか。

その1でもちらりと書きましたがいろいろな体験がやってくるということは、宇宙はあなたにそれを体験してほしいからなのです。「怖い」だ「好き」だ「嫌い」だと言っているのではなく、そのまま体験することに意義あり、きっとよいことがありますよ〜と。

数日前、出張に出かけたときのこと。現地での午後のセッションが当日キャンセルとなりました。交通費、モロモロの経費があり、あらら・・・(汗)なのですが、わたしとセッション会場を提供してくれてる友人は「まあ、どうにかなるっしょ!」と顔を見合わせそのままにしておきました。すると、午前中のクライアントさんが「午後に他のセッションも受けたい」との申し出があり、そのセッションをしているうちに勝手にもう一名新しいクライアントさんが名乗りをあげておりました(で、結局もとよりも収入増!)。そう、経験に「抵抗しない」「そのままにしておく」ってこういう予想外の流れに乗れることなのです。予期しないことがやってきたときは、「こっちのほうが楽しいよ」「おトクだよ」と導かれているときです。これを見て、わたしたちは「ほら!やっぱりね!」と再度微笑みあったのでした。

また、「あるがままにしておく」「そのまま受け入れる」ということは、自分の中にある怖れをありありと浮かび上がらせてくれます。「そんなことしたら○○になっちゃうよ」と。そう、この思い込みこそが「○○になっちゃう」人生を創りだすモトなのです。

自分がどんな怖れを持っているのか自覚できないと、わたしたちはそれに突き動かされてとっている自分自身の不毛な行動に気づくことができません。怖れを避けようとすればするほど、そちらに歩み寄ってゆくことになります。

自分の怖れに自覚的になると、自信がなくなる?いえいえ、それよりも自分もそんな弱い面、ふがいない面を持っていることに気づき、人ってみんなそうなんだな〜と、自分も人も許すことができ優しくなります。自分がその点を認めて気づいていないと、同じ弱さを持っている人を認められず裁いてしまいます。しかし、みんながみんな、自分と同じそんな面を持っていると感じられるようになると、ある人が不器用なのを見て「まるでわたしみたい」と助けてあげることができます。それは自分を助けていることと同じこと。自分への変なこだわりやプライドがなくなり、罪悪感をもったり自己嫌悪で自分につらくあたることもなくなり、人への共感が育ち、そして世の中が平和に見えはじめます。

そして「抵抗しない」と、何よりも自分自身と世界との間に摩擦がおこらないので、ものごとはあるがままにとうとうと流れ、ちゃんとなるようになってゆく・・・という感覚があります。結局、怖れからさまざまなものに抵抗することで、なるようになるはずだった流れをせき止めていたのだな〜ということに気がつきます。わたしたちのアタマで「あ〜だ、こ〜だ」考えても、所詮、宇宙の智慧に比べたらわたしたちのはおサルちゃんの智恵程度(汗)。宇宙がわたしたちに乗せてくれようとしている流れに力を抜いてゆだねることこそ、わたしたちがこの地球でしなければならないことなのです。

きっと宇宙さんんは何度も叫んでいたことでしょうね。「もっと力を抜いて!自分でやろうとしないで!ちゃんとすべては用意されているのだからその流れに乗りなさい!」と。

「怖れ」や「抵抗」や「コントロールしたい」いつものパターンが顔をだそうとも、抵抗しない、戦わない、あるがまま、で今年は進んでゆこうと思っています。(まだ一ヶ月弱だけれど、気づきがたくさんあり、また人生の流れもラクになってきがしますよ♪)

もともとわたしたちがここに五感のある身体を持ってやってきたのは、それをフルに利用して体験するという人生を生きるためです。体験するために来たのに、逃げてちゃはじまらないわけです。「お〜、怒るってこんな感じか〜」「恥ずかしいってこんな感じか〜」「飛び上がっちゃうほど嬉しいってこんな感じか〜」と、あるがままにやってこさせて、それをサクサク受けとめて体験して、全部知っちゃったら同じ体験をする必要もなく、身体をもってここに存在する意味もなくなっちゃって・・・ついに人間卒業?(それも寂しい・・・まだスウィーツ食べたい・・・失笑)

