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気づきの日記「モノゴトを小さく切りとらない」

 

こころがキューっとなにかに集中すると ・・・ それは大きくなります。

そこだけにスポットライトがあたって、大うつしになる感じ。

それは画面いっぱいにふくれあがり、いっぽう自分自身はしゅ〜〜ん・・・とシュリンクしてしまいます。

私たちの注意はまるで拡大鏡のよう。こころは、自分で拡大したものにまんまと囚われてしまうのです。

わかりやすいのが恋愛です。

相手にこころを奪われて相手にばかり気をとられているうちに、相手は自分のなかでパワーアップして巨大化し、ついにいっぱいになってしまいます。(注意という拡大鏡で拡大したら、こころのなかがその映像、思いでいっぱいになってしまった状態です。)

曇り空でさえも太陽の存在が消滅していないのと同じように、そのとき自分自身の存在は決して小さくなったり消えてしまったわけではないのですが、

おもいっきり注意を注いだ相手の存在によってこころはパンパン、まさに太陽不在のごとく自分不在のように感じられてしまいます。自分不在は、無力で居心地が悪いものです。

注意(またの名を執着と欲望という・・・汗)を注いだ相手は、こころのまんなかにデンと強力に居座っています。

「あなたのこと以外なにも考えられなくなってしまいました!苦しいからどいてくださ〜〜い!(汗)」・・・いえいえ、あなたがそれを真ん中に置いたのです。

これは恋愛だけでなく、問題や心配ごとでも同様です。

それに集中しすぎるために、それに自分のスペースを明け渡してしまい、自分自身が忘れさられてしまったがゆえにひどい無力感にさいなまれます。

そうなると、その不安感からなおさらその対象に固執することになってしまいます。(対象をどうにかしようと向かって行ってしまうのです。)

けれども、さらに自分を小さくしパワーを奪ってしまうという悪循環に陥ります。

一点に集中は、見ている対象に巻きこまれて自分を失ってしまうことになり、またひとつに集中することでその他を切り捨てるため、孤独感や孤立感にさいなまれることになってしまうのです。

一点に集中してものごとを見る、というのは自分を幸せにしてあげられる見方ではないのです。

切りとらないものの見方とは・・・たとえば、

寝転がってリラックスし、自分自身が意識のなか(後ろの方)に退くのを感じてみましょう。

そして、自分の見ている世界の「はしっこ」に気づいてみましょう。

はしっこをず〜っとたどってみると、楕円形に世界が入っているのに気がつきます。

そして、その楕円形の世界こそが自分の意識(こころ)に写し映像で、そこには自分だと思っていた人影も見ることができます。でも、そっちはただの映像で、この写し出している土台こそがホンモノです。

このように、目にするすべてのものは自分のこころのなかのもの、自分のこころに映りこんでいるもの。自分とはちょっとも離れていないのです。

今まではキュ〜っと集中してその一部分だけを切り取って、自分 VS それ というように、見知らぬもののように扱っていたものが、じつは「ぜんぶ私だったのね!」と気づくことで、ちょっと落ち着きます。

決してえたいの知れないものは現れていなかったのです。

今まではどこか外側からそれはやってきて、仰天させられたり、ホンロウさせられたり、困らせられたりしていると思っていたものも・・・じつは自分のこころのスクリーンにあらわれているもの。

安心と信頼をもって、全体を受けとめてあげましょう。

それを安心して見れば安心感が、信頼して見れば信頼感がもどってくるのです。なんせ、ひとつのこころだから。

そして、こころのなかで拒絶されることなく受けとめられたものは、そのまま消え去り流れてゆきます。

ひとつひとつを切りとる(価値判断する)ことなく、ただあるがままに行かせてあげましょう。

そうすると、問題も気にならなくなり、すべてが穏やかに過ぎさってゆくのを感じられるかもしれません。

 

 

 

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山梨からの激励

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「東京は、感染拡大で大変ね〜! どうしてる?」と山梨のお友だちからお電話。

山梨というと、全国で感染者が急増していたときも感染者ゼロをキープしていたこともあり、かなり優秀でした(「人がいないだけよ〜」とのこと・笑) ・・・ 今は桃狩り、ぶどう狩りの観光客がおしよせていて危機だそうな。

「桃、送ったから、食べて頑張ってね〜!」と励ましのお言葉。

さっそく、到着〜! 産地直送、もぎたての桃です。

わあ、おっき〜〜い♡(みな歓喜です!)

またも緊急事態宣言が延長されてヘコみましたが、お友だちとの声かけ、助け合いというつながりに日々元気をもらっています。

暑い季節、おうちで涼みながら、元気にやりすごしましょうね〜!

 

 

 

気づきの日記「問題は解決しなくていい」

 

目のまえに問題があらわれたら、解決に取りくむ ・・・ これが、私たちが教えられてきた人生の対処法です。

問題とは解決すべきものであると。

でも・・・もしその姿勢が、より問題を解決できなくしているとしたら? それが、火に油を注いでいることだとしたら?

私たちの人生に対する姿勢は、ものごとをよりよく「変える」ために努力すること。

向上してなんぼ・・・の世界なので、それに対して何もしないことは、前向きでない、やる気がない、怠惰な人と思われてしまいます。

だから、つねに人生をよりよくするために問題点を洗いだし、それについてアタマをひねり、対策を考え、変える努力をすることがよいことだと信じられています。

でも ・・・ 問題をどうにかしよと取り組むということは、「私 VS 問題」という対立構造をつくりだします。

対立は、勝利するために相手と闘うことを意味し、相手という一点に注意を注ぎます。その結果、自分の意識のなかで、それ(問題)をよりリアルで強固なものにしてしまうのです。

問題視すればするほど注意はたっぷりと注がれ、相手は自分にとって手におえない存在となってしまいます。

そうなれば、解決しようとしているはずなのに、その解決策はより相手をパワフルにするものとなっているのです。

ほんとうの解決とは、対立によるものではなく、自分のこころのなかでその存在を手放してあげることです。

つまり、注意をはずしてあげること。

対立によって相手に注意を注ぎまくり、リアルで強固な存在にするのではなく、まったく対立しないこと 〜受容すること、そのままにしてあげること〜 によって、注意という電源を抜いてしまうのです。

その状態にめくじらをたてて闘おうとするのではなく、ただ赦してあげることこそが、それを去らせてあげることができます

これは、「押してダメなら引いてみな(責めるのではなく、赦してごらん)」という、北風と太陽の原理のごとく逆をゆくことでうまく方法です

「こんなの許せない!」「これは問題でしょ!」と腹をたてて騒いでいるのは自分のこころです。その裁いている自分のこころにただ気づいてみましょう。

問題は相手にあるのではなく、じつはこの裁きの気持ちこそが問題なのです。なんたって、自分が問題だ!と言っているのですから。

静かにその気持ちに気づいてみるだけで、その裁きのこころから離れることができます(裁きの気持ちを対象として見たときには、自分自身はもうそこから離れています)。

離れることができたら、それをどうにかしようともせずに、ただ眺めていましょう。自分のこころをそこから離してあげるだけでそれは静まってきます。

出来事を裁いて「闘うべきだ!」と叫ぶこころそのものを静観する習慣をつけることで、問題をつくって問題とたわむれることを生業にしているエゴのスイッチを切ることができます。

すべてを裁きたいエゴのこころは、問題をこしらえては、そこに注意を注ぎまくって、をれを解決できないものに仕立てあげ、それに闘いを挑んでは疲れはて、敗北感を感じ、その敗北感からまた裁きなくなる、という不毛なループを好みます。それに巻きこまれないようにしましょう。