あるがまま、来させて、体験して、楽しんで、流れにのって・・・大きくなりましょう。

PS セラピスト、癒し手という仕事をする前には、勉強をかねつつ自己の癒しもしなければなりません。なので、あらかたの問題はとっくに手放したと思っていました。が、気がついてみると、本当の自分のパターン化した重大な問題っていうのはじつは、自分がこれが問題だ!と信じていた裏の裏の裏の奥〜の方に気づかれないように静かに潜んでいるものなのです。嗚呼・・こんな信念に支配されていたとは・・・。そして、これを見つけるのに何年かかったことか・・・。でも、自分のとってきたあらゆる行動・思考に関して、深く納得するとともに、ナゾが解けたようで笑ってしまったのでした(なにやってたのだ!と)。自己探求はオモシロイ!そして、さらにふわふわゆるゆる自由になります。

気づきの日記「ゆだねる、ということ」その2

「ゆだねる」=「ホンロウ」されちゃう?のでしょうか。

その1でもちらりと書きましたがいろいろな体験がやってくるということは、宇宙はあなたにそれを体験してほしいからなのです。「怖い」だ「好き」だ「嫌い」だと言っているのではなく、そのまま体験することに意義あり、きっとよいことがありますよ〜と。

数日前、出張に出かけたときのこと。現地での午後のセッションが当日キャンセルとなりました。交通費、モロモロの経費があり、あらら・・・(汗)なのですが、わたしとセッション会場を提供してくれてる友人は「まあ、どうにかなるっしょ!」と顔を見合わせそのままにしておきました。すると、午前中のクライアントさんが「午後に他のセッションも受けたい」との申し出があり、そのセッションをしているうちに勝手にもう一名新しいクライアントさんが名乗りをあげておりました(で、結局もとよりも収入増!)。そう、経験に「抵抗しない」「そのままにしておく」ってこういう予想外の流れに乗れることなのです。予期しないことがやってきたときは、「こっちのほうが楽しいよ」「おトクだよ」と導かれているときです。これを見て、わたしたちは「ほら!やっぱりね!」と再度微笑みあったのでした。

また、「あるがままにしておく」「そのまま受け入れる」ということは、自分の中にある怖れをありありと浮かび上がらせてくれます。「そんなことしたら○○になっちゃうよ」と。そう、この思い込みこそが「○○になっちゃう」人生を創りだすモトなのです。

自分がどんな怖れを持っているのか自覚できないと、わたしたちはそれに突き動かされてとっている自分自身の不毛な行動に気づくことができません。怖れを避けようとすればするほど、そちらに歩み寄ってゆくことになります。

自分の怖れに自覚的になると、自信がなくなる?いえいえ、それよりも自分もそんな弱い面、ふがいない面を持っていることに気づき、人ってみんなそうなんだな〜と、自分も人も許すことができ優しくなります。自分がその点を認めて気づいていないと、同じ弱さを持っている人を認められず裁いてしまいます。しかし、みんながみんな、自分と同じそんな面を持っていると感じられるようになると、ある人が不器用なのを見て「まるでわたしみたい」と助けてあげることができます。それは自分を助けていることと同じこと。自分への変なこだわりやプライドがなくなり、罪悪感をもったり自己嫌悪で自分につらくあたることもなくなり、人への共感が育ち、そして世の中が平和に見えはじめます。

そして「抵抗しない」と、何よりも自分自身と世界との間に摩擦がおこらないので、ものごとはあるがままにとうとうと流れ、ちゃんとなるようになってゆく・・・という感覚があります。結局、怖れからさまざまなものに抵抗することで、なるようになるはずだった流れをせき止めていたのだな〜ということに気がつきます。わたしたちのアタマで「あ〜だ、こ〜だ」考えても、所詮、宇宙の智慧に比べたらわたしたちのはおサルちゃんの智恵程度(汗)。宇宙がわたしたちに乗せてくれようとしている流れに力を抜いてゆだねることこそ、わたしたちがこの地球でしなければならないことなのです。

きっと宇宙さんんは何度も叫んでいたことでしょうね。「もっと力を抜いて!自分でやろうとしないで!ちゃんとすべては用意されているのだからその流れに乗りなさい!」と。

「怖れ」や「抵抗」や「コントロールしたい」いつものパターンが顔をだそうとも、抵抗しない、戦わない、あるがまま、で今年は進んでゆこうと思っています。(まだ一ヶ月弱だけれど、気づきがたくさんあり、また人生の流れもラクになってきがしますよ♪)

もともとわたしたちがここに五感のある身体を持ってやってきたのは、それをフルに利用して体験するという人生を生きるためです。体験するために来たのに、逃げてちゃはじまらないわけです。「お〜、怒るってこんな感じか〜」「恥ずかしいってこんな感じか〜」「飛び上がっちゃうほど嬉しいってこんな感じか〜」と、あるがままにやってこさせて、それをサクサク受けとめて体験して、全部知っちゃったら同じ体験をする必要もなく、身体をもってここに存在する意味もなくなっちゃって・・・ついに人間卒業?(それも寂しい・・・まだスウィーツ食べたい・・・失笑)

あるがまま、来させて、体験して、楽しんで、流れにのって・・・大きくなりましょう。

PS セラピスト、癒し手という仕事をする前には、勉強をかねつつ自己の癒しもしなければなりません。なので、あらかたの問題はとっくに手放したと思っていました。が、気がついてみると、本当の自分のパターン化した重大な問題っていうのはじつは、自分がこれが問題だ!と信じていた裏の裏の裏の奥〜の方に気づかれないように静かに潜んでいるものなのです。嗚呼・・こんな信念に支配されていたとは・・・。そして、これを見つけるのに何年かかったことか・・・。でも、自分のとってきたあらゆる行動・思考に関して、深く納得するとともに、ナゾが解けたようで笑ってしまったのでした(なにやってたのだ!と)。自己探求はオモシロイ!そして、さらにふわふわゆるゆる自由になります。

11-01-26 ゆだねる、ということ その1

2012年に向けて、様々なことが加速しているのを感じる今日この頃です。

自己についての洞察もこれまでになく超加速気味で、ひゃ〜!見たくないものオンパレード。こんなアイデンティティと一体化して平気でいたなんて〜!(汗)と今さらながらの赤面もの。しかし、恥やら自己嫌悪に陥っている場合ではなく、気がついたら「さっさと片づけなさいよ」ということです。それに、気づいて片づけないと、ものごとはさらに悪化の一途をたどります。というわけで、新年からいろいろと脱皮をはかっておりますよ〜。脱皮すると決めたら、あれも、それも、これも!と次から次へと問題提起と気づきの連続(ひゃ〜ん!)。そんな状態でもありのままの自分を愛する、ありのままをよしとするという忍耐のレッスンです。(宇宙さん、どうぞお手柔らかに)みなさまの新年のスタートはいかがでしょうか?

さて本日のお題目は、最近私がこれらの気づきの中で取り組んでいる「ゆだねる」ということについて。

私たちは、自分のまわりのあらゆるモノ・ヒト・デキゴトを無意識のうちに徹底的にコントロールしようと試みています。なぜなら、「この世はコワイところ」だし、「やってくる出来事にちゃんと対応できないかもしれない」し、なによりも「人は何をするかわからない」という危機感から傷つけられてボロボロになっちゃうかも・・・と信じています(もちろん、これは意識下でのこと)。深い部分で「自分はやってくるものにうまく対処できない」と感じて、あらゆることに対して「怖れ」を抱いているのです。

「怖れ」というものを持っていれば、まず身を守ることが最優先。身を守るために、ものごとに対して、人に対して、すべてコントロールをしなければならないと思っています。やってくるままにさせておくと手に負えなくなるだろうと信じているので、ホンロウされてしまう前に、傷つく前に、損する前に、どうにかしようと”こっそりと” あるいは”あからさまに”  抵抗を試みるわけです。