問題は解決すべきもの、ではなく、ただ受け入れて、意識のなかから手放してあげるもの。

問題をつくりだすまえに、をれを問題視しよとしている裁きの気持ちに気づいてみましょう。

裁きの気持ちを見つけたらただ静観することで、「問題だ!」と叫ぶ声は静まってきます。

この裁きの声が生きのびなければ、問題は問題となりえないのです。問題を作ってしまうまえに、この声に気づけるようになり、ただ静かに向きあってみましょう。それはただ消えてゆくのです。

 

 

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お茶の間シネマトーク「蜜蜂と遠雷」

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Mちゃんとおうち鑑賞会。ふたりともすでに観ている「蜜蜂と遠雷」ふたたびです。

Mちゃんは原作も完読ずみ。そうなのです。これは、直木賞と本屋大賞をとった小説が原作。国際ピアノコンクールを舞台に、一流を目指す若き四人の天才ピアニストをめぐるお話です。

なので、全編音であふれています。それぞれが競う即興演奏もあり・・・ 原作はいったい、どのようにそれぞれの個性あふれる演奏を文字としてあらわしていることか。また、その文字からのイメージをこわすことなく実写として演奏するというのは、そうとう大変な作業だったことと思います。

それぞれのキャストは、「よくぞ!」というぐらいはまっています。また、画面全体の色調も透明感があって美しい。なによりも、お話の舞台が演奏家生命をかけたコンクールということで、それぞれの内面の緊迫感や葛藤、孤独観がひしひしとつたわってきます。。

Mちゃんは演奏家さんとして海外のコンクールにも出場していたそうなので、舞台の袖で出を待つシーンなどはドキドキが戻ってきてしまったそうな。

こどもの頃に天才少女として注目をあびながらも、母の死をのりこえられず姿を消していた亜夜。まったく無名ながらも今は亡き巨匠のお墨つきをもつ、天真爛漫で型破りな演奏をする少年、塵。年齢的に最後のチャンスとして挑む、悩める社会人ピアニスト明石。音楽を信じ、自分を信じ、未来を信じる優勝候補のマサル。

迷い悩みながらもそれぞれがピアノを愛し、全力で向きあい ・・・ でも、それだけでは生き残れず、先にも進めないこの世界。立ちはだかるコンクールという壁は、ピアノへの愛をも打ちくだくように見えます。

この数日間、四人は自分と闘いながらも、互いを意識し、その存在によって光を見いだしてゆきます。

この僅差の闘い、誰が制するのでしょうか? そしてそれぞれのピアノへの思いはどうなるのか? 結末は知っているものの、二時間ドキドキ☆(→予告を見る)

観賞後の私たちのおしゃべり♪

楽器店に勤める社会人ピアニスト役の松坂桃李くん。銀ぶちメガネにシャツとカーディガンというゆるい姿がめちゃくちゃふつうっぽいね〜。じわっと感情がこみあげてくるシーンもとても自然で、素なのやら、演技なのやら??

クロークに坐っているだけの片桐ハイリさん。まるでサブリミナルのように一瞬はめこまれる映像なのに、インパクトつよすぎ!

出場者を一人ひとりステージに送りだすマネージャー役の平田満さんも、じいやのような静かな包容力がにじみ出ていて、セリフはほぼないのですが存在観があってイイ感じ。

コンチェルトの指揮者役の鹿賀丈史さん。めっちゃイヤ〜な感じを出してくれてありがとう(笑)。

もう失敗が許されない亜夜のコンチェルト演奏シーン。黒のスパンコールのドレスから亜夜の決意が滲みでています。ボブがゆれる松岡茉優さんのヘアスタイルも、迫力と緊迫感がびりびり伝わってきます。

影武者として演奏しているホンモノピアニストさんたちのテクニック、あっぱれだわ〜。

ひとりごとのように思わず感想をつぶやいても、鑑賞会は応えがかえってくるのが楽しいです(笑)。

 

 

 

気づきの日記「探せば探すほど ・・・なくなる!」

 

このところ、探しものにあけくれています。

じつは、「オフィス・るん」は先月移転いたしました。といっても、旧「オフィス・るん」から、ものの1分ほどなのですが。(お越しになる際は、ご案内させていただきます。)

あまりにも突発的で早業の移転劇だったため、どの箱に何をパッキングしたのかさっぱりわからず。それを丸ごと押し入れに投げこんで「ハイ、終了!」、めでたし、めでたし気分になっていたのです。

ところが、いざ仕事をはじめてみたら「あれがない!」「これもない!」と、日々宝探し状態。

出納帳がない!と、あっちをガサガサ、こっちをゴソゴソ。さらに、家具の下に貼るフェルトシールもたくさん買っておいたはずなのに、どこ?