たとえば、友人が共通の知り合いのことを褒めたら、「でもね、あの人さ〜、そうでもないのよ」とすかさず反論しておく(誰かがすばらしくなったら、ますます自分の価値が低くなるという怖れ)。パートナーが期待したように振る舞ってくれないときには、口では何も言わなくてもにらみつけて機嫌を悪くする(しっかりと手綱を取るべく、あなたはわたしの言いなりになるべきだと無言のプレッシャーをかけ力の上下関係を明白にしておく)。こどもが思うような結果を出せないとき、「なんで○○ちゃんはできるのにあなたはできないの?」と常に他と比較する(こどもの達成=自分の価値と勘違いしているので、理想を達成できなければプレッシャーをかけてコントロールする)、などなどまわりの状況に対して、あれやこれやの細工をして抵抗をしているわけです。

しかし、すべての「苦しみ」の原因というのは、じつは「こんなことはいやだ〜!わたしの好みではない!」と起っている現実を受け入れられずそれに抵抗しようとすることから生まれます。出来事、人、関係をそのまま受け入れられないのです。だから、それに挑みかかって戦ってなんとか違う体験に変えようとします。コントロールはその戦いのひとつのバージョンです。

しかし、ものごとはいつだって「そのまま・あるがまま」なのです。ただそのようにやってきて、そのように去ってゆく。それがものごと。ということは、「そのようにそのまま体験してね。それがあなたにとっていちばんためになるのですよ」ということでもあるのです。そのままで結局うまくゆくのかもしれないし、そのままで学ぶことがたくさんあり、新しい自分になれるのかもしれません。宇宙さんが「そのまま」でいいというのだから、きっとそのままでいいことがあるに違いありません。

すると、変えなければならないのは、じつは「あるがまま」に耐えられず怖れを感じている”自分”なわけです。たとえば、先ほどの共通の知り合いを友人がほめたとき、さりげなく悪口を言っておくというような場合、勝手に劣等感にとらわれているのは本人で、その人が誰かが誰かを褒めるのを許せないわけです。あいますよね。誰かが人のことを褒めはじめると、急に不機嫌になるか自己主張をはじめるお方。ただ、自分が自分に対して「わたしは人より劣っていて恥ずかしい存在だ」と勝手に信じているだけなのです。(こういう痛みを持った人が一人いると、その痛みがジワジワまわりに伝播しはじめ、そこにいる人たち全員が知らないうちにぎすぎすした雰囲気になっちゃったりします。感情は伝染するのですね。)

自分の劣等感からいちいち現実に反応し戦っていると、相当なエネルギーを消費します。おそらくそれに対処するだけで体力は精一杯、未来を創り出すパワーはもう残っていません。また自分の価値が自分で認められないと、外からも同じような体験を引寄せることになります。つまり、人からも評価されないし大切にされないという結果になるのです。自分が自分を扱ったようにしか、人は自分を扱ってくれないからです。

そこで、いちいちまわりに抵抗して戦おうとするよりも、いっそまわりに起ること、まわりの流れにそのまま身を「ゆだねて」しまいましょうよ、ということなのです。起ることすべてを、ただ勝手に起るままにさせておく。一切のコントロールや抵抗、戦いを手放すということです。

「え〜っ!そんなことしたら、まわりに好き勝手にされちゃうんじゃないの?」・・・そう思いますか?それこそが、自分自身と人生を戦わせる最大の信念なわけです。ほんとうに流れにゆだねて何もしなかったら、いいようにされちゃうのでしょうか?
(その2へ続く)

気づきの日記「ゆだねる、ということ」

2012年に向けて、様々なことが加速しているのを感じる今日この頃です。

自己についての洞察もこれまでになく超加速気味で、ひゃ〜!見たくないものオンパレード。こんなアイデンティティと一体化して平気でいたなんて〜!(汗)と今さらながらの赤面もの。しかし、恥やら自己嫌悪に陥っている場合ではなく、気がついたら「さっさと片づけなさいよ」ということです。それに、気づいて片づけないと、ものごとはさらに悪化の一途をたどります。というわけで、新年からいろいろと脱皮をはかっておりますよ〜。脱皮すると決めたら、あれも、それも、これも!と次から次へと問題提起と気づきの連続(ひゃ〜ん!)。そんな状態でもありのままの自分を愛する、ありのままをよしとするという忍耐のレッスンです。(宇宙さん、どうぞお手柔らかに)みなさまの新年のスタートはいかがでしょうか?

さて本日のお題目は、最近私がこれらの気づきの中で取り組んでいる「ゆだねる」ということについて。

私たちは、自分のまわりのあらゆるモノ・ヒト・デキゴトを無意識のうちに徹底的にコントロールしようと試みています。なぜなら、「この世はコワイところ」だし、「やってくる出来事にちゃんと対応できないかもしれない」し、なによりも「人は何をするかわからない」という危機感から傷つけられてボロボロになっちゃうかも・・・と信じています(もちろん、これは意識下でのこと)。深い部分で「自分はやってくるものにうまく対処できない」と感じて、あらゆることに対して「怖れ」を抱いているのです。

「怖れ」というものを持っていれば、まず身を守ることが最優先。身を守るために、ものごとに対して、人に対して、すべてコントロールをしなければならないと思っています。やってくるままにさせておくと手に負えなくなるだろうと信じているので、ホンロウされてしまう前に、傷つく前に、損する前に、どうにかしようと”こっそりと” あるいは”あからさまに”  抵抗を試みるわけです。

たとえば、友人が共通の知り合いのことを褒めたら、「でもね、あの人さ〜、そうでもないのよ」とすかさず反論しておく(誰かがすばらしくなったら、ますます自分の価値が低くなるという怖れ)。パートナーが期待したように振る舞ってくれないときには、口では何も言わなくてもにらみつけて機嫌を悪くする(しっかりと手綱を取るべく、あなたはわたしの言いなりになるべきだと無言のプレッシャーをかけ力の上下関係を明白にしておく)。こどもが思うような結果を出せないとき、「なんで○○ちゃんはできるのにあなたはできないの?」と常に他と比較する(こどもの達成=自分の価値と勘違いしているので、理想を達成できなければプレッシャーをかけてコントロールする)、などなどまわりの状況に対して、あれやこれやの細工をして抵抗をしているわけです。

しかし、すべての「苦しみ」の原因というのは、じつは「こんなことはいやだ〜!わたしの好みではない!」と起っている現実を受け入れられずそれに抵抗しようとすることから生まれます。出来事、人、関係をそのまま受け入れられないのです。だから、それに挑みかかって戦ってなんとか違う体験に変えようとします。コントロールはその戦いのひとつのバージョンです。

しかし、ものごとはいつだって「そのまま・あるがまま」なのです。ただそのようにやってきて、そのように去ってゆく。それがものごと。ということは、「そのようにそのまま体験してね。それがあなたにとっていちばんためになるのですよ」ということでもあるのです。そのままで結局うまくゆくのかもしれないし、そのままで学ぶことがたくさんあり、新しい自分になれるのかもしれません。宇宙さんが「そのまま」でいいというのだから、きっとそのままでいいことがあるに違いありません。

すると、変えなければならないのは、じつは「あるがまま」に耐えられず怖れを感じている”自分”なわけです。たとえば、先ほどの共通の知り合いを友人がほめたとき、さりげなく悪口を言っておくというような場合、勝手に劣等感にとらわれているのは本人で、その人が誰かが誰かを褒めるのを許せないわけです。あいますよね。誰かが人のことを褒めはじめると、急に不機嫌になるか自己主張をはじめるお方。ただ、自分が自分に対して「わたしは人より劣っていて恥ずかしい存在だ」と勝手に信じているだけなのです。(こういう痛みを持った人が一人いると、その痛みがジワジワまわりに伝播しはじめ、そこにいる人たち全員が知らないうちにぎすぎすした雰囲気になっちゃったりします。感情は伝染するのですね。)

自分の劣等感からいちいち現実に反応し戦っていると、相当なエネルギーを消費します。おそらくそれに対処するだけで体力は精一杯、未来を創り出すパワーはもう残っていません。また自分の価値が自分で認められないと、外からも同じような体験を引寄せることになります。つまり、人からも評価されないし大切にされないという結果になるのです。自分が自分を扱ったようにしか、人は自分を扱ってくれないからです。