探しているそばから、どんどん散らかります。

「ないはずはない!」と同じところを何度も見ているうちに、ついには疲れはてて、めまいまでしてくるしまつ。

しまいにはソファーにバッタリ倒れこんで ・・・

そこでようやく、ハタ! ・・・と初心にかえるのです。

探しながらつぶやいているセリフが、まずマズい!(汗)

「なぜ、ないの?」は、「ない」ことを前提にさらに強化していたのでした。

そもそも、「ない」という事態を目にするのは、こころの無意識層にある欠乏と不足の思いをイメージとして見ているのです。

なので、探しつづけるよりもまずは、こころのなかの「ない」という思い、不足の思いを癒すことが先決でした! 見えているものはつねに、ダイレクトに自分のこころの証だからです。

アセりながら「なぜないの?」「ぜんぜんないじゃない!?」と「ない」を強調して決定的にするのはやめて、「おお〜、不足の信念さん、こんにちは。出てきてくれてありがとう。今、成仏させてあげるから」と、不足の信念を手放すことに使ってあげなくてはなりません。

いつも、目のまえに提示されているものごとこそ、自分のこころの誤作動を正す機会となるからです。

そこで、「不足が存在する」という思いに気づき、それを責めることなくハイヤーセルフに委ねて ・・・

ああ〜 ・・・委ねたらなんだか眠くなってきた〜 (暑いなか、バタバタ探し疲れた・・・ )と、ソファで一瞬まどろんでいたら・・・

いきなりきました!

アタマに、本棚の片隅の映像と、エコバッグの映像が浮かんだのです。

すかさずガバっと立ち上がって、本棚とエコバッグをチェックしてみると、

きゃ〜〜ん! やだ〜〜〜! ちゃんとあるじゃない!☆☆☆ 本棚の本にまぎれて出納帳、エコバッグの底にフェルトシール♪(どちらも、思いもよりませんでした!)

ハイヤーセルフにお願いしたら、解決までものの1分たらず(ここまでの疲労感と散らかりよう、いったいどうしてくれよう!)。

大切なことは、

*元となる思考をみきわめて、それをまず手放すこと(この場合は、見つからない=ない=不足の信念)。

*自力でやろうとするのではなく、ハイヤーセルフに委ねて、まかせること(自力だと、まだ「ない」というストーリーに執着して、「ない」という独自の筋書きから脱出できない)。

*ハイヤーセルフにおまかせしたら、アタマをからっぽにしておくこと。(あ〜だ、こ〜だの思考がはびこっていると、ハイヤーセルフからのアイデアが入ってくるスペースがありません。ギリシャの賢人も、たいていひと風呂あびているときにひらめいたものです。)

なにが起ころうとも、これが解決方法。自分の信じていることを手放して、委ねて、アタマをカラにする。

めっちゃ部屋を散らかして、汗だくになって、疲労困憊になるまえに気づきたかった〜(汗)。でも、私たちは疲労困憊になったり、めまいがするところまでいかないと、自分の持論や正しさを手放す気にはならないのかもしれません。

それぐらい、ヘンな方向性で自分を信じているのでしょうね(苦笑)。

めまいがするまえに、さっさと白旗をかかげようっと♪

次回の困りごとの際は、出来事と格闘することから手をひいて、すみやかにこころのなかで正しい解決法を選択するこができますように☆

 

 

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オシャレで美味♡お初スウィーツ

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コロナでおうち時間がふえてから、めっきり最新カフェ&スウィーツ情報にうとくなっています。

久しぶりにセッションにお越しくださったお友だちがもってきて下さった「Pavlov(パブロフ)」というお店のスウィーツ、これもお初だわ。わっくわく♪

わあ♡ いろんな色のパウンドケーキが並んでいます!