そこで、いちいちまわりに抵抗して戦おうとするよりも、いっそまわりに起ること、まわりの流れにそのまま身を「ゆだねて」しまいましょうよ、ということなのです。起ることすべてを、ただ勝手に起るままにさせておく。一切のコントロールや抵抗、戦いを手放すということです。

「え〜っ!そんなことしたら、まわりに好き勝手にされちゃうんじゃないの?」・・・そう思いますか?それこそが、自分自身と人生を戦わせる最大の信念なわけです。ほんとうに流れにゆだねて何もしなかったら、いいようにされちゃうのでしょうか?
(その2へ続く)

11-01-23 定番、ご近所ランチ(中目黒)

最近のお友だちとのランチプレイスです。

まず、ご近所、目黒川沿いにできたRikacoさんプロデュースのお店「be my self」。一階がデリや食材、ミニカフェで、二階がレストラン。この日はお二階でパスタランチを。どっからやって来た?と思うほど、女子ばかりがひしめきあっておりましたよ(ヨガスタジオもあるからですね)。

いただいたのは、キノコのフィットチーネ。しっかりとコシのある茹で加減で、キノコとチーズの香りがたっぷり。美味でした。ピースープとミニデザート、コーヒーつき。¥1200からサラダランチ、玄米ランチなどもありま〜す。

そして、以前にもご紹介したご近所イタリアン、中目黒「アゴスティーニ」さん。ジミめだけれど、なぜかやみつきになるイタリアン。

前菜は鶏肉のパテ。そして、前回来たときに仕事のことを考えて断念したペペロンチーノをいただいてみました。お味はとてもマイルド(激なニンニクではありません)。お友だちのアラビアータは結構ピリっとパンチがきいていましたよ。

隣のテーブルのおにいさんが食べていた、豚肉のテリーヌとお肉料理にも目が釘付けでした(おいしそ、是非近日中に!)。

デザートには温かい林檎のケーキ。ランチそのものよりボリューム感あり!洋酒がたっぷり入ったクリームが添えられていて、多菓子としては大満足でありました。Yum-Yum (*^_^*)

定番、ご近所ランチ

最近のお友だちとのランチプレイスです。

まず、ご近所、目黒川沿いにできたRikacoさんプロデュースのお店「be my self」。一階がデリや食材、ミニカフェで、二階がレストラン。この日はお二階でパスタランチを。どっからやって来た?と思うほど、女子ばかりがひしめきあっておりましたよ(ヨガスタジオもあるからですね)。

いただいたのは、キノコのフィットチーネ。しっかりとコシのある茹で加減で、キノコとチーズの香りがたっぷり。美味でした。ピースープとミニデザート、コーヒーつき。¥1200からサラダランチ、玄米ランチなどもありま〜す。

そして、以前にもご紹介したご近所イタリアン、中目黒「アゴスティーニ」さん。ジミめだけれど、なぜかやみつきになるイタリアン。

前菜は鶏肉のパテ。そして、前回来たときに仕事のことを考えて断念したペペロンチーノをいただいてみました。お味はとてもマイルド(激なニンニクではありません)。お友だちのアラビアータは結構ピリっとパンチがきいていましたよ。

隣のテーブルのおにいさんが食べていた、豚肉のテリーヌとお肉料理にも目が釘付けでした(おいしそ、是非近日中に!)。

デザートには温かい林檎のケーキ。ランチそのものよりボリューム感あり!洋酒がたっぷり入ったクリームが添えられていて、多菓子としては大満足でありました。Yum-Yum (*^_^*)

お豆腐屋さんが来た!