箱の色合いもなんともオシャレ。これはぜったいおいしいでしょ〜♪

本日は、こちらの二つから!

ひとつは、ベリー。酸味がしっかりきいていて、いい香りのバタースポンジとよくあっています。もうひとつは、ピスタチオケーキ。ショコラティエのチョコのようにカカオがいい香りです。

どちらも、きめ細かなしっとりスポンジがとてもいい口あたり。こぶりでも満足感のあるお味なので、濃いめのコーヒーによくあいます。とっても美味♡

元町と虎ノ門ヒルズにカフェがあるみたいなので、夏がすぎたら是非行ってみたいな〜。

I ちゃん、ごちそうさまでした♡

 

 

 

気づきの日記「怒り・・・ってじつは気持ちイイ?」

 

またまたコロナの協力金の申請がスタートしました。いそいそと添付資料を用意し、いざ申請サイトへ!

ところが、どこをくまなく探しても申請ボタンが見当たらず(汗)・・・問い合せをしようものなら電話は混みあい(大汗)、こりゃ一日仕事だわ〜!

ようやくつながったと思ったら、「最新のブラウザを使ってください」「書面での申請は今のところ考えいません」ですと〜〜〜!(怒)

世の中全員が最新のブラウザを使っているというこの前提はなんなんしょ?! そもそも電子申請などできない方だってゴマンといるというのに、これって差別?!

べつに電話口の方がそう決めたわけではないけれど、どうしても「ひとこと言っておきたい!」という怒りの気持ちがムクムクと・・・(この場合は、提言するというよりも、怒りたい、このイライラをどうにかしたい!)。

怒ってみると、怒りに酔いしれていることがあります。

怒りのエネルギーに占拠されて、怒りを放出する気持ちよさに酔いしれ、もともとなにが原因であったかなんてももうどうでもよくなり、ひたすら怒りを放出する・・・。

これ夫婦喧嘩などではよくあるようです。静かに話しあって解決できることも、怒りだしたら止まらず、怒りに酔いしれて、ただ怒りをぶちまけることだけが目的になってしまうのです。

私の場合も、「なにをぬかす!」と怒りをぶちまけたい衝動を感じながら、その一方でこころの他の部分は冷めているのです。「ホ〜ラ、また被害者になろうとしてる〜!怒りをぶちまけてスッキリしたいんだよね〜」と冷静にながめているのです。

でも、怒りのエネルギーって強力。そうは思っても、その炎をまったく消火できないこともあるのです(この場合は、早急にブレーキがかかりましたが)。

「怒りたい!」という衝動は思いのほか強烈で、どこか正当な感じがして魅力的なのです。一気にイイひとになれる感じ。「あなたは間違っていて、私は完全に正しいのよ!どんだけあなたが間違っているのか教えてあげるわ!」的な。

イイ人になれる快感と、もともとためこんでいた怒り・不平不満を一気に解消できるスッキリ感、さらにエネルギーをメラメラ燃焼して自分のパワーに酔ってる感  ・・・ 怒りにはそんな耽溺性の気持ちよさがあるように思います。

だから、怒っていると、問題なんかどうでもいい、この感じをもっと大きくしたい〜!となるわけです(あおり運転や危険運転も、こんな怒りがメラメラしちゃった結果かもしれませんね)。

私たちは自分の抑圧したイヤな感じをスッキリしたいがゆえに、ある意味、罪(間違い)にめざといわけです。怒るチャンスを逃したくないのです。「ほ〜ら、あなた間違ったわよ!それですむと思ってるの?」と。

まさに怒りって「麻薬」級の依存性があります。私たちはみんな、その中毒症なのです。

相手にぶちまけなくっても、自分に自虐的に怒ってしまうのも同じ症状です。ネチネチ自分を責めつづけているのも、じつはそれに酔いしれているのです。

しかし、怒りを使う限り、そのあと必ずしっぺがえしがやってきます。

「ああ、爆弾落としてしまった!私が攻撃したとバレて罰せられないように、さっさとヨワヨワで不幸な自分を演出しよう!」と自分で自分を弱体化して、天罰が下るのをさけようとします。

元気で幸せでいようものなら、今までのツケが全部ふりかかってきそうだからです。そうなれば、弱ければ弱いほどよいのです。(ほんとうは天罰などなく、どちらにしても自分が自分を罰しているだけなのですが・・・)。

「わかっちゃいるのに、ああ、また怒ってしまった!」と後悔するのも、自分を責める怒りの別バージョンです。

怒っちゃったときには罪悪感を抱くのではなく、ハイヤーセルフにお願いしましょう。「怒り狂っていたのは、私のエゴです。もうこのエゴを大切にしたくありません。私のこころから取り去ってください」とニセの自分を除去してもらいましょう。

この除去を、怒り、攻撃性が顔を出すたびにきっちりできれば、怒ることもまた自分のこころを不法占拠しているエゴのお掃除に使うことができるのです。

すぐに気がついてお掃除をすすめてゆけば、怒ることで快感に酔いしれてあとで痛いめをみることがなくなります。もっと安らかなこころの状態こそを愛するようになります。

湧きあがってしまう怒りを逆手にとって、自分が見失ってしまっていた本来のこころの静けさを自分のものとできるように、「怒りに気づいて」「ハイヤーセルフとともにお掃除」を習慣にしましょう。

 

 

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お花はないけど、お花の香り

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朝起きたら生花のいい香り ・・・・

けど、お花は生けていないし・・・??? 

あ、これだわ! 

数日まえにお友だちにいただいたサンタ・マリアノヴェッラの石けん。

カーネーションの香りで、ちょっと青っぽい生花の香りなのです。

以前にもいただいたことがあって、その帰り道、ずっとお花のいい香りがしていてお花屋さんを探してきょろきょろしてしまったのでした。

それぐらい石けんぽくない香り。

サンタ・マリアノヴェッラは、フィレンツェの修道僧の方々がハーブを使ってお薬を作っていたという世界最古の薬局。だから、丁寧に作られたまじりっけのない香りなのでしょうね。使いごこちも、泡立ちが細かくてクリーミイです。

でも少々お高いので、ふつうの石けんが二十個ぐらい買えちゃうお値段。いくら香りが好きでも、やすやすとは手が出ません。そんな石けんを、キュウリのお漬けものと穫れたてトウモロコシと一緒に持ってきてくれたお友だち。なんとステキな組み合わせ!笑笑笑

しばらくお部屋に置いて、いい香りを楽しんでから使いましょう。そのあとは、レトロなパッケージだけ飾りま〜す。

 

 

気づきの日記「最初の一撃に向きあう」

 

私たちは問題を目にしたとき、あるいは傷ついたと感じるとき、

すぐさま、「なんで?」「どうしてこうなった?」「何を間違った?」「誰が悪い?」「で、どうしたらいいの?」・・・ とアタマで現状を解釈し、必死で対処法をはじき出そうとします。

でも、これって ・・・ じつは自分の痛みを誤摩化すためにこころが行う「対症療法」のようなもの。解決には少しも役立っていません。

原因はそのままにして、そこから注意をそらすことで痛みを緩和しようとしているだけなのです。

原因がなくならないのなら、それは繰り返されることになります。

そのそも、それが問題となったのは、その瞬間にこころを襲った「痛み」だったはず。

ズキっとか、グサっとか、ビリビリっとかの痛みの一撃。

その慣れないインパクトにこころが動揺し、その感覚から逃れるために「思考」へと走ったのです。「思考」でマトをずらすことで、その一撃のインパクトを和らげていたのです。