最近、あちこちの路地で昔ながらのラッパを鳴らしリヤカーで引き売りをしているお豆腐屋さんを見かけます。中目黒や代官山にも。テレビで紹介されているのを見たことがありますが、築地にある野口屋さんとうお豆腐屋さんです。

お友だちから「野口屋さんのお豆腐をお送りしました」と連絡が入りました。リヤカーをひいたお豆腐屋さんが二〜三丁たずさえて登場!かと思いきや、宅急便屋さんから立派な箱。

どんなお豆腐?とのぞいてみると、中からざるどうふ、お刺身湯葉、高野豆腐、お豆腐ハンバーグ、たまごかけごはんの玉子までザクザク。こんなにいろんなバリエーションがあるのですね。楽し〜♪それに、どれもフレッシュでとってもおいしそう。当分、お献立考えなくってよいです♪

お友だちは70代ですが女子大生のお豆腐屋さんと仲良しで、この就職難のご時勢、寒い中お豆腐の行商をしつつ100枚もの履歴書を用意して面接にかけずりまわる学生さんを応援し、お豆腐を贈ってくださったのです(やさし〜♥)。

愛のこもったおいしいお豆腐、ありがたく頂戴いたします。m(__)m きょうはざるどうふで〜す♪

11-01-18 母娘の葛藤 「愛する人」

わたしたちの人生は、幼少の頃の両親との関係を色濃く反映し続けます。とくに、命をはぐくんでくれた母親との関係。セラピーセッションの中でも、母親との問題は定番中の定番。たいてい心や身体の問題の根っこは母との関係に帰着するといってもいいほどです。

この「愛する人」という映画は、そんな母と娘の心の葛藤を通して、人を愛すること、自分を愛すること、そして愛を受け入れること、がテーマになっています。

愛するがゆえに娘をコントロールしようとする母、それに抵抗し怒りから心を閉ざしてゆく娘。これぞ、日々のセッションのおきまりのパターン! また、自分を養子に出した母への恨みから女性全体を嫌悪し、満たされない愛情をどうにかしようと手当たりしだい男性を誘惑しようとする女性(これ、ぜったい満たされません)・・・これもよくあるパターンです。

しかし、人生の途上では、かならず傷をいやすチャンス、助けが用意されていることも事実です。

この物語は三つのストーリーが同時に進行してゆきます。14歳で妊娠し娘を手放した母の苦しみ、母に見捨てられた傷から愛を信じない娘、そして子どもができずに養子をとることに必死なカップル。この三つはおそらくこうつながるだろうと予測していたのですが、以外な展開に・・・。

監督さんは、なんとガルシア・マルケス(ノーベル賞作家)の息子さんロドリゴ・ガルシア。アネット・ベニング演じる罪悪感いっぱいのギスギスとげとげの母親が愛の中で再生してゆく様子が美しいです。この映画を観ることで、「母からの愛」を改めて気づかされたわたしでした(涙)。

涙壷度:★★★☆☆(静かに涙)

お茶の間シネマトーク 母娘の葛藤 「愛する人」

わたしたちの人生は、幼少の頃の両親との関係を色濃く反映し続けます。とくに、命をはぐくんでくれた母親との関係。セラピーセッションの中でも、母親との問題は定番中の定番。たいてい心や身体の問題の根っこは母との関係に帰着するといってもいいほどです。

この「愛する人」という映画は、そんな母と娘の心の葛藤を通して、人を愛すること、自分を愛すること、そして愛を受け入れること、がテーマになっています。

愛するがゆえに娘をコントロールしようとする母、それに抵抗し怒りから心を閉ざしてゆく娘。これぞ、日々のセッションのおきまりのパターン! また、自分を養子に出した母への恨みから女性全体を嫌悪し、満たされない愛情をどうにかしようと手当たりしだい男性を誘惑しようとする女性(これ、ぜったい満たされません)・・・これもよくあるパターンです。

しかし、人生の途上では、かならず傷をいやすチャンス、助けが用意されていることも事実です。

この物語は三つのストーリーが同時に進行してゆきます。14歳で妊娠し娘を手放した母の苦しみ、母に見捨てられた傷から愛を信じない娘、そして子どもができずに養子をとることに必死なカップル。この三つはおそらくこうつながるだろうと予測していたのですが、以外な展開に・・・。

監督さんは、なんとガルシア・マルケス(ノーベル賞作家)の息子さんロドリゴ・ガルシア。アネット・ベニング演じる罪悪感いっぱいのギスギスとげとげの母親が愛の中で再生してゆく様子が美しいです。この映画を観ることで、「母からの愛」を改めて気づかされたわたしでした(涙)。

涙壷度:★★★☆☆(静かに涙)