となると、「なんで?」とかあれこれ考えはじめた段階で、もう違う方向に行ってしまったことになります。

どうにかしなくちゃならないのは、自分が動揺したあのイヤ〜な一撃そのものなのだから。

アタマで考えはじめてしまうと、その感じは手つかずのまま放置されることとなり、一方こころは自分勝手なストーリーをねつ造することに熱中し、そのストーリーはあたかも本当のことのように感じられてきます。

ストーリーへの耽溺が痛みを少しやわらげてくれるように感じます。(・・・が、ありもしないストーリーという別の痛みもこしらえています。つまり、痛みはふえてます)。

そのストーリーはどんどん発展して(ほんとうではないのに)、「そうか〜、そういうことか?」と勝手に納得し、いよいよ解決できない方向へと自分を導いてゆきます。

そもそも、あのイヤな感じから注意をそらしてしまった段階で、それを解決できないものにしているのですが、この自分勝手なストーリー展開をすることで、さらに解決から遠ざかってしまいました。

このストーリーで考えたあれこれを実行してみたとしても、問題は解決しません(そもそも、できません)。一瞬消えたように感じても、また似たような問題として姿をあらわします。

大切なことは、「自分がすぐさまそこから注意をそらしたくなるような不快な一撃を感じた」ということにまず気づけるようになることです。

なぜなら、これさえなければ、何が起ころうと自分は動揺することなく、それを問題だと感じることすらないからです。

この問題の出発点といえるイヤな感じから逃げないようにしなければなりません。

ただそれは「感じ」なので、噛みついたり、ボコボコにされることはありません(まあ、慣れていない感じなので、ちょっと感電状態にはなるかもしれませんが、その感じも慣れてくればただの「感じ」、むしろ感じるのが楽しくなってきます)。

抵抗することなく受容されたものは終わりになります。

自分のなかでその「感じ」を受けとめたら、ハイヤーセルフに「これは私が感じたいものではありません。私のほんとうの感情(愛・喜び・平和・安らぎ)を感じさせて下さい」とお願いいたしましょう。

私たちは自ら、何を感じたいのか、どのような状態でいたいのか、どんな自分でいたいのか、を選ばなければなりません。

選ぶまえには、好きでもないのに必死で握りしめていた間違った感情や自己概念・信念に気づいて、手放さなければならないのです(意識的になる、ということは、間違ったものを手放すためには欠かせません)。

つまり、間違ったこころの初期設定を解除するために、間違いに気づき、それを感じ、新たに選び直すのです。

何かイヤな感じに襲われたら、アタマでストーリーを展開させることに熱中するのではなく、ただ最初の一瞬に自分を襲った不快感な一撃に戻って、それとまっすぐ向き合ってみましょう。

そして、それを真に終わりにしてしまいましょう。

その感じがない、ということは「怖れ」がない、問題がない、ということなのです。

 

 

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名画、いろいろ・・・

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お友だちが、名画の数々を買いつけてくれました。

ゴッホやマネ、エルグレコ、ダヴィッド・・・

・・・って、それってソックスじゃ??

よ〜くごらんあれ! 

ゴッホの自画像やら、糸すぎ、星月夜・・・ ほかには、キリストやらナポレオンなど有名絵画がズラ〜リ。

なかでも、私のお気に入りはこちら!

ボッティチェッリのビーナスの誕生、マグリットの鳩さん、そしてムンクの叫び。

マグリットの鳩さんは、つま先がマグリットブルーになっていてカワイイのです。

さっそく、ムンクの叫びからはいてみたのですが ・・・ ありゃ?

叫びどころか、恥じらっている有閑マダムっぽい雰囲気。悲壮感がまるでありませんね〜(汗)。

これ以上、太らせないようにいたしましょう(苦笑)。

夏はつっかけサンダルにソックスが好きなので大活躍しそうです。Kちゃん、ステキな名画をありがとう♡